始まりが何だったかは最早記憶の海に沈んでしまったが、かと言って終わりでさえ一体何だったのか 分からない。

 とにかく祐一と舞が「魔物」と呼んでいた存在は、あの冬の日々を境に段々と姿を消していったのは紛れ もない事実だ。
 夜の学校で過ごす時間は魔物との闘いから祐一と過ごす夜食パーティへと。夜の学校へ持参するものはお 世辞にも女性に似合うとも言えないギラつく抜き身の西洋剣から、慣れないなりに一生懸命用意したお手製 のおにぎりへ。祐一と、佐祐理と、あの穏やかな日常を過ごしているうちに、次第に塗り替えられていっ た。
 油断していたわけではないが、穏やかな時間が流れていくことに祐一も舞も少しも疑問を覚えないままに 時は流れた。

 そして、あの舞踏会の日。

 その姿を見せなくなっていった魔物が、まるで手のひらを返したように突如会場に現れた。
 それは惨劇だったと言ってもいいのかもしれない。惨劇という言葉の意味を身体で知っている人から見れば、 それは甘っちょろいものだったかもしれない。しかし、舞にとってはそれが一番目にしたくない、想像すらし たくない映像であったことは確かなのだ。
 割れる窓ガラスの音に始まり、会場の電灯という電灯が割れる。慣れないハイヒールに躓いて割れたガラス の上に倒れこむ女生徒。自分が連れてきたパートナーだけは守ろうと、震える手で抱きしめ合う恋人達。怒号 が飛び交い、我先にと出口に殺到する人々。
 ――どうして、こんなことに。
 魔物は校舎の中にしか現れなかったはずなのに。自分以外を襲ったことなんて今まで一度も無かったはず なのに。魔物が興味を持っているのは祐一と自分だけではなかったのか。
 舞の頭の中では様々な思考と疑問が錯綜し、一種の恐慌状態に陥った。
 そして舞は側にいたはずの佐祐理への意識を一瞬外した。

 瞬間、向けられた害意。

 その意志が発せられた方向を、舞は一瞬遅れて察知した。
 その先には、純白のドレスを身に纏った佐祐理が立っていた。
 致命的な遅れ。今から全力で駆けても佐祐理は自分の目の前で魔物の容赦なき一撃で無残に引き裂かれる だろう。
 ――だが、手を伸ばす。
 何も出来ないかもしれないから、何もしないなんて。自分にはとても耐えられない。
 手を伸ばしたその先には、自分よりも一瞬早く駆け出した祐一の姿があった。

 全てがスローモーションに見えた。
 相変わらず割れ続ける窓ガラスの飛び散る様も、逃げ惑う生徒達も、舞の少し前を駆ける祐一の姿も、 祐一と舞の疾走の意味に気づいた佐祐理の叫び声も、自分の伸ばされた手が空を切る様も。
 ――どうして?
 ――わたしはただ、さゆりと、ゆういちと、穏やかに、幸せに、暮らしていきたかっただけなのに。
 ――どうしてわたしは、また一人になってしまうの?

 舞は叫び声を上げた。
 何を叫んだかは覚えていない。
 その瞳から流れ落ちる涙が足元に落ちるよりも早く、その声は佐祐理に、祐一に、その場にいる全ての 「人」に。
 届いた。

 時間が止まったように見えた。
 目の前に映し出される惨劇の向こうに透けて見えるものを、舞は確かにその目に焼き付けた。
 その時見た光景を、きっと舞は生涯忘れることはないだろう。
 そこは黄金色に輝く草原だった。
 背の高い稲穂に隠れてしまうほどに幼い少女が、その大人びた表情には不釣合いな「アクセサリー」を 頭につけて、全てを見透かすようにこちらを眺めていた。

 ――うさぎさん。

 そう呟いて、舞は意識を手放した。


 気づいた時には病院のベッドの上だった。  脇を見るとパイプ椅子に座って眠りこけている祐一と佐祐理の姿があった。二人とも昨日の騒ぎのせいか 見るからにボロボロだったが、どこも大きな怪我をしたような様子は無く、舞はとりあえず胸を撫で下ろし た。
 二人が目を覚ますとすぐに医者を呼び、簡単な診察を受けた後すぐに家に帰れることになった。着替える ものも無く、3人とも昨日のままのボロボロな格好で帰ることにした。酷く疲れていて一分一秒でも早く家 で休みたいはずなのに、3人で歩く朝の街はなんだか妙に楽しくて、こんな時間がずっと続けばいいと思っ た。
 歩いている間に二人から前日の騒動の顛末を聞いた。どうやら舞が何かを叫んんで気を失った直後に、魔 物の襲撃は止み、その後は軽傷の者は警察の事情聴取、怪我の重い者はそのまま病院に搬送されたようだ。 祐一と佐祐理はどちらかというと軽傷の部類だったが、舞の意識不明を理由に強引に病院にくっ付いてきた らしい。友達なんだから当然だろ、などと祐一は気取って言っていたが、きっと警察の事情聴取が面倒だっ たに違いない。
 だってあれは魔物の仕業なんだから、警察なんかに理解できるはずもない。そしてそのことを知っている のは世界で祐一と自分の二人だけ。別に笑えることではないが、3人で朝の町を歩いているという状況にナ チュラルハイになっているせいか、妙に笑えてきた。
 祐一と、佐祐理と、舞。
 3人で笑いながら朝の街を歩いた。

 その後何度か夜の学校を見に行ったが、結局あの日以来魔物は現れなかった。

「魔物にも、帰りたい場所があったんじゃないか?」

 魔物探しを始めて何日目か、祐一が何気なく呟いたその言葉に、いつかの黄金色の草原に佇む少女の姿を 連想した。
 そして自分達にも――

「――そうだね」

 誰にともなく呟いた舞の手には、あの無骨な西洋剣は握られてはいなかった。

    ☆   ☆   ☆

 突如発せられたけたたましい音に、夢が遮られた。

 懐かしい夢だった。
 しかし、たった半年前だ。あの時のことを「懐かしい」という言葉だけで形容できるほど自分は劇的に 成長したわけでもないだろう。だって今になっても説明できないことばかりなのだ、あの冬の日々は。き っと説明する必要もないだろうが。
 よくは覚えていないが、佐祐理が魔物に傷つけられそうになって祐一が魔物と佐祐理の間に割り込んだ 瞬間、きっと自分は絶望しただろう。あの二人が傷つけられるのは、自分が傷つくことの何百倍も苦しい。 あの瞬間を思えば、こうして3人で同じ目標に向かって努力出来る「今」という時間がどれほどの奇跡の 上に成り立っているのかが分かる。
 魔物との闘いの日々は、別に辛いと感じることははなかったがその代わりに孤独だった。その孤独は佐 祐理という存在が和らげてくれた。祐一は最後に現れてそんな二人を包んでくれた。二人にはどれだけ感 謝しても感謝しすぎることはないし、感謝し終えることもないだろう。
 だから、舞はあの冬の日々と同じように今もこうして3人で歩いているのだ。

 けたたましい音は相変わらず鳴り響いている。

 舞は布団の中から手だけを出して、ごそごそと辺りを探りやっとのことで騒音の元凶たる目覚ましのスイ ッチに触れた。そのまま目覚まし時計を引っ掴み時刻を確認する。いつも通りの時間。佐祐理といつもの場 所で待ち合わせをする時刻のきっかり2時間前にセットしてあるのだから、当然と言えば当然だ。
 舞は「んっ」と気合を入れて布団を脱出し、朝の準備をする。顔を洗い、歯を磨き、乱れた髪を少し湿ら せてブラッシングをする。その動作には些かの淀みもない。

 ふと鏡の中の自分の顔を眺める。
 最近よく笑うようになった、と佐祐理や祐一に言われることがあるが、本当にそうなのだろうか。鏡の中に いるのは見慣れた無愛想な自分の顔だ。この顔がどう化学変化を起こせば、にこっと愛らしく笑うことが出来 るのだろうか。今の自分の顔を観察する限りでは、にわかに想像も出来ない。
 ――綺麗に笑えているのだろうか。
 身近に佐祐理という笑顔の達人がいるせいか、「笑顔の佐祐理、仏頂面の舞」というようなイメージを周り に与えていたと思うのだが、祐一や佐祐理の言うことを信じるならば、最近は自分も笑顔グループの仲間入り を果たしたようだ。
 ――わたしは、どんな風に笑うのだろうか。
 少し笑ってみようと思う。
 にこーっ
 途端に鏡の中の自分の顔が奇妙に歪んだ。
 ――はぁ……
 軽く溜息をつく。
 ――今度、笑顔のコツを佐祐理に聞こう。
 そう思いながら、舞は鏡に背を向けた。

「舞、おはようっ!」
「おはよう」

 舞の母親――川澄麻耶は元気だ。
 今現在の彼女しか知らない人間に、以前は命に関わる病気に罹っていたということをこの家の近所の主婦連 中に話そうものなら、きっとそいつは脳味噌に蛆でも湧いたかと思われるだろう。
 長く伸ばした黒髪を後ろで結んでいる。見た目はかなり若く、街を娘と二人で歩けば八割の人間は彼女 らを姉妹と見間違うだろうし、麻耶自身もそのような自負はあった。
 舞は食卓に着き朝食を食べる。今日の献立はバターを塗った食パンと目玉焼き、市販の即席コーンスー プ、デザートはヨーグルト。
 舞は何故かデザートのヨーグルトから食べる。何故そんな食べ方をするのかと問われると本人にも答えら れないが、それが特別好きなわけでもなかった。なんとなくその方が身体に良いような気がするのだ。
 麻耶はそんな舞を微笑みを浮かべながら見ていた。

「そういえばね、昨日舞ちゃんが寝ちゃってから倉田さんから電話があったのよ」

 ヨーグルトを食べ終わり、ようやく主食に取り掛かる。コーンスープを啜りながら舞は母親の話に耳を傾 けた。

「佐祐理から?」
「そうそう、舞ちゃん、起こしても起きなかったから、また明日かけ直すって言ってたけど」

 舞は心の中で首を傾げた。
 何か変だ。かけ直すということは、その電話は今日会うときに言えばいいというような軽い話ではないと いうことだ。しかも会う時まで待てないということは、それだけ急ぎの用だということだろう。
 そんな切羽詰ったような話が自分と佐祐理の間に存在するのだろうか。
 舞は色々と頭の中で該当しそうな事柄を思い浮かべるが、どれも的を射ていないような気がした。

「舞ちゃん、スープ冷めちゃうわよ――」

 麻耶が舞を急かした瞬間、川澄家の電話が鳴った。
 舞はすぐさま電話機に駆け寄り受話器を取る。
 どくん、どくん。
 心臓の音がする。
 先ほどの考察のせいか、受話器を持つ手が何故か少し震えた。
 ――何か良くない予感がする。

「もしもし?」

    ☆   ☆   ☆

 最悪の目覚めだった。
 ここまで酷い目覚めは、中学の時に友人の家に泊まった時、酒を投入して朝までどんちゃん騒ぎをした時 以来だ。
 ――全く、まだ本人に確認したわけでもねぇのにこの有様とは、相沢祐一もとんだ腑抜けだな。
 自嘲する。
 しかし、昨日久瀬から聞いた話は中々に衝撃的な内容だった。話半分に聞いてもお釣りが来る。
 祐一は今日も北川と一緒に図書館で勉強する約束をしているが、今日は風邪を引いたとかなんとか言っ て休んでしまおうと考えていた。とても勉強なぞを悠長にしていられる精神状態ではない。
 時計を見ると祐一が普段起床する時間からすればかなり遅い時間だった。
 ――とりあえず遅くなったが朝飯でも食べて落ち着こう。話はそれからだ。
 祐一は着替えに袖を通しながら昨日久瀬から聞いた話をもう一度思い出していた。


「いや、僕も父親からの又聞きだからそんなに詳しい話は知らないんだがね、」
「そんな御託はいい! さっきの野郎は一体誰なんだ!」
「お、おい、相沢、まぁ落ち着いてくれ」
「俺は冷静だよ!」

 どうどう、と猛る祐一を猛獣を飼育する飼育係のような手つきで宥める久瀬。

「全く、何が冷静だ。前から思っていたが、相沢、君は彼女らが絡むと人が変わるな」
「うるせぇ! んなの当たり前だろ! もったいぶってないでさっさと話せ!」

 祐一は久瀬に掴みかからんばかりの勢いで迫る。

「はいはい……えっとな、前にも言ったかもしれないが僕の父親は議員をしていてね、この地方で有数の 実業家である倉田さんの父親――倉田康臣氏とは、顔を合わす機会が多いんだ。もっとも、そこまで懇意 にしているわけではないようだがね」
 聞いたことがある話だった。
 祐一は、舞が退学になりかけた一件で名前も知らない女子の3年から行きずりのような格好で話を聞い たのだが、生憎今の祐一はそれを瞬時に思い出せるほど上等な精神状態をしていなかった。
 倉田コンツェルンは佐祐理の父親――倉田康臣氏が一代で興した企業グループである。その出世と事業の 成功は業界では生きた伝説となっているほどだ。倉田氏の発言力は凄まじく、とても一県会議員では太刀打 ちできないだろう。久瀬の「あまり懇意にしているわけではない」という言葉には、発言力のある企業のト ップと一県会議員の関係に対する含意があるようだ。

「それで? それが今の佐祐理さんとあの野郎にどう繋がるんだよ」
「まぁそう結論を急ぐな。……それでだ、これからする話は業界ではほとんど常識に近い噂なんだが、倉田 グループには少し前からある有力企業との合併が噂されていてな……関係者の話だと、その兆候がここ半年 になってかなり顕著に見られるようになってきたんだ」
「……」

 話が祐一に口出しできるレベルの話ではなくなってきていたので、口を挟むのはやめて素直に久瀬の話を 聞くことにする。

「その有力企業というのも倉田グループと同じように一族が経営のトップを占めている形態でな、ここ数年 ばかりは不況もどこ吹く風で業績を伸ばして、今じゃ倉田と肩を並べても可笑しくはないところまで来てい るんだ。そんな企業が今更倉田グループの傘下に入るというのも妙な話だろ?」
「そうなのか? 俺にはよくわからんけど……」
「まぁ父の受け売りだからな。父から見れば不自然に見える部分があったのかもしれん」
「はぁ……」

 別世界の出来事だ。
 少なくとも祐一が存在する世界とは間違いなく別の次元に存在しているに違いない。

「それで、考えられることというのは……一族の統合だ」
「は? 何だよそれ」
「つまりだ、ワンマン経営をしている家同士がくっつくにはどうする? それはもう物理的にくっつくと いうのが一番手っ取り早い」
「物理的って一体何だよ? 意味が分からんから、もう少し簡単に言ってくれるか?」

 久瀬はさも自明の理だと言わんばかりに論じるが、祐一には話が見えてこない。

「つまり二つの家が親族になるということだ」
「はい?」
「分かりやすく言うと結婚だな」

 瞬間、全てを理解し祐一の時間が止まる。
 祐一の時が再び動き出したのは数秒後のことだった。

「はああああぁぁぁぁっ!? 何だよそれっ!!」
「倉田氏の一人娘である倉田佐祐理――倉田さんと、相手方――桐原氏の息子が婚姻すれば、業界も認める 一大企業グループの完成だ。両グループの動きはそれくらいしか解釈のしようがない」
「そ、そんなこと聞いたことないぞっ!?」
「当然だ。僕だって正式に決まったとかそんなことは一言だって聞いたことはない。だから「噂」と言って いるんだ。業界が認める、根も葉もないが説得力だけはある――「噂」だよ」

 ――そんなことあるわけねぇだろ馬鹿馬鹿しい。
 祐一はそう言って久瀬の噂話を一蹴しようと思えば出来たはずなのに、何故かそれが出来なかった。

 あの時の表情が頭の隅から消えなかった。

 あの時、動物園の帰りの別れ際、佐祐理は確かに泣いているように見えた。
 何故?
 まさか、そんな――
 そんな話、死んでも肯定するわけにはいかないが、頭から否定するだけの積極的な証拠が無いのも確かだ。
 久瀬は祐一が思考の海から帰還しようとしないのを見て、静かに口を開いた。

「先ほど倉田さんと歩いてた男だが、僕には見覚えが無い。おそらく僕らの学校ではないだろう。無論、上 の学年も含めてだ。倉田さんは学校にいる間も予備校に通ってからも始終あの川澄舞と一緒に居るんだろう?  そうなると僕が知る限り倉田さんに近づいた男は相沢、君だけだ。そんな倉田さんが見知らぬ男と歩いてい たんだ。一体どこで知り合ったんだ、という話にならないか?」

 祐一は否定も肯定もしない。
 祐一のあまりに深刻な様子に、久瀬は先ほどまでの口調を改める。

「まぁ彼女の親戚だった、というオチも無いわけではない。あまり気を揉んでも無駄骨かもしれんぞ」

 久瀬は努めて明るい声で言った。

 ――そんなことあるわけない、佐祐理さんは、俺達3人はこれからも一緒にいるって決めたんだ。

 その言葉がどうしても口に出せなかった。
 口に出せば、その行為が元で全てが崩れていってしまうような気がした。

 久瀬とはその後すぐに別れた。
 祐一は結局最後まで久瀬の話を否定することはできなかった。


 思い出してみるとさらに悶々としてしまった。

 正直俄かに信じられる話ではない。
 そもそも佐祐理にそんな話が持ち上がっていたなら、親友である自分や舞に何らかの形で知らせることく らいあってもいいのではないか? いや、しかしその話が昨日今日持ち上がった話ではなくて、ずっと前か ら決まっていたことだったとしたら? しかし、それでもやはり自分達に言わないのは変だ。やはり久瀬が 最後に言ったように自分の勘繰り過ぎなのではないか? じゃあ、佐祐理さんと一緒にあの男は一体誰だと 言うんだ。いや、しかし――
 キリが無かった。
 昨日は悶々として何度もベットの上を転がり、何度も部屋の壁に頭をぶつけては悶え苦しみ、隣の部屋の 従姉妹には「祐一、変なものでも食べたの?」と、ある意味家主の秋子に失礼な質問を浴びせられては「何 でもない」とあしらい、それでもまた何度も部屋の床を転がり、発作的に電話機を掴んでは佐祐理に電話す る所で思いとどまる、という行動を何度も繰り返した。
 ――直接聞いてみればいいじゃないか。
 そう考えた、その度に何度も思い止まった。
 ――ちくしょう、百歩譲って聞くことにしたとして、一体俺はどの面下げて佐祐理さんに聞くってんだ?  「昨日あなたと一緒に歩いてた男の人は一体どこの誰ですか?」なんて、聞けってのか。そんなこと出来る わけねぇだろうが!
 思考すらループした。そして結局何もしない自分がそこにいるだけだった。
 本当のことを聞くのが怖かった。「あははーっ! あの人とはずっと前から婚約してるんですよーっ」な どといつもの調子で言われたら、その場で舌を噛み切って自決するかもしれなかった。
 時間を見たら、いつもならとっくに家を出かけて北川と図書館に行く時間になっていた。

 ――今日はやめとこう。
 今日という日を受験勉強のために費やすことを諦め、このクソ暑い中相棒を待ちながらダラダラ汗を流し ているであろう北川に電話しようとしたその時、祐一の携帯がブルブルと震動した。待ちかねた北川が業を 煮やして電話してきたと早合点し、、ディスプレイも見ずにぞんざいな態度で応答した祐一は責められ まい。

「あいよー、もしもしぃー、祐クンですよー……って、舞かっ!? どうしたんだよっ! おいっ!?」

 いくら朴念仁の祐一とは言え、電話の相手が明らかに泣き入った川澄舞だと予め知っていればそれ相応 の応対をしたに違いないだろうから。
 この時点で祐一内部の優先順位ランキングに於ける北川潤の順位は瞬く間に最下層に追いやられた。この 真夏の太陽の下、いつまで待っても来ることが無くなった相棒を待ち続けることになった北川は、哀れと言 うほかない。



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