全国平均と比べればかなり短めの夏が過ぎ去り、僕らの街は本格的に秋の、そして冬の支度を始めた。この街に住む者なら、少なからず冬に対する想いは他の街の人と比べて特別なものがあるはずだ。良いや悪いではなく、暮らし易い暮らし難いを越えて、冬は特別な季節だ。もうすぐまたあの冬がやって来ると思うだけで高揚感や寂寥感といった色んな感情がないまぜになり、僕らはまた一つの新たな季節を迎えるのだ。
「そんなこと、ないかな」
「そうですね。確かにそんな感じはあるかも」
 シオリは今もこうして公園にて絵を描いているし、僕はまだ相変わらずシオリの隣で取り留めのない話を続けている。今日は予備校が休みなので、僕はこうして朝も早くから一日中シオリの側にいることが出来るというわけだ。
「あの」
 シオリが遠慮がちに僕に声をかけてきた。こんな事態は割とレアなので、僕は普段よりも丁重な様子で応える。
「何かな」
「貴方って普段何をされてる方なんですか」
 純粋な疑問から生まれたようなその言葉に、思わず僕は座っていたベンチから滑り落ちた。
「わ、人がずっこけるの初めて見ました。漫画みたい」
「あのな」
 単純に感心しているシオリに、僕は僕自身の身の上を事細かく説明した。今年の春の受験に失敗して、この街の駅前にある予備校に通っていること。東京の大学を狙っていて、でも今年は去年ほどの高望みをしていないため、受験自体にはそれほど心配がないこと。
「へぇ、てっきり私は」
「ニートだとでも思ってましたーってか」
「……はい」
 申し訳なさそうに頷く。貶められているのは僕のはずなのに、彼女のそんな様子を見ていると、僕がニートと思われていようがどうでもいいような気持ちになってきた。
「確かに、自分で言うのもなんだけどいっつもいるもんな、僕」
「そうですよ。それじゃニートと思われてもしょうがないですよ」
 僕が軽く同意すると、シオリは鬼の首でも取ったかのような勢いでまくしたてる。シオリには意外と調子の良いところがある。最近になってやっと気付いてきた僕だった。
「でも、去年は何でそんな高望みしてたんですか?」
 罪の無い顔をしてシオリは問う。その様子に些かカチンとくるものが無いわけではなかったが、それほど気にもしていない僕がいることに気付く。春頃の僕だったら確実に致命傷になりえた傷だったのに。段々と過去にすることが出来ている自分に気付いて、僕は少し笑うことが出来た。
「だって貴方って結構要領良さそうだし、」
「いや、大したことじゃないんだ」
 手をぱたぱたと振りながら出来るだけ軽い調子で言う。
「去年の今頃なんだけど、付き合ってた子がいてさ。二人して一緒の大学行こうねーなんて言ってたわけよ」
「へぇ……」
 ちょっと感心したようなシオリが相槌を打つ。僕はよっぽどの社会不適合者だと思われていたのだろうか。ちょっとだけ微妙な気持ちになった。
「でもさ、知っての通り僕は大学に落ちて、彼女の方は首尾よく合格。結局それも気まずくてさ、春頃に別れて、それっきり」
 ごめんね、と言った彼女の顔を思い出す。最近は思い出す回数も減ったのに、久しぶりに思い出した彼女の顔は前にも増して靄がかかったように曖昧だ。
「遠距離恋愛は続かないってよく言うだろ。僕もその言葉くらいは知ってたんだけど、まさか自分の彼女からそんな言葉聞くことになるとは、思わなかったよなぁ……」
 未練たらたら、のようにシオリの目には映っているのだろうか。しかし、僕の方は口に出しているほど彼女のことを引きずっているわけではない。
「結局さ、僕もあの子もお互いにそこまで好き合ってなかったんだと思うんだ。だから、二人のどっちか一方が大学に落ちたくらいのことで関係を切ってしまおうなんて考えられるし、実際に切られた方も、こうしてなんとかやっていけてるんだよ」
 自嘲するように僕は言う。
 確かに彼女との関係の終わりを告げられた時僕はこれ以上ないくらいに落ち込んだし荒れた。恐慌、と言ってもいいのかもしれない。彼女のいない世界なんて要らない、とまで思った。しかし僕は現実にこうして暮らせているし、他の人と話して笑って、朝が来て夜が来て、起きて眠って食べて遊んで。なんのことはない、僕はそんな繰り返しをこうして何とか生きていけている。結局その程度のことだったんだと今なら思える。
「でも――やっぱり好きだったんですね」
 シオリは何の脈絡も無く、優しく笑った。
「……ああ」
 僕は思わず、頷いていた。
 魔力だ、と僕は思った。
 シオリの笑顔には、どこか人を素直にさせてしまうような魔力がある。もしくは、そんな不思議な力を、他ならぬ僕の中にある源泉のようなところから勝手に汲み上げてきてしまう。そんな彼女を、僕は少なからず好ましく思っていた。
「あのさ――」

 ぴくり。

 ほんの僅かな空気の揺れ。その発信源はシオリだった。いや、正確に言えば彼女を揺らしたのは何か他の要因だと思う。しかし、僕がシオリと会うようになってこのかた、こんな空気を出すシオリを、僕は知らない。
「シオリ――?」
「ごめんなさい、今日は帰っていただけませんか」
 シオリの言葉にはどこか有無を言わさぬ迫力があった。それは怒りとも戸惑いとも違う。だが、彼女はまったく弱々しく揺れていた。
 僕は、彼女の言葉に従うことにした。
「わかった。じゃあ、またな」
 はい、とシオリは小さく頷いた。
 僕は立ち上がり何事もなかったかのような空気を装いながらその場を後にした。実際に何も無かったのだが、なぜかそうしなければならないような気がしていた。公園を包む空気は全て彼女と、もう一人の誰かに支配されていて、その他の存在は全てそれに従わなければならないような、そんな気がした。
 噴水のある広場を出る時、髪の長い女の人とすれ違った。僕はなぜかその女の人と、どこかで会ったことがあるような気がしたのだ。





「どうしたんだよ、お前」
 陽冶が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。そりゃ、授業中に三回も指されて三回ともしどろもどろな答えを披露していてはそれも当然か、と思う。
「いや、別にどうもしてないんだけどな」
「最近なんか意識飛んでるって感じだぜ。どうしたんだよ、危ないクスリでもキメてんのか」
 そういえば高校の頃近所の学校によく覚醒剤の売人がやってくるんだ、なんて根も葉も無い噂を耳にしたことがあるなぁ、などと至極どうでもいいことを思い出した。
「いや、勿論キメてない」
 勿論頭にあるのはいるかどうかもわからない売人なんぞのことではない。
 シオリと、そしてあの日すれ違ったあの女のことだ。シオリが急に態度を変えたのは十中八九あの女のせいだ。あの後あの女とシオリがどんな会話を交わしたのかは知らないが、シオリに与えられた影響は絶大だった。あれから一週間経とうという今でもシオリは深くふさぎ込んだままだ。まるで僕と会う前の彼女に戻ってしまったように、いくら声をかけても僕の声では彼女の表面に張り巡らされた幕に遮られてその奥に隠された内面まで届かないのだ。
「――」
 背後から突如かけられた声に、僕は内心飛び上がらんばかりに驚いた。
「は、はい!」
 予備校でも指折りの教師が、僕の後ろで右の眉を吊り上げながら立っていた。先ほど僕を三回指名して三回もの屈辱を与えた張本人でもある。ふと自分の右側を見ると、陽冶はもう自習の態勢に入っていて我関せず、だった。
「今日三回も指名してしまったお詫びに、一つ頼みたいことがあるんだが」
 それは世間一般ではお詫びとは言わない。
 言わないのだが、僕は仕方なく首を縦に振った。





 両手に余るプリントの束を抱えて、僕はやっとのことで予備校の三階の隅にある資料室に入った。要するにあの先生の言いたいことは「最近お前はたるんどる。受験も近いんだから気合入れろたわけ。ついでにプリント運べ、コラ」ということだった。単純明快この上ない。まぁ、長ったらしい説教というオプションが付いてこないだけ僕にとってはありがたいのだが。
「このプリントは……っと。ここか」
 電灯を付けても薄暗い資料室を手探りで探して、なんとか目的の場所らしきものを発見した。手にしたクソ重いプリントを手放そうとしたその時――
「ぶわっ」
 棚の上から書類らしきものがどさどさどさどさ落ちてきた。両手を塞がれて無防備な僕はそのなだれを一身に受ける羽目になった。あたりに充満していた埃が舞い上がり、僕はたまらずに咳き込んだ。辺りを舞い踊る埃が落ち着いた頃、床には散らばったプリントや書類の残骸、僕はめでたく埃まみれ。僕は、つきたくもないため息をついた。
「ったく、こんなこと生徒にやらせんじゃ――」
 片付けようとした僕の目に飛び込んだのは、一冊の書類ファイルだった。その他の年代物の書類に比べてこの一冊だけは妙に新しい。僕は何か惹かれるものを感じてそれを手に取る。中身は……何のことはない、ただの生徒の管理簿だった。
 どうせここまで荒れてしまえば同じ、と僕は腹を据えて生徒名簿らしきものをぱらぱらとめくってみる。よくよく眺めてみると生徒の特徴や指導方針なんかも書かれていて、ちょっとした予備校生の指導記録のような体裁をとっているようだった。よくよく眺めてみると、意外にも知った名前や高校名が多いことに気付く。
「――って、そりゃ当たり前か。この辺でまともな予備校なんて、ここくらいしかないもんな」
 つまり、身分不相応な大学を志して、見事一年目の夢に敗れた受験戦争の敗残兵を一挙に預かるのがここの役目ということだ。下手な高校をあたるよりはよほどこの辺りの高校生の情報を掴めそうだ。
 そして今僕がめくっているのはちょうど去年の記録らしい。当然のことながら、自分の高校の先輩で予備校に通っていた人などは多いため、意外と知っている名前ばかりだ。まぁ狭い街だし、当然と言えば当然か。
「――ん?」
 ぱらぱらとめくっている内に、僕の目は一つのページに釘付けになった。
 そのページにはほとんど記述が無い。普通の生徒なら指導方針や特徴、得意分野や苦手分野までびっしりと教師達の手垢にまみれた記述で埋め尽くされているというのに、その生徒のところだけ何も記述がないのだ。かろうじて記述があるのは名前と出身高校名くらいなのだが――
 そこにあったのは、僕が高校にいた頃から聞き覚えのある名前だった。

“美坂香里”



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