「要するにさ、俺たちは自分の能力を誤解して高望みし過ぎてたんだよ」
 ついさっき返ってきた夏前の模試の結果を吟味しながら陽冶が言う。
「現実を見ろってことだ。大体、俺らの親を見ろよ。奴ら自分の遺伝子から俺らが生まれたってことを忘れてやがんだ。自分らの頭の程度を考えりゃ、自分の息子が六大学とか旧帝に行けるなんて恥ずかしくて口にも出せないはずなんだよ」
 陽冶の親の教育熱心ぶりは仲間内では有名な話だ。現役の時も似たようなことを言いながら有名大学を片っ端から玉砕していく陽冶には軽く同情した。その甲斐あってこうして浪人生活に身をやつしている陽冶だが、相変わらずの親の叱咤激励には心底辟易しているらしい。
「まぁ、滑り止めで妥協しなかったお前も悪いけどな」
 とは言わない。というか、言えない。陽冶自身自覚していないかもしれないが、親の繰り返すプロパガンダに軽く洗脳されてる部分が無いとは言えない。その部分には奴のこしらえた地雷があり、そういう部分を避けて通るのが僕なりの優しさであり、人付き合いである。
「今年こそは俺らも現実を見据えてやっていこうぜ。な?」
「ああ」
 僕自身の結果をちらりと見ながら頷いた。現役時代と大して変わらない数値の羅列に、気力も萎える。いや、気力というよりはその前段階である動機づけ――モチベーションの部分での話か。そういう意味でいうなら僕は、確実に去年を下回っている。
「悪いな。もう行くわ」
「ああ、またな」
 僕たちは挨拶もそこそこに別れた。お互いに他人を思いやっている余裕もなければ暇も無い。浪人生にそんな単語は存在しない。陽冶は陽冶で、今回の結果を挽回すべく頑張らなければならないし、僕だってそれは同じだ。
 同じはずなんだけど――

「よっ」
「……こんにちは」
 軽く声をかけても、シオリは決まってつれない態度だ。出会ったばかりの頃を思えば、挨拶を返してもらえるようになっただけでも大した進歩と言えるのかもしれない。一ヶ月くらいの間、それはそれは酷い扱いを受けたものだ。
 僕は彼女の挨拶に満足し、彼女の隣に腰掛ける。
「……なんか普通に隣に座っちゃいますね」
「迷惑なら止めるけど?」
「いえ、もういいです」
 諦めたように溜め息をついて、また先ほどまでと同じようにスケッチブックと向き合うシオリ。僕はそんな彼女の姿をただ見つめている。
 嫌がられてはいない。むしろ嬉しく思ってくれているのが彼女の態度の奥から読み取れる。出会った時の人を寄せ付けない雰囲気はただの飾りで、人との接触に飢えた人恋しさが本当の彼女なのだろう。微妙な表情や仕草からそれを読み取れるくらいには、僕も人生経験を積んでいるつもりだ。
 彼女と出会ってから三ヶ月、僕はほぼ毎日のようにこの公園に来て彼女のスケッチを眺めている。予備校の授業が終われば友人との語らいや居残り自習もそこそこに、僕は早足でこの公園に向かい、彼女の隣に腰掛けて取り留めのない話をしたり、彼女が描く絵をぼんやり眺めたりする。なぜこうするようになったのか、自分でもよく分からない。
「今日は何を描いてんの?」
「見てれば分かります」
「そっか」
 言われた通りに彼女の鉛筆が描き出す微妙なカーブをぼんやりと見る。最初は何が何だかさっぱり分からないが、しばらく時間が経ってみると、それがここから遠くに見える町並みを背景にして烏を描いていることがわかってくる。
「烏かぁ」
「烏です」
 また彼女の絵は上手くなった。美大生か何かなのかとも思っていたが、話を聞いている限りではどうも違うらしい。
「わたしは別に美大生でもデザイン系の専門学校生でもなんでもないですよ。わたしは、ただ暇だからこうやって絵を描いてるだけです」
「暇だからって……もしかして今流行のニートってやつじゃ」
「そんなこという人、嫌いです」
 そんな風にぴしゃりと言われてしまうとこちらとしても黙る他なかった。しかし、その台詞を言う時の彼女はどこか愛嬌があり、僕はその時の彼女を思い出すだけで自然と笑みが溢れてきてしまうのだ。
「何笑ってるんですか」
 あ、やべ。
 微妙に不機嫌そうな彼女の顔が、普段より三割増のアップで僕の視界に写っている。
「い、いや、何も何も」
「何かいやらしい笑いでした」
「そんなことはない、断じて」
「どうせエッチなことでも考えてたんでしょう」
 ぷいっという擬音がぴったりくる感じでそっぽを向いて、彼女はまた鉛筆を走らせ始める。僕はそんな彼女を眺めて、少し前のことを思い出していた。





「君って、年いくつ?」
「女の子に対して貴方はいつもそんなこと聞くんですか」
「いや、互いの紹介の意味合いも兼ねてね」
「嗜みを知った男性のすることとは思えません」
「分かってないなぁ。本当に綺麗な女の人ってのは年齢と共に綺麗になっていくから、むしろ誇りと自負を持って自分の年齢を言うもんなんだぜ」
「……十九です」
 彼女の年齢を素直に吐かせた自分の手腕にもほれぼれしたが、彼女が僕と同じ年齢だってことにまず驚いた。
「じゃあ僕とはタメだ」
「貴方も十九才なんですか?」
「そうだけど何か?」
「見えません」
「どういう意味かな」
「もっと年上かと思ってました」
 悪びれずに彼女は言う。言葉にする時にもうちょっと躊躇いのようなものが見えれば可愛げもあるってもんなのに。だからこそ僕としても反論のし甲斐があったというものなのだが。
「君だって、僕よりもっと年上だと思ってたんだけど?」
 ふふふと笑みを浮かべながら言ってやる。かぁっと顔に血が上っていく様が容易に見て取れる。雪のように白い肌が赤く染まっていくのは、何というか、物凄く目の保養になった。
「ふーん。じゃあ次の質問。通ってた高校は?」
 レポーターのように彼女の前にマイクを突き出す仕草をする。また怒るかなぁと思っていたのに、予想と反して彼女は軽く沈んでいた。地雷を踏んでしまったかと、僕は内心慌てた。
「――ませんでした」
「え?」
「行ってませんでした……高校」
 彼女の口調から察するに、これは相当に大きな地雷だったようだ。僕は慌てて他の話題を脳内検索するが、そうホイホイと話題など思いつくものでもない。
「病気が酷くて、高校行けなかったんです」
 ぽつりと、呟くように彼女が言った。僕は次の話題を探す事も、この話題を続けることも出来ずにただ彼女が独白のように話すのを、ただ聞いていることしか出来なかった。
 彼女が高校生の頃に命にかかわるような大きな病気をしてずっと高校に行けなかったこと。結局一命は取り留めたが高校は途中で止めてしまったこと。一つ一つ思い出していくように彼女は僕に語ってくれた。思い出すことが自分にとって癒しになる場合もあるが、彼女にとってそれは全く逆だった。むしろシオリの場合、思い出すことによって生成されたナイフがぐさぐさと自分の内部に突き刺さっていくような痛みがあるのだと思う。見ていて、痛々しい。
 唐突に、彼女が口調を変えて言った。
「だから、わたしは本当は死んでるはずだったんです」
 口調は明るいのに、どこか焦点を見失ったような目をしていた。大切な回路の一部が切れてしまったかのようなシオリの様子に、僕は背筋を凍らせた。
「だけど、助かったんだろ? 助かったからこうして僕の目の前に君がいるわけだし。助かったからこうして絵を描いていられるんじゃないか」
 そういうとシオリは一瞬ハッとした表情をしたが、すぐに元の状態に戻り、悲しそうに「そうですね」と漏らした。
「君はもっと楽しめばいいんじゃないかな。ほら、色んなことに対してさ。いつまでも過去に縛られてたって何も出来ないし、何にもならないよ」
 僕はまるで自分に言い聞かせるように、似たような意味の言葉を繰り返した。自分が犯してしまった間違いを必死で塗り潰して覆い隠そうとしているかのように。自分がなぜそんなに何かに追い立てられているような気持ちになるのか、自分でも全く理由が見えない。分からない。
「違うんです」
 僕の言葉を遮るように彼女が言った。彼女の目には今までとはどこか違う光が宿り、僕を貫く。
「私の、ここらへん」
 シオリは自らの後頭部の上空を指差した。僕はつられてその部分に目をやるが、当然彼女の指は空を切るばかりで、どんなものもそこには存在してはいなかった。
「私のここらへんに、いるんですよ」
 何が、と僕は聞けなかった。聞けなかったのは彼女の表情が目に入ったせいだ。
「いるんですよ。死んだはずの、私が」
 彼女は笑っていた。
 天使がいるとしたらそんな感じだろうと思わせる安らかな笑顔。ある意味この世のものとは思えない、笑顔。
「私、時々思うんですよ。私は、本当は生きているべきじゃなかったんじゃないか――って」
「そんなこと――」
 ある筈ない、と僕はそう続けるはずだった。
「私が生き残ったことで、死ななきゃいけなかった命があったとしたら」
 不意に空気が冷たくなったような錯覚を覚えた。
「そんなことある筈ないって思います?」
 本当なら僕はそこで首を横に振らなきゃいけなかったのだと思う。だけど僕の身体は持ち主の意志に反してぴくりとも動こうとしなかった。彼女の独白は真理だと、僕の本能に近い部分が身体の自由を奪い去ってしまったような。
 彼女は、続ける。
「あの時死んだはずの、死ななきゃならなかったワタシが言うんです。何度も何度も頭の上で繰り返すんですよ」
 最早彼女の表情に何が浮かんでいるのかも僕には分からない。全ての神経を巻き込んで麻痺してしまったような彼女の陶酔。快でも不快でもなく、僕を締め付けた。
「本当はお前が死ななきゃいけなかったんだ――って」
 ふぅ、と彼女が息を吐いた。途端に辺りの空気が弛緩したような錯覚を覚えた。
「どうして私が絵を描いてるのかって、理由はその辺りにあるんです」
 そう言って彼女はまた自分の頭上を指差した。
 風景が、酷く揺らいだ。
「いつか、私が天国に一番近づけたその瞬間に、きっと私は死ななきゃならなかったワタシを描くことが出来るんじゃないかなって。そんなこと、思ってるんですよ」





 僕の頬を夕焼けの太陽が照らし、不意に僕は現実に引き戻された。僕の隣には彼女がいて、その他には誰もいない、噴水だけが僕らを知っている世界。現実でありながら現実でないような、そんな不安定さに僕は――
「もう、帰ります」
 彼女が画材を片付けながら言う。いつもは手伝っているその作業を、僕は半ば麻痺した感覚で見つめていた。
「なぁ」
 歩いていこうとする彼女を呼び止めてしまったのは僕の意志ではない。したがって何を言うとか、何を聞こうとか、そんな打算はどこにもない。
「シオリの頭の上には、まだ誰かいるのか?」
 予期せず漏れ出した言葉に、彼女は薄く笑った。

「ええ、今でも、ここに」



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