失くしたものが後になってひょっこり出てきたりするなんてのはよくある事だ。
しかし、自分から捨てた物は、後になっても決して見つかることはない。












一月の路上に捨てる。









「ねぇ、祐一顔色悪いよ。大丈夫?」

 聞き慣れた従姉妹の声が、ぼうっとしていた俺を俄かに現実に引き戻した。普段は人の三倍以上はぼうっとしている彼女にそんなことを言われる筋合いはないぜ、とちょっとムッとしたのもご愛嬌。
「しかし、名雪は最近朝早いよなぁ。何で?」
「だって私朝型勉強に切り替えたもん」
 初耳だった。
「この世で一番お前に向いてない学習方法だとばかり思っていたが」
「ちょっと祐一。それはどういう意味かな」
 どういう意味かって言われても、そういう意味でしかない。むくれる名雪の背後から、秋子さんがおかしそうにくすくすと笑いながら、朝ごはんを運んできた。お、今日の朝飯はクリームシチューか。トレイの上に載せられた器からはいかにも旨そうな湯気がこぼれだしている。
「いただきまーす」
 言うまでもないことだが、秋子さんのクリームシチューは絶品だ。というか、秋子さんが作ったもので絶品でないものはほとんど存在しない。
「秋子さん、今日も最高っす」
「ありがとうございます。お代わりもありますから、遠慮しないで食べてくださいね」
「ういうい」
 お代わりしていいとお許しが出たので、ついつい三杯もお代わりしてしまった。
「げっぷ」
「もう、祐一お行儀が悪いよ」
「へいへい」
 名雪は意外とそういう所にうるさい。秋子さんがそういう行儀作法に関して文句を言う事はほとんど無いのに、不思議なものだ。名雪が小さい頃の秋子さんは厳しかったのだろうか。今の秋子さんは俺たちのこうしたやり取りを見ていても、ただただ微笑ましいものを見ているような笑顔を浮かべているだけだというのに。
「でも、良かった」
「はい?」
「祐一本当に顔色悪かったから。それだけ食べられるなら病気とかじゃないみたいだね」
 反論しようとしたら、横から秋子さんがうんうんと頷きながら言う。
「そうですよ。お勉強も今が追い込みなのは分かりますけど、身体にだけは注意してくださいね」
「はい」
 秋子さんの言葉だけに、俺は素直に頷くほかなかった。
 別に俺が目指している大学は身分相応な所だから、勉強量的にそこまで無理をしているわけでもない。体調的に良くないところがあるわけでも、夜更かししてすることがあるわけでもなかった。



 小さな女の子が泣いている。
 白いリボンとセーターの、天使みたいな女の子。
 必死に声を押し殺して、だけど堪えきれない涙と嗚咽が俺と彼女の間にある空気をかすかに振動させていた。
 俺には彼女の声が聞こえない。
 聞こえない、聞こえない。
 だけど何かを言っているのが、彼女の口の動きで分かる。
 聞こえないままに、彼女は段々と背後にある闇へと遠ざかっていく。
 彼女が、消えていく。
 そして、俺はようやく光を取り戻す。



 そんな夢を毎晩繰り返し見るという、ただそれだけのことだ。





 静寂が支配するはずの図書室に、ぐおぉと、場違いな騒音が響き渡っている。発生源は誠に不本意ながら俺の隣の席だ。
 堪忍袋の尾が切れたのか、俺たちのチーム名である『美坂チーム』、その由来でもあるリーダー・美坂香里がすくっと立ち上がる。香里が発する巨大な殺気に巻き込まれないように、小動物と俺がそそくさと避難を始める。香里がゆらりと立ち止まり、おもむろに右の拳に息を吐きかける。前から漫画とかで見るたびに思ってたけど、あれって一体何の意味があるんだろうな――
 ごい―――――ん
 現実逃避気味に思考を巡らせていた俺は、煩悩を散らすと言われる除夜の鐘を思わせる鈍い音を遠くに聞いていた。
「うわぁ、痛そう。大丈夫かなぁ」
「大丈夫なわけないだろ」
「北川君じゃなくて、叩いた香里の方だよ。私が心配してるのは」
「大丈夫じゃないのはもちろん両方だ」
 夢見心地のままに悶絶させられた北川と拳が真っ赤に腫れて滅茶苦茶痛そうにしている香里を、俺と名雪は遠巻きに見ていた。涙目の香里を哀れに思った俺は止むに止まれず声をかける。
「香里、大丈夫か」
「大丈夫なわけないじゃないっ」
 おお、拳が真っ赤だ。目も涙がうるると溢れそう。
「そりゃそうだよー、あんな硬いモノ思いっきり叩いちゃー」
「だよなぁ」
「そうね、これからは注意するわ」
「……だ、誰か、オレのことを気遣う奴はおらんのか……」
 北川は瀕死である、色んな意味で。
 無理もない。奴が狙っているのは、奴の学力からすれば果てしなく無理目の大学なのだから。毎日毎晩が睡魔との闘争、受験に関係ない授業は容赦なく睡眠学習。いつ成仏してもおかしくない、四当五落を地でいく勇敢な闘いっぷりだ。
 なぜ北川がそんなにも頑張らなければいけないのか。それはもう北川を少しでも知っている人間には言うまでもないことで、香里もそれを分かっているからこそ、北川の扱いに困っているのだろう。鉄拳か。ちょっとばかし歪んじゃいるが、可愛い愛情表現じゃないか。
「羨ましいぜ、北川」
「あ、やっぱり?」
「相沢君も殴られたいの?」
「えっ、祐一にそんな趣味があったなんて、私知らなかったよっ」
「ねーよ! 最初から!」
 ああ――楽しい。

 例え、俺の視界に夢で見た少女の影が所構わずチラついていたとしても。





 実を言えば、彼女の姿を目にするのは夢の中だけでは無くなってきていた。
 最初はただの影に過ぎなかった。あれ、俺って目の調子おかしくなってきてる、大変だ眼科行かなきゃ、というような程度のものだった。眼科へ行っても俺の目には何の異常も見つからず、俺の視界をうろつく不穏な影は前にも増して辺りを跳梁跋扈するようになった。その影が夢の中の彼女の姿だと気付き始めたのは、俺がこの街で過ごした始めての一年が暮れ新年を迎えた頃だ。受験や卒業、転居に入学、イベントが目白押しの最中、俺が勝手に見ている下らない幻覚のようなもののために、周りの連中に迷惑をかけるわけにはいかない。俺は、俺が見ている幻を俺の心の中だけにとどめておく事にした。
 
 騒ぎすぎで図書室を追い出された俺たちは、することもなく北風の吹きすさぶ帰途へと就くことになった。互いにじゃれるように罵りあいながら歩いている。
 その一瞬の隙間、北川が唐突に口を開いた。
「そういえば、相沢が転校して来てからもう一年経ったんじゃないか?」
「え、もうそんなになるの? あんまり自然だから相沢君は昔からずっとここにいたもんだと思っちゃってたわ」
 俺もそんな気がする、と心の中で香里に同意した。
「1年かぁ。長いようで短かったよね」
「本当だよな。出来る事ならもう一回一年前に戻りたいぜ」
「えー、私は御免だわ。色々あったもの。この一年。もう一回やれって言われたら……やだな、やっぱり」
 香里は去年の冬には妹の手術などがあって色々大変だったようだ。後になって俺たちにも話してくれたのだが、その時期はやはり大変だったようだ。
「祐一は、どう? 一年前に、戻りたい?」
 名雪が試す目つきで俺の顔を下からのぞきこんできた。
「俺は――」
 戻りたい、と言おうと思ったところで、俺はふと止まってしまった。視界には相変わらず彼女の姿がある。
 去年この街に来たばかりの頃は色々と勝手がわからず名雪や秋子さんを始めとする周りの皆に迷惑をかけた。いや、そういうことじゃない、そんなことじゃない。
「俺は……」
 もっと何かがあったような気がする。俺の魂の底を揺さぶるような、もっと他の何かが。何があったんだっけ、俺がこの街に来たあの頃に。それは一体何だったのだろう。
 なぜ俺は忘れてしまったのだろう――
「――戻りたくないな。やっぱり」
 過去を探る途中で俺の口が勝手に答えを声にした。
「もう一回やれって言われたら、やっぱりやだよ。そういうもんじゃないか?」
 北川は俺の言葉に「うーん、そうかなぁ」などと首を捻っている。香里はうんうんと大きく頷いている。名雪は、なぜか微妙に何かを含んでいるような表情をした。
「お、それじゃ水瀬、相沢、またな」
 話に夢中になっている間に、いつの間にか分岐点に着いていたみたいだ。俺と名雪は右、北川と香里は左だ。
「うん、じゃあね。また明日」
 それぞれに手を振って、それぞれの帰路に就く。北川と香里の姿は夕暮れの中にあって二つ、リズム良く揺れて、やがてカーブへと姿を消した。
「じゃ、私たちも、行こ」
 名雪が思い出したように俺に言う。俺は無言で頷いて、名雪の後を追いかける。
 名雪は夕飯の献立をあれこれと予想しながら、なぜかとても楽しそうだ。そんな名雪を見ていると、こちらまで自然と楽しくなってきてしまう。
 受験だ進学だと色々なプレッシャーやストレスは山ほどある。しかし、俺の周りには名雪や香里、北川のような気の置けない友人がいる。家に帰れば母親よりも母親らしい秋子さんの手料理が迎えてくれる。将来には何の不安もなく、これからもっと素晴らしいことが俺を待っているんだと何の疑いもなく思える。
 そう、俺は今、楽しいんだ。少しの不安など、余りあるような幸福感で塗りつぶして生きていけばいい。  楽しい。
 楽しい。
 俺の今は――最高だ。

「あ、あれ何だろ」
 名雪がふいに道端で何かを拾った。牛乳瓶よりも少し小さいくらいのガラス瓶に何か妙なものが詰まっている。 「おい名雪、変なもの拾うなよ。ばっちーだろ」
「わ、これ多分人形さんだよっ。ほら、祐一見て見て」
 どれどれ。
 俺は名雪から受け取った小瓶をしげしげと眺める。うん、確かにこれは何かの人形のようだ。瓶のガラスが長年の汚れで曇ってしまっていて中がよく見えないが多分間違いない。俺は瓶の蓋を力任せに外して、中身を引きずり出した。
 その瞬間、俺の隣からはっと息を呑んだような音が聞こえた。
「――なんだこれ?」
 なんかよく分からないがこれは人形だ。背中に羽を生やした、ゲーセンに行けばいくらでもありそうな、小さな人形。デザインからはなんだか凄く古めかしいような印象を受ける。持ち主は相当この人形を大切にしていたのか背中の羽には軽く補修の痕が見られる。なぜガラス瓶なんかに詰められてこんな所に捨ててあったのかは分からないが。
『――戻りたくないな、やっぱり』
 なぜか少し前の自分の言葉が俺の頭の中でこだまする。あれは、勝手に口をついて出たその場限りの出任せみたいな適当な言葉だろうと自分でも思う。しかし、だからこそそれは俺にとっての真実であるような気がした。
 彼女の影が視界の隅でぴくりとうごめいた。
 だが、俺はそれを無視する。
 俺の現実はそこにはないと、俺はよく知っているはずなんだから。
「ほい、名雪」
 俺は人形を再び瓶に詰めて名雪に投げ渡した。名雪は「わわっ」などと言いながらぶきっちょにお手玉している。
「多分落とし主がいるんだろうから、その辺に置いておいたほうがいいだろ。元の所に置いといてくれよ」
 なぜか名雪から答えが返ってくるのに数秒の時間を要した。沈黙の後、「うん」と、妙に緊張した名雪の声が返ってきた。
 名雪がそれを元の場所に戻すのも見届けず、俺は歩き出した。名雪は駆け足で追いついて、控えめな様子で俺の横に並んだ。再会してから一年経った今も馴れずに微妙な距離を取る従兄弟の少女を、瞬間風速的に愛しいと思ったことは一度や二度じゃきかない。繋がりそうで繋がらない揺れる二つの影が、背後の路上に大きく長い影を落しているだろう。でも俺は、振り返らない。振り向かない。
 商店街にさしかかる。もう見慣れた地元の商店街はオレンジ色の夕闇の中に沈んでいる。俺はなぜかその光景を懐かしいと思った。
 名雪がやや緊張気味に口を開いたのと、一際強い風が俺たちの間をすり抜けて駆けていったのは、ほぼ同時だった。

「――ちゃん、今頃何してるのかな」
「え、それ、誰のことだ?」





 その後、俺は例の夢をぱったりと見なくなった。無論、俺の視界をうろちょろとしていた彼女の影も。
 道端に放置した小瓶も次の日には消えていた。きっと慌て者の持ち主が後になって取りに来たのだろうと、俺は勝手にそう思っている。




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