「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 彼女は走っていた。
 今は8月、夏真っ盛りである。入道雲はそびえ立つように大きく、その近くを飛行機が突っ切り飛行機雲 が入道雲の隣に並ぶ。セミの声は相変わらず激しく一向に鳴き止む気配は無い。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 彼女は相変わらず走っていた。
 そうは見られないことが多いのだが、彼女は運動神経がいい。スポーツなら大概人並み以上には出来る。 無論、長距離走も例外では無い。しかし悲しいことに彼女は浪人生。毎日続く単調な、それでいて運動とは 無縁な生活が彼女の体力を衰えさせていた。

 昨日会った時に『じゃあ1時に駅前広場で』と言った少年に罪は無い。いつも時間には人一倍正確な彼女 が遅刻しそうになりながら全力疾走を強いられているのは、単に彼女が父親と話しをしていて途中で抜けら れなかっただけのことなのだから。

 あの角を曲がれば目的の駅前広場まではあと少しだ。
 セミの鳴き声は相変わらずうるさかったが、そんなことは全く気にならなかった。すれ違った学生が、何 事かと振り返る。交番のお巡りさんも。買い物途中のおばさんも。
 この街は平和だ。昔も今も。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 目的地が見えてきた。目印にしている時計の下には、約束通りに彼と彼女が待っている。
 走りながら手を振る。
 周りの人の目は気にならない。声を出したい所だが、自分の心肺機能的に今はそれどころではないらしい。

 やっと到着。
 自分の親友である彼と彼女は、約束の時刻の少し前に来ていたらしく、街路樹の下に出来た木陰で涼しい顔 をしていた。
 彼女も彼らのいる木陰に滑り込む。立ち止まると自分の足元から、アスファルトの焼けるような 匂いがして、夏だなぁと実感する。

「おーっす」
「大丈夫?」
「はぁ……はぁ……はぁ……」

 ちょっと、いや、かなり疲れた。
 汗は流れてアスファルトの上に染みを作っていく。その染みが段々と広がっていくのが、見ていて愉快 だった。

「はぁ……はぁ……あははーっ……ちょっとっ……遅刻してしまいましたっ」

 倉田佐祐理は、汗だくだった。

    ☆   ☆   ☆

 夏の空の下、動物園は暇そうにほっつき歩く家族連れやカップル、子供の団体で溢れかえっている。 当たり前の話だが皆楽しそうにしている。
 全くこいつら、楽しそうにしやがって。受験生とか浪人生は次の春に笑うために、こんなクソ暑い日で も必死に勉強してるんだぞ。少しは遠慮して申し訳無さそうにしろってんだ。

「ゆーいちさーーんっ! 早く来ないと置いてっちゃいますよーーっ!!」

 真夏の太陽に勝るとも劣らない笑顔でぶんぶんと手を振る佐祐理がいる。その横にはいつも通りの無表情 だが、見る人が見れば楽しい顔と分かる顔をした舞がいる。
 ――まぁ今日くらいは勘弁してやるか。命拾いしたなお前ら。
 そんなことを呟きつつ、いそいそと二人の所に走っていく相沢祐一の姿がそこにあった。

 話は一週間前にさかのぼる。

「相沢ぁ、暑いなぁ」
「夏だからな」

 真夏だった。
 隣には北川を引き連れて、祐一は図書館まで片道15分の道を歩いていた。犬を連れた主婦も、年がら 年中暇そうにしている近所のじいさんも、すぐ近くの公園で一日中サッカーしている少年達も、ただ一人 の例外もなく汗だらだらだ。

「相沢ぁ、なんでオレたち歩いてんのかなぁ」
「夏だからな」

 我ながら含蓄のある受け応えだ、と祐一は自画自賛する。
 自分達のような境遇の人間にとって「夏」という単語は、実に色々な意味を包含している。単に暑いと いうだけの単純な話ではないのだ。とはいえ、その「暑さ」が現時点で祐一達にとって大変な脅威となっ ているのもまた事実だが。
 なぜ今この日本は冬じゃないんだろう? 冬だったらこんな死ぬような思いまでする必要もなく歩いて いけるに違いない。シベリアの永久凍土に住む人々が今だけ羨ましい。

「相沢ぁ、今すぐこの日本を冬にしてくれ」
「今すぐ冬になったら俺たち二人とも、確実に一浪は免れないだろうな」

 みーんみーんみーんじじじじじ……
 二人が嫌な想像に絶句していようがお構いなしにセミ共はこれ見よがしに鳴きまくる。

「……相沢ぁ、今が夏で良かったな。夏万歳っ! 酷暑最高っ! 日射病上等っ!」
「全くだ……」

 溜息が自然に出てくる自分が嫌になる。
 日光という名の殺人光線が絶え間なく降り注ぐ空の下、祐一と北川は完全無欠、完膚なきまでに受験 生だった。

 なぜ二人して図書館などという、二人に似合わない場所の極地とも言える場所を目指して歩いていた のか。その理由というか原因はこの暑さのせいで二人の頭の中から吹っ飛んでしまった。意識的に忘れ ようとしたわけでは無い。それは彼らの名誉のためにここではっきりと保証しておくことにしよう。決 して夏休み前の全国共通模擬試験で志望校合格可能性E判定(合格可能性15%以下)というなんとも残念 な結果を頂戴してしまったから、とかいう情けない事実が原因などではないのだ。

「水瀬は今頃南の国か……きっとここより暑いんだろうなぁ……」
「ああ……しかも1万メートル全力疾走のおまけつきだ。きっと暑いなんてもんじゃないはずだぜ……」

 名雪もご他聞に漏れず受験生なのだが、今は陸上のインターハイに出場するために南のほうに行っている。

「『行けると思ってなかったから、嬉しいよ〜! ゆーいち、わたし、頑張ってくるからね〜!』だってさ」
「しかし、水瀬がインハイ出場か……きっと大学の推薦もガバチョと来るんだろうなぁ……」
「早速近くの大学から推薦の話が来てた。この調子だと名雪はこの仁義無き受験戦争からは早々に戦線離脱 することになるかもしれないな」
「くぅ〜〜っ!! オレも、この溢れんばかりの才能を活かして何かやっとけばよかったなぁ〜〜っ!!  そしたら今頃大学はおろか、その辺を歩いてる女子高生まできゃー北川くんこっちむいてーわたしのすべ てをアゲルむひょひょひょーーっなことになっていただろうにっ!」
「……北川、魂の叫びはそのあたりで打ち止めにしとけ。近所の方々に通報された挙句、夏真っ盛りのこ の時期に檻付き四方八方コンクリートの部屋に強制宿泊なんてことにはなりたくないのなら」
「いや、相沢くん、全く暑いな今日は」
「妄想の世界から世界最速で帰還したな」
「リアリスト北川と呼んでくれ」

 普段の会話ですら現実と妄想が入り混じったシュールな世界観を構成する始末だった。妄想すら現実から 逃れられないのなら、自分達は一体どこへ行けばいいんだろうか。
 入道雲が真夏の空に威圧的に広がっている。入道雲は祐一に答えを教えてはくれない。
 目的地の図書館はもうすぐだ。
 図書館に入ればこのクソ暑い陽気からは逃れられるということが唯一の救いだった。


 図書館で3時間ほど勉強した後、北川と祐一は別れて帰っていった。帰りは行きと比較して幾分か涼しい とはいうものの、クーラーがガンガンに効いている図書館とは較べるべくもない。要するに暑いってことだ。
 北川も祐一も夏休み前の模試では二人揃ってE判定を頂いてしまったのだが、祐一は北川と比べればまだ余 裕がある。祐一はあと数点でD判定に手が届くが、北川はあと100点以上取らないとD判定に届かないのだ。 同じEでも内容が違うのは二人の志望校が違うせいだ。なぜ北川はそんなにレベルの高い学校を受験するの か――そんなことは言うまでもない。

 北川の大幅な背伸びの原因となっている彼女は今頃、予備校の夏期講習だろうか。

 全く不憫な奴だ、と思う。
 正直言って香里をモノにしたいなら、彼女と同じ大学を受験して合格するよりも、今すぐ電話して告白し た方がいくらか勝率が高いだろう。まぁどちらにしても分の悪い賭けであることは間違いないが。
 でも祐一は北川を笑うことは出来ない。
 なぜなら――

「あれっ、祐一さんっ!?」

 自分も北川と同じ穴のムジナだからだ。


 結論から言うと佐祐理と舞は浪人した。卒業前の事件のせいもあって満足な勉強が出来なかった二人は、 馴染みの町で一年浪人する道を選んだ。だから今は二人とも祐一と同じく悲しき受験生というわけだ。

「おいっす。佐祐理さん、久しぶり」
「あははーっ! 祐一さん、奇遇ですねーっ! 今日はお勉強ですか?」
「うん、まぁそんなとこ。佐祐理さんも?」
「そうです。今日は舞と一緒に夏期講習だったんですよ」
「ふーん、舞はどうしたの?」
「舞はさっきそこで別れてしまったんです。舞も祐一さんに会いたがってました。残念だなぁ、 本当にさっきまで一緒にいたのに」

 春に二人が高校を卒業してからは中々会う時間が取れず、結果として会う機会は週に1、2回となって しまっている。
 祐一は改めて佐祐理さんを見た。
 高校のときよりも少し短めに切った髪は肩口で風に揺られている。白を基調にした服装は彼女の純白の イメージをさらに引き立てていた。

 祐一が自分のレベルよりもかなり背伸びをした学校を第1志望にしている理由は、目の前の彼女だ。
 彼女達が受ける学校だから。
 将来やりたい仕事とか、やりたい研究とか、そういった目標がない自分だからこそ、今現在の自分のやり たいことを最優先にするべきだ。
 一番やりたいこと――彼女達と一緒の時間を過ごすこと。
 その思いは、彼女達が高校を卒業して半年が経とうとしている今でも全く揺らいでいなかった。

「佐祐理さん、勉強の方は進んでる?」
「うーん、一進一退って感じですね。でも、舞はこの前の模試ではC判定が出たらしくて、中々順調みたい ですよ」

 C判定かよ。
 自分の模試の結果を思い出し、祐一は軽く落ち込む。

「うわぁ……俺、出遅れてるなぁ……この前もEだったし、大丈夫かなぁ?」
「祐一さんなら大丈夫ですよっ! 佐祐理が太鼓判を押しますっ!」

 胸を張って「お姉さんの言うことに間違いはないですよっ!」と佐祐理はいつもと同じように笑う。 悲しくなるほど根拠は無いが、その笑顔だけで1ヶ月くらいは余裕で闘えそうだ。

「はははっ! そっか、俺もまだまだ本気を見せてないからなっ! こっから巻き返すぜっ!」
「その意気その意気っ!」

 二人で軽く笑いあう。
 とりあえず、祐一達には「3人で同じ大学に進学して、3人で楽しく暮らす」という夢がある。自分だ け遅れを取るわけにはいくまいと、家に帰ってからさらに勉強しようと決意を固めた。
 固めた。
 固めたんだけど。

「ところで、時に祐一さん、来週の日曜日はお暇ですか?」

 ――この人がこんなこと言うもんだから。

    ☆   ☆   ☆

「そんなわけで、今こうして佐祐理さんと舞と俺で仲良く動物園に来ているわけなんだな」
「祐一、何か言った?」
「いや、何も」
「舞っ! 見て見てっ! カバさんっ! カバさんだよっ!」

 カバだった。

「……カバさん」
 舞の表情は傍目から見ると分かり難いが、その表情は確実に喜びの感情を表していた。

「カバさんカバさんっ! かーわいいっ」

 どこが? と祐一は心の中で問いかけずにはいられなかった。
 だってさぁ、カバだぜ、カバ。逆立ちしたらバカなんだぜ?
 しかし、そんなことを口に出そうものなら舞からは年季の入ったチョップ、佐祐理からはカバへの苦し いフォローをそれぞれ頂戴しそうだったので、それは心の中に止めておいた。

「佐祐理佐祐理。あっち。あっちにシマウマさん」
「え〜〜〜っ!! どこどこっ?」

 トコトコトコトコ。
 佐祐理と舞は連れ立ってあっちにフラフラ、こっちにフラフラ。
 全くいい気なもんだ。
 自分のことも棚に上げて、祐一は思った。
 こんな事してる場合じゃないんだけどなぁ。
 折角佐祐理や舞と一緒に遊びに来てるのに、その貴重な時間を一心不乱に楽しむことだけに費やすのは、 我ながら非常にエネルギーの要ることではないのか、と思った。楽しいはずの時間を楽しく過ごせないと いうのは非常に由々しき事態だ。
 勿論しんどい思いをしているのは自分だけでは無い。志望校は誰が言い出すでもなく3人共同じ大学に 決まった。そして、その大学に行く理由も3人がこれからも一緒にいられるように、ということなんだろ う。少なくとも自分はそう思っている。
 しかし、その過程である受験などに邪魔をされて3人の時間を楽しむことが出来ないのは本末転倒とい うような気がしてきた。

「祐一さんっ! どうしました? お疲れですか?」
「祐一。疲れたなら、そこで休もう」
「……そうだな、腹も減ったし、そこで座って弁当でも頂きますか」
「さんせーーいっ!」

 佐祐理の顔はいつでも明るい。そんじょそこらの街灯なんかではとても追いつけないほどに。
 でも祐一は佐祐理の笑顔の中にあるのは彼女の天性の明るさという成分だけではないことを知っている。 彼女がその笑顔の中に隠しているのは、自分なんかではとても抱えきれないほどに重いものであることを知 っている。

 佐祐理と舞は芝生の上に青と赤と白で彩られたビニールシートを広げている。「このお弁当も青空の下で 食べたらもっとおいしいでしょうねーっ」と、いつかの時に佐祐理が言っていたのを思い出す。
 今日みたいな日に、こんな美味しそうな弁当を楽しめなかったら損だろうな。
 そんなことを今更になって、思った。

「「「いただきまーすっ!!」」」

 3人の声が夏の空に響いた。


 帰りの電車の中でもあの動物が可愛かったこの動物がカッコ良かったと3人で盛り上がっていた。
 この年になって動物園に行ってこれだけ盛り上がれるのはある意味稀有な才能だと思う。
 隣に座っている子供達が何やら奇異の目でこちらを見ているような気がするが、祐一はあまり気にしない ことにしていた。
 周りがなんと言おうと楽しいものは楽しい。嬉しいものは嬉しい。最高なものは、誰がなんと言おうとやは り最高なのだから。
 電車は緩やかに減速し、やがて地元の駅のホームに滑り込んでいく。
 電車とホームの間のわずかな隙間も気にならないほどに、見上げた空は綺麗な夕焼け色に染まっていた。

「よーし、じゃあ今日はここで解散だな」

 佐祐理と舞の家は、駅から見て水瀬家とは反対方向にある。必然的に佐祐理・舞組と祐一の帰り道はここで 分かれることになる。

「祐一さん、もうお帰りですか?」

 友達と遊んだ後、解散する瞬間というのはえてして名残惜しいものだ。佐祐理はそんな色を隠そうともしな い。そんな彼女の素直な気持ちが少しだけ嬉しく、その分だけ寂しくなってしまう。

「そうだな。送って行ってもいいんだが、俺以上に便りになる用心棒がいるみたいだから な。俺はここでさよならだ」
「そうですか〜、今日はありがとうございました。楽しかったですよっ!」
「……うさぎさんもきりんさんも、たくさん見れた」
「ははっ、ていうか企画したのは佐祐理さんじゃんか、お礼を言うのはこっちの方だよ。今日は本当にあり がとう。おかげで良い気分転換になったよ」
「そう言ってもらえると、何よりですっ」

 佐祐理の笑顔が一層輝いた。
 祐一にとってそれは、何よりの発奮剤だ。

「はぁ〜、しかし悲しいかな、明日からはまた勉強勉強の日々かぁ。やってらんねー」

 ずびしっ

 祐一の台詞に間髪入れずに舞の殺人チョップが炸裂する。

「いてっ! おいこら舞っ、何すんだよっ」
「祐一の軟弱者」
「なにぃっ」

 祐一と舞は5センチの距離でメンチを切り合う。
 そのまま膠着状態に陥りそうになるところを、すかさず佐祐理が間に入って「まあまあまあ」と二人を宥 める。

「ほらほら、喧嘩しちゃだめですよーっ、舞も、祐一さんもっ。二人ともいい年なんですからっ」

 いい年って、まだ二人とも十代なんですが佐祐理さん。

「まあまあ祐一さん、あれは舞なりに『頑張って』って言ってるんですから」
「う……まぁ……確かに……」
「そのくらいツーカーで察してほしい」

 佐祐理の援護射撃が有効なのを見て取り、舞は軽く調子に乗った。

「確かにな、うん。勉強と言えどモチベーションは重要だからな。……うっし! また明日から気合入れて 頑張りますか!」
「そうそうその意気ですよーっ」
「祐一が一番やばいんだから、祐一が一番頑張れ」
「ぐっ、痛いところをピンポイントで突きやがって」
「あははーっ」

 楽しかった。
 夢のような時間だった。
 誰にとっても、この日は最良の日だったに違いない。
 一通り騒ぎ終わり、3人はそれぞれの帰路につく。
 この素晴らしい一日を象徴するような、綺麗な夕焼けを眺めながら。

 祐一は帰り道を歩きながら今日の思い出を反芻する。
 何故だろう。
 楽しかったはずなのに。
 何故なんだろう。

「それじゃあ、またな」

 ――そう言った時の佐祐理の顔が泣いているように見えたのは。



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