そこは無音の世界だった。
静寂が、その世界に君臨する王だとしたら、俺はその王に跪き命乞いをする哀れな罪人であるに違いな
い。
「ぅぁ……」
喉から、とても人のものとは思えない声が漏れる。
恐怖が、俺を支配する。
吐き気がして、身体をくの字に折りその場に膝をつく。
しばらく我慢すると吐き気はどこかにいってしまったが、身体は相変わらずぶるぶると震えている。
『あの日』は多少長かったはずの髪は肩より上に短く切りそろえられている。きっとこいつの髪が伸びてきたのを見かねて看護師が切ってやったのだろう。
笑ってしまう。
あの日死んだはずの「こいつ」が。
髪だけは生きている人間と同じように伸びるなんて。
――面白いなら、笑ってみろよ、『祐一』?
うるさい。わかっている。
――もう説明はいらねぇな?
ああ。
――だったらだんまり決め込んでないで何か話せよ。なんつったって7年ぶりの再会だぜ? 少しは積もる話ぐらい、あんだろうが。なぁ?
……
――はぁ……俺にまでだんまりか。まぁ無理もねぇな。だって――
「――ああ。こいつは俺が殺したも同然だからな」
声に出しても、その事実は変わらない。
俺の『罪』は、すぐそば、ベッドの上で静かに眠っている。
復讐
俺は全てを思い出した。
俺は7年前まで毎年この街に来ていたこと。
そして7年前、商店街で泣いていた月宮あゆと出会ったこと。
すぐに仲良くなり、この街で一番大きかった木の根元を二人の学校にしたこと。
あゆにカチューシャと天使の人形をプレゼントしたこと。
あゆを、見殺しにしたこと。
俺は、幼かった。
あゆが木から落ちた時、俺が落ち着いて対処していればこんなことにはならなかったのだ。
あゆが今でも生きていることこそが、その証拠だ。
でも、俺は逃げ出した。
あゆが死んでしまうことが怖かったのではない。
「それ」が自分のせいになってしまうのが、怖かったのだ。
最低だ。
最低の保身、自己愛、エゴイスト。
醜い、醜い、自分。
「あゆ……」
彼女の名を呟く。
俺には彼女の名を呼ぶ資格など無いことを自覚しつつ。
点滴の雫がポタリポタリと落ちる。
あれが、彼女の命を繋いでいる。
俺はゆらりと立ち上がる。
彼女のすぐそばに立つ。
少し痩せた顔。
その寝顔には間違いなく7年前の面影を残している。
頬にかかった髪をそっとどけてやる。
彼女の頬を撫でる。
そこにかつてのぬくもりは感じられない。
☆ ☆ ☆
俺は誰にも気づかれないよう静かに病院を出た。
秋子さんの事故、あゆ、名雪。色んなことがありすぎて、俺の頭の処理能力など当の昔にオーバーフロー。今はただ、早く水瀬家に帰ることを考えなければ。そう思えば思うほど、俺の足は進まなくなってしまう。バスはもう一本も残っていない。タクシーを拾えるだけの持ち合わせなどはないので、歩くほかない。確かこっちだったな、というような頼りない記憶をもとにひたすら歩く。
歩いても歩いても一向に進んだ気配がない。雪が降っていないのがせめてもの救いだ。今は雪も止んで雲の切れ間から満月のような光が時折覗く。月の光は川面に映し出されながら、反射した光と対になって俺を苛
む。
歩きながら、何故俺はあの夢を見たのかということについて考えてみる。
あゆのいる街。俺があの時「正しい」行動を取っていたら、おそらく現実に存在し得たであろう世界の
幻。
しかし実際は俺は「正しい」行動を取れず、あゆは今でも病院のベッドの上。
そんな現実を忘れたいから、俺は自分が犯した罪を消し去りたいから、あの夢を見たのか?
いや、違う。
あんな夢を見なければ、そもそもあゆのことについて思い出すこともなかったし、自らの罪を自らの手で暴き出してしまうこともなかったはずだ。
俺の自己防衛本能があの夢を見せたという仮説には、絶対的な矛盾がある。
ならば、自己防衛本能ではなかったとしたら、どうだ?
例えば、自己防衛本能が記憶を封印したとして、その封印がこの街に来たことをきっかけに解けてしまう。結果として、俺はあゆのことを夢に見てしまう。これなら――
いや、これも違う。
自然的な時間の経過による記憶の封印の解除。それならば、俺は「ちゃんと17歳に成長したあゆ」とこの街で過ごすなどという夢を見てしまう必然性がない。もしも封印の解除が原因としたら、あんな夢を見るより前に、一番衝撃的なシーンである「あの場面」を見てしまうのではないか?
記憶の封印の解除はあくまで結果だ。
あの夢を見た副産物として、俺はあゆに関する過去の記憶を取り戻したに過ぎない。
決定的な仮説が見つからない。もどかしい。何かきっかけが欲しい。
「きっかけ」?
ドクン
心臓が思い出したかのように脈打つ。きっかけ。
ドクンドクン
あまりの拍動に、俺は一瞬目の前が眩み、よろめく。
立っていられなくなり、俺はとっさに近くの電柱に寄りかかる。
きっかけ。
そうだ、確かあの時。
名雪を待っていた、あの駅前の広場。
俺は、確か、突然酷い眩暈に襲われて――
「……くぁっ……ぐっ……」
突然俺は、酷い頭痛に襲われる。
気を失ってしまいそうな痛み。
まだだ。
まだ意識を手放すな。
大事なのはここから、その次だ――
そう、俺は確かに見た。
あの色を。
夢の裏側に潜む怪物を。
「あ……あゆ……な、のか……」
駅前の広場で俺を襲ったあのイメージ。
その獰猛なイメージが、何故か純白の天使のイメージを持つあゆの姿と重なっていく。
やはり、いや、まさか、そんな――
本当に、あゆが俺にあの夢を見せたのか?
パズルのピースが嵌っていく。
絡まった糸が解けていく。
確かに俺はあの夢に誰かの「意志」のようなものを感じていた。
誰かが作り出した箱庭のような世界で、俺は自由に動いているように見えて、実は神の見えざる手によって動かされていた。
誰かに操られていた。
首を振り、意識をもう一度だけ覚醒させる。
もしも、あゆが俺にあの夢を見せていたというのなら、その目的は一体何なんだ?
――もったいつけるなよ。そんなの決まってるじゃねーか。
頭の中に響く声。
ああ、確かに、決まっている。
考えるまでも、ない。
――復讐だ。
幼い頃、自分を見殺しにした憎き男への復讐。
あゆは、成長した自分と、自ら創りだした箱庭を舞台に、その復讐を見事に完遂した。
あゆの狙い通り、俺は完全に記憶から抹消していたはずの「罪」を思い出した。
その罪は、きっと俺を狂わせる。
いや、もう既に俺は狂っているのかもしれない。
突然、誰かの視線を感じたような気がして、後ろを振り返る。
誰もいない。
誰もいないのに、そこには誰かがいると信じて疑わなかった。
俺は声にならない叫び声を上げ、一目散に駆け出した。
俺の周りにある全てのものが俺を責めているような気がした。
誰か助けてくれ、と叫びたかった。
だが俺は、そんな叫び声をあげ助けを求めていたはずの一人の少女を見殺しにしたのだ。
俺は身体の奥底から滲み出してくるような恐怖に突き動かされるように走った。
だが、どんなに走っても俺の恐怖は消えなかった。
復讐という名の「幻想」。
それすら自分が創りだした幻であることに、俺はまだ気づいてはいない。