先程まで乱闘が行われていたとは思えないほど静謐な空気が流れた。普段の佐祐理とは大きく異なる雰囲 気に圧倒され、誰も動けない。

「く、倉田さん……」

 克彦は動揺していた。
 意志が弱くて、笑顔だけがとりえのただのお嬢様だと思っていた。
 佐祐理の家庭環境や過去については独自に調べてある程度の情報を入手している。弟と死別し、そのショック から自殺未遂、精神科医からの話で彼女にとって父親がかなり重要な地位を占めていることすら調べ上げた。 何度か佐祐理と会い、その情報は間違っていないことを確信した。だからこそ今回も、こうして父親の名前を匂 わせながら説得すれば大した苦労もなく連れて帰ることができると踏んだのだ。強硬手段に訴える準備をして来 たのも、多少の無茶をしようが彼女の性格上問題なく連れて帰ることができると判断した結果である。
 ところが目の前にいる佐祐理の姿はどうだ。
 今まで克彦が会ってきた佐祐理とはまるで別人であるかのような眼差しでこちらを睨んでいる。

 ――いや、落ち着け。
 何を焦っている武田克彦。
 ここは計画通りにするのが得策だ。
 小娘のハッタリに付き合っている暇はない。

「倉田さん。お父様が心配されている。早く戻ってお父様を安心させてあげよう」

 ――白々しい。

 自分で吐いたセリフながら、そう感じる。
 これだけの大立ち回りを晒しながら今更言うべき台詞ではないだろう。
 しかし、自分の大目標のためにはこの小娘を連れて行くための大義名分が必要だ。あれだけの騒ぎになったの は全てこのような目標があったためだと誰の前でも言えるように。
 全ては倉田氏のため。
 そして、こう言えば佐祐理が断ることができないであろうことも計算づくだ。
 案の定、佐祐理の手はぶるぶると震え始めている。

「さぁ……」

 手を伸ばす。
 ――さぁ、その手を掴め、倉田佐祐理――!!

    ☆   ☆   ☆

 克彦の姿が見えた時から身体の底から生じてくる震えを止められなかった。
 舞は木刀を握り、祐一は克彦の所へ行った。そして北川と久瀬も。佐祐理はただ震えてばかりいる自分の身体 を呪った。
 ――何故、佐祐理は。
 ――何故、「わたし」は――!!
 情けない自分に怒りすら感じた。
 舞が闘っている。
 久瀬も、北川も。
 そして祐一も。

 自分が何を恐れているのか、何を求めているのか分からないままに逃げるばかりの日々だった。
 肩の上の自分――?
 そんなものはまやかしだ。
 自分はいつだって自分しかいない。
 罪を犯すのも、そしてその罪を償うのも、世界中のどこを探そうが自分以外に誰もいやしないのだ。
 わかっていた。
 わかっていた。
 わかっていたのに。

 ただ怖かった。
 自分以外の全てのものが自分の罪を責めているような気がした。


 有罪。
 有罪。有罪。
 有罪。有罪。有罪。
 死刑。死刑。死刑。死刑。
 死刑。死刑。死刑。死刑。死刑。


 世界にはわたし一人だけだ。
 いや。
 わたしだけ、誰もいない世界に来てしまったのだ。
 そう、あの時に見た蜃気楼の街のように。
 
 ただ一人、この世でたった一人、父だけが自分と同じだった。
 自分と同じ「罪人」だった。
 あの夜、佐祐理はそれを知った。

 だから、佐祐理は父に逆らえない。
 だから、佐祐理は父の娘だった。


「それがなんだってんだッ!!!」


 祐一の絶叫が佐祐理の意識を現実に引き戻した。
 祐一の声は続いている。
 佐祐理は祐一の声に繋がりを求めるように、見張り台の隙間から必死に外を見た。
 外は太陽の光で満ち溢れていた。
 祐一の必死の叫びも、見渡すばかりの世界に包み込まれ、やがて大気に溶けていった。

 ――わたしは、幸せを、求めても、いいの?

 不意に口をついて出た言葉。
 涙と共に流れ出した言葉すら、大気に溶け出し、弾け、拡散した。
 それをついばみにきたかのように小鳥が数羽見張り台の近くを飛び回り、やがて森の中に還っていった。
 手を、伸ばす。
 まぶしくて、目が眩みそうになる。

 舞。
 祐一さん。
 北川さんに、久瀬さん。
 東城さん。
 そして。
 お父様――

 わたしは、ここに、いる。

 わたしは――


「俺は……決めたんだ。佐祐理さんも含めて……俺の周りにいる人たち全てと、幸せになる。他の誰でもない、 この俺が……俺が決めたんだッ!! 誰にも文句は言わせねぇッ!!」


 わたしは――しあわせに、なる。


 階下から叫び声と打撃音が間断なく聞こえてくる。
 それに向かって一歩一歩踏みしめながら進む。

 ――舞も、祐一さんも闘っている。
 ――北川さんも、久瀬さんも闘っている。
 ――わたしだけが、逃げるわけにはいかない。

 足元が震える。
 ふと気づいて顔を拭ってみると汗がべっとりついてきた。

 ――ああ、そういうことなんだ。


 これが自分の足で立つってことか。


 思っていたよりも不安定だが、思っていたよりも不安ではない。
 一歩ずつ進む。

 いつからか、母親代わりの存在になった東城のことを思い出す。
 一歩ずつ進む。

 初めて舞と会った日のことを思い出す。
 一歩ずつ進む。

 初めて祐一と会った日のことを思い出す。
 一歩ずつ進む。

 あの冬の日々、3人で過ごした時間を思い出す。
 一歩ずつ進む。

 舞と二人で予備校に通った春から夏にかけての時間を思い出す。
 一歩ずつ進む。

 父と一緒に泣いたあの夜を思い出す。
 一歩ずつ進む。

 幸せだった時間を思い出す。
 一歩ずつ進む。


 幸せはすぐ側にあった。


 佐祐理は再び外の世界に出た。
 薄暗い廃工場から出て、自分の足で立ち、自分の肌で風を感じ、自分の目で光を見る。

 ようやく光に目が慣れる。
 周りを見渡すと、祐一がいた。舞は男2人に拘束されている。北川と久瀬は脇のほうで倒れていた。

「く、倉田さん……」

 いつもと違い、余裕の無い克彦の声。
 動揺を隠しきれていない克彦の顔を見る。
 父が引き合わせた彼には悪いけど、自分は彼に対して何の感情も持ち合わせていない。
 動揺の表情を見せていたのも束の間、すぐさま冷静さを取り戻し克彦は佐祐理に手を差し伸べながら、少し 前までの佐祐理になら致命傷になり得た言葉を発する。

「倉田さん。お父様が心配されている。早く戻ってお父様を安心させてあげよう」

 克彦の手が伸ばされる。
 自分の手を見ると、さっきまでと同じようにみっともなく震えている。
 震える分だけ自分は怖いのだ。
 自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の心で愛するのが怖いのだ。
 父には逆らえないと自分で自分に言い訳して、自分の頭で考えるのを放棄したいのだ。
 だが――

「佐祐理さんッ!」

 祐一の声。
 そう。
 祐一がいる。
 舞がいる。
 北川がいる。
 久瀬がいる。
 東城がいる。
 父がいる。

 震える右手を強引に余った左手で押さえつける。

「――わ、わたしは……」

 その言葉にその場にいる者は全て息を呑む。
 そのみっともなく震えた声は、他の何よりも力強く響いた。

「わたしは……あなたと一緒には行けません。わたしは、わたしの意志でここにいます」

 克彦の顔に再び動揺の色が浮かぶ。

「な……何を言っているんだ? 倉田さん、君は自分が何を言っているのかわかっているのか? こいつらは あなたを誘拐した犯罪者だぞ? そんな連中を庇い立てするなんて――」
「彼らはわたしの掛け替えのない友人達です。そんな言い方は止めてください」
「ぐ……」

 予想外の展開に克彦は困惑する。
 予定では父親の影をちらつかせればすんなり佐祐理を回収できるはずだった。形はどうあれ彼女を連れて行き さえすればややこしい問題にならずに事が運ぶはずだった。
 ところが佐祐理は自分の意志でここにいると言った。自分の意志で克彦の下に来なかったということは、今 まで進めてきた結婚を含む合併話が全て流れてしまう可能性がある。先程は誘拐と言ったが、佐祐理と一緒に いるのが彼女の友人である以上、既にこの事件は倉田家と武田家の間では誘拐ではないのだ。しかも、祐一の 要求を受けて結婚の中止まで倉田は考えている節がある。つまり、スムーズに結婚から合併に話を進めていく ためには、佐祐理が自分の意志で武田の下に来た、という大義名分が必要になる。佐祐理がはっきりと武田に 来ることを拒んだ以上、武田としてこれ以上表立って何かすることは出来ないのだ。

「克彦さん。わたしを心配してこちらに来ていただいたことは感謝します。しかしどんな理由があろうと、わ たしはわたしの友人を傷つけたあなたを許すことは出来ません」

 佐祐理が毅然とした口調で告げる。
 先程までの震えはもうどこにも見られなかった。

「――本当にこれでよろしいんですか? きっと、後悔することになると思いますよ」
「――構いません。お引取り下さい」

 克彦は佐祐理の目を見る。
 いつも佐祐理の目に見られた迷いは、もうどこにもない。
 
 克彦はチッと舌打ちすると連れていた男達に合図し、引き上げて行った。


 後に残されたのは、呆然とする祐一以下4人と、克彦が去っていった直後にぺたんと腰を抜かして座り こんだ佐祐理。

「……おい、佐祐理さん?」

 声をかけたのは、4人の中でいち早く再起動を果たした相沢祐一。

「……が抜けました」
「え? 何だって?」
「こっ、腰が抜けたって、言ったんですっ」

 真っ赤な顔をして絶叫する佐祐理。

「――萌え、だな」
「うおっ! 北川っ! お前、生きてたのかっ!?」

 意外な所から声がした。

「あったりまえよぅ。ナイスガイはこんな所でやられたりはしないものさ」
「さっき思いっきりやられてたじゃないか」
「……その辺は突っ込まない方向で頼む」

 見ると舞も身体を起こしたところだった。

「舞。お前は身体のほうは大丈夫なのか」
「汚された……」
「「「なにぃっ!!」」」

 舞の台詞に同時に叫び声をあげる男3人。
 ――っていつの間にか復活している久瀬だった。

「――なんちゃって、嘘」

 ぺろりんちょ、と無表情で舌を覗かせる舞。
 少し怖い。

「――ったく、驚かせんなよ……ところで久瀬は大丈夫なのか?」
「ああ、何とかな……全く、君達と一緒にいると退屈しないよ」

 そんなことを言いながらニヒルに笑ってみせる久瀬。

「ふぅ……じゃあ全員なんとか無事ってわけか。良かった良かった」

 祐一はそんなことを言いながらぱたんと後ろに倒れて呆然と空を眺める。
 誰からとなくそれに倣い、5人全員で地面に仰向けになって空を見上げる。
 真っ青な空に、巨大な入道雲が流れてくる。あの中にラピュタがあると言われたら本気で信じてしまいそう になるほど巨大な入道雲。それを5人で眺める。

「なぁ……」

 どのくらい経った頃だろうか、祐一は思いついたように声を発した。

「腹減らないか?」

 祐一の台詞に呼応するかのように、誰かの腹がぐぅ〜と鳴る。

「お、ほら、誰かさんも腹減ったって言ってるぜ」
「相沢、お前自作自演すんなよ」
「馬鹿言え、俺じゃねーよ。今腹鳴らしたのってどうせ北川だろ?」
「しっつれーなっ! オレは久瀬と見たぜ」
「なっ……なんだと北川っ! 僕であるはずがないだろうっ!」
「……実は佐祐理だったりして」
「え〜、違うよ〜! あっ、実は舞だったりしてっ!」
「……ぽんぽこタヌキさん」
「む、舞。今の間がかなり怪しい」
「あははーっ」

 5人のお喋りはまだまだ終わりそうになかった。
 結局その不毛な言い合いは、30分後に久瀬が「飯でも食いに行こう」と提案するまで延々と続けられた。

 真夏の太陽は相変わらず彼らの頭上でさんさんと輝いている。

    ☆   ☆   ☆

「ちくしょうッ!! なんてこった、これじゃあ今までの苦労が水の泡じゃねぇかっ!!」

 佐祐理たちのいる位置から見えない位置まで来ると、途端に克彦は悪態をつき始めた。

「けッ! まぁいい。こんな時のためにお前らがいるんだ……ククク、お嬢さんよ、今日俺の誘いを断ったこと をきっと後悔させてやるぜ」

 ククク……と克彦は不敵に笑う。

「しかし、まずは倉田の爺さんになんて報告するかだが――」


「ほう、俺にどんな報告をするつもりだ?」


 突然予想もしない方向から聞こえてきた声に克彦は心臓を掴まれたように飛び上がる。
 今の声は――

「――く、くらた――さん……」

 茂みの奥からスーツ姿の倉田康臣が姿を現した。
 康臣は、克彦に何かを喋らせる暇を与えずに喋る。

「克彦くん、俺は君のことは買っている。今時の若者には珍しく野心に溢れた性格といい、溢れんばかりの行 動力といい……まるで若い頃の俺を見ているようだ。今回の君の行動もそれなりの勝算があってのことだろ う? 俺は今の所君の行動を咎めるつもりはこれっぽっちもない。だがな――」

 ぐっと康臣は克彦の胸倉を掴み空中に持ち上げる。
 康臣の年齢を考えれば、ありえないほどの怪力。

「――娘や娘の友人にちょっかいをかけるようなら、容赦はしない。この倉田康臣、全身全霊をもってして君を 潰す。……それだけだ」

 手を離す。
 地面に放り出された克彦は、取り巻きを連れて車を待たせてある方向に向かって一目散に駆けていった。

「……やれやれ、あんな肝っ玉の小さい所まで俺にそっくりだ」

 康臣は人知れず溜息をつく。

 林の向こうの廃工場前の広場に目をやる。
 今回の騒ぎを引き起こした張本人達が、大人の苦労も知らないでのんびりと寝転がりながら何やら大きな声で 騒いでいる。康臣の位置からは遠くて彼らの顔までは確認できないが、何故か凄くいい顔をしているように思 えた。

 自分にもあんな頃があったのだろうか。
 やろうと思えば何だって出来るような気がしてた、あんな無敵な日々が。
 そんな無敵の連中が5人も集まれば、自分のような枯れかかった爺など物の数ではないだろう。
 康臣は自分の頬がいつになく緩んでいるのを感じた。

 康臣がこの場に来たのは武田の息子を止めるためだった。
 しかし、その必要は無かった。
 自分が介入するまでもなく、娘は武田の息子を退けた。

 ――あんなに、堂々としている娘を、俺は見たことが無い。

 自分の娘ながらしばしその表情に見とれた。

 あの表情には覚えがある。
 康臣の妻であり、佐祐理の母である倉田佳織の表情にそっくりだったのだ。
 佳織は、普段は大人しく夫の言うことをよく聞く従順な妻だったのに、時にはしっかりと自分の意見を言う 人間だった。今日の佐祐理は、そんな妻が自分に対して意見を言う時の表情をしていた。

 佐祐理が生まれた日のことを思い出す。
 桜の季節を過ぎ、散っていった花びらの代わりに緑の若葉をつけた頃、望まれてこの世に生まれてきた彼女 は確かに喜びだった。
 妻の腕に抱かれ、きゃっきゃと笑いながらこちらに伸ばされた娘の手に初めて触れたその瞬間、康臣は確か に笑ったのだ。

 ――名前、考えていただけました?

 知らないうちに母親の顔になっていた妻の笑顔に、ここに向かう途中の電車の中で書いたメモを手渡す。
 子供の頃からいつまでたっても上手くならない自分の字を見て一筋の涙を零す妻の姿に見惚れた。

 ――あれが、そうだったのだろうか。

 康臣はそのまま自分の娘達の様子をずっと眺めていた。



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