ターフを駆ける駿馬のような速さで高校生活最後の一学期は過ぎ去り、古来より進学を志す学生の間で天王山と呼ばれる夏期休暇がやって来た。その前から少しずつ盛り上がりを見せ始めていたセミの合唱は今まさに最高潮を迎え、空に浮かんだ入道雲は天を破らんばかりに伸び盛り、俺はといえば、休暇だというのに実家にも帰らず寮の自室にて胡乱な毎日を過ごしていた。実家に帰らなかったのは、帰る家のない友人を慮ってのことだったが、単に帰る理由が見つからなかったからでもある。幸いというかなんというか、相部屋の級友も帰省したため寮の自室は俺だけの城と化していたし、どうせごろごろ過ごすのであれば、気兼ねのない方が望ましい。
 ともあれ、そんな経緯もあって、高校生活最後の夏をぐだくだと過ごしていた俺だったが、その平穏は、部屋のドアをノックもせずに豪快にぶち開けた一人の馬鹿によって脆くも崩れさった。
「よぉ、暇そうだな!」
「喧嘩売りに来たのか?」
 今なら二束三文で買ってやらんでもない。
 ぐでんと寝転がっていた俺はのそりと上半身を起こすと、玄関先には仁王立ちする馬鹿の代名詞のような男がいた。ケインコスギはともかく、なかやまきんにくんの筋肉はなんか違うと豪語する十八才、井ノ原真人である。
「いやいや、ここでお前とリアルファイトするほどオレもヒマじゃあねぇ」
「ほう、ならば何の用だ」
「いや、夏期講習とやらで理樹が遊んでくれなくてよ。何もすることがないから来てみた」
「一般的にはそれをヒマだから来たと表現するのだと思うぞ」
 とは言え、自分もいい加減退屈していたところだ。ここらで一つ馬鹿の相手でもして憂さを晴らすのもいいだろう――と、ふと奴の足元にある大きな包みが目に止まった。
「なんだ、お前どこかに行くのか?」
「へへ、まあな」
「だったらこんなところで油売ってないで、とっとと行くといい。今なら走れば特急にも間に合うだろう」
 またごろんと寝転がり、さっさと行け馬鹿とばかりに手をひらひら振ってやる。すると真人は心底不思議そうな声で「ん? 謙吾、お前何言ってるんだ?」と抜かした。
「いや、お前は今から一人で旅行に行くんだろ?」
「はぁ? なんでオレが一人で旅行に行かなきゃいけねえんだよ」
「だってお前その荷物」
 ああ、と何かを了解したかのような口ぶりで、真人は背後からもう一つ、同じくらい大きな荷物を取り出した。
「どうやら誤解があるようだな、謙吾っち」
「誤解てお前」
「第一に、オレは旅行には行くが電車は使わない。第二に、オレには連れがいる。第三に、その連れはお前」
 疑問を差し挟む隙もなく片方の荷物を投げられた。両手でそれを掴んだら意外と軽く、逆に驚いた。肩紐の隙間で真人が実に楽しそうに笑っていた。窓枠あたりに止まっていたセミが、じーこじーじこじじこじこと鳴き始める。予感めいたものが頭を掠める。つられるように唇をにやりと歪めた。
 俺たちの夏の始まりだった。










夏の始まり、借り物の自転車で目指したどこか。










 まず、どこへ行くにしても足は必要なんじゃないかという話になり、寮に放置された持ち主不明の自転車を二台拝借することにした。何の変哲もないママチャリ。前籠が多少凹んでいる。何の問題もなかった。
「で、どこへ行くんだ?」
 そう言うとよさ気な場所があるんだ、と馬鹿が言った。
「結構山奥なんだけどよ、昔よく連れてってもらった村があんだよ」
「ほう。で、どこにあるんだ?」
「とりあえず県はいくつかまたいだな」
 にやりと笑う筋肉馬鹿。なぜかカチンときた。
「よし、行ってやろうじゃないか」
「後悔すんなよ、謙吾。部活引退して鈍ったお前には、少々荷が重いぜ?」
「まるで、日頃から鍛えている自分は全く問題ありませんとでも言いたげだな」
「そりゃこういう時のために鍛えた筋肉だからな!」
 ふざけんな馬鹿野郎お前になんか死んでも負けるかという意味を込めて、真人の自転車の後輪を後ろ足で蹴飛ばした。脇の側溝にはまって豪快に弾け飛ぶ馬鹿。それ見たことかと、ここぞとばかりに笑い飛ばした。前方には鮮やかな青空と雲に隠れたまだ見ぬ山岳。
「てめぇやりやがったなこのやるぅおおおぉぉぉ――――――っ!! まちやがれあああぁぁぁ――――――っ!!!」
「かっかっかっかっか!」
 誰が待つか、という話である。

 夏の太陽には容赦というものがなかった。見知った街路を走っているくらいの頃はよかったが、段々と知らない地名が増えてくるにつれ、俺達の口数はみるみる少なくなった。ぶっちゃけ、バテていた。脇道で見つけたデイリーに入ってたっぷり涼んだ後、飲料と冷えピタを買った。額と首の後ろと腋の下に貼った。
「おおおっ、ひんやりするぜっ!」
 十分くらいは幸せだったがすぐにぬるくなった。
「さらばだ!」
 今やぬるピタと化したそれを、道の脇に立っていたお地蔵様の顔中に貼り付け、俺達は山へと急いだ。

 下らないことを大声で笑いあい、時にリアルファイトも交えつつペダルを踏んでいる内に日は沈んだ。大きな道を外れた所に寂れた神社があったので、今日の所はそこで一夜を明かすことにした。その辺で拾ったムシキングのカードを賽銭がわりに社に置き、持ってきた薄っぺらい毛布を準備した。
「まぁこんなものでもないよりはマシか……っておい」
「ふっ! ふっ! ふっ! 筋肉! 筋肉!」
 空き缶を腹筋中の奴の脳天に投擲し、寝た。
「なぁ謙吾、起きたらなぜか後頭部が酷く痛むんだが」
「知らん」



 自転車から見える風景に人里の気配が途絶え、走路も徐々にけもの道のようになっていき、それでも道の脇を走っている線路のおかげで俺達はなんとか進んでいくことができた。
「あれに沿っていけばなんとかなるんじゃね?」
 言い出しっぺは無責任なほどに楽観的だったが、なんとかならなかったらならなかったで別に構わなかった。見つからなかったら、他の場所を目指せばいい。もとより、何か特別な目的があるわけではない。目的地に辿り着かなかったからといって、それが一体何なのだろうか。俺達の足元にレールなど敷かれてはいないのだ。
「真人」
「なんだよ」
「あとどのくらいだ?」
「正確にはわかんねぇけど、かなり近くまでは来てると思うぜ」
 真人が言うには、もうすぐ駅に着くからそこから出てる電車に乗ればすぐだという。だったら最初から電車で来れば良かったんじゃないかと思ったりもしたが、まあ、それを言うのは無粋というものだろう。
 古びたワイヤーがギシギシと軋んでいる。昨日今日でずいぶん痛んだような気がする。真人の言葉が正しければ、ゴールはもうすぐそこだ。もう少しだけもってくれよと、昨日からの相棒の無事を祈りつつ、一心不乱に踏み締める。

 その建物の屋根が木々の隙間からちらりと見えた瞬間、俺達は快哉をあげた。
「いやっほ――――――うっ!!」
 自転車の上で跳ね回り、ハイタッチをした。
 しかし、近づくにつれ、徐々に異変に気付く。建物はびっしりと蔦に覆われていて、周囲に人のいる気配はどこにもない。建物の脇に自転車を乗り捨て、二人して中に駆け込む。駅員や券売機どころか、路線図すら見当たらない。そこら中に蜘蛛の巣が張り巡らされ、人がいた頃の名残は全て埃で覆い隠されているようにも見えた。
「廃線……か?」
 俺達は脇を走る線路を頼りにここまで走って来たが、今思い返すと、ある場所を境に電車が走るのを目にしていないように思えた。
 少し中を探してみると、廃線を告知した文書はすぐに見つかった。それによると、この駅が閉鎖されたのは七、八年前のことだったらしい。そして――
「真人、どうする?」
 俺は真人の方を見ずにそう言った。この小旅行は真人によって始められたものだから、判断は真人に委ねられるべきだと思った。
「……とりあえず今日はここに泊まろうぜ。中は埃まるけでとても居られたもんじゃねぇけど、外にあったベンチならなんとか寝られそうだしよ」
「そうだな」
 外は既にうっすらと夜に覆われ始めていた。セミの鳴き声がずいぶん遠くに聞こえていた。真人に反対する理由はどこにもなかった。




 翌朝、頬に当たる太陽の光で目が覚めた。朝露に湿った林の匂いが風に運ばれてきた。
 隣のベンチは既にもぬけの空だった。真人がどこかに消えてしまったのではないかと、慌てて辺りを見回してから、急に馬鹿らしくなった。朝飯を調達しに行ったとしても、真人が自分一人でどこかへ行ってしまったとしても、どちらにしても同じことだ。心配は要らない。だからこそ、余計に馬鹿らしくなった。
 ごろりとベンチに横になると建物のひさしの向こうに空が見えた。透き通るような青空。悔しくなるくらいの快晴だった。

 俺が目を覚ましてから三十分くらいして、真人が戻ってきた。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっとな」
 そう言って真人は手に持っていたビニール袋からどさどさとコンビニおにぎりを落とした。
「とりあえず食おうぜ」
「ああ」
 どちらからともなくおにぎりに手を伸ばす。部活をやっていた頃はいつもこれだったな、と不意に懐かしくなった。不器用に包装を破いてかぶりつくと、やけに塩辛い鮭の味がした。

「これから、どうする」
 三個目のおにぎりの包装を破きながら、なんでもないことのように口にした。真人はあぐあぐと梅おにぎり一気食いに挑戦していた。
 ここで終わりにして帰るのも、それはそれで悪くないような気がしていた。寮では夏期講習で昼間全て缶詰になっている皆が心配しているだろうし、もう少し経てば、俺達より一年先に都会で就職した恭介だって戻ってくる。
「もう、戻るか」
 俺は三個目のおにぎりに手を伸ばした。しぐれこんぶ。あまり好んでは選ばない味だ。
「これ買いに行く時によ、店にいたおっちゃんに道、聞いて来たんだわ」
 かじりつくと、しぐれはほんの少ししか入っていない、詐欺みたいなおにぎりだった。
「道路沿いに行けばその近くまでは行けるらしいんだけどよ、山道だし、やっぱチャリだとキツイらしいぜ。道筋的にはかなり遠回りになるらしいしよ」
「だろうな」
「でもよ、山の中突っ切る一番近い道が一つだけあるんだとさ。ただし、もう自転車は使えねえ。でもうまくすりゃ昼過ぎには着けるとさ。で……どうする?」
「まぁ、道があるなら行くが……肝心の道って一体何だ?」
 真人はにやりと笑って立ち上がり、昔は駅だったらしき廃墟の奥を指差した。



 草はぼうぼう、レールはさびさび。使われなくなってから何年経ったかもわからないような廃線を道しるべに、俺達は歩いていた。
「あぢぃ〜」
 隣を歩く相棒からは泣き言のようなうめき声が聞こえてきた。線路を取り囲むように生えた木々の隙間から太陽が完全に顔を出してからは地獄だった。森の奥へうねるように延びていく線路、頭のてっぺんを焼く日差し、森の匂い。
「真人、あとどのくらいだ?」
「さっき二つ目の廃駅越えたし、もうちょっとだと思うぜー……つーか謙吾、まだ飲みモンあるか?」
「ほら」
 小さくまとめたナップサックの中からほんの少し残ったアクエリを取り出し、投げる。
「サンキュー」
「もうそれ全部飲んでいいぞ」
 まだ飲んでいないものが何本かあったはずだ。帰りのことを考えてもなんとかなる……はずだ。自信はないが。
「ま、なんとかなるだろう」
 俺はこんなに楽天的な人間だったろうか。まぁ、真人と二人でこんな旅に出ている時点で既に楽天的な人間ではないとは言い難いだろうが。そんな自分は、実はそんなに嫌いではない。

 三つ目の廃駅に辿り着き、線路の道しるべはここで途絶えていた。つまり、ここが終点ということだ。
「本当はここからバスに乗るはずだったんだけどな」
「どうするんだ、ここから」
「こっちだ」
 意外にも真人は迷いない足取りで獣道を登っていく。駅舎を越えて、今まで歩いてきた錆び付いた線路は段々遠くなっていった。
 時間にして三十分くらい登っただろうか。木々の波が途切れ、少し開けた場所に出た。
 眼下に広がっていたのは一面の湖のような場所だった。周囲を山に囲まれ、水面と木々の間には茶色の岩肌が見えていた。左手にはいくつもの管と管制塔のような建造物、それに堤防。
「着いたな」
「ここが?」
「ああ、昔俺がよく連れて行ってもらってた村。ここが、そうだ」
 どれだけ目を凝らしても湖底にそれらしきものは見えない。それに、湖底まで見渡せるほど、この湖の水は澄んでいるようには見えなかった。
「まぁ、実は知ってたんだけどよ」
 そんな気がしていた。なら、最初からそう言えば良かったんじゃないのか、とは言えなかった。言ってもしょうがないことだし、言われていたからといってどうなることでもなかったと思う。どんな風に言われようと俺はこの馬鹿に付き合ってここまで来ていただろう。それだけは確かだ。
 真人は地面に座ってあぐらをかいた。俺も奴の隣でそれに倣う。
「話だけは聞いてたんだけどよ、じぃちゃんもばぁちゃんもそれより前に死んじまってたし。あの村ダムになるんだって聞いてもふーんとしか思わなかったし。だから、ここに来ることもなかった」
 風が吹いた時、眼下で水が流れる音が聞こえた。堤防の一箇所から激しく水が流れ出していた。気付かないうちに放流が始まっていたらしい。少し身体を乗り出して見る。光が水しぶきに弾かれて虹色に輝いていた。
「一回くらい見に来なくちゃな、とは思ってたんだぜ。だから、今年は来れてよかった」
「ふん」
 真人の背中がなぜか小さく見えた。らしくないなと思いながら、幼少の頃からのこの陽気な友人は本質的にこんな部分を隠し持っていることも、実は知っていた。
「謙吾」
「なんだ?」
「ありがとな」
「何言い出すんだ、キモい」
「お前……人がせっかくいいこと言おうと思ってたのに、キモいはねえだろキモいは!」
「ふふははは!」
「笑うんじゃねえ!」
 笑いながら殴り合い、少ない体力を無駄に消費した。
 実は、あいつが何を言いたいかはわかるような気がしていた。ただ、理解していようとも、それを相手に素直に表現するかどうかはまた別問題だ。
「お前は大学行ってまた剣道続けるんだろ?」
「さぁな」
 考えてない、と言った方が正しい。
 夏の総体予選の結果は芳しくはなかったが、今までの実績を元にそれなりの推薦は来ていた。まだどこの学校にも返事はしていない。そもそも大学に行くかどうかすら、まだ俺は決めきれていなかった。
「俺は進学はしねぇぜ」
「あぁ、前から言ってたな」
「家業の修行に入らなきゃなんねぇから、お前らと遊べるのも今年の夏が最後かもな」
 足下の石を拾い、立ち上がって助走を取り、思い切り湖に向けて投げ込んだ。石はみるみる小さくなり、眼下へと消えていった。湖に届いたかどうかは分からない。届いていればいいなとも、思わなかった。
「なぁ」
「ん? なんだよ」
「この旅行は、一体何だったんだ?」
 思わず聞いてしまっていた。大きな意味を持つようで、そうでなくて、ただ村を沈めたダムから流れ出す水流が綺麗で。
「さぁ、何なんだろうな」
「おい、お前がここに来たかったんじゃなかったのか」
「バーカ、そんなの大した理由なんてねえよ。ヒマだったからってことでいいんじゃねえの?」
「いいのか?」
「そんなもんだろ」
「そうか」
 生きていくのに意味なんて必要ないことは、きっと俺たちが一番よく知っている。ここにこうしていることさえ俺たちにしてみれば奇蹟のようなもので、だからこそ俺たちは、日々を大切に生きなさいとか、そんなお題目めいたこととは無縁でいられた。ここまでなんとか続いてきたものは、これからもきっと続いていくし、続けていかなくてはいけないもので、きっとどう抗おうとも続いていってしまうものなのだろうと、俺たちは知っていたからだ。どこかで知らないうちに何かが終わって、また始まるまでの間の暇潰し。
「さぁ、戻るか」
「ああ」
 そう言って俺たちは湖に背を向けた。さよならとも、またねとも違う気がした。
 俺たちは器用に来た道をするすると降りていった。夏の日差しは木々に遮られて俺たちのいる獣道まで届かなかった。ここを下り終えればまた灼熱の太陽と錆び付いた線路との闘いが始まるかと思うとげんなりしたが、それはそれで楽しいような気がした。下りは十分もかからなかった気がする。木々の間から眩い光が溢れている。俺たちは我先にとその向こうへ駆けて行った。帰り道は線路が教えてくれる。
 俺たちの夏は、まだ始まったばかりだった。













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