朋也の姿勢がある一定のタイミングで傾ぐ。
 その時に出るきしぃという音と、有紀寧が手にした毛糸の擦れる音、少し離れた所にあるコーヒーメーカーの音。静寂が支配する資料室に紛れ込んだ3つの異物である。
 いや、と朋也は半分寝ぼけた頭で考える。
 静寂とは、決して無音である必要はない。寧ろ無音というものは、時間や場所、そこに身を置く人間の精神的状態、肉体的状態によっては、何をも凌ぐ騒音にもなり得る。音が存在しない故に乱れやすい。純白が他の色に染まりやすいのと多少似たところがあるかもしれない。真なる安定とは、敢えて異物の侵入を許すことだ。異なる色を迎え入れることだ。雑多なように見えて、そこには確かなリズムが生まれる。鼓動が生まれる。
 朋也は改めて有紀寧を見る。純白であるようにも、そうでもないようにも見えた。
 そして、資料室はまた永遠にも似た静寂を刻み始める。
 その、ある意味単調で冗長なリズムに、朋也はまたあくびを一つ噛み殺した。












彼岸











「眠かったら、眠ってしまってもいいんですよ」
 くすくすと、いかにも有紀寧らしい控えめでいておかしさを隠そうとしない笑った声。有紀寧の手と毛糸の動きはその間でも全く淀みはない。その勤勉さに気圧されるように、朋也は「いや、大丈夫だ」と、また一つ大きなあくびを漏らしながら言った。そして、また有紀寧が笑う。循環している。
「なぁ宮沢」
「はい?」
「何で今頃編み物なんだ」
「いけませんか?」
 まるで罪のない悪戯をした子供を見るような微笑ましさでもって見つめられた朋也は図らずもうろたえてしまう。
「だ、だって、外を見ろよ」
 窓の外は目も潰れてしまいそうな光で溢れている。木々はその命を誇るようにその葉を青々と茂らせている。
「夏ですね」
「ああ、夏だ」
「夏に編み物をしてはいけませんか?」
 罪のない目で問う。
「そんなことはないけど、この陽気に手編みのセーターを贈られる男には、流石に同情するよ」
「これ、マフラーですよ」
「似たようなもんだ」
 有紀寧の手はその間も休む様子がない。目線は朋也に向けながらも。器用なもんだと、朋也は感心した。
「それにわたしはあんまり手先が器用じゃありませんから。今からやらないと間に合わないんですよ」
「ここで見てる限り、とても不器用だとは思えないが」
 まるで魔法のようにすらすらと編み上げられていくマフラー。見ているだけで首の周りに汗をかきそうになる。
「一体いくつ編むつもりなんだ」
「出来るだけ沢山、です」
 ああなるほど、と朋也は合点した。
 宮沢には友達、特に男の友達が多い。彼らに贈ってやるつもりなのだろう。
「出来れば、でいいんだけど」
「はい」
「作った中で一番出来損ないでいいから、俺にも一枚くれないか。寒いのは、暑いのより苦手なんだ」
 そう言うと有紀寧は、少し首を傾げる。
「朋也さんにはプレゼントしてくれる人がいるんじゃありませんか?」
「宮沢、これはそういう問題じゃない」
 いいか、と朋也は声の力で有紀寧の作業を中断させた。
「目の前に、誰かにプレゼントをするために何かを作っている女の子がいる。その子に対してプレゼントを要求しないなんてのは、これは男じゃない。これは寧ろその健気な女の子に対する礼儀。そういうレベルの話なんだ」
「どんな理屈ですか」
 またくすくすと身体を小刻みに揺らしながら、有紀寧は心底可笑しそうに笑う。
「残念ですけど、岡崎さんには一番の出来損ないなんて差し上げるわけにはいきません。一番出来が良くて、毛糸の一つ一つにまでわたしの気持ちがいっぱい詰まった物――そう最初から決めてあるんです。今更決めたことをひっくり返すわけには、いきませんよ」
「宮沢、それって少し重くないか」
 朋也は、半分照れ隠しで言う。
 もう半分の気持ちは朋也自身にも掴み切れない。
「たまに軽いところがある岡崎さんには少々重いもののほうがいいんです。頑張って背負ってください」
 また資料室に静寂が戻る。

 しゅ しゅ しゅう
 しゅ しゅ しゅう
 しゅ しゅ しゅう

 有紀寧の手からは全く乱れることのない音が聞こえる。耳朶を撫で、三半規管に心地良い振動を与え、脳髄に刻まれる、リズム。
 ――静かすぎる、夏だ。
 いつもこの辺りで五月蝿く鳴いていたはずの蝉の声さえ聞こえない。


    ▼△▼△▼△


 随分長く眠ってしまったような気分で、朋也は机に突っ伏していた体勢から起き上がり伸びをする。時計を見ると、短針が3と4の間、長針がちょうど真下を指している。端的に言うと、3時半だ。朋也はその時刻を見ても、自分の中に何の感慨も起こらないことに驚いていた。というよりも寧ろ、自分がいつ頃眠ってしまったのか、いつ頃眠ってしまったのかも定かではないのだ。
「宮沢、俺はどのくらい眠ってた?」
 眠ってしまう前も後も全く変わらない様子で編み物を続ける有紀寧に尋ねる。
「さぁ」宮沢は何の感慨もなく言った。
「1時間くらいかもしれませんし、1日かもしれません。もしかしたら1年くらい眠ってたのかも」
「宮沢、俺だってたまには怒るぞ」
「うふふ」
 柄にもなく凄んだ朋也の気を一息で雲散霧消せしめる有紀寧の声。
「でも実際の話、自分がどれだけ眠ってたかなんて、分からないものですよ」
「時計を見れば一発だ」
「じゃあその時計が何者かによって狂わされていたとしたら」
「狂ってるのか」
「いいえ」
 ゆったりと首を横に揺する有紀寧。
 緩慢なその仕草はこの静寂の資料室の幻想的な感覚をさらに深めた。
「例えば、の話ですよ」
 有紀寧は動かしていた手を止めて、立ち上がる。何をするのかと朋也は少しびくりとしたが、コーヒーを注ぎに行っただけなのだと分かると、俄かに身体の緊張を解く。
「ホットでいいですか」
「ああ」
 この資料室には夏でも冬でも変わらずホットコーヒーしか出ない。しかし、ここで飲むホットコーヒーを暑苦しいと思ったことなど朋也は今までに一度もなかった。
「宮沢、本当はどのくらい経ったんだ」
「だから、さぁ」
「俺に意地悪したって何か宮沢にメリットがあるとは思えないんだが」
「実は」
 そういうと有紀寧は舌をぺろっと出して、「わたしも眠ってしまったから分からないんです」と言った。
「今、3時半だぞ」
「3時半ですね」
 どうぞ、と言いながらコーヒーを手渡す。朋也はどこか釈然としない面持ちでそれを受け取った。
「そんなに時間を気にするってことは、朋也さんにはこの後予定でもあるんですか?」
「そりゃ当然――」
 そう言い掛けて朋也は言葉を急に切った。
 予定。
 会うべき人。
 行くべき場所。
 間に合わすべき時間。
 それら全ての要素が自分の脳細胞からすっぽりと抜け落ちてしまっていることに、朋也は遅まきながら気づいた。しかしそれは最初から何もなかったということではなく、確かに朋也は何処かに行かなければならないのだ。朋也は理屈ではなく、もっと深い部分でそれを知っていた。
 行かなければならない。
 間に合わせなければならない。
 会わなければならない。
 しかし、それは朋也の中で模糊としたまま一向に明確な形を取ろうとせず、ただ思考と記憶の波間で揉まれるままに漂っている。今の朋也にそれを強引に掴んでくることは出来なかった。あくまで自分の手の届く範囲に「それ」が流れ着いてくるのを待たなければ。
「分からない。忘れて、しまった」
「なら、思い出すまでここでゆっくりしていけばいいですよ」
 是非もない。
 朋也は少しぬるくなったコーヒーにおずおずと口をつけた。



「宮沢は、何を待ってるんだ」
 コーヒーを飲み終わり、飽きることなく淡々と編み物を続ける有紀寧を眺めるのにも飽きた朋也に浮かんだ一つの疑問である。
 いくら糸が切れない限り半永久的に続けられる作業とは言え、時間の区切りも、目標とする作業量の設定も、何も無しに黙々と続けられるはずはない、と朋也は自分の経験則から思った。
 となれば、この後に何か予定があって、その時間が来るまでの手慰みとでも解釈するのが自然だ。
「何を待ってるか、ですか」
「ああ」
 考え込むように俯いた有紀寧の顔を、先ほどよりも西に傾いている太陽の光が濡らす。薄くブラウンがかった有紀寧の髪が金色に輝いている。
「……難しい、ですね」
「は? 何が」
 自分のように、忘れてしまったわけでもあるまいに。難しいことなど、あるのか?
 朋也は有紀寧が本当のことを言うのを躊躇っているのではないか、と思った。
「忘れた、ってわけじゃないんだろ?」
「ええ」
「じゃあ、難しいっていうのは?」
「説明しにくい……という意味です。なんと言ったらいいのか、ちょっとわたしにはわかりません」
 そう言ってまた考え込む有紀寧の様子に、朋也は先ほどとは少し違った不信感を抱いた。
「あまりわたしに言えることはないんですけど……まあ簡単に言いますと、わたしは人を待っています」
「人、か」
「人、です」
「人って、どんな」
「岡崎さんも、よくご存知の人ですよ」
 含むようにして笑う有紀寧。
 まるで、その人物が誰かということも気づけない朋也をからかうような、悪戯な笑み。
「俺が、知ってる奴で」
「ええ」
「俺と、親しくて」
「ええ」
「……誰?」
「岡崎さん」
「へ?」
「だから、岡崎さん」
「岡崎さんって、俺じゃん」
 そう言うと、有紀寧はふふふと笑うだけで、他には何も言おうとはしなかった。
 ワケ分からん。
 今日の有紀寧は意地悪だ。
 朋也は心の底からそう思った。


    ▼△▼△▼△


 他の季節と比べて長居が好きな太陽も、時計の針が6時を回る頃には流石に帰り支度を始めないといけないようだ。朋也は窓際に頬杖をつきながら、ぼんやりと太陽の帰宅を見守っていた。
 クーラーと扇風機がなく、コーヒーメーカーとガスコンロはあるこの資料室の暑さは半端じゃないが、なぜか自分から進んで出て行きたいとは思わない。まだ、帰りたいとは思わない。
 ん?
 帰りたいとは思わない?
 朋也は自分で自分の思考に首を傾げた。
 俺にとって家って凄く安らげる場所じゃなかったか? あれ、でもそんなことないぞ? あそこには親父が――って、何で俺って親父のこと嫌ってたんだっけ? そもそも俺って親父のこと嫌いだったか? おかしいな、あれ? 確か俺にはもっと大切な――
「岡崎さん、顔が呆けてますよ」
「悪かったな、考え事してる顔に見えなくて」
「えっ!? 考え事してたんですか?」
「何だよその考え事してるのがすげぇ意外、みたいな反応は」
「いえ、別に岡崎さんが考え事してるのが意外という意味ではなくて」
 有紀寧は手に持っていた編みかけのマフラーを椅子に置いて立ち上がった。まだ編み物してたのか、と朋也は少し驚いた。一体何時間やってるんだ。

「もう考え事をする理由も必要もないんじゃないかなぁ、と思いまして」

 朋也はその台詞に初めて違和感を感じた。それをきっかけに次々と流れ込んでくる疑問符の群れに、朋也の思考はあっという間に押し流されていく。
 そもそも今日何をしていたのか。全く思い出せない。この場所は確かに高校にあった資料室だが、俺はもうとっくの昔に高校なんて卒業しているはずだ。こんなに真夏なのに蝉の声が聞こえないのもおかしい。本当ならここにこうして眠っているのも厳しいくらいに騒がしい鳴き声を披露しているはずなのに。
「み、みやざわ……俺……俺は……」
 震えた声。
 次々と蘇る記憶。
 高校を卒業して、古河渚という少女と一緒になり、街の電気工として日々懸命に働いて、汐という子供を授かって、それから、それから――
「ようやく――」
 宮沢の、少し気だるげだが良く通る声に記憶を中断される。
「思い出せましたね、岡崎さん」
「……え?」
「あんまり岡崎さんが思い出してくれないもんだから、ほら、見てください。こーんなにいっぱいマフラー編んじゃいましたよ。どうするんですか、これ。もう、向こう10年間くらいはマフラーに困りませんよきっと」
 彼女の脇には純白のマフラーが大量に置かれている。一日で編んだとしたら正しく驚異的な量だったが、今の朋也の目には入らない。
「みやざわ……なんで、何で俺は、ここに、いるんだ? 俺は確かに――」

 死んだはずじゃなかったのか――

 途切れそうな声で、問う。
 孫まで含めた大勢の家族に看取られて、渚の待つ『彼岸』の世界へ逝ったはずの自分。閉じられていく瞼とは裏腹に、段々と光に包まれていく、意識。その光の向こうには確かに先立たれた妻の姿があって――

「あ、まだその辺は思い出せませんか」
 意外そうな顔をして宮沢がこっちを一瞥する。
 そして、その理由は実に簡単に、まるで昼ごはんの献立を告げるような口調で紡がれた。

「今日は、お彼岸ですからね」

 ああ――
 それを聞いた瞬間、全ての疑問が氷解した。
 彼岸。
 死者が生前の縁者に会うために現世に帰って来る日。
「あ、やっと全部思い出してもらえたみたいですね」
「ああ、じゃあ俺の約束ってのは」
 はい、と宮沢は軽く頷く。
「あなたの生前の伴侶である岡崎渚さんです。岡崎さんがあんまりにも思い出すのが遅いから、彼女には先に行っててもらいました。早く追いつかないと岡崎さんだけご家族と会えないかも、ですよ」
「ああ、そりゃまずい」
 朋也が言い終わるのと同時に宮沢が腕を軽く振るう。
 すると夕暮れが迫る資料室は跡形もなく消え去り、周りには暗闇だけが残った。
 いや。
 か細い一筋の光が朋也と有紀寧を照らしている。
「あの向こうが、そうか」
 朋也が尋ねると、有紀寧は「ええ」と頷いて指差した。
「あちらに行ってまず奥さんと合流してください。もう時間が無いですからね、ちゃっちゃと行ってちゃっちゃと帰ってくることになってしまいますが」
 まぁ最近は長居する人もめっきり少なくなってしまいましたけどね、と有紀寧は続けた。
「なんでだろうな」
「世知辛い世の中ですから」
 ぺろりと舌を出す。
 そんな仕草を有紀寧がしていたのかどうか。そんな些細な記憶は朋也の中には残っていない。
「あ、そうそう」
 有紀寧が思い出したように、付け足す。
「厳密に言えば、私は宮沢有紀寧ではなく、単なる案内人です。今日は特別にあなたの中に残っている宮沢有紀寧という人物のイメージをお借りしましたけど。その辺り勘違いの無きように」
 ぺこりと頭を下げる。
 つられて朋也も礼をする。
「なぁ、案内人さん」
「はい?」
「最後に一つだけ、質問していいか?」
「どうぞ」
「なんで、わざわざ宮沢の、しかも高校時代のイメージを使ったんだ? 他にも色々あったと思うんだが」
 そう言うと有紀寧の姿を借りた案内人は「なんだ、そんなことですか」と実に簡単そうに答えた。
「あれが、岡崎さんにとっての原風景だったから」
「原風景?」
「基本的に『あちら』の世界って、何のイメージも必要ないじゃないですか。だって、死んでしまえばある特定の個人である必要はありませんし、そんな風に自分という『個』を保ち続ける必要だってありません。だから、現世に行く場合――この場合だとあなたが『岡崎朋也』という個人として行く場合ですね――あらかじめ、個人としてのイメージを思い出してもらう必要があるわけです」
「ふむふむ」
「でも、いきなりそんなイメージを求めるのは、その人にとって非常に無理を強いることになるんですよ。個人が名前を持った『個人』で在ることって本来凄くエネルギーを使うことだから」
 それこそ、たった80年で命を使い切ってしまうくらいに、と有紀寧の顔をした案内人は言った。
「だから無理がないように、岡崎さんが『岡崎朋也』でなくても良いくらいに落ち着ける場所をイメージしてもらって『あちら』と『現世』をスムーズに繋げるようにしてやるんです」
「じゃあつまりあの資料室が、俺にとっては最も根源的な場所だったってことか」
「生まれた時に住んでた家とかなんですけどね、普通は」
 そう言いながら彼女は「はい」と白いマフラーを手渡した。
「これは?」
「また『こっち』に戻ってくる時のための通行証のようなものです。約束通り、いっちばん出来が良かったものを差し上げるんですから、暑いからって捨てて来ないで下さいよ」
「どうせその台詞、皆に言ってるんじゃないのか?」
「そそそ、そんなことは、ないのですよ!」
 有紀寧の姿をした案内人がうろたえて口調がおかしくなっているのを軽く流して朋也はそれを受け取った。
 もう暑さや寒さを感じる感覚など持っていないはずなのに、なぜかそのマフラーは温かく感じた。
「なんか不思議だな。温かいって感じるなんて」
 手早く首に巻きつける。
「そんなの当たり前です。一番心こめて編んだんですから。温かいのはマフラーじゃなくて、それに込められた心なんですよ」
 有紀寧の姿をした彼女は自分で言ってて照れたのか、段々顔が赤くなっていくのが薄っすら判る。まるで触覚のように伸びた一本の毛がなぜかしおしおと垂れていく。
「そっか、ありがとう」
 礼を言ったらさらに赤くなった。
「それじゃ、もう行くわ」
「はい、お気をつけて」
「あ、すまん。もう一つだけ頼めるかな」
「いいですよ」
 少し照れたように朋也は言った。

「宮沢がここを通ることがあったら、ありがとうって、伝えておいてくれるかな」

 それは、何の衒いもない感謝の気持ちだった。
 記憶すら擦り切れるくらい遥か昔のことなのに、未だ消えずに魂に刻み込まれた安寧を提供してくれた、あの資料室の主に。
 きっと誰よりも幸せで、誰よりも愛された生涯であったことを祈りつつ。

「伝えておきます」
 じゃ、と言うが早いか朋也はふわりと浮いて、一直線に『あちら』と『こちら』の境界を越えていった。

 一人取り残された彼女は有紀寧の姿のままで自前の手帳に何事かを書き付けて、一段落すると「ふう」と顔に似合わない溜息をついた。




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