桜が舞っていた。
 先ほど高校三年間世話になったツレとも別れ、何とかもらうことが出来た卒業証書を片手に一人、僕こと春原 陽平は桜舞い散る坂道を歩いていた。桜の花の間から漏れる光りは優しく、僕に春の訪れを告げる。

 渚ちゃんと連れだって歩いていったあいつの顔を思い出す。
 渚ちゃんと出会ってからあいつは変わった。
 僕と馬鹿なことで騒ぎながらも、どこか投げやりで醒めていたあいつはもう何処にもいない。
 僕はと言えば、そんな親友の成長を間近で見て、僕も頑張ろう……などという気になることもなく、その後も 僕は相変わらずの日々を過ごしていた。
 そりゃ、少しは寂しく思ったりもしたけどさ。

「僕は……これからどうなっちゃうんだろうねぇ……」

 やっとのことで手にすることが出来た卒業証書の入った筒を片手で弄びながら呟いた。
 一応卒業後は地元で就職することになっている。そのために金髪だった頭も黒く染め直した。くだらねえリー マンになる準備は万端である。
 高校生の間にやり残したことは数え切れないほど沢山あるはずだが、今の僕にはほとんど思い出せない。
 僕の高校生活って一体なんだったんだろうか。
 毎朝のように遅刻してはウザいセンコーに叱られ、何一つ本気になることもなくただ淡々と退屈な毎日を消化 していくだけ。別に後悔しているわけでもないが、ひいき目に見ても充実した毎日とは言い難い。
 そんなからっぽでも気楽な日常にも今日限りオサラバ。四月からは金を稼いで自分が食べていくために、自分 を切り売りする生活が始まるのだ。今までのような自由で自堕落な生活には二度と戻れはしない。
 それがわかっているから、わかっているからこそ、こんなふうに見事に咲き誇る桜の群れが無性に憎たらしく 思えて仕方がないんだろう。

 突如、声がした。

「動くなっ! そこのヘタレっ!」

 耳慣れた風切り音と共に飛来したクラウン和英辞書が僕の顔にめり込んだのは、声が聞こえてから僅か0.5秒 後のことだった。





負けんなよ、ヘタレ!





 この会社に勤め始めて3年、もう潮時だと思った。

「そりゃ僕だって悪いとは思うよ。でもさ、たったあのくらいのミスなんかで、あんなに怒ることないじゃんか 。ちぇっ、あいつだってそんな仕事出来るほうじゃないくせしてさ」
「お兄ちゃんのそんな態度にも問題あるんじゃないかな……」

 実家の居間で缶ビールを傾けながら愚痴る僕の隣で、妹の芽衣が溜息をつきながら言う。

「あ〜ぁ、高校時代は良かったなぁ……毎日毎日昼まで寝てさ、毎日毎日好き勝手出来て」
「お兄ちゃんお兄ちゃん。それ、高校生の生活と違うからね。あ、わたしにももう一杯ちょうだい」

 あいよ、と空になった芽衣のグラスになみなみと注いでやる。
 僕はビールだが、芽衣は勿論ジュースだ。
 僕は毎晩自宅で買ってきた安い発泡酒で晩酌をするのが日課である。
 大抵一人だが、たまに芽衣が暇だと僕に付き合って一緒に飲むこともある。

「ありがと。でも、高校時代かぁ……お兄ちゃんはいいなぁ。何だかんだ言いながら都会の高校に行けてさ。わ たしなんか結局地元の高校なのに」
「何言ってんだよ。お前は友達と離れるのが嫌だからってわざわざここに残ったんじゃないか」
「まぁそうなんだけどね」

 にっしっし、と笑う芽衣。

「なんにしても、後悔しないような選択をするのが一番いいんじゃないかと、芽衣は考えたわけなんですよ。だ からわたしはやっぱりこれで良かったんです」
「だろーね」

 気のない返事を返しながら缶に半分くらい残った発泡酒を一気に飲み干す。
 僕はそんなに酒が強いほうじゃないから、缶ビール一本でも飲めばそれでほろ酔い加減でいい感じに なれる。
 でも、今日の場合はいつもよりちょっと強めに酔いたい気分だった。

「芽衣ちゃ〜ん。冷蔵庫からビールもう一本持ってきてよ〜」
「え〜、やだよ。お兄ちゃんが自分で行けばいいじゃない」
「まぁまぁ、僕は芽衣が持って来てくれたビールが飲みたいんだから、そんなこと言わないでさぁ」

 しょうがないなぁ、と芽衣が腰を上げ冷蔵庫の方へ歩き出す。
 やっぱり芽衣はいい妹だ。
 このタイミングでそう思うのは、我ながら少し現金だろうか。

「はい、お兄ちゃん」
「サンキュー」

 プルタブを引くと缶ビールはいつものようにカシュッと音を立てた。
 少し泡が立って零れそうになるビールを口で吸い、そのまま缶を傾けて飲む。
 まるで仕事への不満や苛立ちを腹の中に無理矢理押し込めるようにして、飲む。

「お兄ちゃん」
「うん? 何だよ」
「高校と言えばさ、お兄ちゃんの高校の時のお友達は今何してるのかなぁ?」
「友達って、お前が消息を聞きたいのは岡崎のことだろうが。駄目だぞ、あいつはしっかり奥さんいるん だから」

 しかも汐ちゃんという子供までいる。
 岡崎に子供が出来た時、僕は仕事が忙しくて挨拶に行けなかった。

「べべべべべ別にそんなこと言ってないじゃないっ! ちょ、ちょっと、やだなぁ」

 我が妹ながらこの分かりやす過ぎる反応はどうなんだろうか。
 芽衣が慌てて顔を真っ赤にして手をぶんぶん振るもんだから、芽衣のグラスが倒れて中に入っていたジュース が零れた。そんなに量は入っていなかったので大惨事にはならなかったが。
 兄として、今の芽衣に出来ることは零れたジュースを拭く台拭きをもってくることと、不倫はやめたほうがい いぞと懇々と説教してやることくらいだろうか。
 まぁ僕が実行したのは前者のみだったけどね。


 芽衣も寝たので僕もぼちぼち寝ようと自分の部屋に戻ってきた。
 電灯をつけ部屋の中を見渡すと、あの日にもらった卒業アルバムと卒業証書の入った筒が目に留まった。

『高校と言えばさ、お兄ちゃんの高校の時の友達は今何してるのかなぁ?』

 先程の芽衣の台詞を思い出す。
 僕の高校の時の友達と言えば、さっきも名前の出た岡崎朋也ぐらいしか思いつかない。
 あいつは卒業と同時に、あの街で電気工をしていた芳野祐介と同じ職場に就職した。それから紆余曲折を経て 、今は妻一人、子一人の幸せな家庭を築いている。あいつの仕事は程度の差こそあれ完全な肉体労働の職場だが 、愛する人と愛する娘を守るためならいくらでも自分の身を削ってあいつは働くだろう。
 僕はそんなあいつを少し尊敬し、少し妬ましく思っている。
 僕には今の会社で働くにあたって、岡崎のような崇高な理由はない。ただ働かなくちゃいけないから、それが 普通であるから、自分が生きていかなくちゃいけないから、僕は毎日あくせく労働の日々を送っている。

 理由が欲しい。
 今の暮らしに自分を縛り付けるだけの理由が。

 自分が生きてかなくちゃいけないとか、働くのが普通だなどというタテマエでは足りない。
 圧倒的に、足りない。
 今は、いい。
 まだぎりぎり我慢できる。
 でもいつか壊れる時が来る。
 きっといつか、そんな「理由」じゃ足りなくなるのだ。
 自分を塗り潰して押し殺して月給を得る単調で冗長な今の毎日を、きっといつか許容できなくなる。
 自分を切り売りすることに耐えられなくなる。

 だから「理由」が欲しいんだ。

 溜息をつき、そんな自分へのせめてもの慰めとして、大した思い入れがあるわけでもない卒業アルバムに手を 伸ばした。
 パラパラとページを捲る。
 大して一生懸命に参加したわけでもない行事の様子が並ぶ。
 運動会、遠足、部活動……
 そしてあるページで僕は手を止めた。
 創立記念祭。
 岡崎と渚ちゃんと僕で、一つのちっぽけなステージを作り上げたあの日。僕は特に何をしたというわけでもな いが、あのステージに立つ渚ちゃんは確かに綺麗だった。結局あのステージが僕の高校生活の中で一番の思い出 であるような気がする。渚ちゃんはあの後から体調を崩して学校に来ることは出来なくなってしまったんだけど 。
 またページをめくる。
 後はクラスのページであったり、部活の集合写真であったり、といった定型的なページが並ぶ。
 自分のクラスの写真があった。
 目を皿のようにして集合写真の中の自分を探すが、何処にも見当たらない。クラスを間違えたかとページの上 部を見ると、僕の顔と岡崎の顔だけ幽霊のように虚空に切り取った白い楕円の枠に囲われていた。
 そう、確か集合写真を撮った日、僕と岡崎は遅刻したのだ。
 この写真が、僕の空疎な高校生活を象徴しているような気がした。そんな自分自身を見ていられなくなった僕 はアルバムを閉じ、出来るだけ自分から遠ざけようとするかのように部屋の隅に追いやった。

 ――ああ、もういいんじゃないのか。

 頭の片隅で僕じゃない僕の声が聞こえる。
 もう捨ててしまえと。
 誰からも必要とされず、誰のことも必要としていない自分なんかいらないじゃないかと。

 頭を掻き毟り、もう寝てしまおうと布団をかぶろうとした。
 ふと、手元に置いてある辞書らしき物体が気になった。

「何だこれ?」

 自慢じゃないが僕は勉強と言うものには高校入学以来触れたことがない。
 あ、本当に自慢じゃないな、これ。
 とにかくそんな僕が辞書みたいな崇高な勉学用具を所有しているはずがないのだ。

 それを手にとって良く観察する。
 名前は……書いてあるはずが無かった。
 辞書はお決まりの箱のようなものに収まっている。
 取り出してみる。

 ――そして僕の呼吸は1秒ほど停止した。

 でかでかと、辞書のタイトルとか尊厳とか、そんなことは全く価値がないと言わんばかりに堂々と、辞書の表 面には大きく大きく文字が書いてあった。

『負けんなよ、ヘタレ!』

 その文字を見て、ようやく僕は岡崎に次ぐもう一人の友人とも言える藤林杏のことを思い出した。

    ☆   ☆   ☆

「ぐふぉあッ!!」
「よっしゃ、命中」

 俺の顔面にクリーンヒットした辞書を投擲しやがったヤロウは小さくガッツポーズ。
 僕は虫のように痙攣ぴくぴくぴくぴく。

「……ってふざけんなーっ!! 誰だこんなことしやがるヤロウは――――ッ!! 泣かすッ! 喉に手ぇ突っ 込んで奥歯ガタガタイワしてやんぞこのヤロウ――――ッ!!」
「なんだとこら陽平のブンザイで調子のんなよ」
「ふが―――ッ!! ……って杏様でしたか。これは失礼をば」

 この変わり身。
 これこそ僕が藤林杏という特A級の怪物の前で生き残るために編み出した処世術だ。

「よしよし。陽平は相変わらずヘタレねぇ」
「うん僕ヘタレだよ」

 ちなみに僕の口調はドラえもん(先代)である。

「あれ、そういえば朋也は……って聞くまでもないか。古河さんと一緒……なのよね?」
「……まぁね」
「で、アンタは一人寂しく何やってんのよ」
「何って……歩いてんだよ。一人寂しくね」

 見て分からんのか? と両手を左右に広げてやる。
 そういう杏はどうしたんだ? と聞こうとしてから、止めた。
 杏は、きっと岡崎のことが好きだった。
 本人の口からはっきり聞いたことはないが、おそらく99%間違ってはいないだろうという確信がある。
 何故そんなことがわかるのかって?
 僕は高校に入ってすぐ杏に出会って、それ以来ずっと杏を見続けてきた。そんな僕が、杏の思い人などという 最重要な情報を読み間違うはずがない。
 そういうことだ。

 笑ってしまう。
 こんなところでも僕は負け犬だった。
 しかも直接杏に気持ちを伝えて玉砕することすら出来ない臆病者。
 やもすれば今生の別れかもしれない卒業式という場になっても、それは変わらなかった。

 杏はそんな僕の表情を読み取ったのか、ふっと表情を緩めて口を開いた。

「あはははは。ざまーないわね、ヘタレ」
「ちくしょうケンカ売ってんのかてめぇッ!」
「あはははは。そんなに死にたいの?」
「……滅相もございません」

 売り言葉に買い言葉。
 これが僕らの距離感。

「ふぅ……アンタは確か就職だったわね?」
「まぁね……そういう杏は大学だろ?」
「そうよー、わたしは将来保母さんになるんだから」
「あはははは。似合わねー」
「ふふっ、今なら9割殺しにまけといてあげるけど?」
「保母さんかー、きっと杏さんの天職ですねッ!」
「わたしもそう思うわー、あ、そうそう。アンタの子供が来てもわたしの所ではお断りだからね」
「なんでだよっ! 入れてくれよっ!」
「だってアンタの子供なんて、毛むくじゃらでわたしの手の上に自分の手を載せて反省! とかしそうなん だもん」
「って、何で僕の子供は日○猿軍団入り確定なんですかねぇっ!?」

 嫌な感じに僕のボルテージが上がってくる。

「杏ーっ!! なにやってんの――――っ!?」
「ごめーんっ!! 今行く――――っ!!」

 坂の上で杏の友達らしき人影が見える。
 舞い散る桜の下でぶんぶんと手を振っている。

「――と、いうわけで、わたしはもう行くわ」
「ああ、行ってくれ行ってくれ」

 ヒラヒラと手を振る。
 もう会えないかもしれないとは思った。
 でも最後の最後まで僕は素直になれなかった。

「じゃあ陽平も、元気でね」
「ああ、お前もな」

 じゃあ、と躊躇うこともなく、藤林杏はその長い後ろ髪を靡かせて颯爽と坂を駆け上がっていく。
 その姿に少し見とれた後、僕はそのままこの学校から、去っていこうと思った。
 その時――

「すのはらようへ――――っ! こっちむけこのヘタレ――――――――っ!!」

 坂の途中からバカみたいにでかい声を出して叫んでいる杏の姿があった。
 通りすがる人の群れが何事かとあいつを振り返る。
 僕はただ唖然としてその場に突っ立っていた。

「あんたバカだったけど――――っ!! 中々いいヤツだったぞ―――――――――っ!!!」

 真っ赤な顔して、それでも目一杯でかい声で、
 髪を振り乱して、周りから奇異の目で見られて、
 それでもたった一人、この僕、春原陽平のために、
 僕の好きだった彼女が、声を張り上げている。

「ちゃんと胸張って――――っ!! がんばれよ――――――――――――っ!!!」

 そう言って杏は千切れんばかりにこちらに手を振った。
 その姿を見た。
 膝はガクガク震え、心臓は壊れそうなほどに脈動し、顎はガチガチ鳴り、胸がどうしようもなく熱く なった。
 泣かないはずだった卒業式で、僕の視界はこれ以上ないほどに滲んでいた。

 僕がここにいたことは無駄じゃなかった。
 僕がこの学校に来たことは決して意味の無いことじゃなかった。
 だって、あんなに一生懸命僕のために声を張り上げて、手を振ってくれる友達がいる。

 何が無駄なものか。

 僕は、確かにここにいた。

「おお――――――――――――っっ!!!!!」

 僕は、叫んだ。
 周りの目など気にならない。
 笑わば笑え。
 これを見て笑う奴の人生こそ空疎だ。
 だって、こんなにも、僕は生きている。

 杏からよく見えるように、僕は拳を天高く突き上げた。



    ☆   ☆   ☆



 辞書を持った手に涙の雫が落ちた。
 舞い散る桜の花びらが見えたような気がして顔をあげるが、そこは当然のように僕の部屋である。
 だが目を閉じれば、あの日の桜も、あの日の僕らも、そこにあるような気がした。

 確かに生きていたと、胸を張って言える日があった。
 例え二度とは戻れなくても、大切だと思える人がいた。
 言葉には出来なくても、大切だった想いがあった。

 見ろ。
 僕の人生は、からっぽなんかじゃないぞ。
 真夜中の闇に向けて、そう叫びだしたいくらいだった。
 そして、その声が、この空の下のどこかで必死に頑張っているアイツの所まで届けばいい。

 僕はその辞書を大切に箱にしまい、部屋の棚に置いた。

 明日だって日常は続いていく。
 降りることは許されないゲームはずっと続いていくのかもしれない。
 だけど、アイツの思い出があれば、僕はまだ闘えそうだった。

 僕は挑みかかるように部屋の窓を開け放ち、遠くの空を見た。

『負けんなよ! ヘタレ!』

 遠い昔から追いかけてきた友の言葉に背中押されるように。




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