いつものようにわたしはわたしを肩の上から見下ろしている。
 どんな時も1ミリたりとも変わらない笑顔を浮かべるわたしを、わたしは今までずっと眺め続けていた。
 悲しいときも。
 楽しい時も。
 嬉しい時も。
 困った時も。
 毎日毎日。
 毎晩毎晩。
 毎月毎月。
 くるくるくるくる回り続ける。
 月日は回る。
 わたしを置き去りにしたまま。

 わたしはあの日、あの子と一緒に死んだ。
 ここでこうして息をしているのは、言うなれば抜け殻だ。
 わたしはわたしの抜け殻を今日も肩の上から見下ろしている。
 わたしの肩の上の世界は、理想郷だ。
 悲しみも無い。
 喜びも無い。
 恐れも無い。
 何も無い。
 あるはずもない。
 あってはいけない。
 感じてはいけない。
 苦しんではいけない。
 喜んではいけない。
 望んではいけない。

 ――夢を見てはいけない。

 今日も現世を彷徨う抜け殻を肩の上から見下ろすわたしには、もとよりそんな権利はない。
 最初からありはしなかったんだ。
 そう、最初から。

    ☆   ☆   ☆

 祐一と北川は、相変わらずの茹だるような暑さの中、冷房の楽園とも言うべき図書館を目指して 歩いていた。

「相沢ぁ、暑いなぁ」
「北川、一週間前と台詞が変わってないぞ」

 マンネリだった。
 互いに目新しいものを引っ張りだしてこれないほどに余裕はないらしい。勿論色んな意味で。

「……相沢、なんで僕まで君達につきあわなくてはならないんだ?」

 二人の少し後ろから、この暑さとは対照的な冷気を感じさせる声。いや若干暑さに毒されているようだが。

「ふん、そんなことは言うまでも無い」
「言うまでもないな」

 祐一と北川は「コイツ何言ってんの?」とでも言わんばかりに首を竦めて立ち止まる。先程二人に文句 を言った少年――久瀬は、二人が急に立ち止まったことに気づかず、その背中にぶつかりそうになる。久 瀬の少し前で立ち止まった祐一と北川は、突然ビュムッという擬音が聞こえてきそうなスピードで久瀬に 向き直る。
 鼻と鼻がくっつきそうな距離だった。
 そして二人は声を揃え、必要以上のオーバーアクションで、

「「困った時は、助け合いだッ!!」」

 と、天高く咆哮した。

 じーじーじーじーじじじじ……
 セミの声が聞こえる。

 久瀬は「はぁ……」と溜息を零しながら、21世紀を迎えた人類の叡智をもってすら馬鹿につける薬とい うものを発明できなかったことを、まるで自分のことのように後悔した。

「お? なんだなんだ久瀬くんよぅ、不景気な面すんじゃねぇよ。こんなクソ暑い日だからこそ気合だぜ?」
「だからと言ってどこかの親父のように『気合だぁ――ッ!!』とか吼えなくてもいいからな」
「吼えるかっ!」
「大体だなぁ、久瀬、お前が素直に自宅のクーラー完備の自室を提供していてくれれば、こんな亜熱帯気候 の中を歩かずに済んだんだ。その辺ちゃんと理解してんのか、あァん?」
「そーだそーだっ! 誰のせいでこのクソ暑い中歩いてると思ってんだっ!」
「貴様らが突然家に押しかけてきて『図書館に行こう』とかなんとか言い出したからだろうがっ! 大体 貴様らのような不貞の輩を僕の家に上げられるわけなかろうっ!」

 周囲の熱気も相俟って、はぁはぁと肩で息をする久瀬。
 久瀬は基本的に冷静沈着で他人を寄せ付けない雰囲気を持つ人間のため、このように怒声をあげることは 珍しいのだが、3年に進級して同じクラスとなった相沢祐一と北川潤のコンビに対してだけは例外だった。 この二人に絡まれると、どうにもいつもの自分のペースが保てない。だが、このような言い争いをしながら も、久瀬と祐一・北川コンビの仲は悪くない。寧ろ、クラス内で久瀬の親友は誰か、と質問すれば、30人 中20人以上は「相沢と北川だろ」という答えが帰ってくるぐらいに、傍目から見た彼らは良いチームだっ た。
 勿論、祐一と久瀬の間にわだかまりが無かったわけではない。
 3年に進級する前の祐一が久瀬について抱いていたイメージと言えば、権力主義者、頑固という概念を具 現化したかのような石頭、冷血人間……と、簡単に挙げてみただけでも、碌なものではない。もともと彼ら の出会いが、舞や佐祐理をめぐる敵対関係から始まったのだから、それも無理からぬことだろう。舞の退学 まで交渉のカードとして利用し、佐祐理という権力の象徴を手に入れようとしていた久瀬。祐一の目には彼 がこれ以上無いほどの小悪党に見えていた。
 だが3年に進級して同じクラスになり、彼の普段の行動や人となりを観察してみると、自分が抱いていた イメージが彼の本質ではないことがわかった。
 久瀬は、頭が良すぎるのだ。その切れ過ぎる頭脳に加えて冷静すぎるほど冷静な性格。他人から見れば自 分の能力を鼻にかけた嫌味な奴という程度にしか映らない。生徒会、権力といった彼に染み付いた負のイメ ージを取り払って彼を見れば、彼がいかに不器用で、いかに面白い人間かがわかった。

 最初こそ険悪だった祐一と久瀬の仲は、遠足、球技大会などのイベントを経る度に接近していった。
 水と油、光と影、表と裏――まさに正反対、相反するものに見えた祐一と久瀬。
 わだかまりを取っ払っえば、昨日の敵は今日の味方。
 祐一と北川に久瀬を加えた3人は、友達になった。

「まぁまぁ、落ち着いてくれや久瀬っちよぅ」
「久瀬っちって言うなっ!」
「じゃあ、久瀬りん」
「『りん』て何だよ、『りん』て!」
「それなら俺のことは『ゆうちん』と呼んでもいいぞ」
「呼ぶかっ!」

 とはいえ、普段の言い合いは絶えないのだった。と言っても、専ら祐一と北川が久瀬をからかい、久瀬が それに突っ込むという形態がほとんどだったが。

「はぁ……全く、君達の相手は厄介極まる……もういい、行こう。図書館に行けばこの鬱陶しいことこの上 ない暑さも少しはマシになるだろうからな」
「異議なしだ」

 3人仲良く並んで図書館への残り1キロちょっとの道を歩き始める。
 相変わらず夏の空は曇る様子もない。

「相沢」
「あん?」

 久瀬は思いついたように口を開いた。

「君はまだ倉田さん達とは懇意にしているのか?」
「ん……まぁな。この前も会ったし」
「そうか……まぁ僕も君達とは色々あったからな……良い印象は持たれていないだろう? 僕は」

 他人に対して極力ドライにしている久瀬にしては珍しくウェットな物言いだった。

「なんだよ、まだあの時のことを気にしてるのか? 俺はあの時のことに関してはもう何とも思っちゃい ないし、佐祐理さんと舞にしたってそんなに長い間根に持つようなことはないだろ」
「ああ、だといいんだがな」
「……」

 久瀬にはこういう部分がある。生徒会長だった時はかなりのワンマンで、外野から批判を受けようがまる で意に介していないように振舞ってはいたが、本当の所は思い悩むことも少なくなかったのだろう。祐一は 、久瀬のそうしたウェットな部分が、実は彼の本質であることを見抜いていた。

「まぁそんなに気にすることでもねぇよ。実際あの時お前が舞を助けてくれなかったら、とっくの昔にあい つは退学だったろうさ。その行動の動機について今更どうこう言ったって、もう何の意味もないだろう?」
「まぁ……な」

 そう口で言っても、久瀬は必ず複雑な表情を見せる。

「しかし、お前は最近佐祐理さんとは顔合わせないのか? 佐祐理さんの親とお前のとこの親は仲が良いっ て聞いてたから、顔ぐらいは合わせてると思ったんだが」
「親同士が公の場で互いに顔を合わせる機会が多いというだけの関係さ。子供同士はそうでもないんだ」

 そう言って会話は途切れた。
 何故久瀬が自らの負い目とも言える話題にわざわざ触れたのか祐一は疑問に思った。
 祐一自身その事について久瀬へのわだかまりは全く無いが、久瀬はどちらかと言うと過去のことを気に 病むタイプだ。わざわざ過去の事を蒸し返すこともあるまいとこれまで祐一は久瀬と和解した後もその事 には意識的に触れないようにしてきた。そしてそれは久瀬にしても同じなはずだ。
 久瀬に聞こうかとも思ったが、やはり思い直した。ただでさえ重くなった空気をわざわざ更に重くする 必要もあるまい。
 重くなった空気を吹き飛ばすように、祐一は大きく伸びをした。


「なんか今日一日で自分が凄く成長したような気がするよ」

 もう遅いということで図書館を後にした祐一達3人は、来た時と同じように並んで少し涼しくなった道を 歩いていた。

「何言ってやがる。合同で勉強するメリットというものはだな、互いに教えあうからこそ発生するもんだろ。 お前は一方的に久瀬に教えてもらってただけじゃねーか」

 ぐぅっ、と北川が言葉に詰まる。今日の勉強会に関しては本当に久瀬は教師ばりの活躍だった。祐一が自 分の問題集を解いている横で久瀬が北川に張り付いていて、まるでマンツーマン講義のようだった。

「僕としては意外に真面目な勉強会だったと言っておこうか」
「当たり前だろ。こちとらもう崖っぷちで、後は落ちるか踏ん張るかしかないんだからな。必死にもなるって もんだ」

 人間必死になると名言の一つや二つ出るもんだなぁと、北川を眺めながら祐一は思った。
 しかし、自分以外の奴がこれだけ頑張ってるんだ、と肌で実感するだけでも今夜自宅で勉強する時の気合の 乗りが違ってくるような気がする。これからは毎回久瀬を誘ってやろうかな、と祐一は勝手にこれからの予定 を決定していた。

 昼間よりは確実に足取りも軽くなっている。それはきっと気温が下がっただけではあるまい。いつも北川と 祐一が別れる交差点に差し掛かるのも早くて、もう着いてしまったのかと、祐一は軽く驚いた。

「じゃあ今日はここで解散ということで。皆の衆、しっかりと励めよ」

 祐一はそう言って、北川と別れる。ちなみにここからだと北川の家は水瀬家と久瀬家からは反対方向なの だ。祐一は必然的に久瀬と二人きりになる。

 家までの道を久瀬と二人で歩いている。ほとんど無言だ。元来二人ともそこまで口数が多いほうではないの でそこまで不自然ではないが、二人で歩いていて終始無言というのはやはり気まずいものだ。その沈黙に耐え かねたように、あるいはタイミングを計っていたように久瀬が口を開く。

「相沢」
「ん? なんだ?」
「実は行きに言いかけたことなんだがな」
「行きに? 俺たちって何の話してたっけ?」

 記憶のキャパシティはあんまり無駄なことでは使いたくないが、つい3時間前のことを忘れてしまうのは いかがなものだろうか。久瀬は少し呆れたような顔をして、一度言ったことをもう一度口にした。

「倉田さん達と今も懇意にしているのかって話だよ」
「ああ、そのことか。で、それがどうしたんだ?」

 何かを口に出そうとして、はっと口を噤む。明らかに言いよどんでいる久瀬の姿は、普段の彼を知っている 者からすれば酷く珍しい姿だった。

「いやな、最近父親から倉田さんについて気になる噂を聞いたから、その真偽のほどを相沢に聞いて確かめて おこうと思ってな」
「気になる噂? そりゃ一体――」

 言いかけた瞬間、久瀬が息を飲む音がした。
 瞬間、

「相沢っ、隠れろっ!」

 久瀬が小さく、しかし鋭く叫び、曲がり角の壁の影に身を隠す。祐一も慌ててそれに倣う。
 ――通りの向こうに何かを見た?

「久瀬っ? どうしたんだよ、一体」
「しっ! 声を出すな」

 口をつぐみ、そっと壁から顔を出して久瀬が見たものを確認する。


 祐一はその瞬間、心臓が止まったような気がした。


 口から声が漏れそうになるのを必死でかみ殺す。
 一体なぜ? どうして? どうして――?
 声にならない疑問符が浮かんでは祐一の脳裏に刻み込まれる。
 「それ」が通りすぎて、ようやく久瀬と祐一の二人は深い息をついた。

「――どうやら、お前は知らないらしいな」

 久瀬の呟きは祐一に届いたが、反応を返すことは出来なかった。
 ただ自分の疑問にこの男は少しでも答えることができるのかもしれない。
 祐一はその一縷の望みに賭け、ようやく声を絞り出した。

「――聞かせてくれ、お前の聞いた噂ってやつを」

 久瀬は何も言わず、コクリと小さく頷いた後、それが消えていった駅前へと続く道を眺めた。

 あの見知らぬ男と並んで歩いていたのは、確かに倉田佐祐理だった。
 いつもの笑顔がそこにあったのかどうか、祐一の位置では確認することは出来なかった。



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