アリー、僕を消したりしないでくれよな。
 アリー、僕を消したりしないでくれ。
 アリー、僕を消したりしないでくれ。

 頼むぜ、アリー。

(キャッチャー・イン・ザ・ライ/J・D・サリンジャー)






冷たい頬






【あなたのことを深く愛せるかしら】

 アスカが玄関のドアを開けた音がして、僕は反射的に飛び起きた。どうやら気付かないうちに眠ってしまっていたらしい。アスカが来る前にやっておくべきだったいくつかのことは完全に放棄。僕も中々やるものだと、下らないことで自画自賛する。
「ただいまぁ」
 いつもより少し疲れた声。それを聞いて、今日は甘いものでもデザートにつけようか、などとぼんやりと考えている僕だ。こんなことだから『シンジが一番向いてる職業は家政婦だと思う、しかも住み込み』などと中傷されても反論出来ないんだよな。
「アスカ、何度も言うけどここは」
「君の家じゃない、でしょ?」
 口癖の先回りをされるとなんだかとても悔しい気持ちになる。笑って流せない僕を見て、アスカはにんまりといつもの笑顔を浮かべる。
「いいじゃない別に。挨拶なんて人がいるからするものでしょ? 誰もいない部屋に向かって『ただいま』なんて言ったって空しいだけよ。だったら多少なりとも人間のいるところで言ったほうが健康的じゃない」
 なんか良いこと言っているように見えて、色々と突っ込みどころのある台詞だ。
「つまり、アスカは単にただいまって日本語が好きなだけなんだね」
「馬鹿と鈍感は死ななきゃ治らないわよシンジー……よいしょっと」
 アスカはやたらと大きな荷物を抱えていた。玄関の隅にそれをどすんと置く。確か今日から大学の講義はほとんど終わりだって聞いたような気がしたので、それはきっとアスカが大学で使っている参考書や文献なのだろうと、僕は思った。アスカは玄関に荷物を置いて、自分はさっさと部屋に上がりこんでしまう。相変わらず、と僕は小さな溜息を吐いて、やたらに重い荷物を邪魔にならない場所に寄せておく。
 ダイニングに入ると、早速ビールを開けて一杯やっているアスカの姿があった。もちろん無許可無申請。家主の意向は遥か彼方だ。後で絶対代金を請求してやる、と僕は心に堅く誓う。ちなみに、そんな誓いが果たされたことなんて今まで一度も無い。真正面に向かい合ってアスカの顔を見ると、それまで言おうとしていた文句や注文が途端にどうでもいいことのように思えてしまうのだ。そういう状態のことを、人は「飼いならされている」と言うのかもしれない。
「シンジ、今日のご飯は?」
 アスカの何気ない一言にびくっと反応してしまった。冷や汗がたらりと背中を流れる。アスカは油断なく僕の様子を観察している。今日アスカが来ることは前々から分かってたことだ。きっとアスカは僕の手料理が食べられると思って、目一杯お腹をすかせてきたのだろう。段々とアスカの目付きがきつくなる。僕の足は宿主の意志を静かに反映し、じりじりと後退を始める。
 要するに――忘れてたってことだ。しょうがないじゃないか、眠ってしまったのだから。
「シンジ、あんたまさか」
「うん、そのまさか」
 にっこりと笑って背後に駆け出す。すると既に空になった缶ビールが僕の脳天目掛けて飛来した。


   △▼△▼△


「だからー、ごめんって言ってるじゃない。ほら、よしよし」
 元々アスカが作ったたんこぶだ。撫でてもらったって嬉しいはずがない。
「…………」
 僕は黙ったまま、さっき買って来てもらったコンビニ弁当の封を開ける。ふわあっと、いかにもコンビニ弁当という安っぽい香りが充満する。普段こういうものを食べなれていないので、逆に新鮮な感じがした。
 アスカが投げた缶は僕の頭に漫画みたいな大きなこぶを作った。アスカはまさかクリーンヒットするとは思っていなかったらしく、普段とは違って殊勝な態度を取っている。コンビニ弁当だってアスカがすすんで買って来てくれた。ちろりと視線をやると、苦笑いを浮かべる。そんなアスカを見ていると無性に可笑しくなってきて、僕は笑みを浮かべてしまいそうになる。
「いただきます」
「いただきます」
 どちらからともなく手を合わせていただきます。アスカと二人で食事を取る時はいつもそうだ。この習慣が、いつから、どこから、誰から始まったのか、きっとそれは二人が共有しているいくつかの事柄の内の一つだ。アスカも僕も、けして口にはしないけど。
「ん、意外とこれいけるね」
「当然でしょ。このあたしが選んできたんだから」
 その根拠の無い自信は一体どこから出てくるのだろうか。無駄に胸を張るアスカを見て、僕は少し笑った。この狭い部屋には二人しかいないけど、ここにあるのは多分幸せな風景というものなのだろう。幸せなんて、僕の手には過ぎたものだというのに。
「そういえば、アスカが持ってきたあれ、何なの?」
「あー、あれね」
 別に大したものじゃないわよ、とでも言いたげにコンビニ弁当の安っぽいハンバーグをつまみ上げる。ちなみに僕の弁当から。
「ちょっと」
「運び賃」
 そんなこと言いながらひょいと口に入れてしまう。
「いいじゃない、これくらい。重かったんだからねっ、あれここまで運んでくるの」
 その言葉に違和感を覚える。
「あれ、僕の?」
「ほ、か、に、誰がいるっていうのよ」
 弁当についてきた割り箸が目の前でぶんぶん振り回される。一通り振り回すと、「ふんっ」と鼻息も荒くアスカは再び自分の弁当に取り掛かる。
「で、あれ何なの?」
「さぁ」
「さぁって」
「だってあたし、シンジのとこ行くなら持って行ってって頼まれただけだもん。中身まで一々確認しないわよ」
 アスカの話には重要な情報が欠けている。持ってきてもらった荷物の中身なんか後で確認すれば事足りる。そう重要なのは――
「アスカ、誰に頼まれたの?」
 アスカは僕の言葉が聞こえなかったかのように、一心不乱にしその振られた白米をかきこみ、僕よりも早く食べ終わる。脇に置いた二本目のビールに手を伸ばす。かしゅ。缶を開けるいつもの音がする。
「アンタのママよ」
 アスカはそれ以上その話題について口を開くことはなかった。僕はごく自然な様子で残った弁当に取り掛かり、アスカはつまみもなしにごくごくと水のようにビールを消費していく。アスカの喉を通り抜けるビールの音に、知らずに聞き惚れている僕がいる。何気なくつけっ放しにしていたテレビからは、世界各地で起こる新興宗教絡みのテロのニュースがBGMのように流れている。


   △▼△▼△


 アスカはいつも午後九時を回る頃には僕の家を後にする。アスカの家はここから徒歩で三十分、自転車で十分、車で五分くらいのところにある。自転車も車も使わないアスカは徒歩で家まで帰ることになるが、僕は彼女を家まで送っていったりはしない。この家の敷居をまたいだアスカが僕の家族となるように、アスカがここから出て行ったその瞬間、僕とアスカはもとの他人同士に戻ってしまうのかもしれない。
「明日また来るから、その時はちゃんとハンバーグ、作っときなさいよっ!」
 アスカはそんなことをまくしたてながらちょっとアルコールの入った陽気さで帰っていった。僕はアスカが帰った後、彼女が持ってきた荷物を改めることにした。ずるずると引き摺るようにして部屋まで運ぶ。よくもこんな重い物を台車もなしに運んできたものだ。「あんたのママ」とアスカは言った。僕の実家からだとすると、片道と言えどまあまあの距離になる。コンビニ弁当の安っぽいハンバーグ一切れでは、運賃とするには安すぎたみたいだ。明日アスカが家に来た時には、せいぜい気合を入れてハンバーグを焼いてあげることにしよう。
 リュックの中身はどうやら本の類のようだ。それもハードカバーから文庫までお構いなしに入れてある。隙間なく計算されたように整えてあるのは、きっと詰めた人間の性格だろう。それにしてもこんなにパンパンになるまで詰めなくてもいいのではないか。本は数が集まれば意外と重い。あんまり詰めすぎると引越し業者に嫌な顔をされる。ここ数年の間に数回の引越しを経験した僕は、引越し業者に好かれる荷物の詰め方というものを体得しつつある。まあ、これもどうでもいいことだ。僕の人生なんて、所詮どうでもいいことの繰り返しだ。これまでだってそうだったし、これからもそうなのだろうと、悟ったようなことを作文にして書いたのは十年と少し前、第三新東京市に来る前のことだった。

 十年前のあの日から数日後、父さんが行方不明になったと僕は病院のベッドの上で聞いた。晴れて僕は引受人のいない孤児となったというわけだ。別に悲しくもなんともなかったが、自分勝手に消えてしまったあの男のことを恨む気持ちがなかったかと言えば嘘になる。父さんが遺してくれたものといえば、一生かかっても使い切れないほどの財産と、墓の前で捨て台詞のように残されたあの日の言葉だけだった。
『シンジ――もう私を見るのは止めろ』
 財産に群がる有象無象にほとほと愛想が尽きた僕は、父さんの財産を残らず慈善団体に寄付した。少しでも世界復興の資金になれば、と色々と世話してもらった弁護士にだけ話した。本音の所では、そんなこと一欠けらも思ってはいなかったのだけれど。
 文無し、未成年、身寄りなし。考えうる限り最悪の状況に陥った僕を救ってくれたのはリツコさんだった。世話になる謂れはないと、一度は拒否しようとした。僕はリツコさんのことをこれっぽっちも信用していなかった。使徒戦中に僕らがされたことを考えれば至極当然のことだと思う。しかし、父さんとリツコさんの偽らざる関係とあの日起きた結末を涙ながらに告白され、せめてあなただけでもと迫られた僕に断る言葉はなく、結局僕は首を縦に振らざるを得なかった。彼女を憎む気持ちが僕の中に無かったとは言わない。けれど、大人の女の人の涙を見たのは僕にとって二回目のことで、拭えなかったあの人の涙が僕の前で再現されているような気がしたのだ。
 僕はリツコさんの所で暮らし始めた。リツコさんはNERV繋がりの仕事を一切やめて専業主婦のようになり、僕は高校に行って普通の学生生活を送った。科学者としての自分を捨てたリツコさんは、保護者として全く文句の付けようがなかった。僕を学校へと送り出し、家へと迎え入れることだけがリツコさんの全てのように思えた。ありふれた言葉で言うなら、リツコさんは僕の母になろうとしていたのだと思う。
 もちろん、嬉しくないはずがなかった。ここまで無条件に他人から優しくされたのは初めてのことだったから。だけど、心の内に沈殿した違和感はどうしても拭い去ることが出来なかった。それは例えば、僕の中の父さんに対する憎しみであったり、リツコさんが持っている僕やアスカに対する負い目であったりしたのかもしれない。表面上は穏やかな日々の中、僕らはお互いがお互いの傷を舐め合いながら抉り出し、心の中に隠せない沈殿を肥大させていったのだ。
 高校を卒業した僕は奨学金の制度を使って大学へ進学し、同時にリツコさんの家を離れることにした。リツコさんは反対しなかった。引越しの日、僕らはどこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
 結局、僕らは傷ついたお互いを見せ続けられることに耐えられなかったのだ。
「ここはあなたの家でもあるのだから、遠慮することはないわ。いつでも帰っていらっしゃい」
 そう言ったリツコさんは僕の身体をかき抱いて、静かに泣いた。もうここに帰ってくるつもりなどなかったし、リツコさんだってそんなことは分かっていたはずだ。だけど、そう言わずにはいられなかったリツコさんの気持ちも、何となくだけど理解できるような気がした。理屈ではなく、僕たちはもう一緒にいられないのだ。そのことが途方もなく悲しくて、僕は声を上げて泣いた。特別楽しくもなく、愉快なこと一つなかった退屈な暮らし。もう二度と戻って来ない大切な日々。何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのだろうと懲りない自分を責めるたび、目の前を覆う真っ赤な海の錯覚に僕は溺れていくのだ。

「ふう――」
 リュックに詰め込まれたものを全て取り出すと結構な量になった。眺めながら意図せず一つ、溜息が零れ落ちる。僕の部屋の床は一面本だらけ。さして広くもない僕の部屋は一瞬にして足の踏み場もなくなった。普段は割と綺麗にしているだけに、この現状との落差に自分でも驚いてしまう。
 アスカが僕の実家――要するに僕が高校生の間に暮らしていたリツコさんの家のことだ――から運んできたのは、そこで暮らしていた時に僕がせっせと買い貯めた本だった。とは言うものの、学術書のようなものはなく、そのほとんどが小説だ。昔から本を読むのは嫌いではなかったが、リツコさんの家での暮らしでその傾向に拍車がかけられたのか、僕は気が狂ったかのように手当たり次第に本を読み漁るようになった。その結果が、この有様というわけだ。
 家を出る時、やっとのことで借りた狭い部屋には収納しきれない蔵書は、リツコさんの好意で部屋に残させてもらった。仮に置かせてもらうだけ、生活に余裕が出来たら必ず取りに行くと僕は念を押した。それなりに忙しく、それなりに厳しい日々の暮らしに追われ、いつの間にか僕はそんな約束も忘れてしまっていた。でも、今になってわざわざ、しかもアスカを使ってまで僕に返してきたことに対して、違和感を覚えた。
「まぁ、そんなこと考えてもしょうがないか」
 気合を入れて、整理を始めることにした。フィッツジェラルド、キング、リチャード・バック、手当たり次第に仕分けしていく。どれもこれも、ある一定以上思い入れのある小説ばかりだ。いつ、どこで、どんなふうに読んだか。今でも鮮やかに思い出すことが出来る。グレッグ・イーガン、カフカ、ドストエフスキー、と順に来たところで、僕の手は止まった。他の本と比べて明らかに古びて痛んでいる本。ドクンと、僕の心臓が違和感を訴える。
 それはストーリー性などという言葉とは、およそ縁のない小説だった。ある学校を退学になった頭のおかしい(としか思えない)少年が勝手のわからない都会をただひたすらに歩き回るだけ。退屈で猥雑な一人称の小説はやたらに僕の胸を打った。エヴァから逃げ出して街を彷徨い歩いた三日三晩、僕は僕なりのホールデン・コーンフィールドを演じている気すらしていたのだ。キャッチャー・イン・ザ・ライ。リツコさんの家から歩いて五分の所にある本屋でそれを見つけた時、帯を見て中身を確認し、すぐにそれだと気付き、レジへと足を運んだ。懐かしさと、後悔と、くすぶり続ける感情が胸の奥で入り混じって、何だかすごく妙な気持ちになったことを覚えている。

 僕は、思い出していたんだ。

 この本を手にした君が静かに微笑んだのを。
 ささやかな幸せとともにあった、あの永遠に続く夏の日を。
 もうどこにもない、君の姿を。



【あきらめかけた楽しい架空の日々に】

 その唇がかすかに動いたのを、確かに見つけた。ゆっくりとしたリズムで上下する肩に吸い寄せられるように、僕はそろそろと彼女に近づいていく。色褪せてしまいそうな大切な思い出をアルバムにしまっておくように、彼女が眠る風景の四方を切り取ってしまえたらどんなにいいだろうと、人工の空の下で僕はそんなことを思った。彼女――綾波レイの周囲には、知らず知らずのうちに心地良い音楽がこぼれていくようだと、午後の眠気から逃れられない頭の中でぼんやりと呟いていた。
 綾波の喉からかすかなうめきがもれ、意識の大部分が彼女にもっていかれた。真っ白な彼女の頬には少し赤みがさしていて、胸が締めつけられるような、なんとも言いようがない気持ちになった。混じり気のない純粋と、僕は勝手に彼女のことをそう決め付けていたから、真っ白な頬にさした微妙な赤に違和感を覚えた。純白にまぎれた不純物こそが彼女なのだと、心のどこかで感じ取っていたからこその消せない違和感だった。
 僕は彼女の頬に手を伸ばした。胸の奥底に沈んだある一つの曖昧な感情に背中を押されて。おずおずと触れたその頬が驚くほどに冷たかったことを、僕は今でも覚えている。
「いかり……くん……?」
「ごめん。起こしちゃったね」
 出来るだけ優しい声色をと、涙ぐましい努力をした僕の顔は、うまく笑えていなかったに違いなかった。笑い方を忘れてしまったのではないかというくらいに長い間、僕は笑えていなかった。
 綾波はいつも以上に焦点の定まらない目をしていた。綾波に課せられる実験や試験は僕やアスカの比ではなかった。連日連夜本部に詰めっきりで、部屋に帰るなり着替えもそこそこにベッドに倒れこむ。そんなふうに学校を休む綾波のプリント類を運ぶ係のようになっていた僕は、綾波の中に隠し切れない疲労の色を発見するたび、いたたまれない気持ちになった。どんなに使徒との戦いに勝とうと、どんなに高いシンクロ率を叩き出そうと、結局のところ自分は無力な子供に過ぎないのだと、乱暴な言葉を叩きつけられていくようだった。
 臆病者たちの街と、誰かが自嘲の響きで呟いたこの街は、束の間の平穏を手に入れていたように見えた。しかし、それは子供が砂でこしらえるちゃちな建造物のように、小さな力でつつけばすぐに壊れてしまうようなものでしかなかった。
 この街に来てから僕のかけがえのない友人だった彼は、僕の血塗られた手によってその短い生を終えることになった。兄のような存在だった彼も突然僕らの前から姿を消し、それを知った姉のような存在だった彼女はただひたすらに泣いた。少し前に現れた使徒――大人たちは襲いくる彼らのことをそう呼んでいた――との戦いで僕の同居人だった少女は心を病んだ。
 景色を眺めながら歩むような速度で、僕らはゆっくりと心を閉ざしていった。何一つ確かなことのないあの頃、これだけは確信を持って言えるのだが、僕にとって、そして僕以外の多くの人にとって、それはけして不快なことではなかったはずだ。
 それでも、綾波だけは変わらないように見えた。どうにもならない生き苦しさに誰も彼もが心をすり減らしていく中、彼女だけは変わらずに美しいまま。時の流れから一人だけ切り離されているような。もちろん、そんなことあるはずがないことくらい、僕にだって分かっていた。
 ふと、綾波の手元に目が止まった。
「その本、まだ持ってたんだ」
「ええ」
 綾波は頷いて手元の文庫本に視線を落とした。その瞳が笑みを浮かべているように見えたのは、僕の気のせいではなかったと思う。
 その本のことは僕もよく覚えていた。思い出すと冷や汗が出そうになる、この街に残る数少ない幸せな思い出だった。

 確かアスカがこの街に来る少し前のことだったと思う。
 街の本屋で偶然綾波を見つけた僕は、その時お気に入りだったこの本を彼女に薦めた。「これなんか、いいんじゃないかな」なんて、今にも裏返りそうな声で僕が言うと「なら、これにするわ」と綾波は迷わずその本を手にレジに向かった。その様子を呆けた頭でぼんやり見ていた僕は、次の瞬間正気に戻って青ざめた。出来ることならレジに向かう綾波の手を掴んで本の選択をもう一度やり直したいくらいだった。だって、ありえないだろう。偶然本屋で会った憧れるくらい綺麗な同級生の女の子に、よりにもよって「ライ麦畑でつかまえて」を薦めるなんて。だけど時既に遅し、綾波はさっさと会計を済ませて僕の所に戻ってきた。いつも通り、何を考えているのかさっぱり分からない顔をしている綾波に、まさか「その本、実はそんなに面白くないかも」などとはとても言えず、僕らはのたのたと帰途についた。そこからだとミサトさんのマンションよりは綾波の家の方が近く、僕は綾波を送っていくことにした。会話もないのにちっとも重くならない不思議な沈黙の中、僕らはただひたすらに歩いた。太陽は暮れかけて、オレンジ色の夕焼けの街の中を二人の影が前方に細長く伸びていた。歩くこと自体が妙に気持ちよくて、どこまでも歩いていけそうな気がしていた。綾波の家がもっと遠かったら良かったのにと、見当違いの願いすら抱いていた。
「それじゃ、」
「また明日」
 綾波がさよならと言う前に言葉を被せて僕はその場を後にした。あの本を薦めたことに関する後悔はいつの間にか消えていた。彼女と共有した時間を愛しく思う気持ちだけが、さざなみのように僕の心を優しく揺らしていた。

「ところでさ、その本面白かった?」
 あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。想像も出来ないくらい長い時間だったような気もするし、瞬きするくらいにあっという間だった気も。どちらにしても、今さらという気持ちは消せそうになかった。綾波は小さく頷いた。
「ごめんね、変なの薦めちゃって」
「そんなことない」
 ちらりと、発行元のページに綾波の字で何かメモがしてあるのが見えた。僕の位置からだと何が書いてあるのか判読することは出来なかった。それを見る綾波の瞳は少し濡れているように見える。
 不意に綾波を抱きしめたい衝動にかられた。何一ついいことのないこの世界の中で、彼女だけが輝いてみえた。夢とか、希望とか、何一つ信じられない僕だけど、一瞬でも彼女がそんなものに見えた。
「……泣いてるの」
 抱きしめるかわりに、大粒の涙がいくつも零れた。今僕はすごく変な奴に見えているだろうなと思ったけど、自分ではどうにも止められそうになかった。みっともなく嗚咽を漏らし、腿の上の拳は血が滲みそうなほど握り締めて。
「……綾波?」
 何かが頬に触れる感触に目線を上げる。頬からゆっくりと目尻へ、そして――
「泣かないで」
 少し触れた綾波の小指がやけに冷たかった。透き通るように真っ白なハンカチは優しく僕の頬をなぞっていく。こんなにも沢山の涙が流れたのかと、僕は少し不思議に思った。
「碇君の頬」
「え?」
「やっぱり、温かいのね」
 そして綾波はまた微笑んだ。いつだって僕はその笑顔には見惚れてしまう。
 今にして思うことはいくつかある。綾波は自分がこれからどうなるのか、知っていたのではないだろうかということ。全て知った上で、みっともなく嗚咽を漏らす僕の涙を拭ってくれたのではないかということ。そのことが綾波にとってどれくらい大きな意味を持っていたのかということ。身を裂くような寂しさに歯を食いしばって生きているのは自分だけではないのだと、自分の事だけで精一杯だった当時の僕には到底気付けやしなかった。
 その事が、今でも心に突き刺さっている。
「綾波の頬が冷たすぎるんだよ」
「そう?」
 その後僕らは二人で電車に乗って家路に就いた。いつかと同じように、僕は綾波を家まで送っていった。今度は僕の家の方が遠かったけど、そんなことは問題じゃなかった。僕は綾波と二人でいる時間をいとおしく思っていたし、彼女もきっと僕と同じ気持ちだった。それだけで後は他に何もいらないと、僕は本気でそう信じていた。
 綾波の家に着いた。工事のピストンも止まっていて、辺りを静寂が支配していた。僕は知らず知らずの内に繋がれていた手をそっと離し――
「じゃあ、」
「また明日」
 今度は僕の声が綾波に遮られた。どちらからともなく見つめ合い、そして笑った。
「あの本の感想、また今度聞かせてよ!」
 それだけ言うと僕は駆け出した。自分のやっていることが急に恥ずかしくなったのだ。走りながら振り返ると綾波が小さく手を振っているのが見えた。
 また今度。今度とは、いつのことだったのだろうか。明日、明後日、その次。そんなことだけで、僕は明日もなんとか生きていけそうな、そんな気がしていた。
 今度なんて、どこにもありはしなかったというのに。


   △▼△▼△


 朝の光がカーテンの隙間から差し、僕は目を覚ました。昨日は本を整理している間に眠ってしまったらしい。部屋にはいまだ片付けが済んでいない本があちこちにとっ散らかっている。
「さむ……」
 さすがに十一月ともなると何も羽織らないで眠るのは止めた方がいいなと思った。寒さは日に日に厳しくなっていく。あの日から戻ってきたという季節の移り変わりには、相変わらず慣れそうにない。寒いのは特に苦手だ。這うようにしてストーブの傍まで行き、スイッチを入れる。僕の家にあるのはスイッチを入れてから温かくなるまで時間がかかる旧型のやつだ。それまで僕はストーブの前で手と手をすりあわせて待っている。我ながら情けない姿だとは思う。
「ん……」
 思い出すのはきまってあの日の暑さだ。今や四季の一つに成り下がってしまった、永遠に続いていくはずだった夏。僕の大切だった物、大事にしていた物は全て夏の暑さの中に溶けてしまったのかもしれないと思う。過ぎ去ってしまった物、無くなってしまった物ばかりが輝いて見える。僕の悪い癖だ。
 しかし、我ながら懐かしい夢を見たものだと思う。あの戦いの最中のことを夢に見ることなんて、最近ではめっきり少なくなっていたというのに。やはりあの本のせいなのだろうか。あの本が僕の中で眠っていた記憶を呼び覚ましたとして、僕はそれに感謝をすべきなのだろうか。夢に見るのはいつだって辛かったことや苦しかったことばかりで、幸せな夢なんておよそ見た事がなかった。その理由について、僕は考えたことがなかった。
 幸せな夢を見れば、やがて来る朝がたまらなく価値のない物のように思えてしまう。ずっと幸せな夢の中で暮らせばいいと、目の前にある現実を放棄してしまう。行き着く所はあの赤い海と同じ、退廃と堕落だ。否定しては揺り戻され、揺れ動いてはまた否定した。そうやって不器用にバランスを保とうと必死だった十年間で、僕が進んだ僅かな距離を思う。気の遠くなるような時間をかけて当たり前のことに何度も気付かされ、そして、ただそれだけだった日々を。時折目の前で揺れる真っ赤な海の誘惑に歯を食いしばり、ただただ抗いながら。
 僕はきっと、まだあの赤い海のほとりにいるのだろうと思う。
 膝を抱える腕にぎゅっと力を込めると、ストーブの火がともる時の乾いた電子音がした。



【ふざけすぎて、恋が幻でも】

 会社から出ると、昨日までよりも冷たくなった風が僕を迎える。昨日下ろしたばかりの冬のコート。朝出てくる時に少し迷ったのだけど、着てきて良かった。ずいぶん早めに出てきたはずなのに、辺りはもう既にかなり暗い。秋の日はつるべ落としなどと、昔の人は上手いことを言ったものだ。駅までは徒歩十分と、軽く距離がある。今日は確かアスカがハンバーグを食べに来るんだったっけと、予定を口の中で呟きながら歩く。結局今朝は部屋を片付けないままに出てきてしまったので、アスカが来る前にある程度片付けておかないと。知らず知らずのうちに僕の歩みはスピードを上げていく。
 電車に乗り込むと、少し強めにかけられた暖房にほっと一息つく。少し時間が早いせいか、シートにはかなり空きがある。僕の家まで一時間ほど乗っていなくてはいけないので、座れるのは正直嬉しい。角の席に陣取り、鞄から行きがけに放り込んだ一冊の本を取り出した。アスカが昨日持ってきてくれた本。リツコさんの家に置いたきりになっていたというこの本。ライ麦畑でつかまえて。
 正直言って何度も読み返したいと思う本ではないので、内容を詳細に覚えているわけではない。細かい所の記憶は曖昧だ。そのせいかはわからないが、今改めて読んで見るとある種の新鮮さはある。昔僕はこの主人公に感情移入して読んでいた。馬鹿なことで笑い、世の中の不条理に怒った。彼の絶望は僕の絶望。そんなことを思って。だけど、今は少し違う。彼と僕を隔てる川のような距離を感じている。その距離を生み出したのはなんだったのか、僕は考えてしまう。

 ――いえ、知らないの。

 不意に頭の奥から頭蓋を割らんとばかりに静かな声が響く。聞きたくなかった声と、失われたという合図。今僕は振り返らなくてもいいものを振り返ろうとしている。綾波であって綾波でないものの声、病室から聞こえてくる叫び声、白い病室に横たえられた少女に、知らない天井。暗い部屋、とてつもなく暗い部屋に打ち捨てられたバラバラの人体、女性の泣く声。伽藍とした生活観のない部屋、コンクリート打ちっぱなしの床に散らばる血染めの包帯。銃声、槍に串刺しにされた肉塊。手の平で何かを握りつぶした感触。悲鳴、そして暗転。

 ――多分、わたしは三人目だと思うから。

 猛烈な睡魔に襲われ、僕は手に持った本を取り落としそうになる。電車が走る振動が足の裏から伝わってくる。それもやがて消えていく。落としそうになった本をしっかりと膝の上で抱えるようにして、僕は抗えない睡魔に身を委ねた。


   △▼△▼△


「――――」
 声が聞こえる。そして僕の肩を揺する腕。
「――さん、――ですか?」
 僕はゆっくりと目を開く。感覚が少しずつ戻ってくる。
「もしもしお客さん、大丈夫ですか?」
「あー……はい、大丈夫、です」
 どうやら僕はまたやってしまったらしい。僕は自分のうかつさを悔やむが、悔やんでどうにかなるものでもないのだし、無駄と言えば無駄な後悔だ。
「もう終点ですよ。歩けますか?」
 どうやらこの人は僕のことをただの酔っ払いだと思っているらしい。無理からぬことだ。頭がしっかりしている人間なら、眠りこけてる間に目当ての駅を乗り過ごしてしまうなんてことはやらないはずだ。まして、終点まで来て職員に起こされるなんて。「大丈夫です。ご迷惑おかけして申し訳ありません」とだけ言って足早に電車を出る。時計を見ると、まだなんとか折り返しの電車は残っている時間で、僕はほっと胸を撫で下ろす。ここからタクシーで帰れるほど僕の財布は分厚くはない。
 駅のベンチに座り、また本を開いて読み始める。上りの電車が来るまであと三十分くらいある。この調子なら電車が来るまでに全て読み終えてしまえそうだ。
 さっきみたいな猛烈な眠気に襲われることは、実はこれまでにも何度かあった。リツコさんのツテを頼って何度か精密検査を受けたこともある。それによると、どうやらこれはエヴァに乗っていたことによる一種の後遺症のようなものらしい。時間が経てば徐々に良くなっていくので心配は要らないということも。実際に落ちてしまうことなど年に数回あるかないかだったし、高校を卒業してからはほとんど起こったことはなかった。最後に落ちたのはいつだったのかも、実はよく思い出せないのだ。
 どうしてそんな現象が起こるのか、その理由にはなんとなく気付いている。僕が落ちてしまうのは大抵昔のことを思い出してしまった時だったから。今回の原因はおそらく僕があの時の綾波の言葉を思い出してしまったせいなのだろう。僕の知っている綾波がもうどこにもいないことを否応なく思い知らされた言葉だ。自分のことを「三人目」だと言った、綾波に似た誰かの顔を見るたび、僕はどうしようもない吐き気と嫌悪感に襲われた。こんなに辛いのなら、いっそ初めから出会わなければ良かったのに。その時の僕は本気でそんなことを思っていたのだ。

 電車は時刻表通りの時間に到着した。もう深夜、今僕が乗ってきたので最終だ。今さら夜飯に何か作る気にもなれないので、コンビニに寄って弁当を一つ買っていく。しかし、二日連続で弁当というのもどうなんだろう。アスカはもう帰ってしまっただろうなと思う。不可抗力とは言え、アスカには悪いことをしてしまった。何かお詫びを考えておかないとな。
「アリー、僕の身体を消さないでくれよ」
 さっきまで読んでいた本の中の台詞の一つを口に出してみる。自分が誰からも見えなくなってしまうんじゃないかと思い込んだ主人公の少年が、死んでしまった弟に向けてこう呟くのだ。
「アリー、僕の身体を消さないでくれよ。アリー、僕の身体を消さないでくれよ。お願いだ、アリー」
 消えてしまうといっても殺されるとかそう言った種類の消滅ではない。言葉にするならば、そう、存在感の低下とでもいうのかもしれない。自分が誰からも知覚されなくなっていくという恐怖。不思議な物で、その台詞を口にするたびに、本当にそんな恐怖に囚われてしまったかのように身体はぶるぶると震えだした。だけど、言葉を発するのをやめることは出来ない。今やめてしまったら本当に自分という存在が消えてしまうような気がしていた。
 主人公の弟だったはずの名前はいつしか他の誰かの名前になってしまっていた。そう、確かに僕はこう呟いていた。
「綾波、僕の身体を消さないでくれよ。綾波、僕を僕の身体を消さないでくれよ。綾波、綾波……」
 随分と僕は滑稽なことをしているな、と思った。だってそうだろう? 自分が消えてしまう恐怖から逃れるために、既に消えてしまった少女の名前を呟き続けるなんて。だけど身体が震えるのはどうにも止めようがなかった。自分以外の誰かに「お前はちゃんとここにいるんだ」と、優しく抱きしめて欲しかった。ミサトさんでも、加持さんでも、僕を忘れてしまった綾波でも構わない。そう考えてから、あることに気付いた僕は思わず笑ってしまった。
 なんだ。僕が思いつくのは、もう消えてしまった人の名前だけじゃないか。

 アパートの前まで来た所で僕の部屋の明かりがついているのに気付いた。あれ、と思った。行く時に付けっぱなしにしてきてしまったのだろうか。階段を一段ずつ登るたびに膨らんでいく疑念。何かを忘れている気がする。ドアのノブを回して鍵がかかっていなかった時、それは確信に変わった。
 ああ、こりゃいるわ、と。
「おかえり。遅かったじゃない」
 にやりと口元が吊り上ったアスカを見て、僕は思わず扉を閉めた。


   △▼△▼△


「はい、おまたせ」
 アスカの前に焼き立てのハンバーグを置いた時には、時計の針は既に夜の一時を回っていた。
「あれ、アンタはそれでいいわけ?」
「いや、だって買ってきちゃったから。もったいないし」
「ふーん、二日連続それでいいのかなって思っただけなんだけど、まぁいいか。いただきまーす」
「いただきます」
 黙々と食べ始める。コンビニ弁当も悪くはないのだけど、やっぱり二日連続だと飽きる。同じ物ではないけど、なんていうのかこの弁当から漂う雰囲気のようなものに飽きてしまうのだ。アスカはというと、僕が猛スピードで作ったハンバーグを美味しそうに頬張っている。材料だけは準備してあったので、後はこねて焼くだけ、という状態にしてあったのが大きい。
「アスカ、一つ聞いていい?」
「うん」
「もしかして、鍵開いてた?」
「ううん」
「じゃあどうやって入ったの」
「ぐっふっふ」
 アスカは不気味な笑いを浮かべてポケットから何かを取り出した。
「ちょ、それ僕の家の鍵!」
「セキュリティ甘すぎよ、シンジ。このご時世何があるかわかんないんだから、防犯ぐらいちゃんとしないと」
「これからは気をつけるよ」
「ぶっちゃけ、これ合鍵なんだけどね」
「そんなものいつの間に作ったんだよ……」
 相変わらずアスカは常識外れだ。ていうか、その言葉でアスカの所業を全て片付けてしまっていいものなのだろうか。
「しっかし、ハンバーグだけは相変わらず美味しいわね。何か秘訣とかあるわけ?」
「禁則事項です」
「いいじゃないケチ。教えなさいよ」
「教えたってどうせアスカは料理しないじゃないか」
「失礼ね、たまにはするわよ。たまには」
 その「たまには」がどのくらいの頻度なのか、是非教えてもらいたいものだ。僕が知る限りアスカが料理したことなんて、中学生の頃から数えても片手の指で足りる程度でしかない。
「ごめん」
「ん? 何がよ」
「待っててくれたのに。遅くなって」
 普段アスカは午後九時を回る頃には家に帰ってしまう。アスカと僕はこの家のドアをくぐった瞬間に家族になり、出た瞬間に他人になるのだ。それが僕らの暗黙の了解。近づきすぎて傷つけあうのなら。遠すぎて寂しさに震えるのなら。
「まぁいいわよ。合鍵持ってたし」
「本当にごめん」
「謝ることないわよ。別にシンジのために待ってたんじゃなくて、アタシが待ってたかったから、待ってただけなんだから」
 そう言ってそっぽを向くアスカの頬は少し赤く染まっていた。いつも飲んでいるビールのせいではない。今日部屋に空き缶は転がっていない。
「でもさ、シンジ。今日は何でこんなに遅くなったの? 仕事?」
「いや、違うんだ。またさ、アレで」
 アレというとアスカはああ、と気付いてくれた。
「久しぶりじゃない。大丈夫なの?」
「ああ、電車で落ちてさ。終点まで行っちゃった」
「あはははは」
 アスカは容赦なく笑う。その声が心地良くて、僕もつられて笑う。
「綾波のこと、思い出したんだ」
「ファースト?」
 今でもアスカは綾波のことを「ファースト」と呼ぶ。それを聞くとあの頃に戻ったような気がした。蝉は鳴いてはいないし、あの頃の暑さはもうどこにもない。でも。
「前にさ。ほら、アスカがこっちに来る前に、綾波と一緒に本を買いに行ったことがあったんだ」
 アスカはもうハンバーグを食べ終わっている。空になった皿の上に箸を置く。
「昨日アスカが持ってきてくれたのって実は僕の本でさ。で、その中にさ――」
 アスカはまっすぐに僕を見つめる。その瞳に吸い込まれていくような錯覚。アスカが僕にゆっくりと手を伸ばしてくる。僕は一瞬どうしようもなくおびえてしまう。身体が硬直し、その震えは瞬時にアスカにも伝わってしまう。アスカ、アスカ。
「――ごめん」
「だから、謝ることないっての……バカシンジ」
「ごめん」
「だってアンタ。泣いてるじゃないのよ」
「ごめん」
「そんな、そんなの、泣かれちゃったらアタシ、どうしたらいいか分からないじゃない。バカ、バカシンジ」
 僕は泣きながらごめん、ごめんと壊れたロボットのように繰り返した。アスカはそんな僕のそばで、ずっと居てくれていた。もうアスカは僕の方に手を伸ばそうとはしなかったし、僕もいつしかごめんと言わなくなっていた。
 なんなのだろう、この距離は。
 手を伸ばせば埋められそうな小さな隔たり。
 それが、悲しくてしょうがないのだ。
 悲しくて、悲しくて、ただ悲しくて、僕は泣いた。
「――アスカ」
「何よ」
「今度リツコさんの所に行ってくるよ」
「うん」
「ちょっと聞いてみたいことがあるんだ」
「そう、頑張ってね」
「うん。アスカ、ありがとう」
「はぁっ? なんでよ」
「だって、心配してくれたんだろう?」
「なっ……」
 なんでよバカシンジそんなことあるわけないじゃないバカシンジはいつまで経ってもバカシンジね――などと憎まれ口を叩くアスカを、僕はいつまでも眺めていた。
 もしも幸せという物がこの世にあるとしたら、僕達こそがそれを必死で探さなくてはいけないのではないだろうか。夜が深くへ沈んでいく中、そんなことを考えていた。



【夢の粒もすぐに弾くような逆上がりの世界を見ていた】

 急行を飛ばして辿り着いた街は、自然と科学の人工的な融合という意図が透けて見えるような所で、僕は初めからあまり好きになれなかった。だけど、どんな所でも僕が高校時代を過ごした思い出の街であることには間違いない。高校時代の知人はほとんどこの街を出てしまっていて、知り合いと呼べる人はもはやリツコさんしかいないのだけれど。僕は前もって電話しておいた通りに、目印の時計台の下のベンチに座る。
 こうしていると、昔のことを思い出す。僕が始めて第三新東京市に来た時のこと。電話も通じなくて、いきなりの衝撃派に驚いている間にミサトさんのルノーがドリフトで突っ込んできて――
「待たせたわね」
 背後からの声。振り返ると、そこには予想通りの人。
「お久しぶりです、リツコさん。お元気そうで何よりです」
「こちらこそ――早速だけど、行きましょうか」
 車で来ているらしく、駅そばにある駐車場に向かって歩いていく。僕はその後に続く。少し早足でリツコさんの横に並ぶ。もう僕の背はリツコさんをとうに追い越していて、僕の肩くらいの高さにリツコさんの頭がある。僕がリツコさんの背を追い越したのは、確か高校二年生くらいの時だったか。懐かしさに目が眩みそうになる。日差しがやけに暖かく、少し暑いくらいの秋晴れの日だ。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 車でリツコさんの家に向かう途中で軽く昼食をとった。家に戻ってくるとリツコさんは早速コーヒーを出してくれた。リツコさんの淹れてくれるコーヒーは他じゃちょっとお目にかかれないくらいに美味しい。豆の違いか、それとも腕の違いか。
「でも、久しぶりね。あなたが戻ってくるなんて。どういう心境の変化かしら」
 コーヒーに口をつけながらリツコさんが言う。
「リツコさんの顔が見たくなったんですよ」
「そう。私もシンジ君に会いたいと思っていたわ」
 ぐっと、コーヒーに口をつける。ほのかな苦味にコーヒー特有の風味が加わって調和する。悔しくなるくらいに美味しい。
「相変わらず美味しいですね。どうやって淹れてるんですか」
「別に、普通よ。特に変わったことはしてないわよ。豆だったら少し分けてあげてもいいけど」
「あ、それは、是非」
「ふふっ」
 少し笑う。社交辞令的な笑みでないのは、すぐに分かる。ああ、この人は本当に僕を待っていてくれていたんだ。胸が少し熱をもって高鳴る。
 だけど、聞かなければならない。僕は、他の何のためでもなく、このために来たのだから。
「リツコさん」
「うん?」
「この前アスカに持たせてくれた本、ありがとうございます」
「ああ、ちょうどいいところにアスカが来てくれたから、持っていってもらったのよ。迷惑だった?」
「い、いえ、とんでもない」
「あ――そんなことじゃないわね、きっと」
 リツコさんはやはり知っていたんだ。今の言葉で確信する。その言葉に勇気付けられるように僕は口を開いた。
「一冊だけ、僕のじゃない本があったんですよ」
「……」
 リツコさんは黙ってコーヒーを飲んでいる。ふんわりとコーヒーの香りが部屋の中に漂っている。猫の置物が多い部屋。昔から変わらないリツコさんの数少ない嗜好の一つだ。
「知ってました? サードインパクトの後に『ライ麦畑でつかまえて』の新訳が出たの。それは題名が前のとは変わってて、こっちの題名は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』って言うんですよ」
「一応知ってるわ。人並みに本くらいは読むし」
「僕がこの家に来てから買ったのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の方なんです。でも、送られてきた本の中にあったのは『ライ麦畑でつかまえて』の方だった」
 そう、最初から僕の買った本ではない事はわかっていた。僕は『ライ麦』の方も持っていたのだが、それは第三に来る前に住んでいた先生の所に置いてきて、それっきりだ。
「だから、この本は僕のじゃなくて他の誰かの物ってことになるでしょう? 多分だけど、これは誰のものか当ててみせましょうか」
 リツコさんは相変わらずコーヒーを飲んでいるだけで、何か口を挟もうとはしない。瞳は閉じられていて、その色を伺うことは出来ない。
「これはあの日に僕が薦めて綾波が買った本だ。そうでしょ?」
 リツコさんはコーヒーを置いて、目を開いた。何かを諦めたような、柔らかい笑みを浮かべている。
「やっぱり気付いたのね。見たんでしょ? あれを」
 僕は頷いて、ポケットからちっぽけな文庫本を取り出して、発行元の記載されたページをリツコさんの方に向ける。そこには――

「『2015/XX/XX 碇君に薦められて』」

 リツコさんはこちらを一顧だにせずにそう呟いた。やはり知っていたのだ、リツコさんは。
「それは、あなたが持つべき物だわ」
「それを、いつ、どこで」
 僕は昂ぶりを抑えられそうもなかった。
 もうとっくに失われたと思っていた。あの日綾波が確かに存在したという証。僕は探していた。どこにもない、失われてしまった時間を。もう二度と取り戻せない大切な時間を。
「全てが終わった後に、私はあの子のアパートに向かったわ。あそこだけは奇跡的にまだ無事だったから」
「何のために」
「あの子が存在した証拠を抹消するために」
 僕は息を呑んだ。だが、これは予想出来ないようなことではない。そういう時代だったのだ。罪は誰の背中にも等しく張り付いている。僕は拳をぐっと握り締め、次の言葉を待つ。
「あの子の部屋にはほとんど物らしきものはなかったわ。唯一発見できたのは、握りつぶされたらしい男物の眼鏡と、血染めの包帯に、それだけ」
 リツコさんはそっと僕の手元を指差した。
「司令の眼鏡はゴミみたいに床に捨ててあったわ。でも、その本は一つだけ引き出しの中で大切そうに保管されていた」
「…………」
「愛されていたのね」
 僕はその台詞に、かっと血が煮えたぎるような激情にかられた。思わず手に持っているカップを投げつけてしまいそうになる。抑えるのは一苦労だった。
「愛されてなんか、いない……」
 かすれた声で、そう呟くのが精一杯だった。
「僕は、忘れられた。この世でただ一人、愛しいと思った人は、僕のことを忘れたんだ。綾波は、僕のことを忘れたんだ。僕のことを消したんだ、要らないって思ったんだ……きっと」
 リツコさんに僕の呪いを浴びせかける。ずっと心の中にわだかまっていた思い。愛しい人に忘れられた、その悲しみを原液のままぶつけても、リツコさんは表情を崩さなかった。
「シンジ君、私言ったわね。あの子の心は一つしか生まれなかったって」
「…………」
 もしかして、あの時のことを言っているのだろうか。破壊された綾波レイの抜け殻たち。魂のない笑顔たちの墓場と化したプラント。リツコさんは今どんな顔をしているだろうか。僕はそれを確かめる勇気がなくて、ずっと俯いていた。
「私が断言するわ。あの子は一秒たりともあなたのことを忘れなかった。覚えていたのよ、何もかも。私はレイがなぜあなたにそんなことを言ったのかは知らない。でも、あの子の心にあったのはあなたのこと、ただそれだけだったのよ。他ならぬあなたに、そんなことを思われたらあの子だって、浮かばれない」
「なんで、そんなことが分かるんですか」
 精一杯の反論。母親に駄々をこねる幼子と何も変わらない行為だ。だけど、僕はリツコさんが提示したことが事実なら、僕は、僕は。
「その本、カバーをとって裏表紙を見てごらんなさい」
 僕は言われた通りにする。時が経って少しへたってしまっているカバーは、もはやカバーの意味を果たさなくなっているように思えた。雑に剥ぎ取り、そして僕はそれを見た。
 裏表紙は真っ黒だった。僕はぎょっとしてよく見る。それは文字だった。恐ろしく細かい文字。よく見るとそれは文章になっているようだ。
「これは――」
「私が閉じ込められていた時の話。知ってるでしょ」
 僕は頷く。ちょうど渚カヲルが来た頃のことだ。確かにリツコさんはあの時から姿を見せなくなっていた。
「レイの調整は定期的に行われなくてはいけないのに、肝心の調整が出来るのは私だけ。レイの方から私の所に来て定期的な調整を行っていたの。その時の話よ」
「…………」
「あの日レイはその本に熱心に何かを書き込んでいた。私が何か聞いてもあの子は答えようとしなかった。でも、調整の終わる時にぼそっと言ったのよ。なんて言ったかわかる?」
 僕は首を横に振る。
「『碇君に感想、聞かれたから』ですって」
 僕は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。綾波が覚えていた? あの約束を、覚えていた? 
 リツコさんは説明を続けるが、もうその続きは僕の頭に入ってくることはなかった。代わりに映像だけが、あの頃の思い出が僕の中でぐちゃぐちゃになって再生されている。僕は、彼女のことを思い出している。綾波の声、綾波の手、綾波の笑顔。モノクロの世界がにわかに色を取り戻していく。音楽が、流れ出す。
 僕はもう一度手の中の本に視線を落とした。これが、綾波の文字、綾波の言葉。そして、あの日の約束。
「――私はあなたに、あなた達に、謝っても謝りきれない罪を犯したわ。何度も、何度も。きっとあなたにしてみたら、何度殺しても飽き足らないくらいでしょうね」
「そ、そんなこと」
 ないとは、言い切れない。少なくとも今の僕には。
「私は、怖かった。あの頃のことを蒸し返して、あなたを傷つけるのが……結局、自分が傷つくことが怖かっただけなのに。この本のことだって、結局十年間も言い出せなかった」
「なぜ、今になって?」
 そう言うとリツコさんは無言で、部屋の隅にまとめてある段ボールを指差した。僕はそれの意味する所を悟り、はっとする。
「アメリカに行くことにしたの」
「どうして」
「昔の研究者仲間が向こうにいてね。どうしても私の手を借りたいと言ってきたの。母さんの遺産――MAGIを越える物を作るため、どうしても私の手を借りたいって……だから、私は行くことにした」
「そう……なんですか」
「笑っていいのよ。結局私はあなたの母親になれなかったばかりか、昔の罪を告白してとっとと海の向こうに渡ってしまおうって言うんだから」
 いつの間にかリツコさんの頬を一筋の涙が伝っていた。とうに空になったコーヒーカップの中に雫が落ちる。
「本当に最低の女……でも、このまま、あなたにレイのことを伝えずに行ってしまうのは、もっと最低なことじゃないかって思ったのよ……こんなこと自己満足に過ぎないのに、ね」
 もう返す言葉など残っていなかった。恨みや、憎しみ、悲しみが僕の中から流れて、ただの空洞だけが後に残されたかのようだった。リツコさんの涙は僕の涙だ。僕たちはただ、傷つき、傷つけあうことが怖かっただけだ。綾波もまた、そうだったのだろうか。
「僕は、もしかしたらリツコさんのことを憎んでいるのかもしれない」
 恨み言のような言葉が口をついて出る。もう自分でも何を喋っているのか、何を言おうとしているのか分からなくなってきている。
「だって、戻ってこないじゃないですか。あの時僕たちが奪われた時間は二度と戻ってこないじゃないですか。それなのに――」
 その時浮かんだのは、穏やかな風景だった。綾波がいて、アスカがいて、僕がいる。周りにはミサトさんに加持さん、リツコさん。トウジにケンスケに委員長。父さんや母さんに冬月さんの姿まである。どこを探しても見つかることのない暖かな暮らしだ。
 失いたくなかった。何一つ、失いたくなんかなかった。誰一人、失って喜んでいる人なんていないだろう。だけど、それでも奪われていく。無慈悲に、躊躇なく、奪われていく。どんなものだって、等しく。リツコさんとの暮らしだって同じだ。失いたくなんてなかった。でも仕方のないことだったんだ。誰も悪くなんかない。誰も、悪くなんてないんだ。
 僕は頬の涙を拭った。酷い顔をしているだろう。今、僕は本当に酷い顔をしているだろう。
「行ってしまうんですか。言いたいことだけ言って、また行ってしまうんですか。また、僕を――」

 一人にするんですか――。

 最後は言葉にならず、ただ僕の嗚咽だけがフローリングの部屋に響いた。
「僕はリツコさんのこと――」
「ええ、ええ、ええ」
 リツコさんの腕に抱かれて、僕は子供のように泣いた。綾波のためではなく、過去に受けた傷のためでもなく、行ってしまおうとしているリツコさんのために、今僕は泣いているのだ。
 時間は流れている。留めることは誰にも出来ない。忘れることは罪じゃない。過ぎ去るもののために流す涙が、洗い流していくものたちを思った。罪を流して、後悔を流して、後に残るのはただそこに在ったという証だけ。それでいいじゃないか。僕の手の中には綾波の生きた証がある。それだけで、僕はどこにでも行けるじゃないか。
 ホールデンが木馬に乗って遊ぶフィービーを見て泣いたように、僕はリツコさんの腕の中でいつまでも泣き続けた。



【さよなら、僕の可愛いシロツメクサ】

「行っちゃったわね」
「うん」
 リツコさんの見送りに来た僕とアスカは、空港の近くにある公園で飛び立つ飛行機を見上げていた。芝生のような雑草の生える土手に寝転がって。
「シンジ、あんたよく泣かなかったわね」
 横を見るとアスカが邪悪な笑みを浮かべてこちらを見ている。
「なんで僕が泣かなくちゃいけないんだよ」
「あら、ちょっと前に真っ赤な目して帰ってきたのはどこの誰だったかしらねー」
「ぐっ……」
 それに関しては返す言葉がない。ちくしょう、反論出来ないことをちくちくちくちくと、やっぱりアスカはいい性格してる。
「まぁいいわ。リツコにも『息子をよろしくね』なんて頼まれちゃったしぃ、しょうがないから面倒見てあげるわよ、シンちゃん?」
「うっさいうっさい」
 冷静に考えるとリツコさんの台詞は意味深なのだが、僕をからかうことに夢中になっているアスカはそのことに気付いていないみたいだ。そこをつつくのは僕にとっても危険なので止めておく。君子、危うきに近寄らず。昔の人はいい言葉を残してくれたものだ。
「そういえばシンジこの前さ、ファーストのこと話してたじゃない」
「うん」
「あの子、アンタのこと好きだったもんねぇ。今でも覚えてるわ、ファーストったら、シンジのこと悪く言うと、絶対きつい目で睨んでくるのよ。普段お人形さんみたいなファーストが殺気ぎらぎらさせて」
「あはは」
 僕は少し笑った。そんな綾波は僕には想像出来ない。僕の記憶の中にいる綾波は、いつでも柔らかな光の中にいるように見えた。汚れたとしても、それを強さに変えて生きているように。
 それをアスカに話したら、爆笑された挙句に殴られた。
「な、なんだよ」
「ま、しょうがないか。男は女に幻想抱く生き物だものね」
「悪かったね」
「男から見たらそうでも、同じ女から見たら別に普通よ。ちょっと喋らないし、分かりにくいけどさ。表だけそんな風に見えるのがまたムカツクのよ。同じ女から見たら」
 同じ女から見たら、を強調するアスカが可愛くて、僕は思わず笑ってしまった。
「何よ」
「いや、何にも」
「ムカツク。一発殴らせろ」
「おっと!」
 僕は立ち上がり、空を仰ぐ。飛行機は既に空の向こうへと飛び去ってしまった。後に残るのは一筋の白い煙だけ。
 綾波の本は今も僕の家で大切に保管してある。カバーをかけて、万が一にもアスカに見つからないように。
「まったく、ファーストもアンタみたいなののどこが良かったのかしら」
「さぁね」

 ――あなたは、私が守るもの。

 綾波の声が蘇る。僕を守るために自分の命まで捨てた彼女。僕を知らないと言ったあの言葉の真実の在りかに、僕はなんとなく気がついている。僕を守るためだったとしたら。綾波は自分のことを使徒だと知ったのだとしたら。自分を含めた全ての物から碇シンジを守る。彼女がそう決意していたとしたら。これは僕の勝手な推論で、証拠などどこにもない。何より、当の本人がもう僕の傍にはいない。穏やかな記憶だけを僕に残して過ぎ去ってしまった、彼女。
 全てのものから置き去りにされた自分を妄想することがある。そんな時の僕は決まってあの赤い海のほとりで膝を抱えてうずくまっている。僕以外の全ての人は赤い海に溶けてしまって、僕はそれを見つめるしかなくて、他人がどこにもいない、僕しかいない世界。消えてしまったのは他人か、それとも僕だったのか。
「アリー、僕を消したりしないでくれ……か」
「ん? 何か言った?」
「いや、何も」
 大丈夫。
 僕は消えたりしない。
 ここにいる。
 綾波、僕はここにいる。
 何を失くしても、どんなに傷つけられても。
 僕がそれを素晴らしいと思える限りは。

「あーごめんアスカ。僕落ちる」
「え、また?」
「みたい。後、よろしく」
 強烈な眠気に誘われる。僕は土手の上に寝転ぶ。太陽は眩しい位に光を放ち、眠るのにはちょうどいい温度を作り出している。
「ちょっとー、あんたに寝られたら帰りどうすんのよ! 車!」
「アスカも寝ればいいんじゃない」
「それもそっか」
「納得早いよ……」
 アスカが僕の隣に倒れこみ、うーん、と大きく伸びをする。伸ばした手の平が僕の頬に触れる。なぜか今度は少しも怖くはなかった。
「ちょっとシンジ、アンタの頬、すっごく冷たいんだけど」
「知ってるよ」
 そう言って僕はアスカの頬に手を伸ばした。ひんやりとした感触。ほら、やっぱり。
「アスカの頬だって、冷たい」
 バカシンジ、と呟くアスカの声が遠くに聞こえる。優しい風が僕らの前髪を揺らした小さな午後。





(了)





[参考・引用元]

「ライ麦畑でつかまえて」J.D.サリンジャー著 野崎孝訳 白水社
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J.D.サリンジャー著 村上春樹訳 白水社
「冷たい頬」スピッツ




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