佐祐理の父――倉田康臣の半生は、確かに波乱万丈という言葉で修飾されるべきものだったこと は間違いない。

 康臣は幼少の頃、特別出来る人間というわけでもなかった。勉強でも運動でもビリは取らないまでも それに近い成績を取ってくる、所謂劣等生だった。地元では優秀だった康臣の父はそんな彼を厳しく育 てた。勉強でも運動でも人並み以上の成績を取ってこないと罰として飯を抜く、家から締め出すなどと いうことは日常茶飯事だった。彼の青春はいつでも父親や周囲への劣等感に苛まれていたと言っても過 言ではない。
 厳しかった父が死んだ時、康臣は故郷を出ることを決意した。
 周りの人間は皆止めた。夢ばかり見るな、地元で地道に働け――そんな声の裏側に「お前には無理だ」 という侮蔑の念を読み取った彼は周囲の反対を押し切り単身上京する。康臣が18の時の事だ。
 商業、経済、政治、そのイロハすら知らなかった彼は、数年間必死で勉強する傍ら、バイトに精を出し 起業のための資金を貯める。彼が25の時に立ち上げた事業が成功したのは、上向きの日本経済の勢いを借 りたのもあるが、一重に彼の努力の成果だったと言える。燃える意志と反骨精神で彼は事業に明け暮れる。 小さかった彼の会社は膨れ上がり、いつしか幾つもの関連会社を持つ企業グループとなっていた。その中 心の玉座で全てを統括する彼は、正しく王だった。気づけば、40も越えようかという年になっていた。妻 を持つ、などと言うことは考えたことも無かったし、事実考える暇も無いほどに彼の日常は多忙を極めて いた。

 彼が彼の妻――倉田佳織、旧姓斉木佳織と出会ったのはそんな時だった。
 彼に言い寄る女は後を絶たなかった。彼もその全てを相手しているほど暇では無かったし、もとより興 味も無かった。
 佳織は康臣が持つ会社の秘書の一人だった。彼女は非常に有能だったが身体が弱く、康臣は会社で体調 を崩したりする彼女の面倒を数回見たこともある。康臣と佳織の距離は次第に縮まっていった。
 佳織が康臣の秘書として働き出して2年、先に交際を切り出したのは佳織のほうだった。
 ――俺みたいな人間は家庭は持てん。
 臆面もなく言い切った彼を見て、
 ――それでも、構いません。
 と、母のような穏やかな笑顔を浮かべる佳織を見て、康臣が愛しいと感じたかどうかは定かではない。 しかし佳織の笑顔の儚さに康臣が何かを感じたのもまた確かなのだ。その後二人は結婚し、ほどなくして 長女の佐祐理が生まれることになる。
 仕事一筋で20年以上も過ごしてきて、初めて出来た自分の家庭。それでさえ仕事から康臣を遠ざける要 因とはならなかった。今まで通りに仕事をこなす彼と、まだまだ幼い佐祐理を抱えて健気に彼の帰りを待 つ佳織。そんな暮らしが何年も続いた。夫婦の生活は決して仲睦まじくはなかったが、冷え切っていたと いうわけでもなかった。数年後、彼のグループはさらに拡大していた。

 彼は満足だった。
 ――どうだ、俺はこんなにもでかくなったぞ。
 若かった頃彼を見下していた人達は、今や彼の足元すら遥か遠く霞んで見えないような位置にいた。
 彼は勝った。
 これ以上無い勝利。
 長男の一弥が生まれたのは長女の佐祐理が生まれてからさらに数年たった頃だった。

 元々身体の弱かった佳織が二人目の子供を産む事が出来たこと自体奇跡と言ってもいいくらいだった。出 産後の経過も良く、医師も安心していた矢先のことだった。
 突如佳織は体調を崩した。
 突然のことで医師にも手の施しようもなかった。連絡をしようにも佳織の両親も、康臣の両親も既に他界 していた。肝心の康臣自身も海外へ行っていて今すぐは帰ってくることが出来ない。

 結局、康臣は佳織の死に目に会うことは出来なかった。
 
 康臣が帰って来た時、既に佳織は冷たくなっていた。
 海外での事業拡大は大成功を収めていた矢先のことだった。全てを捨てて帰って来れば、妻の死に目には 会えたかもしれない。

 ――かずやって、いうんですよ。

 ガラスの向こう側の弟を一緒に眺めながら、仕事ばかりで碌に顔を合わせたこともない自分の娘が、必死 に明るい声を出して生まれたばかりの長男の名前を教えてくれる。子供の名前すら彼の預かり知らぬところ で決められていた。
 だが、それも悪くない。きっと妻とこの子が考えてくれた名前だ。

 ――良い、名前だ。

 そう言うと佐祐理と言う名の自分の娘は、にこっと笑った。
 この子なりに自分を元気付けようとしてくれているのだろう。
 馬鹿な子だ。

 ――涙くらい、拭け。

 彼に出来るのは、自分が泣いていることにも気づかずに笑っている佐祐理に、ポケットに入っていた、 いつ取り替えたかも分からないようなハンカチを渡してやることだけだった。


 康臣は途方に暮れた。こんな自分が子育て、しかも二人も出来るわけが無い。預けるにしても彼には そんな親類はいなかった。
 自分がここまで育ててきたグループの経営も軌道に乗り、今や由緒ある大財閥と比べても引けを取らない 巨大な企業群に成長した。ここで全てを放り出して子育てをするという選択をすることなど康臣には到底出 来ない相談だった。何より、自分が今までしてきた仕事そのものが彼を縛り付けている。
 悩んだ挙句、彼は子供達を自分が昔住んでいた土地に送り、メイドや乳母をつけることにした。
 勿論、このまま都会で自分と共に暮らすことも出来たはずだ。だが彼はそれをしなかった。

 彼は怖かった。
 これほど怖いものは自分が生まれてきてからこっち、触れたことがなかった。
 家族が怖かった。自分の子供が怖かった。どう接したらいいかなど分からない。どう育てたらいいかなど 考えられない。子供達の前で自分がどんな顔をしていいのかが決められない。

 まだ佳織が生きている頃のことだ。佐祐理と会う時だけは威厳のある父親を演じた。何故かと問われると、 それが父親というものだ、と答えるしかなかった。彼の心の奥底にある父の姿は、彼に威厳のある、甘やか さない父の姿を演じさせた。最低限の父親の役割も果たさないくせに父親としての威厳だけは見せつけてお こうなどというのはおこがましいことだというのは理解していた。しかし、だからと言って今更「威厳のあ る父親」という仮面を脱ぎ捨てるわけにはいかなかった。自分の子供にありのままの自分を見せるのは何よ りも怖かった。

 ――いいか、佐祐理。これからは――

 だから佐祐理と一弥を自分から離すことにした。自分の故郷に新しく家を建てた。自分の子供達はそこで 住まわせることにした。そして自分は仕事が忙しいと称して(実際多忙だったが)時折様子を見に行くにと どめておけば良い。
 だから、別れ際に康臣が佐祐理に言った言葉は、言うなればほんの戯言のようなものだったのだ。これか らほとんど顔を合わせずに暮らしていく「家族」に対する、「威厳のある父」を演じる康臣にとっての仮面 の延長線上の台詞。
 康臣は気づかなかったのだ。
 倉田康臣という存在が佐祐理の中で、半ば神格化された父という名の絶対者の姿として映っていたこと に。


 そして彼は、病院のベッドの上で眠っている娘の側に居た。
 仕事は長期の休暇をとった。25の時事業を興してから初めてのことだった。

 ――俺は一体今まで何をしてきたんだろう。

 いつも劣等感と闘っていた自分、故郷を捨てて単身上京した自分、何者も省みずただ我武者羅に働いた 自分。

 ――そしてこの結果がこれか。

 妻の死に目にも会えず、息子を幼くして死なせ、娘を自らの命を絶とうとする程に追い込み。

「ははは……ははっ……はは……」

 何故だか急に笑いがこみ上げてきた。
 掛け値なしに康臣は笑っていた。笑いすぎて涙が止まらなかった。涙は拭いても拭いても後から後から ぽろぽろぽろぽろ流れ落ちた。何日も着替えていない服の上に涙の雫は流れ落ち、どんどん涙の染みは大 きくなっていった。
 月明かりで娘の左手首に巻かれた包帯が白く照らされている。
 痛かった。
 叶う事なら今すぐ自分の首を掻っ捌いて、哀れなこの娘にせめてもの償いをしたかった。

「……俺はっ……馬鹿だっ……」

 いつまで泣いたか分からない。
 やがて悲しみの波は引き、虚ろだった彼の瞳に僅かな意志の光が灯る。

 ――これからは……命をかけてお前を守る。

 握りしめた拳からは、あまりに強く握りしめたせいで爪が皮膚に食い込み、赤い血が流れ出してい た。


 康臣は佐祐理が退院するとすぐさま東京の家を引き払い、自分も故郷の家に住まうことにした。
 だが、膨れ上がった自らのグループはすぐに誰か他の人間の手に渡してしまうというわけにはいかない。
 康臣は考えた。
 自分はもう若くない。世界を飛び回るには年を食いすぎた。だが、今までワンマンで成長させてきたこの 企業群は並みの人間に取りまとめられるものではない。どうするか……
 思考が迷宮入りしそうになった時に、ある成長株の企業グループから一つの事業で業務提携を結びたいと いう旨の打診があった。康臣はその企業のトップと直接会うことにした。
 その企業のトップは武田という男だった。武田が事業家として歩んできた道は康臣と酷く似通っていた。 ワンマン経営で辣腕を振るい、多数の企業と合併を繰り返して今の地位にのし上がった叩き上げの事業家だ。 康臣は武田と業務提携を結ぶことを決めた。

 武田には佐祐理より少し年上の息子がいた。今は東京の大学で学生をしているがゆくゆくは父親の跡目を 継ぐことになっている、と武田は親馬鹿を顕わにして康臣に語った。
 今にして思えばその話を聞いた時から自分の決意として固めていたのかもしれない。
 この男の息子なら――
 自分はもう老い先短い。いつまでも自分が佐祐理を守ってやるわけにはいかない。
 全ては自分の罪。それはその償い。
 佐祐理は自分のことを厳格な父として尊敬してくれている。そのためにも、自分の手で佐祐理を幸せに してくれる男を探してやる。ちゃんとした男、誰にも負けない実力と器量でもって佐祐理を守っていける ような男を佐祐理の婿として迎えさせることは、自分の最後の仕事だと康臣は思っていた。

 幻想は彼を縛る。
 まるで、呪いのように。

    ☆   ☆   ☆

「佐祐理、ちょっとこっちに来なさい」
「はい、なんでしょう、お父様」
「お前に紹介しておこうと思ってな――」

 佐祐理が父から彼――武田克彦を紹介されたのは、佐祐理が高校生になってすぐの頃に父と一緒に出席 したパーティの席でのことだった。

 父の取引相手の息子で、今は東京の大学に行っている。来年には彼の父の会社に入社が内定している―― と、父から説明され、佐祐理はいつものように笑顔を取り繕って父の客である武田克彦に挨拶をした。
 倉田の娘として、父の客はどんな人でも記憶しておいて、他所で会った時も失礼の無いようにしなければ ならない――という理由から、佐祐理はいつも始めて会った人の特徴を一目で頭に叩き込んでおくようにし ている。
 佐祐理は失礼にならないよう充分注意を払いながら、たった今紹介を受けた人間を観察する。
 髪は黒。短め。背は170くらいでそこまで高くはないが、痩せ型の体型のせいか実際の身長以上にスマー トに見える。一目で高級なものとわかるスーツを着こなしているが、特に嫌味な感じには映らない。立ち位 置的には少し引いているが、おどおどしている様子は見られず、少なくとも自分以上にはこういう場に慣れ ているようだ。
 彼は佐祐理の挨拶に応えて軽く会釈をする。

「はじめまして、武田克彦といいます。今日は父の付き添いで来ました。いつも父がお世話になっており ます」

 いいえこちらこそ――と答えながら佐祐理はチラリと父を見る。
 このようにパーティの席で誰かに紹介されるのは別に珍しいことではないし、慣れていないわけでもな いが、あまり得意ではないのも確かだ。事実、自分のポジションは「倉田康臣の娘」というだけのことで あって、それ以上でもそれ以下でもない。自分としても、これからの自分の生活で、このような場で紹介 された人間と関わっていく可能性は限りなく零に近い。
 目線を父に向けるのは「もうこの場から離れてもいいか?」の意思表示だったつもりだ。
 しかし、それを見た父はあろうことか――

「佐祐理、私は他に待たせている人間がいるのでな、克彦君と色々話でもしておきなさい」

 そんなことを言って、そそくさとパーティ会場のどこかへ消えてしまったのだ。

 佐祐理は少し呆然としていた。
 父が自分を放り出して他の所に行くなどというのは、今まで一度も無かったことだ。しかも自分とは初 対面の客の前に置いて。
 自分の2m横には、先程紹介を受けた武田克彦が立っている。そちらに目線を向けたら何がしかは喋ら なくてはならなくなるだろう。しかし、紹介を受けた以上何かは話さなければ気まずい。佐祐理の中では もう充分すぎるほどに気まずかったが。
 佐祐理が自分のこれからの態度を決めかねていると、隣から溜息が聞こえた。

「……参っちゃいましたね」

 そちらを見ると、彼は心なしか苦笑いを浮かべていた。

「そうですね……」

 とりあえず愛想笑いを浮かべる。
 沈黙が流れる。
 佐祐理は、誰でもいいから誰かこの状況から助けてくれないだろうか、と本気で思った。

 佐祐理が痺れを切らせてこの場から脱出しようと、行きたくもないトイレに行こうとしたその時、

「……少し外に出ませんか?」

 武田の御曹司が不意にそんなことを言った。


 パーティ会場は市街地の真ん中にあるホテルの大ホールのような所で催されている。ホテルは周 囲の建物と比べて頭一つか二つ抜け出している高さで、佐祐理と克彦がいる展望ラウンジからは街の夜 景が一望できるようになっている。
 佐祐理は、自分をパーティ会場から連れ出した克彦の真意をいまいち量りかねていた。そして克 彦の前に自分を置いていった父の真意も。
 ガラス張りの広場に設置してあるソファに克彦と向かい合うように腰掛けて、佐祐理は住み慣れた街 に比べると少し眩しく、少し余所余所しく思えるこの街の夜景をなんとなく眺めていた。
 不意に克彦が口を開いた。

「すいません、タバコ、吸っても構いませんか?」
「どうぞ」

 慣れた仕草でタバコに火をつける。
 佐祐理は自分の近くでタバコを吸われるのは、別に嫌いではない。彼女の父も家で考え事をする時は、 よくタバコを吸っているからだ。父が吸っているのはかなり濃そうな銘柄だが、今佐祐理の目の前の彼が 吸っているのは、父とは違った銘柄だった。
 ゆっくりと深呼吸をするように、吸って、吐く。
 一通り吸った克彦はテーブルの上の灰皿で、まだ燻っているタバコの火をもみ消した。

「実は、苦手なんですよ」
「は?」

 タバコの火を消す動作に見入ってしまっていた佐祐理は、不意に話しかけられて思わず間抜けな声を出 してしまった。

「倉田さんはそんなことありませんか? ああいう堅苦しい場って言うか、格式ばった雰囲気って言う か……」
「はぁ……」

 きっちりと締められたネクタイを緩めながら、随分と砕けた様子で克彦は言う。

「普段は大学の連れと騒いでるもんだから、いつのまにかその方が当たり前になっちゃって……やっぱり 飲んだり食ったりって言うのは楽しくないとね。あんなにお偉いさん方が集まってたら、折角の旨いもん もさっぱり味がわかんないですよ」

 ははは……と苦笑気味に彼が笑う。
 先程までのパーティ会場で見たきっちりとした青年という印象からの突然の変化に、佐祐理は少し戸惑 っていた。これが彼の素なのか、はたまたこれも彼の演技なのか、佐祐理には判断できない。ただ、必要 以上に親しくするのも気が引けた。佐祐理から見れば『大人の男』である克彦の持つ雰囲気に、少し気圧 されていたのかもしれない。

「しかし……今日は来て良かったって思ってるんですよ。どうしてだか分かります?」
「いえ……?」

 佐祐理はちょっと頭の悪い女の子ですから、といつものお決まりの台詞を使おうと思ったが、何故か止 めた。自分の反応を試そうとしているかのような悪戯っぽい彼の表情が気になった。
 そして克彦は全くの真顔で、

「倉田さんのような綺麗なお嬢さんと会えましたからね」
「……えっ……えぇっ!?」

 そんなストライクゾーンど真ん中の剛速球を投げ込んだ。
 ボンッという擬音と共に佐祐理の顔が真っ赤に染まる。佐祐理の心理状態は、普段ならありえないほ どにしっちゃかめっちゃかになっていた。そして、しっちゃかめっちゃかにした張本人はそんな佐祐理 の様子を眺めて愉快そうに身体を揺すっている。

「さっ佐祐理はっ……そっ、そんな……かっ、からかわないで下さいっ!」

 思わず感情が高ぶり克彦に食ってかかる佐祐理。佐祐理もまだまだ高校1年生。少し年上の男から「可 愛い」とか「綺麗だ」などと言う台詞を笑いながら平然と聞き流せるほど人間は出来ていなかった。

「はっはっはっ……いやいや、冗談とかじゃないですって。本当に倉田さんは綺麗だと思いますよ。学校 なんかじゃ同級生の男共がほっとかないでしょう?」
「そっ……そんなことありませんっ!!」
「へぇ……意外だなぁ、倉田さんくらい可愛かったら僕らの高校だったらお姫様のような扱いを受けると 思いますよ? あ、もしかしたら彼氏がいるとか?」
「そんなのいませんっ」

 実際のところ、佐祐理はまさにお姫様のような扱いを受けるところだったのだが、その頃既に学校の問 題児だった川澄舞といつも行動を共にしていたため、一般の男達には手の出せない存在だったのだ。クラ スメイトだったら笑顔で会話することくらいは何でもないが、それだけだった。
 克彦の予想外の攻撃に、佐祐理はたじたじだった。

「もう……からかわないで下さい」
「はは……すみません。なにせ――」

 克彦が何かを言いかけた時、不意に携帯電話の着信音が鳴った。

「もしもし、あー、はいはいすぐに戻ります――ええ、一緒です――はい、はい、それでは――」

 ピッ。

「……どうやら会場勝手に抜け出したのバレちゃったみたいです。そろそろ戻りましょうか」

 携帯を懐にしまいながら克彦が悪びれた様子もなく言った。

「何も考えずに来てしまいましたけど……大丈夫なんですか?」
「大丈夫でしょ。所詮僕らはあのパーティの主役ではないですからね。気づかれないように戻っていれば問 題ないと思いますよ」

 克彦は立ち上がるとパーティ会場のフロアがある階に向かうエレベーターの方へ歩きだした。佐祐理も少 し遅れてそれに倣う。
 克彦が歩く様子は堂々としていて、まるで彼がこれから歩んでいく道の華々しさを暗示しているようにも 見えた。
 ――わたしとは、違う。
 自分に誇りを持って歩いていける道など、佐祐理の目には映りもしなかった。


 佐祐理と克彦が抜け出したことなどまるで無かったかのようにパーティは滞りなく終了した。
 勝手にパーティの席を抜け出して父には叱られるかと思っていたのに、意外にも叱られなかったことに 佐祐理は少し驚いた。何か良いことでもあったのだろうか、父はいつになく上機嫌だった。
 パーティ終了後には克彦の父にも声をかけられた。

「克彦はどうやら君のことを気に入ったようだ。これからも仲良くしてやってくれ」

 佐祐理は何か返事をしようと思ったが上手く言葉にならず、武田氏はすぐ帰っていった。
 この時佐祐理は「仲良くしてやってくれ」と言われたことは単なる社交辞令と受け取った。年齢も住んで いる場所も違う克彦と会う機会などはこれからそうそうありはしないだろう。その事実自体は残念に思うこ とでもないし、武田氏も「このような公式な場で会った時に挨拶くらいはしてくれ」というような意味で自 分に言ったのだろう。
 佐祐理はそう結論付けて、しばらくの間このことを忘れていた。

 佐祐理が次に克彦と会ったのは、パーティから2ヶ月後、高校一年の夏のことだ。「克彦君がこちらに来 ているから一日付き合ってやってくれないか」という父の頼みを断りきれず、一日だけ彼に付き合った。父 の会社と武田との取引は相変わらず続いていた。その関係で父も克彦の誘いを断りきれない部分もあるの だろう。佐祐理はそう考えて、父の仕事を手伝うつもりようなつもりだった。
 その後も2,3ヶ月に一回くらいの割合でそんなことがあった。そんな事実や倉田と武田の連携も相俟っ て、いつしか業界の中では「倉田の娘と武田の息子は許婚」などと言う噂が公然と流れるようになった。
 
 別に克彦と会うのは嫌な事ではなかった。巨大企業のトップの御曹司の割には気取っていない克彦の性格 は十分好感の持てるものであったし、彼との時間は楽しくないわけでもなかった。克彦に恋を感じるとか、 そういったことは全く無かったが。
 しかし、克彦と相対する機会を重ねる度、ぼんやりと彼がただのお坊ちゃんではないことが分かってくる。 財界で辣腕を振るいのし上がった自分の父にある意味近いものを感じるようになった。時を重ねるにつれて、 彼は自分と会う時には『気のいい好青年』を演じていることも感覚の上で理解できるようになる。
 ――ああ、この人も興味があるのは『倉田佐祐理』であって、ただの『佐祐理』には何の興味もないんだ。
 克彦の振る舞いから佐祐理がそのことを読み取れるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
 ただ一つ、そんな克彦との付き合いを他でもない自分の父が推奨していることに違和感を覚えた。

 幼い頃を思えば、厳しかった父の姿しか記憶に無い。会う機会はほとんど無かったが、時折会う父はやは り威厳に満ちた厳格な父であった。
 しかし、父も佐祐理と同じように、佳織の死、一弥の死を境に変わっていったのだろう。佐祐理は無意識 のうちに父の変化を感じていた。

 しかし佐祐理にとって父はやはり父であり、絶対の存在だった。
 それは、佐祐理が舞と出会い、祐一と出会い、高校を卒業し、親友の舞と一緒に予備校に通うようになった 今でも変わっていない。


 だから、佐祐理は、武田克彦との「今更」とも言えるような『見合い』の話を康臣から切り出された時も、 最終的には首を縦に振ったのだ。


 抵抗はあった。いくら3年前からの顔見知りとは言え、恋心も何も感じていないような相手だ。
 しかし佐祐理は考えてしまう。
 ここに辿り着くまでに自分の父が越えてきた葛藤と苦悩の日々を。

 一弥が死んだ時、佐祐理はまるでそれが当たり前であるかのように自らの手首を切った。どんな言い訳 も通用しない、完全無欠の自殺だった。
 死にたかった。
 『倉田佐祐理』という存在をこの世から抹消したかった。
 最早涙すら枯れ果てた瞳に僅かな喜悦の表情を浮かべながらカッターナイフの刃を自分の左手首に当てる 『倉田佐祐理』を肩の上から見下ろしながら、彼女は躊躇なく右手を引いた。

 気づいた時には病院のベッドの上だった。カーテンの隙間から漏れた月光が、自分の左手首に巻かれた包 帯と、ベッドの傍らに座って嗚咽を漏らす男性の姿を白く照らしていた。
 ――父が。
 あの厳格だった、父が。
 恥も外聞も無く、みっともなく身体を震わせて、ただただ泣いていた。
 その姿は佐祐理にとって衝撃以外の何物でもなかった。
 父は絶対。
 絶対なのは父。
 そう信じて佐祐理はそこまで生きてきた。
 しかしそこにいたのは自らの犯した罪に震え慟哭する矮小なただの男だった。

 どのくらい父の姿を眺めていただろうか、不意に声がした。

「……俺はっ……馬鹿だっ……」

 ――違う。
 馬鹿なのはわたしだ。
 馬鹿なのは「佐祐理」だ。
 「佐祐理」が父の言うことを上手く聞けなかったから。
 「佐祐理」が上手くやれなかったから。
 指一本動かせない身体ではなかったなら、佐祐理はその場で叫びだしていただろう。
 代わりに、泣いた。
 傍らでうずくまる父と同じように、ただ、ただ、泣いた。

 ――あの日知ったのだ。
 自分が今こうして在るのは紛れもなく父のおかげなのだ、と。


 佐祐理は、父の眼前で、静かに首肯した。

    ☆   ☆   ☆

 そして、佐祐理は真夏の太陽の下、半年の間舞と二人で通った予備校に別れを告げ、今こうして帰り 慣れた道を歩いている。
 予備校の教師はひどく残念そうな顔をしていた。
 自分は一体どんな顔をしていただろうか。
 身を切られるような思いは既に味わった。
 でも、もう終わり。
 楽しかった時間は、もう終わり。
 全てのものは須らく終わりを待っているのだ。

 舞と初めて出会った日のことを思い出す。
 あの日から、もう3年以上の時間が過ぎた。
 もう十分なのだろうか。
 もうこれ以上は無理なのだろうか。
 『佐祐理』にはもう無理だったのだろうか。
 別れは既に告げたはずだったのに、後から後から未練が湧いてくる。
 しかし、佐祐理はその感情を押し殺す。
 自分にはあってはいけないモノだから。
 自分勝手に消えていく『佐祐理』が、そんなものを持つ資格などは無い。
 そう言い聞かせて、震える手で舞の自宅の電話番号を押した。

 遠くに子供達のはしゃぐ声が聞こえる。
 風は無く、アスファルトの向こう側で立ち昇る熱気に負けたように、景色はゆらゆらと揺れていた。
 景色が揺らいでいる。
 ゆらゆら、ゆらゆらと。

 佐祐理は、昔母に連れられて行った海岸で、蜃気楼を見たことがある。
 ゆらゆら揺られながら浮かび上がる虚像の街。
 初めはそれが珍しくてずっと眺めていた。
 だがしばらく経つと、物珍しさはいつの間にか恐怖に取って代わられた。
 ――きっと自分はいつか、あの誰も居ない町に連れ去られてしまうんだ。
 誰もいない街、その途方も無い孤独。
 そう思い込んだ佐祐理は泣きじゃくり、母はそんな佐祐理の手をぎゅっと握って、

 ――大丈夫よ、佐祐理。お母さんは、ずっと佐祐理の側にいるわ。

 母はそう言って佐祐理が泣き止むまでずっと、手を握り続けた。

 母がずっと握り続けた佐祐理の手は、今は父の手が握りしめている。
 今佐祐理は父に手を引かれ、道を歩いているのだろう。
 そして、その道の遥か向こうには幼い頃に見た蜃気楼の街が広がっている気がした。


「佐祐理さんっ!!」


 佐祐理は、その声の主が後ろから追いかけてくることなど、全くこれっぽっちも想像してはいなかった。
 忘れていたわけではない。
 必死に押し殺して、必死に考えないようにしていただけだ。

 彼は、連れ戻しに来たのだろうか。
 あの蜃気楼の街から、彼女を。



next
back
戻る

inserted by FC2 system