さめない夢の中にいる。
ちょっと前までは、そう思っていた。
誰もが幸せそうな笑顔で通り過ぎる雑踏の片隅で、
色とりどりの服で色とりどりの夢を飾った人々を眺めて、
誰にも気づかれることのない灰色のこの身を恨み、
いつまでも夢は夢のままで、
いつだって終わりを待ち続けていた。
明けない夜はなく、
咲かない花もなく、
止まない雨すらないのだから、
これもいつかは終わるのだろうと、
無邪気にそう信じていた。
子供だった。
何も知らない、子供だった。
終わるということはどういうことか、
始まるということはどういうことか、
その意味を一つだって考えようとはしなかった。
夢の終わりはいつだって現実で、
そして現実は時に残酷なほどに続いていて、
続いて、続いて、
そして終わっても、
なお無慈悲に続いていくもので。
そんなことも何一つ、ボクは知らなかった。
最後の願い
安藤は秋子と二、三言葉を交わすと早々に病室を後にした。安藤が名雪と連れ立って秋子の病室に来たのは単に回診の時間だったからであるらしく、隣の病室での話が終わればその次、次、とせわしく移動する安藤の様子がこの病室からでもはっきりと伺えた。
こういった職場で働くのは大変だろうな、と名雪は花瓶の水を換えに行く道すがら思った。
名雪も昔、人並みに「看護婦さん」に憧れた時があった。甲斐甲斐しく病人たちの看護をする白衣の天使はいつの時代でもそれなりに魅力的なものだ。その憧れが薄れたのは、名雪自身これまでの人生で病院の世話になった経験が薄かったこともあるが、何より毎日人の死やそれに伴う不幸を見せ続けられるのは彼女自身が耐えられないだろうという判断があった。こうして自分の身内が何人も病院の世話になる事態になってみると、その判断はすこぶる正しかったことを認めざるを得ない。
そんなことを秋子に話してみると、
「あら、私は看護婦の資格持ってて、昔実際に働いたこともあるけど、そんなに辛い事ばかりじゃなかったわよ」
「えっ、お母さん私そんなこと初めて聞いたよっ!?」
初耳だった。
「だって聞かれなかったもの」
秋子は頬に軽く手を添えて、いつもと同じように微笑んでいる。
しかし、まぁ、こうしてみると確かに、そういう雰囲気もないわけではないというか、むしろイメージぴったりじゃないかとか、そういえば一時期物凄く不規則な働き方してる時期があったなぁとか、色々と考えてしまう名雪だった。自分の母ながら、謎がいっぱいなミステリアスお母さんである。
「そうそうこの病院で働いてた時もあったのよ」
「道理でよく声掛けられると思ったよ……」
名雪がこの病院に来ると決まって二、三人の年配看護婦(おっと、今は看護師か)に「あらーんまー名雪ちゃーん、よく来たわねぇー」などと話しかけられ、その包囲網を突破するのにいつも20分くらいを費やしてしまうのだ。今日安藤から聞かされた話が原因かとも考えたが、どうやらその元凶は自分の母にあるらしかった。
「うふ、友達が多いのは良いことよ、名雪」
「お母さんはやたら多すぎ」
「うふふ」
開け放った窓からは4月にしては冷たい風が吹き込んでくる。冬の残り香が色濃いこの町で、窓の外にちらほらと見える芽吹き出した桜は、少し場違いなように見えた。
「今年の桜はいつもより少し早いわね」
「なんでだろうね、今年は特別あったかいわけでもないのに」
この地域で入学式シーズンに既に桜が咲いている、というのは極めて珍しいことと言えた。新しい生活が始まりそれに人々が慣れ始めたころにようやく重い腰を上げて咲きだすのがこの辺りの桜だった。
「うふふ、気象予報士の人が困ってたわね」
「確かに……」
別に温かいわけでもないのに咲いてしまう桜に「遺伝子レベルの変化が!?」などとぶっ飛んだことを口走る気象予報士は紛うことなくピエロだった。
「予報士さんも人間なんだから、予報が当たらなかったからってあんまり責められてるのを見るとなんだか可哀相な気もするわね」
「そうだねー……あっ」
「うん? 名雪、どうしたの?」
「う、ううんっ! なんでもないよっ!」
まさかお母さん実は気象予報士の資格も持ってて働いたこともあるからあの大変さはわかるのよー、などと口走られた日には、また一つ自分の母に対するミステリーが増えてしまう。敢えて知る必要のない情報まで入手してしまうのは、名雪の本意ではない。
娘の様子を見て怪訝な表情で首を傾げる秋子は色んな意味で反則的な存在だった。
この後1時間ほど秋子と自分の近況や、この病院のこと、先ほどの安藤との会話のことなどを語りあった後、名雪は秋子の病室を後にした。
「お母さん、じゃあ私、行くね」
そう言って立ち上がった名雪を、秋子はいつもの深い眼差しで見上げていた。
名雪が自分の見舞いに来た後はいつも、家族である祐一の見舞いの他に「月宮あゆ」という少女の所に行っていることも、秋子は知っていた。勿論、秋子が名雪に面と向かってその事を話題に出したことはただの一度もない。
名雪自身も何故だかわからないが、あゆについての話題を秋子の前でしようと思ったことはなく、結局機を逃したような格好になり、まだ秋子にあゆとの親交については言えずにいた。勿論、名雪にはそのことを隠そうとする気など1ミリたりともない。
「ええ、暗くならないうちに帰りなさいね」
「うん」
錆びかけた蝶番が、きぃ、と不快な音を立てて閉まる。
今日もあの子は『彼女』の所へ行くだろう。名雪が彼女を見舞うようになってから『彼女』の容態が良くなっていっているのは馴染みの看護師に伝え聞くまでもなく院内の明るい雰囲気から読み取れる。
――なぜ名雪が、あの子を?
秋子の疑問は尽きない。自分が知っている限り、名雪と『彼女』に接点は無かったはずだ。
いや。
名雪と『彼女』を繋ぐ接点は存在していることには、秋子はとうに気付いていた。
7年前の冬を境にこの街から去り、以来ずっと音沙汰無しだった彼女の甥であり名雪の従兄弟でもある彼、相沢祐一。彼がこの街を去る前の少しの間『彼女』といささかの付き合いがあったことを把握していない秋子ではない。それだけに、甥がなぜこの街から去って以来戻ってくることが無くなってしまったのか、その理由さえも彼女の推測の範疇にある。彼が、名雪と『彼女』を繋ぐ接点になったとすれば、秋子の疑問に対してこれ以上の解答はないだろう。
しかし、だからこそ――なのだ。
名雪に『彼女』を見舞う理由を問い質したことなどは無いし、これからもするつもりはない。
彼女らのような若者にとって、自分たちのような大人はただ道を照らす街灯であるべきだと思っていた。不介入放任主義を気取る気もないが、若者にとって大人の過度な干渉は却って逆効果になることすらあることを秋子はよく自覚していた。もとより、もうあの年にもなれば親の庇護の元から否応無く羽ばたいていかねばならないのだ。
ただ、彼女らが道に迷う時には優しくその道を照らすぐらいのことはしてやらねば、とも思う。それは自分たちのような大人にしか出来ないことでもある。それ以上の介入は、もはや大人のエゴにしかならないだろう。
だが、もしも彼女らの相手が太刀打ちも出来ないような強大な怪物だったなら、どんな犠牲を払おうと自分が助けなければならない。
向かい合わなくてもいいものというのは、確実にこの世の中には存在しているのだから。
途切れ途切れに咲いた桜を眼前に見下ろしながら、溜息をつく。
そして秋子はさらに自らの思考に没入していった。
「あ、名雪ちゃん。こんにちは」
扉を開けると、顔なじみの年配の看護師に声をかけられた。
「こんにちは」
とりあえず挨拶をして、ささっとこの身をドアの中へと滑り込ませる。
「今日もお見舞い? 部活動もあるのに、大変ねぇ」
人の良さそうな笑顔に「ええ、まぁ」と微妙な答えを返した。彼女は見たとおりの典型的なおばちゃん気質らしく、よく響く声で何かと世間話をもちかけてくる。名雪のようにのんびりした人はその会話の回転数についていけず「ええ」とか「はぁ」とか芸のないことを言うのがやっとだった。
見ると彼女はあゆの腕を揉んだりぶらぶらさせたりしている。
これは、ただの酔狂でこんなことをしているわけではなく(当たり前の話だが)、こうして定期的に間接を動かしてやることで、寝たきりの患者の間接が固まってしまわないようにしているのだそうだ。
こうして仕事をしている傍ら、こちらだけのんべんたらりと見ているのは、実に身の置き場がなかった。向こうはこれが仕事なんだから、これでお給料もらってるんだから、と言い聞かせても、やっぱり身の置き場はなかった。
20分くらいかけて念入りに動かした後、彼女は「じゃあ何かあったら呼んでねー」と言って、慌しく病室を出て行った。
「ふう」
思わず溜息が漏れてしまう。ひゅるりーと、なぜか台風一過の静けさを思わせる病室の空気が、後押ししたようだ。
「さて、と」
名雪はいつも使っている椅子をベットの傍まで引き寄せる。座るとちょうどあゆの顔が近くに見える位置だ。
近くの窓を開け、ぽすん、と座る。途端に先ほど秋子の病室でも感じた風が吹き込んでくる。風が、カーテンと、二人の髪を揺らしている。
名雪があゆを見舞いに来た時は、大抵こうして椅子に座って眠り続ける彼女の顔を眺めながら、日が暮れるまでの時間を過ごしていた。無論、祐一の病室でも似たようなことをしていたが、それに掛ける時間は日を追うにつれてあゆへの比重のほうが大きくなっていった。
なぜだろうか、と思う。
祐一に対する罪悪感もあった。彼が今こうして寝かされているのはお前のせいなんだ、と名雪も気付かないほどの深層からの声に苛まれることがなかったわけではない。その気持ちから逃げてはいけないんだと、この前の一件でいやというほど感じさせられた名雪だったが、やはり直接本人と話せていないという事実は殊更に重かった。人間は全てがロジックで割り切れるほど単純には出来ていない。
「あゆちゃん、この前は、ありがとう」
助けてくれて――
名雪は、物言わぬ彼女に礼を言った。
いえいえどういたしまして――などと、今のあゆは言いはしない。
ただ、風に短く切りそろえられた前髪が揺れていた。
名雪は改めてあゆの顔を見る。
あの『夢』で会った時の彼女とは違いカチューシャはしていないし、長年におよぶ病院生活が祟ったか少し痩せてもいた。しかし、その愛らしい寝顔には今にも起き上がりそうな生気がある。
生きている、と思った。
名雪は安藤の言葉を思い出した。
『自分の世界が目覚めるに値する世界か、生きるに値する世界か、彼女は7年間も眠ったままずっとその値踏みをしていたような気がするんですよ』
勿論、そうではないことを名雪は知っている。
いや、そう考える人間ではないだろうと信じている、というだけのことか。
あの真っ赤な世界で触れあったあゆという少女のイメージはどこまでも純粋な白雪。いかなる異物の進入も許したことのない純白が彼女だと名雪は感じた。
だが、その白は彼女が精神的に成育していないことの証明でもあった。7年前の彼女は、おそらく自分や祐一と同じくらいの年の頃だった。となると、彼女は10の誕生日も数えないままに眠りに就いた可能性だってある。人と触れ合い時には傷つけ合って磨き上げられていくのが人の心だとしたら、彼女の心はいまだに原石のままであるということだ。
名雪は、あゆの手をそっと握った。
温かい。
生きている。
彼女は、生きている。
なぜこの少女の時間が奪われなければならなかったのか、と名雪は思う。
誰が悪いわけでもない。
悪者がいなければ、憎むことさえ出来ない。
不意に強い風が吹いた。
「きゃ!」
近くの棚にあった小物が風に吹かれて床を転がっていく。
名雪は反射的にそれをつかんだ。名雪の心にあったのは相変わらず彼女のことだ。
だから、
それがあの天使の人形であったことも、
そして、それがあの雪の日に自分が使わせなかった最後の願いであることも、
名雪は、気付かなかった。
名雪の目はただ一点に集中している。
また自分は夢を見ているのかと、思った。
「――」
彼女がなんと言ったかは、風の音にかき消されて聞こえなかった。
ただ、その現実離れした神々しさに圧倒された。
あの雪の日以来の二人の邂逅だった。