舞から尋常ではない電話を受けた後祐一は、まだ昨日の勉強の用具が入りっぱなしの鞄も、さっき まで読んでいた暇つぶし用の漫画も、これからの予定も、何もかもを蹴飛ばして家を飛び出した。
 舞の電話は全く要領を得なかった。
 「佐祐理が……佐祐理が……」を繰り返すだけで、肝心なことは何も分からなかった。
 ――佐祐理さんに、何かあったのか?
 昨日の夕方に見た映像が脳裏にフラッシュバックする。
 最悪の想像が次から次へと祐一の頭の中で生産されている。
 生産過多だった。
 需給のバランスは完全に崩壊し、祐一は走るスピードを更に上げ、一目散に川澄家に向かった。

 舞は川澄家より少し手前の公園のベンチに座って祐一を待っていた。
 俯いているので、顔はよく見えない。

「舞っ!!」
「…………ゆういち………」

 舞が顔を上げる。

「…………」

 舞はちょっと引くくらいぼろぼろに泣いていた。
 道理で公園には舞以外誰もいないわけだ。
 こんな空気の公園、誰だってUターンしてゴーホームだ。

「ま、舞。とりあえず涙を拭け。というか顔を洗え。お前の顔今まで見たことないくらいえらいことに なってるぞ」

 とりあえず舞に持っていたタオルを手渡す。
 舞は無言でタオルを受け取り、幽鬼のような足取りで公園の水飲み場に歩いていった。
 今にも倒れそうで、とても見ていられない。
 祐一は今すぐに舞から事情を聞くことを諦めて、戻ってきた舞に渡すためのジュースを買いに近くの自販 機に向かった。
 500円玉を入れ、適当にボタンを押す。
 舞は炭酸飲料は飲まない。前に理由を聞いたら、 「喉の奥がひりひりするから、嫌」と、まるで小学校低学年のような答えが返ってきた。
 今だってそうだ。今日びの高校生、もとい浪人生は例え何があったってあそこまでぼろぼろに泣きはしない だろう。あんなに泣くのは赤ん坊か舞くらいのもんだ、と自分のことは棚に上げて祐一は勝手なことを考えて いた。
 結局二人ともペットボトルのお茶にした。

 ひんやり冷えたペットボトルを手に公園のベンチに戻ってくると、舞は相変わらずの体勢でタオルを顔に押 し当てて泣いていた。

「…………」

 とりあえず舞の首筋にペットボトルをくっつけてやることにした。
 ぴとっ

「ひゃうんっ!!」

 舞はとても他人には聞かせられないような声を上げて飛び上がった。
 舞はきっと顔を上げ、祐一のほうを睨みつける。

「気持ち良かったか?」

 こんなことを平気で言う祐一は、舞の睨みつけ攻撃などはどこ吹く風だ。
 舞はふるふると震えながらしばらく蹲っていた後ゆらりと立ち上がり、つかつかつかと祐一の近くまで歩い てくる。

「舞、お前が顔洗ってる間にお茶買ってきたから、飲めよ」
「祐一」
「ん? 何だ?」
「死ね」

 真夏の空の下、舞のチョップの嵐が吹き荒れた。


「いてて……ったくお前が冷静にならないと話が進まないから、しょうがなく俺が道化を演じてやったっ てのに……からかい甲斐がありすぎるってのも考えもんだな」
「祐一の冗談は笑えない上に、時々殺意すら覚えるから、自重したほうがいいと思う」
「ご忠告痛み入るぜ」

 ふん、とそっぽを向きながら祐一が買ってきたお茶をすする舞。
 祐一がこの公園に着いてから早一時間、話は絶望的なほどに進んでいなかった。

「……」
「……」
「なぁ」
「ん?」
「そろそろ佐祐理さんに何があったのか話してくれないか?」

 『佐祐理』という名前にピクリと反応する。

「……うぅ……うっ……ううぅ……」
「ちょっと! ストップストップ! 泣かなくていい! 泣かなくていいから!」

 慌てて慰める。
 犬の散歩をする主婦が、こちらを怪訝そうな視線を送りながら通り過ぎていった。
 ――俺達は一体どう見えているんだろうか?
 おそらく碌な印象ではあるまい。
 しかしそんなことは今は瑣末だ。
 祐一にとって今、何より重要なのは佐祐理に関する情報だ。

「……実は昨日、佐祐理さんが誰かと二人で歩いているのを見かけた」
「……!」
「相手の顔はよく見えなかったが、男であることは間違いない。お前が言ってるのはそのことに関係するこ とか? まさか佐祐理さんが誘拐されたとか――」

 祐一が言いかけた瞬間、舞がそれを遮るように言葉を発した。

「見合い」
「――って……はぁ?」
「だから、お見合い」
「見合いっつーと……まさか?」

 コクンと頷く。

「佐祐理は兼ねてから付き合っていた人と今度正式にお見合いをすることになったって……だから…… もう一緒に勉強することとか大学行くこととか……出来ないって」
「…………!」
「だから、もう予備校とかも……辞めなきゃいけないって……」

 予想していなかったわけではなかった。
 それが嘘ではない証拠に、祐一はその衝撃の一言を聞いてもショックで錯乱することはなかったし、人 間的にぶっ壊れてしまうということも何とか回避できていた。
 久瀬の話を前もって聞いていたおかげで耐性が出来ていたおかげだった。
 そのおかげで今こうしてパニックに陥らずに次に取るべき行動をしっかり検討することが出来る。

「……舞」
「……?」
「行くぞ」
「行くって、何処へ?」
「決まってんだろ、予備校だ! 佐祐理さんの性格からして退校手続きを人任せにして勝手にサヨナラなんて 出来るわけねぇんだ! 必ず佐祐理さんは一人で来る! そこを押さえるぞ!」

 言うだけ言って祐一は予備校に向かって走り出した。

「ま、待って祐一っ!!」

 舞も一瞬遅れて走り出す。

 佐祐理に会える保証などはない。
 百歩譲って会えたとしても、今の祐一は佐祐理に向かって一体何を言えるのか、それすらもない状態でも 祐一は走るのを止めるつもりはさらさら無かった。
 とにかく――

 ――このままサヨナラだなんて、そんなのは絶対に認めない。

    ☆   ☆   ☆

 そして3人はこの真夏の空の下、一方は青ざめた顔で、もう一方は息も絶え絶えに、それぞれに譲れな いものを胸に、対峙していた。

 ずっと一緒だと思っていた。
 ずっと3人で、寄り添って、助け合って生きていけると思っていた。
 だけど、心のどこかでは感じていた。

 ――いつまでも続くものなどこの世にありはしない、と。

 いつか終わりは来る。
 いつだって終わりは来る。

 ――いつか別れる時が来る。

 祐一は荒ぶる呼吸を必死に静めながら、ふとそんなことを考えていた。
 いつかは終わる時が来る。そんなことは祐一だって百も承知だった。
 だけど、人が人と一緒にいたいと思うのは、人が人を好きになるということは、そんな脆弱な理屈などで量 れるものではない。
 例え目の前に終わりしか無くとも、こんな唐突で何が何だか分からないような終わりは絶対に認めない。
 祐一は呼吸が少しずつ静まっていくのを感じた。
 そして、目の前の愛しい人の名前を言葉にする。

「佐祐理さん」

 佐祐理は、ゆっくりと、非常に緩慢な動作で振り向いた。
 祐一は佐祐理のその瞳を見て驚きを隠せなかった。
 その瞳は、祐一達が知る人懐っこく朗らかな表情とは違い、何も映さず何も感じない機械のような無感情な 光を宿していた。

「佐祐理さん……?」
「こんにちは、祐一さん、舞」

 ぺこりと、まるでなんでもない昼下がりに近所のおばさんと相対した時の挨拶のような、なんでもない 仕草。そんな仕草こそが祐一と舞の中の違和感を深めていく。

「舞、今朝突然電話してごめんね。本当はもっと早く言わなきゃいけなかったんだけど、結局こんなにぎ りぎりになっちゃった」
「佐祐理……」
「一緒に大学に行こうねって言ってたのに……約束……守れなくて本当にごめんね」
「っ!」

 ごめんねを繰り返す佐祐理。その口調は普段の彼女からは想像も出来ないほどに無感情だった。

「佐祐理さん……舞から聞いたけど、本当なのか……?」
「本当ですよ。一応今回はお見合いという形になっていますけど、予定通りに行けば来月末か再来月くらい には挙式ということになると思います。内々の式になると思いますから、祐一さんと舞は……残念ですが招 待することは出来ませんけど」
「さっ……佐祐理さん本気なのかよ? 今までそんなこと一言も言ってなかったじゃないかっ!」
「隠していたことは謝ります。今回のことは佐祐理にとっても本当に急な話だったんですよ。でもそれが両 家の意向ですから……仕方がありません」
「仕方がありませんって……そういう問題じゃねぇだろッ!!」

 思わず声を荒げる祐一。
 しかし佐祐理に動揺する気配は無い。

「ちょっと祐一、落ち着いて」

 慌てて舞が祐一を諫める。
 しかし祐一には言葉を止める気はさらさら無い。

「これが落ち着いてられるかっ! 話聞いてるとさ、お見合いってよりかはもう結婚前提の話じゃないか ……佐祐理さんは本当にそれでいいのかよっ!」

 ぴくん、と佐祐理の肩が揺れる。
 しかし、佐祐理はそんなことは意に介さずに平然と言葉を返す。

「お相手の方とはもう3年前から、時々ですけどお付き合いはあるんですよ。相手の方はもう一流企業で働 いていらっしゃる方ですし、生活とかそういった心配は一切ありません」
「佐祐理さん……」

 祐一は結局言うべき言葉を失い沈黙する。
 今の佐祐理には全く付け入る隙が無い。
 まるで精密にプログラムされたロボットのような無機質さ。

「祐一さん……本当にごめんなさい……佐祐理は結局、約束守れませんでした。でも……祐一さんと舞は ……これからも仲良くしてください。これは……佐祐理からのお願いです」
「…………」
「それでは……佐祐理は、もう行きます――」

 佐祐理は言うべきことは全て言ったとでも言わんばかりに、踵を返し歩き出す。

 ――ほら、何やってんだよ、何でもいいから止めないと行っちまうぞ、このまま行かしたらもう会えないか もしれないぞ、おら相沢祐一、お前はそれでもいいって言うのか――!

「さ、佐祐理さんッ!!」

 佐祐理は足を止める。


「佐祐理さんは、本当にそれでいいのかよッ!!」


 祐一の頭の中はもう既にぐちゃぐちゃだ。自分が何を喋っているかすら認識できない。
 だが、ここで止まるわけにはいかない。
 ここで何も言えなかったら、もう二度と佐祐理に何も言えなくなってしまう。
 そんな気がした。

「だから、佐祐理は――」
「そんな話じゃねえだろうがッ!!」
「……ッ!」
「何で佐祐理さんはそんなに落ち着いてんだよッ!! 俺はもう何が何だかわかんねぇよッ!! でも ……! でもさ……! 佐祐理さんは本当にそれで満足なのかよッ!! 本当にそれで佐祐理さんは幸せ になれるのかよッ……!」
「…………」
「佐祐理さんは本当にその相手のことが好きなのか……? 本当に、そいつに一生捧げてもいいってくらい に、そいつのことを愛してるのか……?」

 今日初めて佐祐理の守りが揺れていた。

 用意していた言葉をただ喋るだけでいいはずだった。そして、その場をすっと離れれば、それで終わり。 自分の気持ちとかそういった邪魔なものは、それで完全に眠りに就き、もう二度と目覚めることは無いはず だった。
 祐一や舞の姿を見た時、佐祐理は感情を完全に殺し、完全に血の通わない機械として相手をすることを覚 悟した。
 あまり長く祐一や舞と一緒にいると、揺らされてしまう。
 折角固めてきた覚悟や諦観、自分の本当の感情を揺らがせてしまう。
 だから、出来るだけ短時間で切り上げて、もう二度と会わない。
 それでいいはずだった。

「さ、佐祐理は……」
「俺にはっ……佐祐理さんが無理しているようにしか見えねぇよッ!!」
「…………っ!」

 ――揺らされた。
 完膚なきまでに、揺らされた。
 慎重に心の中に組み上げてきた防壁は少年の直情の前に脆くも崩れ去ろうとしていた。

 分かっていたのだ。
 この少年に会ってしまえば、そうなってしまうことは。
 だから、連絡も取らなかった。
 あの動物園の日を最後に、二度と顔を合わせずに済ませてしまいたかった。

「……あ……うぅ……」
「佐祐理さん……頼むから……頼むからさ……俺達の前でまで無理しないでくれよ……そんなの…… つらいよ……」

 こらえてきたものが、一気に堤防を破り決壊しそうになる。
 ――それだけは、それだけはやっちゃいけない。
 身体全体に伝播しそうな震えを全て奥歯で噛み殺す。

 卑怯者になると決めた。
 佐祐理が、祐一にだけは何も話さずに全てをおしまいにしようと決めた時。
 そう決めたのだ。
 ならば、貫き通さなくては。

「…………りは……」
「……え?」
「さゆりは……無理なんか……して……ません……」

 ――笑え。
 いつものように。
 今まで何年も何年も繰り返してきた、そしてこれから何年も何十年も繰り返していくのだ。
 だから。
 だから。

「……だって、さゆりは……」

 そして佐祐理は――


「さゆりは、『倉田佐祐理』ですから」

 きっと今まで生きてきた中で、一番上手に笑った。


「佐祐理……さん……?」
「だから佐祐理は、無理なんかしてません」

 今度は祐一が動揺する番だった。
 分からなくなった。
 佐祐理の表情が読めない。
 だって。
 なんて無表情な笑顔――

 祐一が佐祐理の笑顔を前に何を言えばいいのかわからなくなった時、突然3人の傍に黒塗りの高級車が近 づいてきて、停車する。
 中から出てきたのは年齢30過ぎくらいの女性で、祐一達を見て軽く目礼した。

「お嬢様、そろそろ旦那様がご帰宅されるお時間ですので、お早く戻っていただかないと……」
「わかりました。東城さん、わざわざすみません」
「いえいえ……、さ、お早く」
「ちょ……佐祐理さんちょっと待ってくれッ!!」

 佐祐理の方に駆け寄ろうとする祐一を女性は手で制する。
 その隙に佐祐理は車の後部座席に乗り込んだ。

「ちょっと、どいてくれッ!! まだ……話は……!!」
「すみません、佐祐理お嬢様はこれから色々と準備がございまして……御用のほうはまた後日にお願い いたします」

 佐祐理が車に乗り込んだのを見ると、和服の女性もすぐさま後部座席の反対側に乗り込んだ。

「おいッ! ちょっと待ってくれよッ!!」
「佐祐理ッ!!」

 見かねて舞も車に駆け寄る。

 どんっどんっ

 車の窓ガラスを叩く。
 まだ、まだ行かないでくれ――
 そんな祐一の願いが通じたのか、パワーウィンドウは機械音と共にゆっくりと下がっていく。

「佐祐理さん……」
「佐祐理……」
「舞、祐一さん、ごめんなさい。もう行かなくちゃ」
「……もう会えない……のか?」

 祐一の言葉に佐祐理は無言で頷いた。
 舞と祐一は何も言えず押し黙る。
 佐祐理は、何かを振り切るように言葉を押し出す。

「それじゃあ、祐一さん、舞、お元気で……」

 先程と同じようにパワーウィンドウは機械音を立ててゆっくりと上がっていく。


「さ、佐祐理さんッ!!」

 パワーウィンドウが上がりきろうとした寸前、不意に祐一が叫ぶ。

「……何ですか?」

 佐祐理の無感情な声。
 それでいて、酷く震えた声。
 パワーウィンドウは15センチほどの空間を残して止まった。
 外からは中にいる佐祐理の表情までは伺えない。
 だが、なぜか祐一には佐祐理が泣いているようにしか思えなかった。

 ――なんで佐祐理さんが泣かなくちゃならないんだ。
 理不尽な怒りが胸に込み上げる。
 彼女を泣かしたもの全てが憎かった。
 彼女を泣かすような世界が憎かった。
 彼女の涙を止められなかった自分が大嫌いだった。

 何が佐祐理をここまで追い詰めたのか、祐一は知らない。
 だけど、確かなことが、たった一つだけ――


「俺っ、佐祐理さんのことが好きだからっ!!」


「――――ッ!」

 車の中でヒュッと息を呑む音がした。

「絶対、誰よりも好きだからっ……だからっ……俺、諦めないからなっ!! 佐祐理さんのことっ、諦め ないから――」


 中から反応が帰ってくるのを待たずに、パワーウィンドウも上がりきらぬまま、車は砂埃を上げて走って いった。

 祐一は言葉と一緒に魂まで吐き尽してしまったかのように荒い息をつき、佐祐理の乗った車が通りの向こ うに消えていくのをただ見送っていた。舞はそんな祐一の姿を複雑な面持ちで見ている。二人とも一言も発 さず、ただ呆然とその場に立ちつくしていた。

 どれくらいの時間がたっただろうか、太陽が肌を焼く痛みが祐一を現実に引き戻した。その痛みは、先程 この場で演じられた「喜劇」が、丸ごとそのまま現実だったことを祐一に教えていた。
 通りを歩く人々は野次馬根性丸出しに、今まで車が止まっていた場所に立ち尽くす二人を物珍しそうに眺 めていた。セミの鳴き声は相変わらずけたたましく、いつまでたっても鳴き止む様子はない。

 ――夏は、まだ終わらない。
 そう宣言しているように、セミ達は炎天下の空の下、いつも通りに鳴き続けている。



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