ただ車が遅れているだけだと思っていた。
 「今から家を出ます」という電話連絡があってから、早1時間。いくらなんでも、もう着いてもいい頃だ。 しかし、佐祐理の姿どころか佐祐理を乗せた車の排気音すら聞こえてこないまま1時間が過ぎ、やがて2時間 が過ぎた。

「倉田さん、あんたの娘さんはどうなってるんだ?」

 倉田グループの今の主要な取引先である武田は、佐祐理の相手である武田克彦の父親でもある。
 武田は生来我慢強い方だ。その我慢強さのおかげでこの不況の嵐が荒れ狂う現代日本でも生き残っていられる のだろう。ここまで石橋を叩いても渡らない慎重さでじっくり事を運んできた。その集大成とも言える舞台が整 いつつある。落ち着けと言うほうが土台無理な話だった。

 康臣は、とりあえず動ける者に支持を出し会場から倉田家までの道を探させると、その道の途中で乗り捨てら れた車とその傍で倒れている二人を発見したという情報が入ってきた。
 否定してきた可能性が確信に変わった瞬間だった。
 ――佐祐理は何者かに連れ去られた。
 開かれるはずだった披露宴はもう既に中止した。
 相手側である武田の諸氏にも予想外のトラブルと説明して今日の所は帰ってもらった。
 康臣が警察に連絡するか、とりあえず今日のところは様子を見るか迷っていると、

 ブルルルルルルル

 康臣の携帯が突然震えだす。
 素早く取り出し、ディスプレイを見て発信者を確認する。

 発信者は彼の娘である倉田佐祐理だった。

「もしもし」
「――倉田康臣さんですか?」

 電話をかけてきたのは男の声だった。

「そうだ」
「もうお気づきかもしれませんが、あなたのお嬢さんをお連れした者です」

 ――やはりか。

「――要求はなんだ? ……金か?」

 数々の修羅場をくぐってきた康臣といえども、自分の娘をさらわれて平常心ではいられない。電話の声は普 段の彼には似つかわしくないほどに震えていた。

「金ではありません。我々が要求したいのは2つだけ――あなたの娘の佐祐理さんの結婚の取り止めと、向こ う5年間の娘さんの自由です」
「……何だと?」

 誘拐犯の、全く予想外の要求に一瞬康臣の頭の活動は停止する。

「ちょっと待て。あんたは一体――」
「とりあえず今日の所はそれだけです。また明日お電話差し上げますので、出来る限り余計な事はしないで 頂きたい。それでは――」
「……お、おい! ちょっと待てっ! まだ話は――」

 男は言うことを一方的に言うとそのまま電話を切ってしまった。
 ――佐祐理の、自由だと?
 男が提示した、あまりに予想外の要求に康臣は電話を握ったまましばらくの間その場に立ち尽くして いた。

    ☆   ☆   ☆

 ピッ

「まぁこんなところかな?」

 周りに座っている一同に向かって伺うように確認するのは佐祐理を連れ去った誘拐犯こと相沢祐一。

「上出来だ、相棒。中々いい感じだったぜ」

 北川は控えめな拍手で親友の堂に入った誘拐犯っぷりを称える。

「祐一、もしかして経験あり?」

 祐一の演技に、彼の過去に些かの疑問を抱いてしまったのは、佐祐理の親友・川澄舞。

「アホか。こんな経験があったら俺は今頃檻の中だろーが。久瀬は? どうだった?」
「ああ、中々堂に入った犯罪者ぶりだったな。流石は相沢祐一だ」
「ありがとう……ってそれお前褒めてないだろっ」

 久瀬の皮肉な意見に思わずノリ突っ込む祐一だった。

「まぁそれは半分くらいは冗談なんだが……とにかく、要求としてはそんなものだな。倉田さんの結婚に関して は少なからず武田の意思も絡んでるし、即答を求めなかったのは賢明な判断だ――ところで、肝心の倉田さんは どこだ?」
「ああ、佐祐理さんはそっちの部屋で着替え中だ」
「なにっ! それは本当かっ!?」

 脊髄反射で腰を浮かしかけた北川が見たのは物凄い殺気でこちらを睨む人間凶器・川澄舞。
 軽いジョークですぅ、とそそくさと椅子に座り直す北川だった。
 二人の大人をただの一撃で失神させた舞の戦闘能力を目の当たりにすればそのヘタレっぷりも当然だった。
 舞は決して怒らせてはならない――と、祐一と北川が隠れて誓ったのは他の人間には秘密だ。

 祐一達が佐祐理を連れて身を隠すことにしたのは、街外れにある廃工場だ。佐祐理を匿うのに誰かの家を使 うのは危険だから、と祐一が見つけてきた。廃棄された毛布など生活品を手に入れるのにはとりあえず苦労は しない、潜伏するにはもってこいの場所だ。
 車はもう使う予定がないので、佐祐理を廃工場まで送ってきた後に久瀬の家に置いてきた。食料や衣料など は数日前に一定量を運んでおいた。考えられる準備は全てした、満を持しての潜伏生活だった。

「じゃあ今日やることも済んだし、とりあえず今日は寝よう。明日も何があるか分からんし、早めに休んでお こう」
「ちょっと待て相沢。見張りはどうするんだ?」

 移動しかける皆を止めたのは北川。

「見張りは……俺と北川と久瀬が一時間交代でやる」
「祐一、わたしは?」
「ああ、舞はいいよ。佐祐理さんについててやってくれ」

 分かったと言う代わりに無言で頷く舞。

「じゃあ皆の衆、また明日だ。いい夢見ろよ」

    ☆   ☆   ☆

「相沢、そろそろ交代だ」

 祐一は眠りかかっていた頭を急速に目覚めさせ、現状把握に努める。
 ここは廃工場の最上階。周りが見渡せるところで、自分は見張りをしている。そして、久瀬が来たという ことは――

「お、おう、交代だな」
「む……まさか相沢お前居眠りしていたわけではあるまいな?」
「ば、ばか、んわけねーだろ……」

 どうだかな、と久瀬はどっかと祐一の隣に腰掛ける。
 祐一は久瀬の顔を下から除いてみるが、その表情は夜の闇のせいかよく見えない。
 その代わりに頭上の星はこれまで見たことがないほどに輝いていた。

「星がよく見えるな……今日は」

 久瀬も祐一と同じ事を考えていたのか、二人揃って星を見上げる格好になった。
 知識がないので何がどの星座などということは祐一にも久瀬にもわからなかったが、とにかく見上げている だけで今日の出来事とか明日への不安など、どうでもよくなってしまうような夜空だ。夜空には人の心を落ち 着ける作用があるのかと思えるほど、落ち着いた気持ちになれた。
 そんな穏やかな雰囲気に後押しされるように祐一は口を開いた。

「よく……付き合ってくれたな、久瀬」
「あ……?」
「正直お前を誘う時、断られてもしょうがないと思って行ったんだ。だってお前、天下の生徒会長サマ だろ?」
「ふん……会長は去年の後期でとっくに退いたさ。今の僕はただの久瀬だ」
「そっか……そう……だったな」

 また、二人して星を見上げる。
 交代なのだから部屋に戻って眠ってもいいはずなのに、なぜかそんな気にはならなかった。
 もう少しこの星空の下で話をしてみたいと思ったのかもしれない。

「――悔しかったからさ」

 突然の久瀬の言葉に、祐一は少し驚く。

「は? 悔しかったって? どういう意味だよ?」
「それはそのままの意味だ。さっきのお前の問いの答えだ」
「ああ……よく付き合ってくれたって……あれか?」

 そうだ、と久瀬は頷く。

「少し昔の話をしてもいいか?」
「ああ」

 久瀬は何かを思い出すように、懐かしむように空を仰いだ。

「僕があの高校に入学した時、僕は皆の上に立つことしか考えていなかった。父親の仕事があんなのだし、 僕にだってやれる、僕にだって人の上に立つ器量くらいはある、そんなことしか考えてなかった。そして僕 は高校に入学してから、地元の名士である倉田の娘が一つ上の学年にいることを知った。その事は親父から も多少聞かされていたしな。あの『倉田』の娘だ、一体どんな怪物かと思ったら――実際はあんなのだ」
「でも……意識はしてたんだろ?」
「まあな……倉田さんは僕の想像とは違って全く普通だった。権力を志向するわけでもなし、カリスマ性を 発揮するわけでもなし……彼女の周りには人間は集まったが、彼女はそんなことを望んでもいなかった…… 僕とは違ってな……全く迷惑な話だ。こちとら名前を出せばいつだって『あの久瀬の息子』と言われた。彼 女だってそれは同じだっただろうに……それでも彼女はあくまで、ただの『倉田佐祐理』だったんだよ…… その事実には憤りもしたし、君も知ってるように勿体無いとも思った」

 祐一は舞の事件を利用して佐祐理というシンボルを手にしようとしていた時の久瀬を思い出した。あの時 の久瀬は佐祐理の名前を使って自分の権威を高めようとする、単なる下種野郎にしか思えなかった。
 その時の久瀬の裏側にあったものなど、当時の祐一に見えよう筈もない。

「親の名前のプレッシャー……ってヤツか?」
「――ああ、そうだ。フン、下らないだろう? だがその時の僕にとっては十分に僕を束縛し得る鎖だったん だよ。おそらく……ね」
「…………」
「僕は、僕と同じような鎖に縛られながらもそれを苦とも思わずに暮らしていける倉田さんが……きっと羨ま しかったんだと思う」

 佐祐理を羨ましいという久瀬。
 星を見ながらそう呟く久瀬の表情は明らかにそれ以上の感情を含んでいるように祐一には見えた。

「だから、僕はそんな倉田さんと仲良くしている川澄さんが気に入らなかったし……君のことも正直いけ好か なかった……まぁ、今となっては、というやつだけどな」

 ははは、と久瀬は少し笑う。

「3年になって君と同じクラスになって……少しは君のことも分かったし、僕自身のこともよく分かった。君 になら……倉田さんをさらわれても……仕方ないなという気になってたんだ」
「久瀬……」
「ところがだ。倉田さんはいつの間にか僕の全く知らない奴にさらわれそうになってるっていうじゃないか。 そんなポッと出の奴にそう簡単に倉田さんをさらわれてたまるもんかってんだ……これが理由と言えば……理 由だな」

 そう言って久瀬はフンと鼻を鳴らし、また夜空を見上げる。
 祐一にはそんな久瀬の表情が、未だかつて見たことがないほど覇気に溢れているように見えた。

「そうか……くくくっ、天下の久瀬さんも……案外ガキっぽいんだな?」

 感情的な部分を見せない久瀬には珍しく、

「むぅ……」

 ピクッと片眉を吊り上げる。

「おっと。別に馬鹿にして言ってるわけじゃねーよ。そんな事言ったら俺だってそうだ。あんなに可憐な佐 祐理さんをどこぞの野郎に簡単に持っていかれてたまるか――ってのが、俺の犯行動機なんだから」
「…………」
「まぁ……案外似た者同士なのかもよ? お前と俺はさ」

 そう言って祐一はまたくくくっと笑う。
 久瀬は辟易している様子を明らかに取り繕う。

「……冗談は顔だけにしてくれ、相沢。そんなことばっか言ってるんならさっさと寝ろ。二時間後にはまた交 代だからな」

 はいはい、と祐一は立ち上がり階下へと歩いていく。
 やがて階段から聞こえていた音が消える。
 久瀬は見張りの部屋で一人になる。

「本当は……一回くらいお前らと一緒になって馬鹿やってみたかった……というのが本当なのかもしれないけ どな……」

 久瀬の呟きは階段を下っている祐一の耳に届くことはなかった。


 久瀬が睡魔と格闘しながら単調な見張りを続けている時、佐祐理は未だ眠れずにいた。

「……舞……起きてる?」
「起きてる」
「あはは……」
「……? 佐祐理、どうしたの?」

 佐祐理はおかしそうに身体を揺すりながら笑っていた。

「あのね、昔読んだ本にね、廃工場に中学生がクラス全体で立て篭もって大人達と戦争するって話があった の。……なんか今の佐祐理達に似てるなぁって思って」
「それ、私も読んだことある。確かタイトルは……なんだっけ?」

 確かに舞も読んだことがあるのだが、タイトルだけが思い出せない。内容なども大筋で覚えているのに。

「あはは、わたしも思い出せないよ。でもね、佐祐理、面白くて昔何度も読んじゃったー」
「でも佐祐理。今私達は大人達と戦争してるわけじゃない」
「似たようなものだと思うよー。だって舞達はお父様達から佐祐理を奪ってここに立て篭もってるわけなんで しょ? 同じだよー」
「そう……そうかもしれない」

 部屋にある窓から月の光が差し込んでくる。
 舞たちのいる部屋には当然電灯もなければベッドもない。祐一たちが前もって運んでおいた人数分の毛布が あるだけだ。寝心地で言えば普段佐祐理が眠っているベッドとは比べるべくもない。
 ――だけど、なんでこんなに楽しいんだろう。

「ねぇ……舞」
「何……?」
「あの本の中学生は何で……廃工場なんかに立て篭もったんだろうね」
「それは……大人達に対する反抗……とか書いてあった気がする」

 そんなことを言っていたような覚えはある。しかし、その本の登場人物たちは中学生だ。反抗だとか、レジ スタンスだとか、そんな確固たる目的意識は無かったのではないか?
 舞がそんなことを考えていると、佐祐理は夢見るように煤けた部屋の薄汚れた天井をぼんやり眺めながら、 こう言った。

「多分ね……あの子達は……みんなで遊びたかったんじゃないかな……? 誰にも邪魔されない……何者にも 縛られない……『解放区』で……」

 でも――。
 そう言い掛けて佐祐理は言葉を止めた。
 舞はその続きを聞くことはしなかった。
 でも――、
 その続きには、こう続けられたのではないだろうかと思った。

 ――でも、何にも縛られない自由なんてこの世にあるのかな。

 その問いに答えられるものはきっとどこにもいないだろう。
 だから、佐祐理もそれを口に出すのをやめたのではないか。

「…………」
「でもさっ! まさか舞がこんなことするなんてねっ、佐祐理、驚いちゃったよっ!」

 佐祐理は沈みかけた空気を変えるべくあからさまに話題を変えた。

「それは……佐祐理を助けたかったから」

 しかし舞の直球ど真ん中な台詞に、佐祐理は結局何も言えなくなってしまう。

「言いだしっぺは祐一だけど……北川くんも、久瀬くんも、皆同じだと思う。佐祐理には、いつだって笑顔でい てほしいから」

 そう。
 いつもは人並み以上に口を開かないクセに、いざとなったらこんなに恥かしい台詞だって平気で言ってのける のだ、この子は。

 外側から二人を見ると、一見佐祐理のほうが感情表現豊かなように見えるのだが、それは間違いだ。実は舞の ほうがよっぽど素直でストレートに自分の感情を表現できる。
 ――佐祐理に出来るのは、ただ笑ってみせることだけ。
 佐祐理はそんな舞が羨ましく、そして大好きだった。

 ――ありがとう。
 聞こえないように呟いた言葉は、確かに舞の所まで届いた。

「ねぇ、舞……わたしはこれからどうすればいいのかな……?」
「佐祐理……」
「佐祐理の中にはね……佐祐理が二人いるんだよ。このまま全て捨てちゃって祐一さんや舞と一緒に楽しく過 ごしたい佐祐理と、それでもやっぱりお父様のことを裏切れない佐祐理……あははーっ、佐祐理はもうわから なくなっちゃったよ……」
「…………」
「佐祐理のお父様は本当に佐祐理が結婚して幸せになること……本当に楽しみにしてたんだ……それだけは、 本当だと思うんだ……」
「それは――」

 舞は言いよどむ。
 暗闇の中では佐祐理の表情は見えないが、きっと真剣な表情で自分の答えを固唾を呑んで待っている。

「それは……私には分からない」
「舞……?」
「ごめん、佐祐理……私にはわからない……それは……佐祐理にしか分からないし――きっと佐祐理にしか決 められないこと」
「そう……かな……」
「そう……多分」
「どうしても……決めなきゃ、駄目かな?」
「どうしても……だと、思う」

 そのまま二人の会話は途絶え、やがて静かな寝息が聞こえてきた。
 その寝息に涙の色が混じったように感じたのは気のせいだろうか。
 ――それとも泣いているのは自分なのだろうか。
 舞には、分からなかった。



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