倉田家の一人娘・倉田佐祐理を起こすのは10年以上も前からの住み込みのメイドである東城まなの仕 事である。とはいうものの佐祐理はいつも東城が起こしに来る前には起きているのである意味無用なことでは あるのだが。しかし、朝一番に佐祐理の顔を拝見するのは東城にとって最早日課であり、これがないと一日が 始まった気がしないのだ。
 というわけで、今日も佐祐理の部屋のドアをノックする。

「お嬢様、朝ですよーっ!」

 ノックする。
 ノックする。
 ……ん?
 変だ。
 いつもならば朝から笑顔の佐祐理が「おはようございますーっ!」と元気に部屋から出てくるのだが、今日 はウンともスンとも言わない。

「お嬢様ーっ! あ・さ・で・す・よーっ!!」

 少し強めにノックする。
 すると。

 ドタバタドタバタ

 部屋の中から小さな叫び声がしたと思ったら部屋の中で慌しく動き回る物音がする。
 お嬢様も珍しくお寝坊さんですか、と東城はクスッと小さな笑いを漏らす。
 昨夜もかなり遅くまで勉強していたようだし、無理もないだろう。それに――

「かなり過ごしやすくなってきましたからねー」

 窓の外を見ると、真夏の頃のような入道雲はもう何処にも無く、代わりに秋の薄い雲が空に白いカーペット を敷いたように広がっている。射すような日差しもかなり和らぎ、すっかり秋の陽気である。
 この街は夏が過ぎてからが早いのだ。夏が終わったと思ったら、あっという間に秋になり、また長い冬の始ま りだ。
 冬物の準備は早め早めにしておかないと、と東城が今日の家事について考えていると、バッタンとおよそお 嬢様らしくない大きな音を立ててドアが開いた。

「おはようございますっ! ちょっと寝坊してしまいましたっ」

 見るからに慌てて出てきましたという感じの佐祐理の姿を眺める。

「おはようございます、お嬢様」

 にっこり笑顔でご挨拶。
 今日も一日の始まりである。
 佐祐理の頭に小さくついている寝癖は、面白いのでしばらくこのまま放置しておくことにした。


「じゃあ今日のご予定は……」
「そうですねー、午前中は家でお勉強して、昼から街の図書館のほうに行って来ようかと」

 朝食のトーストを齧る。

「いつもの相沢さんとですかー? 相変わらず仲のよろしいことで」

 軽く頬を赤く染め「いや、あの、そんなんじゃ、ないんですよっ?」とか言いながらあたふたしている佐祐 理を見ているのは面白い。いつまでたっても飽きないんだろうなぁ、と東城は朝のコーヒーをいただきながら ご満悦である。
 東城の顔が自然ににやけてきたのを見て佐祐理は、むーという顔をする。

「もうっ、東城さんっ」
「ふふふっ、でもお嬢様。最近お友達が増えたんじゃありませんか? いつも相沢さんと川澄さんだけだった のに、他の方のお名前を聞く機会が増えてきましたし」
「そ、そうそうっ、今日だって祐一さんだけじゃなくて、舞も一緒だし、あと北川くんに久瀬さんに、名雪さん に香里さんだって一緒なんですよっ」
「おー、そんなにいるんですか? 凄いですねー。なんか友達百人くらいできちゃいそうですね、この調子 だと」

 あははははと笑いながら、東城はいつの間にか食べ終わっていた朝食の後片付けを始める。

「……ねぇ、東城さん?」
「はいはい、何ですかー?」
「お父様は……本当にあれで良かったんでしょうか……」

 東城は後片付けの手を止める。

 佐祐理の父・康臣はあの事件の後、自分が今までの人生全てを費やして築き上げた企業グループの経営権全 てを武田に委譲し、自分は引退宣言をした。祐一達が起こした事件は公にこそなりはしなかったが、その責任 を全て康臣一人が背負う格好となったのだ。
 康臣本人は現在それらの残務処理に追われて、今も多忙な日々を送っている。
 佐祐理と康臣が話し合う場は未だに持てていない。

「やっぱり……ちゃんとお話をしたほうがいいんでしょうね」

 ふぅ、と佐祐理は溜息をつく。

「勿論ですよ。お嬢様はお嬢様なりの考えをしっかりお持ちなんだから、それを旦那様に伝えてあげないと。 やっぱり他人の考えてることなんて分からないものですから。それをちゃんと口に出して伝えておくのは、大 事なことです」

 東城は優しく諭すように言った。
 佐祐理はその優しい口調に少し救われたような気持ちになった。

「それに旦那様だってお嬢様のことを誰よりも愛しておいでです。お嬢様が自分のしたいことをちゃんと言えば 旦那様はしっかりと理解してくださると思いますよ。大丈夫! お嬢様は旦那様の娘なんですから! 娘に甘く ない父親なんていませんよっ!」
「うん……そう……ですね。そう、ですよね」
「そうですよっ!」
「はい、わかりました! 今度お父様に会ったらちゃんと言います! 祐一さん達と一緒に大学に行って勉強し たり遊んだりしたいって! 言ってみますっ!」
「そうそう、その意気ですよ!」

 えいえいおー、と気合を入れる。

 ――全くこの親子は。
 そう思わないでもないが、これはこれで微笑ましいからよしとしよう。
 どんなに遠くに見えていても一歩ずつ近づいていくしかないのだ、人と人なんてものは。
 遠慮しあってては始まらない。
 互いに歩み寄る一歩がスタートライン、なのだ。

 はぁ……

 不意に漏れた溜息の発生源は佐祐理だった。

「わたしは――」
「はい?」
「わたしは、もっと早くお父様と話をすれば良かったんです。わたしはこれがしたいんだとか、わたしはこれが ほしいんだとか、お父様に言わなきゃいけなかったんです。だって、黙ってたって気持ちは伝わらないんだか ら。話そうとしないまま自分だけで勝手に勘違いして相手の気持ちを汲み取った気になって……そんなことを 10年以上も繰り返して……いつの間にか相手の気持ちどころか、自分の気持ちすら分からなくなって……」
「お嬢様……」
「わたしは幸せなんだよって……言わなきゃいけなかったんです。わたしはお父様や東城さんや祐一さんや舞 といて、それだけでとってもとっても幸せなんだよって、言わなきゃいけなかったんです。そんなこと……機 械みたいにただ笑ってるだけで伝わるはずなんて、なかったのに……」
「……」

 佐祐理の顔にはいつもの彼女の笑顔は無い。
 しかし、佐祐理は泣かない。

「わたしは、やっぱりちょっと頭の悪い女の子だったみたいです。そんなこと……今更東城さんや祐一さん達 に教えてもらうまでもなく、一弥に……一弥に教えてもらっていたのにね……」

 部屋の隅にはいつもと同じように佐祐理と一弥の写真が置いてある。
 佐祐理はそれを見て、流れ落ちそうになった涙を拭った。

「お嬢様」
「あ、ごめんなさいっ、なんだか愚痴ってしまって……」
「いえいえ、いいんですよ。わたしはお嬢様が愚痴ろうが暴れようが、一緒にいられるだけで幸せなんです から」

 東城はそう言いながら手を止めていた後片付けを再開する。
 部屋の中には皿を洗う音と、歩き回る東城の足音だけが響いていた。

「お嬢様」
「はい、なんですか?」
「今度、旦那様とお嬢様とわたしで、一弥様とお母様のお墓参りに行きませんか? もうお盆の時期は過ぎて しまいましたけど」

 そう言うと東城は振り向いて、極上の笑顔を惜しげもなく佐祐理に献上した。
 家の外では今年最後と思われるセミが夏との別れを惜しむように鳴いている。

「――はいっ!」

 笑顔の花が、咲いた。

Epilogue Y-side
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