雪の降りしきる公園の中、僕は身じろぎもせずにずっと彼女を待ち続けた。傍らにはあの日彼女が置いていったスケッチブックと彼女の画材道具がある。
 もう来ないんじゃないかという自問自答はもう何度も繰り返した。でも、僕は彼女に会わなければならない。彼女だってそれは同じはずだ。もしも彼女が僕の想像通りの存在だったとしたら、彼女は僕が持っているスケッチブックをどうしても取り戻さなければならないはずなんだ。もう一度彼女は僕に会わなければならない。これは僕の絶対の確信だった。
 僕の腕が何の予期もなくぶるりと震えた。
 考えてみれば、今年の春に彼女と出会ってから、もうすぐ一年が経とうとしている。よくよく振り返るまでもなく、彼女とは一年程度の付き合いなのだ。大した長さの付き合いじゃない。暇な時にこの公園に来て、中身の無い会話を交わす程度。その程度なのに、僕は彼女のことをきっと誰よりも深く理解しようとしたという自負がある。この一年間、僕の十九歳の一年間は紛れもなく彼女――美坂シオリと共にあったのだ。
「――君だろ?」
 びくっとした気配は目を閉じていても分かった。僕はゆっくりと目を開ける。
 そこには、トレードマークのストールを羽織っていない、まるで別人のような空気を纏った美坂シオリがいた。いや――
「これ、返すよ。君の――妹さんの物だろう?」
 美坂香里は、こくりと、頷いた。
「よくよく思い返してみたら僕は、妹さん――美坂栞のことは見たことくらいあるんだよ。恥ずかしい話で、家で埃かぶってた卒業アルバムの嵌め込み写真を見るまでは思い出せなかったけどね」
 まぁ思い出せなかったのも無理はない、と自己弁護しておこう。美坂栞は入学式を最後に、それからずっと高校には来なかったのだから。
「まさか亡くなってたなんて思いもしなかったよ」
 痛い沈黙が僕らの間に流れる。
「美坂栞さんが亡くなっていることを知ってから、色々調べたんだ」
 僕と約一年間もの間、会話を交わして絵を描き続けた彼女が幽霊なんかであるはずはない。もしも美坂栞が亡くなっていたのだとしたら、僕の知ってる彼女は美坂栞ではない別の誰かである、というのは至極当然の帰結だ。予備校の資料室で見た美坂香里の帳簿もヒントの一つにはなったが、僕がそれと断じた要因は別にある。
 僕は、続けた。
「実はこの前、君の所に来てた長い髪の女の人と話をする機会があったんだ」
 正確には、墓地から帰る途中の彼女を捕まえて、全ての事情を聞き出した。
「彼女の名前は、水瀬名雪――君の高校時代の親友だ。水瀬先輩も、一年間ずっと君と一緒にいた男のことは知っていたみたいでさ、僕も彼女の力になりたいんだって言ったら、全て教えてくれたんだ」
 水瀬先輩は、想像していたよりもずっと物腰の柔らかい人で、ほぼ初対面の僕に対しても礼儀正しく、全ての事情を話してくれたのだ。そして――
「君の学年のアルバムを見せてもらったら全て分かったよ。髪形――随分変えてしまったんだね」
 高校の頃の彼女は今のような黒髪ストレートのショートボブではなく、少し明るめのブラウンにロング、ソバージュっぽいパーマ。全体的に今よりもずっと大人っぽい印象の美人だった。どうして彼女がそこまでの大変身を遂げなければならなかったのか、僕には大体の推測はついている。
 だが、僕にはもうこれ以上言うべきことは何も無い。彼女が自分の名前を偽っていたことに対して僕は文句を言える立場にはない。言ってしまえば、ここでこうして彼女の素性を調べたことだって、ただの友達としての範疇を越えた行為であることは間違いないのだ。
 だが、僕は踏み込んだ。
 彼女の中にある地雷原に。

 ――助けて、ください。

 僕は彼女を助けたかった。
 彼女の前を遮る全てのものを取っ払って、前を向いて生きてほしかった。あの声を聞いてしまった者の最低限の義務と責任において。
 僕は、彼女に手を差し伸べた。
 次は、君の番だ。

「名雪と……会ったのね」
 ぽつりと。
 今までの声のトーンではない。おそらくこれが本当の彼女の――美坂香里の声。
「ああ」
 僕は慎重に頷いた。
「髪型は、卒業してから変えたのよ。あの子はいつも、こんな髪型にしてたから」
 短く切り揃えられた髪を右手で弄りながら、香里は寂しそうに言った。





「あの子が……栞が死んだのはちょうど2年前だったわ」
 香里は思い出すように空を仰ぎながら言った。
「今日みたいに雪が降っていて、もうすぐ春だっていうのにやたら寒くて、そんな夜にあの子は静かに生きるのを止めたの」
 香里はそれを死んだとは言わなかった。生きるのを止めたとはどういうことなのか、見ていない僕には想像するしかない。
「私はあの子のことをずっと無視したわ。あの子が高校に入ってからすぐ学校に行けなくなって、定期入院の間隔が徐々に狭まっていって、ついに医者ですらあの子を治す事を諦めた。そんな時私はあの子のことを見ることをやめたの」
 僕に口を挟む余地は無い。
 香里は続ける。
「もうすぐ死んでしまうあの子を見ているのは忍びなかった……私にとってあの子を見るってことは、死そのものを直に見るようなものだったわ。あの子が笑っていても泣いていても喜んでいても怒っていても、何をしてても私はそれを“死”としか見ることが出来なくなった。だから、私はあの子を見ることをやめた」
 香里は話しながら脇に置いた美坂栞のスケッチブックを片手で弄ぶ。彼女の話が確かならば、そのスケッチブックにさえも香里にとっての“死”が染み付いている。僕は背筋を震わせた。
「あの子は絵を描くことが好きだったの」香里はスケッチブックを手に取った。「貴方は、中を見た?」
「――ああ」僕は正直に答えた。
「途中からやけに上手くなってるなと思ったよ。妹さんは絵が――あんまり上手くなかったんだな」
 正直な話、最初の方の絵は見れたものじゃない。前衛芸術だと言われたらそのまま納得してしまいそうなくらいにはサイケデリックだった。
「正直に言うわね」
「正直なのが僕の美点だと思ってる」
 ふふっと、香里は僅かに表情を緩めた。
「私があの子を無視し始める前、あの子の誕生日に贈ったのがそのスケッチブックと画材だったの」
「うん」
「あの子、馬鹿みたいに喜んでね……その日から絵を描くのに前以上に夢中になったわ。そんな調子じゃすぐに無くなってしまうわよって言ってもあの子は聞かなくて、そしたらまたプレゼントしてください、なんて、勝手なこと言って……」
 香里の言葉に段々と涙が混じり始めた。
「香里は、なぜ絵を描くようになったんだ?」
 僕は敢えて核心に触れる。
 核心はいつも心の柔らかい部分に巣食って、容易には触れられない。触れられない部分に触れるにはこちらにも踏み込まれるだけの覚悟がいる。そう、思っていた。
「私……あの子に謝りたかった……」
 もう涙を隠そうともせずに香里は悲痛な声で搾り出すように言った。
「ここらへんに」香里は唐突に自分の後頭部の上空を指差した。「死んだはずの自分がいるんだって、話した事あったでしょ?」
「ああ」
「あれは、本当のことなの」
 香里の瞳が狂気を帯びる。
「私のここらへんに、あの日死んだはずのあの子が、姉への失望と無念を遺して死んでいくしかなかった美坂栞が、いるのよ」
 空気が途端に冷たく凍りつく。
「そんなこと、あるはずない」
「私も、そう思ったわ。でもね」
 香里は最早顔を上げていられなくなり、自らの膝の間に顔を埋める。まるで肩の上に乗っかっている何かが重くてしょうがないとでも言わんばかりに。
「私の中のあの子が言うのよ。本当に死ななきゃいけなかったのはお前だ、お前が消えなければならなかったんだって……!」
 僕は何の誇張もなく戦慄した。
 彼女があの日言っていたことに嘘偽りなど一つも無かったのだと。全てが現実で全てがリアルで、まるで真綿で首を絞められるような甘美な呪いで、妹が死んだ瞬間から今まで、一秒も休むことなくその身を苛まれ続けたのだと。
「だから、私はあの子になって、あの子が生きていればそうしたように、毎日毎日絵を描き続けたの。あの子の名前にあの子の服装、あの子の髪型……思いつくことは何でもやったわ……」
 だから、彼女は“美坂シオリ”となった。ある日美坂栞が生きる事を止めたように、美坂香里も同じように“美坂香里”であることを止めたのだ。
「私もいつかあの子とお同じように、天に召される日は必ずやってくるわ。それまでに私はあの子の姿を、私の頭の上にいるあの子を描いてあげなくちゃ、ならなかったの……」
 僕にはもう何も彼女に言うべき言葉は何も無い。
 誰にだって心の奥底に触れられてはいけない何かを飼っている。それに触れるにはそれ相応の覚悟がいる。
 だけど、そうじゃないって彼女を見ていて僕は分かった。
 人が、同じように作られた人を救うなんて大それたことは出来やしない。
 僕らに出来る事は本当に些細なことでしかない。
 例えばそう、川の流れを歪めている大きな石を動かして、また美しい川の流れを取り戻せるようにするための手助け。いや、手助けすらも出来ないかもしれない。僕らはただ応援することしか出来ない。
 頑張れ。
 頑張れ、と。
 作業を終えて川から上がった時に、冷たく凍えた手を握ってそっと暖めてやること。
 僕らには、そのくらいしか出来ないんだ。
 そのくらいのことに、覚悟なんて必要ない。
 必要なのは――
「香里――このページを見てよ」
「……?」
 それは彼女が最後に描いた幼い姉妹の絵。
 きっと、誰にでもあったはずの、幼き日の夢。
「笑ってるだろ?」
 僕がそう言うと彼女は自分の描いた絵が信じられないとでも言うように、食い入るように見つめる。絵の中の姉妹は確かに笑っていた。
「それが、君と妹さんだよ」
 必要なのは――決して覚悟なんかではない。
 そんな大層なものを持って来たって、決して人なんか救えやしないし、元々僕らの力で出来ることなんかほんの僅かなことなのだ。
「君は、やっと“シオリ”を描くことが出来たんだ。それで、いいじゃないか」

 彼女の瞳には抑え切れない感情が渦巻いていて、どこか決壊する場所を探している。

 いいぜ。
 全部流してしまえ。
 全て押し流して、ぶっ壊してしまえ。
 時間はかかるかもしれないが、流れはいつか元に戻る。
 それは、僕らが還るべき場所を知っているからだ。
 僕らは未来へ還っていく。
 その道中、過去なんて厄介極まりない置石なんかに阻まれて、流れを止めてしまうなんて、こんなにもったいないことはない。
 過去なんて、色んな物に削られて、真ん丸くなるから美しいんだ。

 涙が流れて、川となる。
 僕はその様子を、いつまでも泣き止まない香里を胸に抱きしめながら、いつまでも眺めていた。



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