運命の日の朝は、思ったよりも普通の朝だった。
 佐祐理の父親、倉田康臣はいつものように緩慢な動作で身体を起こす。
 昔から朝はあまり強いほうではない。仕事の関係で朝早くにどうしてもやらなければいけないことは今ま で数えきれないほどあった。その度に眠い目を擦りつつ働いたものだ。最近でこそそういったことは少なく なってきたが、今でも早起きには慣れない。
 思えば康臣の半生は仕事のためにあったようなものだ。そのために失ったものは数え切れない。
 しかし、それも今日で終わる。
 武田には自分の遣り残したことを全て任せることになる。自分が血の滲むような思いで作り上げた企業も、 そのせいで不幸にしてしまった自分の娘も。

「旦那様、朝食の支度が出来ております」
「ああ、すぐ行く」

 10年以上も倉田の家の面倒を見続けているメイドの東城が呼びに来る。これもいつもの朝の風景だ。
 思えば彼女にも苦労をかけた。
 妻を失ってから子供達とどう付き合っていいか分からなくなった康臣が子供達を任せるために住み込みの メイドとして東城を雇い、それ以来彼女はよく勤めてくれている。息子の一弥を亡くした時も、佐祐理が手 首を切った時も、彼女がいなかったらもっと酷いことになっていたはずだ。情けない自分に代わって母とな り娘を見守っていてくれた彼女にはどれだけ感謝してもしすぎることはない。
 とりあえず普通の服に袖を通し、食堂に向かうことにする。正装しなければならないのは今日の午後だか ら、まだ時間はある。
 食堂に入ると、先に来ていた娘と目が合う。

「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう」

 佐祐理の様子はいつもと変わらない。
 いつも通りの挨拶にいつも通りの笑顔。
 だが、その笑顔もその内に他人の物になってしまうのだと考えると正直平常心ではいられない。
 そんな自分が酷く滑稽に思えて、不意に苦笑してしまう。

「……? お父様、どうしました?」
「はは、いや、なんでもない」

 こんな父親としては落第の自分ですら、すっかり花嫁の父を気取ってしまっていることがおかしくてしょう がなかった。
 幼い頃に一緒に遊んでやったことは無い。娘の宿題を一緒になってやったこともない。家族水入らずで旅行 に行ったこともなければ、一緒にプロ野球の中継も見たこともなかった。

「佐祐理」
「はい?」
「俺は、悪い父親だったな」
「…………」
「俺は、お前に何も残してやれなかった」
「…………」

 佐祐理は何も言わない。
 肯定も否定もしない。

「俺は色んなものを失くしてきた。俺の手にはもう何も残ってはいない。だから、佐祐理。俺にはお前が 幸せになってくれる以外には、もう何も残ってはいないんだ」
「…………」
「幸せになってくれ、佐祐理。これが俺の、お前への最後のお願いだ」

 理不尽な言葉だとは分かっている。
 幸せになってくれなどと、自分が佐祐理にそう言える資格などありはしないことは百も承知だ。
 だが、言わずにはいられなかった。
 例えそれが自分のエゴだと分かっていても。

「……お父様」
「ああ」
「佐祐理は――幸せですよ」

 ――ああ。
 康臣は小さく頷くと、ゆっくりと食堂を後にした。

    ☆   ☆   ☆

 午後になり康臣が一足先に会場に向かうと同時に倉田家のメイドである東城は、今夜のパーティの 主役である佐祐理の支度の手伝いに追われることとなった。

「東城さん、佐祐理のほうはもういいですよ」
「いいえっ! 今日と言う今日はお嬢様の晴れ舞台、ちゃんと準備していただかないとお叱りを受けるのは この私なんですから」
「はいはい」

 佐祐理は東城の熱意に負けたのか、されるがままになっている。

「ふふっ、こうやってお嬢様のドレスをご用意するのは半年振りですねー。あの時は参りましたよ? い きなり『二人分のドレスと、男物のスーツを一着、大至急で用意できませんかっ!?』ですもの」
「ふふっ、あの時は東城さんにご迷惑をかけてしまいましたねー」
「いえいえ、とんでもありません。私の仕事はお嬢様に迷惑をかけられることですから。お嬢様が迷惑をかけ なくなったら私はあっという間に失業してしまいます」

 あははっと二人揃って笑う。

「ほら、お嬢様。見てください、綺麗になりましたよっ」
「うわぁ……」

 ドレスを着て、メイクも済ませた佐祐理は正に完全装備。
 流石の佐祐理も鏡の中の自分を見て思わず溜息をついた。

「ふふっ、まるでお姫様ですねー」

 ――というか、本当にお姫様なんだけどね。
 自分の台詞に自ら突っ込む東城。
 鏡の中のその容姿といい、社会的な立場といい、佐祐理はどこに出してもはずかしくないお姫様である。

「本当にお綺麗ですよー、食べちゃいたいくらい」
「あははーっ、食べちゃ駄目ですよー」
「がおうっがおうっ!」
「きゃーきゃー」
「ふふふっ」
「あははっ」
「…………」
「…………」

 図らずも二人の間に沈黙が生まれる。
 東城は黙って佐祐理の髪を梳き、佐祐理は黙ってされるがままになっている。

「……本当にこんなに可愛くて綺麗なお嬢様が他人の物になってしまうなんてね……」
「…………」
「初めてお会いした時なんか、こーーーんなに小さかったのに」
「…………」
「まったく、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんでしょうねー、このお姫様は」

 やがて、髪を梳き終わる。

「はいっ、出来上がりっ! これでお嬢様は最強の女の子になりました。もう地球上にお嬢様に敵う生物は 存在しません」
「…………」

 もう終わったのに、東城は佐祐理の頭をずっと撫で続けている。
 佐祐理もいつまで経っても鏡の前から動こうとしない。

「お嬢様」
「な、何ですか?」
「不肖、東城まながお嬢様に一つだけアドバイスをして差し上げます。もしもお嬢様にそれを聞く時間の余裕 と度量がおありならば、是非この東城めの戯言をお聞きくださいな」

 東城の瞳は悪戯っぽく輝いている。
 こういう顔が出来るこの人はずるいと佐祐理は心の中で呟き、肯定の意味で首を縦に振る。

「先程お嬢様が他人の物になる、というようなことを言いましたけど、あれはウソです」
「ウソ?」
「そう。真っ赤なウソ。いいですか、お嬢様。本当に素敵な女の人っていうのは、他の誰かのものになる とか、他の誰かに身を預けるとか、そういうことはしないものなんです。いっぱい、いーーーーっぱい、 時間をかけて磨き続けたその人の心も身体も、全てはやっぱりその人自身の物なんですよ」
「その人自身のもの……」
「そうです。とかく人は弱いモノですから、誰かにすがってしまったり、誰かの導くままに歩いていって しまったりしてしまうモノです。なんと言ってもその方が断然楽ですから。でもですね、本当にいい女と いうのは、誰に寄りかからなくても、自分の足だけで毅然としていられるものなんですよ」

 そして佐祐理は鏡を通して、その人が言う「いい女」の見本のような女性を見た。
 強く、そして優しい瞳。
 確かにこの人なら、何に縋る必要も無く自分で選んだ道を、何の後悔も無く鼻歌まじりに歩いていってし まうのだろう。
 ならば、自分は。
 この弱い弱い自分は。
「それじゃあ佐祐理は……佐祐理は『いい女』には……とてもなれそうもないですね……」
「いいえ、お嬢様」

 鏡に映る女性は大きく首を左右に振った。

「お嬢様はきっと――地球上の誰も敵わないぐらいの『いい女』になれますよ。所謂一般の『いい女』で あるこの東城まなが太鼓判を押します」

 そう言って彼女は満面の笑顔で佐祐理を祝福した。
 佐祐理は何かを言おうとしたが、なんだか分からないものが胸に詰まってとても言葉にならなかった。
 この人は佐祐理の弱さも、ずるさも、卑怯な部分も、心の奥に眠らせた想いでさえも、全てを見透かしな がら平然とこんなことを言ってのけるのだ。

「さぁ、もう時間です。ドライバーが待ちくたびれて居眠りしてしまわないうちに、出発してくださいな」
「……はい」

 ぽんと肩を叩いた。
 弾かれるように立ち上がってしまう佐祐理。
 背中を押して東城は佐祐理を急かす。
 佐祐理は東城に押されるままに、やがてドアの前に辿り着いた。

「いってらっしゃい、お嬢様」
「……いってきます。東城さん」

 ドアノブに手をかける。

「あ、そうそう、これは、えーっとですね、これは東城の独り言なんで、あのですね、出来れば聞き流してくれ るとうれしいんですが……」
「…………」
「本当に嫌な時は、逃げ出しちゃえばいいんだと思います。少なくとも私はそうしてきましたし。逃げ出すの だって、時と場合によっては戦略的撤退という立派な作戦の一つであると、東城は愚考しますですよ」

 小さく頷くこともせずに佐祐理は部屋を出て行った。

 そして東城は一人残される。
 主の居ない部屋の真ん中で東城は一人大きな溜息をつき、小さく作った拳骨でコツンと、自分の頭を叩 いた。

    ☆   ☆   ☆

 辺りはもうすっかり日も暮れ、電球の切れ掛かった街灯が道をぼんやりと照らしている。


「――こちら「徳川」。「織田」、応答願う。応答願う。どうぞ」


 少し前と比べてかなり涼しくなった。
 草むらからは、気の早い鈴虫の鳴き声が響いている。


「こちら「織田」。感度良好。どうぞ」


 佐祐理は走る車の中で、先程の東城の話を思い返して一人溜息をついていた。


「たった今「帰蝶」が「姫路城」から車で出て行った。黒いベンツだ。あと30分ほどで「桶狭間」に到着する と思われる。どうぞ」


 倉田康臣はもうすぐ会場に到着するはずの娘を今か今かと待ち続けている。


「オーケー。作戦通りだ。「徳川」は手はず通りに一足先にそこから離脱して「清洲城」へ向かってく れ」


 今日の午後からずっと倉田家の傍に潜んでいた人物は、自分の前を通り過ぎる車を見ながら不敵に 笑う。


「了解。成功を祈っている」


 ピッ。

 相沢祐一は通話を切り、近くで待機している「実行班」に低い声で激を飛ばした。


「さぁ、決戦だっ! みんな、抜かるなよッ!!」



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