「じゃあね理樹くんっ! 先に行ってるからねーっ!」
 小毬さんは机の上に置いておいた鞄を掴んで、そのまま走り出す。右腕を頭上でぶんぶん振り回しながら、小毬さんは教室から飛び出していった。飛び出した先の廊下数メートルあたりで誰かとぶつかりそうになって「ほわあぁっ!」と情けない叫び声を上げているのも、いつも通りの風景だ。
「ふぅ……」
 小毬さんが日直の相方に逃げられ(これもいつものことだ)泣きながら仕事をしているのを見かねて手伝っていたら、予想通り遅くなってしまった。性分なのか、頼まれていないことまでやってしまうのが小毬さんだ。わかってはいるが、そりゃため息も出るというものだ。
 さっさと荷物を片してグラウンドに行こうとしたその時。
「――あれ?」
 小毬さんの机から何かノートのようなものがちょろんと頭を覗かせているのを見つけた。
 小毬さんは毎日きちんと予復習をするため、机に文具類を残していくことはない。よって、これは小毬さんがうっかり忘れていったノートということになる。
 折角気付いたのに知らんふりをしていくのも不義理だろう。どうせなら持って行ってあげようとそのノートを手にとった瞬間、ぎょっとした。
 黒い。
 元から黒いのか、普通のノートを真っ黒に塗り潰したのかはわからないが、とにかく黒い。これに名前を書かれるとその人は死にます、なノートと言われたら思わず信じてしまいそうだ。
 僕の脳内でびーよんびーよん警報が鳴っている。
 これはおそらく他人が見てはいけない類のノートだ。不思議なもので、そう思えば思うほど、ページをめくりたいという衝動は高まっていく。ノートを手にしたまま、しばし固まる。
「よし」
 自分を鼓舞するように一声あげて、鞄の口を開く。
 しまう。
 口を閉じる。
「完了」
 そう、これは寮で勉強する時に小毬さんが困らないように、持って行ってあげるだけなのだ。今日の練習が終わったら「はい、これ。忘れ物だぜべいべぇ」と渡してあげるだけなのだ、うん。その前にちらりと中を確認したいなんて、思ってなんかいないんですのよおほほほほほ……
「理樹くん、何やってるの?」
「ほわぁっ!!」
 扉の隙間から小毬さんの片目だけがのぞいていた。
「もう、あんまり遅いからどうしたのかなあって思っちゃった」
「ご、ごめん」
「みんな待ってるよ。行きましょー!」
 僕は鞄を引っつかみ、小毬さんの方に駆けた。小毬さんはにっこり笑って歩きだし、僕はそれに追従する。
 僕らの間に会話はなく、胸の鼓動はけたたましく宿主の異常を訴えた。
 部活動をする生徒の嬌声がやけに遠くに聞こえている。こつこつと、上履きが廊下のリノリウムを叩く無機質な音。暮れかけた太陽。
「理樹くん」
 後ろを振り返らずに小毬さん。
「は、ひゃい」
 あ、まずい裏返った。
「私、ノート忘れちゃったの。理樹くんは、知らない?」
「い、いや、見てないよ」
 あれ?
 なんでそこで否定するよ僕!
「うーん、どこに置いてきちゃったのかなぁ」
 小毬さんが困ってるじゃないか。早く渡さなきゃ。早く早く。
「――は、早く行こう。みんな待ってるしさ。ね」
 返さなきゃいけないという内心と、裏腹な行動。ごまかすように先頭を切って歩きだした。振り向かない。正確に言うと、振り向けない。これが罪悪感か。小毬さんの視線を必要以上に恐ろしいもののように感じてしまう。
 だが、もうなかったことには出来ない。僕はもう一歩を踏み出してしまったのだ。
 いわゆる、死亡フラグというやつである。






こまりん☆裏ノート






「結局持ってきてしまった……」
 みかん箱で作った勉強台の上に鎮座している例のノートを目の前に、一人腕組みをしてウンウン唸っている僕。
 部屋には僕しかいない。騒がしくも愛すべき筋肉野郎である真人には「ここから五十キロ離れた山奥で筋肉星からきた筋肉星人が筋肉祭を開催するらしいよ。真人も参加して来たら?」と言っておいた。「筋肉マンになって帰ってくるぜ!」と、真人は意気揚々と夕日に向かって駆けていった。多分明日の朝くらいには戻ってくるだろう。
「さて、どうしたものかなあ……」
 真人のことはとりあえず意識の彼方に追いやって、改めてノートの表紙を見る。そこには真っ白なペン(多分修正液だろう)でこう書かれている。

 ――汝らこの頁をめくるもの一切の希望を棄てよ。

 いい感じにダンテのパクリだった。
 というか、わけがわからない。
 こんなものを小毬さんが書くとは到底思えないのだが、裏表紙には一応『かみきたこまり』と署名がある。だからって、これが小毬さんのものだと決め付けるわけにはいかないのだが、まあ、状況証拠にはなるだろう。
 かっちこっち、かっちこっち。
 部屋の柱に下げてあるぼっこい時計を見上げると、もうすぐ九時を回ろうかというところだ。普段ならば誰かの部屋に集まって馬鹿騒ぎを始める頃だ。
 どちらにしても中を見ないことには始まらない。えいや、と気合を入れて表紙をめくる。表紙とはうってかわって普通の大学ノート風のページだ。
「中身は……と。日記……かな……?」
 なんだ、と少し安堵とともに落胆してしまった僕がいる。
 まったく、何を期待してたんだか。
 他の人ならともかく、このノートの持ち主は一度すれ違えば神様だって頬を赤らめてしまうような素敵少女の神北小毬さんだぞ? お天道様に顔向け出来ないようなノートを作成しているなんてこと、あるはずがないじゃないか。
 そうと分かった以上あんまりじろじろ見るのもかわいそうだと、ノートを閉じようとする。最初のページが偶然目に入る。



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 ○月×日

 きょうあったこと。
 いつものようにおく上でぽかぽかしていたら、なんかへんなやつがきた。
 しょうじきうざい。
 そいつのせいでぶつけたあたまがいまでもいたむ。
 まじむかついたのでてきとうなことばとおかしをふるまっておいかえした。
 しんじゃえばいいよ。。
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「……え?」
 ごしごしと目をこする。
 なんか今変な幻が見えた気がする。疲れてるのかなぁ。
 気を取り直し、もう一度ページに目を落とす。




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 ○月×日

 きょうあったこと。
 いつものようにおく上でぽかぽかしていたら、なんかへんなやつがきた。
 しょうじきうざい。
 そいつのせいでぶつけたあたまがいまでもいたむ。
 まじむかついたのでてきとうなことばとおかしをふるまっておいかえした。
 しんじゃえばいいよ。
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「OH! MY! GOD!!」
 ショックのあまり外人風に叫びながら、床にもんどりうってもだえた。
 小毬さんが!
 あのほんわかきゅーとな小毬さんがえらいことに!
「あぅあぅあぅあぅあぅ」
 意識が遠くなる。
 綺麗な鐘の音とともに舞い降りる天使に誘われて、魂が空中浮遊を始める。
 魂がはみ出てるとも言う。
「……落ち着け! 落ち着け直枝理樹! KOOLに! KOOLになるんだ!」
 すぅはぁすぅはぁ。
 何度か深呼吸をして、はみ出かけた魂をやっとのことで押し戻す。
 あらためて眺めてみても、気の遠くなる文面だ。絵本で読んだ時とは文字の感じも変わってしまった様に感じる。怨念でも込められているかのような角ばった文字。なんというか、普段の小毬さんがキョンの妹的な癒しキャラだとしたら、このノートを書いてる小毬さんはナイフを持たせた朝倉涼子だ。
 正視に堪えない現実だが、目を背けてはならない。
 これは僕に課せられた使命、いや、運命なのだ。
 こうなったら、毒を食らわば皿まで。
 全てを確かめるべく、僕はパラパラとページをめくり始める。




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 ○月△日

 ぱんつをのぞかれた。
 このむっつりすけべやろうめ、いつか参りましたといわせてやる。
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 ○月☆日

 ぶしつで珍しくいねむりしていたら、さいぐさはるかにらくがきされた。
 たしかにそのときわたしのかおもきもかった。
 だが。
 おまえのしゃべりかたのほうがもっときもいんじゃぼけ。
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 ○月◇日

 いぬっぽいひんにゅうがしきりに「あたいにさわるとしびれるぜ」といっていた。
 どうせきょにゅうにおかしなことをふきこまれたのだろう。
 つきあいでいちおうこわがるふりをしてやった。
 もうすこしのうみそにしわのあるともだちがいるといいとおもった。
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 ○月▽日

 きょうしつでしんぶんしをまるめたぼうをつかってちゃんばらをした。
 みんな、いっしょうけんめいやってる。
 こんなことをおおまじめにやるなんて、きっとちのうのせいちょうがようちえんでとまってしまったのだろう。
 あたまがかわいそうなこたちのせわはつかれる。
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 ○月★日

 けんどうばかがへんなじゃんぱーをきてやきゅうをしにきた。
 ちかよるのもはばかられるほどにださいということに、ほんにんはまったくきづいていないらしい。
 しらないというのはしあわせなことだ。
 かれのあたまはいったいいつまで春なんだろうか。
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 1ページ読み進むごとに意識が遠くなっていく。
 僕がいるのは本当に寮の部屋なんだろうか。
 どこか異次元空間をさまよっているように感じる。
 視界がぐらぐらと揺れる。
 僕は耐え切れずにみかん箱の勉強机に突っ伏した。
 目が覚めたらこれが全て悪い夢であることを望みながら……





       ∞





「どうした少年よ」
 次の日、ぼうっとしていたら、来ヶ谷さんが心配して声をかけてくれた。
「大丈夫だから……心配しないで来ヶ谷さん」
「大丈夫と言うが少年、君の顔はきもいくらいに真っ青だぞ。保健室、行くか?」
「……うん、そうさせてもらうよ」
 このまま授業を受けていても仕方がない。
 先生が何を言っても僕の頭の中は昨日見たノートのことでいっぱいだ。
 これ以上何かを詰め込むようなキャパシティはない。
「ほら、少年……しっかりしろ。ふらふらしてるぞ?」
 僕が立ち上がると、教室がざわめいた。
 どうやら僕は本当に酷い顔をしているらしい。
「理樹くん、大丈夫?」
 心配した小毬さんが駆け寄ってくる。
 僕は反射的に駆け出した。
「はぁ……はぁ……」
 廊下を走るなという風紀委員の怒号にも構わず走りぬけ、上履きも履き替えずに外へ出た。中庭。いつも来ヶ谷さんが数学の授業をサボタージュする時に使っている椅子がある。腰を下ろすと、ようやくほっと一息つけた。
「あったかい……」
 さんさんと日の光が降り注いでいた。今日初めて太陽の光を浴びたような気がする。
「こんなところにいたか、少年」
「来ヶ谷さん」
 振り向くと来ヶ谷さんが腕組みをしている。走ってきたはずなのに、まったく息を切らしていない。
「少年は存外足が速いな。陸上部にでも入ったらどうだ?」
「そんなに速くないよ……」
「小毬くんと何かあったのか?」
「……っ!」
「そう驚いた顔をするな。昨日から少年は小毬くんに対する時何かおかしかったからな。何があったのかは知らんが、おねーさんに話してみるといい。すっきりするぞ」
「…………」
「ちなみに、隠し立てすると、もれなくおねーさんのセクハラ大作戦がついてくる」
 来ヶ谷さんのセクハラは想像を絶していた。
 あまりにあんまりなために具体的に記述することが憚られるほどだ。
 僕は全てを白状した。
 昨日教室で小毬さんのノートを拾ったこと。中を見たいという興味本位の感情からそれを返せず持ち帰ってしまったこと。中身は僕の想像を遥かに越えた内容だったこと。
 ノートを見せることは拒否した。
 したはずなのに。
 なぜか来ヶ谷さんは「ふむふむ……」とか言いながらそのノートをしげしげと眺めている。
 はて? 僕は一体どうして渡してしまったのだろう。
 記憶が削除されるほど凄惨な手段でもってして強奪されてしまったのだろうか。
 それはそれで怖くて聞けない。
「なるほど、なるほど」
「わかったでしょ? 僕の受けた衝撃が」
「いや、私にはさっぱりわからんな」
「どうしてっ!?」
 あっさりと言ってのける来ヶ谷さんの態度にカチンときた。ついつい声を荒げてしまう。
「じゃあ逆に聞くが理樹くんはどうしてこんなものを見たくらいで衝撃を受けているのだ」
「それは……小毬さんがこんな風にみんなのことを書いてたなんて知ったら、なんかショックでさ……来ヶ谷さんにはわからないの?」
 僕がそう言うと来ヶ谷さんはあからさまにため息をついた。
「あのな、小毬くんは聖人君子じゃないぞ? 人間なんだ、鬱憤がたまることだってあるだろう。子毬くんがこういう形でそういった鬱憤を発散していたとしても、別にそれ自体は責められる事柄ではないとは思うが?」
「う、うん……それは、確かに」
「それに理樹君はまず前提から間違っている」
「どういうこと?」
「まだわからないのか?」
 ひらひらと黒尽くめのノートを目の前で揺らされる。
「つまりこれは、小毬くんが書いたものではない――とまぁ、そういうことさ」
「は、はぁっ?」
 僕は来ヶ谷さんが何を言っているのかわからなかった。
「だって、僕は小毬さんの机でそれを見つけて……」
「小毬くんがそれを入れるところを見たわけではないだろう。それに、最初出て行く時小毬くんは既に鞄を片付けていたんだろう? 机から教科書類を取り出しておいて、わざわざそんなノートを忘れていくなんてあると思うか?」
「う……」
「私ならこう推理する。それは理樹くんと小毬くんが日直の仕事をしている間に何者かによって入れられたものだ、と。日直の仕事とは教室の中にいるばかりではないのだし、二人の目を盗んで小毬さんの机に近づくのはそんなに難しいことじゃない」
 来ヶ谷さんの話は続く。
 僕は黙って話の続きを待つ。
「それを理樹君に拾わせて、中を見させておろおろするのを眺めて楽しむ、という寸法さ。まぁ、あまり趣味がいいとは言えない趣向だが」
 来ヶ谷さんはそこで言葉を切った。そして、もう一度ノートを開いて僕に突きつける。
「少年は本当に気付いていないのか? 犯人はその記述の中で自分の名前を白状しているんだぞ?」
「えっ?」
「もう一度目を凝らして見るといい。何かに気付かないか?」
 僕はぱらぱらとページをめくってみる。
 何かがその文面に隠されている。
 そういう頭で、その文面をもう一度読み込んでいく。
 すると――
「確かに、漢字が少ないよね」
「そう、平仮名ばかりの不自然な文章。稚拙さを狙ったにしても文章自体はそれほどおかしくない。どうにも不自然だ。漢字を使ったのは――『おく上』『参りました』『珍しく』『春』の四回だけ」
「あっ!」
 ようやく僕にも来ヶ谷さんの言っていることが理解できた。
 僕の表情を見て、来ヶ谷さんはにやりと笑った。
「そうだ。ひっくり返して漢字だけを音読みすると」
「『はる』『ちん』『さん』『じょう』……!」
 僕が走り出すよりも先に来ヶ谷さんが駆けていた。




「違うっすよ姉御! あちしは何にも知らないっす!」
「ふふふ葉留佳くんは往生際が悪いな。今ならお尻叩き十回の刑で済むのだぞ?」
「だってーっ! やってないものは本当にやってないっすからー!」
「観念するといい葉留佳くん。もう証拠はそろっているのだ」
「お慈悲!」
「却下だ」
 響くスパンキングと共に、この忌まわしき「こまりん☆裏ノート事件」は幕を下ろした……
 
 ……かに、見えたのだが。





       ∞




「どうしたよ理樹。何か考え事か?」
「うん、ちょっとね」
 あれから僕は一人で色々と考えていた。あの日の夕方に帰ってきた真人は、筋肉マンにはなっていなかったが、毎日牛丼ばかりを食べるようになった。
「? 変な理樹だな」
 がつがつと牛丼をかきこむ真人。そのうちに真人の決め台詞が「筋肉革命だー!」から「屁のつっぱりはいらんですよ」に変わる日も遠くないかもしれない。
 まぁそんなことはどうでもいい。
 まず気になったのは犯人とされた葉留佳さんだ。
 なぜ葉留佳さんは来ヶ谷さんに問い詰められた時に犯行を認めなかったのだろうか。あのノートを書いたのが葉留佳さんだったとしたら、あの暗号は葉留佳さんが「私がやったのですヨ」と言わんばかりに残した署名と言っても過言ではない。あの時僕は動転していたので気付かなかったが、冷静になって考えればそれほど難しい暗号じゃない。解いてくださいと言っているのも同然の暗号。葉留佳さんなら「ふっふっふ。よくぞ見破った……!」くらいは言わないとおかしい。
 葉留佳さんは、ただ来ヶ谷さんに罪を着せられただけで、実は何も知らなかったのだとしたら、そういった矛盾にも説明がつく。OK。
 そもそも、来ヶ谷さんの説明は筋が通っているように見えて、穴だらけだ。
 僕らの目を盗んでノートを机の中に入れておくというのはいい。
 だが、そのノートがもし小毬さんに見つかったらどうする?
 だってあの時、小毬さんは机の上に鞄を置いていたんだから。鞄を掴んだその瞬間、机の中から顔を出した真っ黒なノートに気付かないという可能性はそれほど高くはない。
 というか、気付かないほうがどうかしている。

 そこで僕は二つの可能性を考える。
 一つ。
 来ヶ谷さんと小毬さんがぐるになって僕をからかっているという可能性。
 この場合小毬さんが仕掛け人、来ヶ谷さんが僕をミスリードする役割だ。そうであれば、僕が想定外の行動――例えば、ノートに気付かないとか、中身を見る前に返すとか――を起こしたとしても大怪我になる前に回収できる。撒餌に僕がまんまと引っかかった時にのみ作戦は決行される。
 もう一つは――小毬さん単独犯の可能性。
 小毬さんは忘れていったと見せかけて僕にあのノートを拾わせる。紆余曲折を経て僕は葉留佳さんの悪戯だという結論に辿り着き、小毬さんの疑いは晴らされる。
 そうすると来ヶ谷さんの行動が謎だが、来ヶ谷さんがあのノートに秘められた真の意図に気付いて一芝居うったとしたら一応の説明はつく。スケープゴート役が葉留佳さんだから、来ヶ谷さんならどうにだって出来るだろう。
 ただ――この推理には重大な欠陥がある。
 なぜ、小毬さんはそんなことをする必要があるのか、ということだ。
 あのノートを見せて、しかもそれを葉留佳さんの悪戯だと誤認させて、小毬さんは一体何をしようとしたのか――
「理樹も牛丼食えよ。旨いぞぉ」
「いや、今日はやめとくよ。また今度ね」
「なんでだよ。腹減ってねぇのか?」
「んー……やっぱり、食べようかな」
「おしきた。すんませーん! 並一つに特盛りー! 特盛りのほうはつゆだくねぎだくでー!」
 あいよー、と元気の良いバイトさんの声がする。
 一分も経たないうちにほかほかの牛丼が来る。
 まぁいいか、という気分にもなる。
「真人ー」
「あー? なんだよー?」
「ほーら! 筋肉、筋肉〜!」
「うおっ!? ノリノリだな、理樹めっ」
 第三の可能性。
 僕の考えすぎ、という可能性。
 それもありなのかもしれないなぁ、と筋肉祭り(牛丼ver)を開催しながら思った。
 人間、そんなこともあるさ〜っと。

 鼻歌を歌いながら牛丼をかきこんでいると、不意に小毬さんの笑顔を思い出してなぜか背筋がぞくっとした。窓の外を振り返り、誰もいないことを確認し、ぽりぽりと頭をかいてまた牛丼に没頭することにした。












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