雨音


 水に溶けていた。
 そこは恐らく小さな閉じられたグラスの中だ。磨き上げられたガラスの内側で水は七色に輝いていたが、それが濁りである事実を知っていた。本来ならば透明でなければならないのに濁っている。
 理由も知っている。そこには単位が存在しないからだ。数える術のないそれ、あるいはそれらは無限に拡散するものの集合体だ。狂っているのだろう。
 だから誰にだって明らかだ。
 いずれそれらは希薄で無力な一つへと帰するだろう。
 その水槽を外側から覗き込むとして、何かを期待してはならないのだと思う。懸命に死んでいく魚達の姿を望んではならない。濁りという名の輝きを長く見すぎてもいけない。けれど眼を奪われてしまうのだ。在り方が歪んでいるからこそ、そこに美しさに似た何かを得られるのかもしれない。醜悪な姿も鼻をつく腐臭も過ぎればきっと価値を持つ。
 そう、水は確かに醜かった。見苦しかった。一滴、縁より零れ落ちたそれはガラスを伝っていく。水はその光景に猛り狂い、または嘆いていた。身体をうねらせ薄いガラス越しに踊る。涙を溢れさせる。
 そんな粘りつく動きの中に光が見えた。色の無いそれは温もりでも安らぎも与えてはくれない。水が感じているものは痛みだった。水は悲鳴を上げ身体を震わせた。激しく明滅しちぐはぐな色を奏でるその姿は滑稽でさえある。哀れな生贄の羊は首を断たれ、または腹を割かれ己の心臓を目撃するその瞬間まで死を知らない。ならばこれは拷問であろうか。違う、それこそが希望なのだ。
 語り合う声が聞こえる。
 痛いですか、嬉しいでしょう?
 嬉しくありません。
 痛いですね、悲しいですか?
 悲しいもありません。
 痛いでしょう、楽しいですか?
 楽しいはずがありません。
 痛いのに、怒らないのですか?
 怒りません。
 ではアナタは痛くないのですか?
 痛くて痛くて堪りません。
 では嬉しいでしょう?
 嬉しいです。
 悲しいでしょう?
 悲しいです。
 楽しいでしょう?
 楽しいです。
 怒っているのでしょう?
 怒っています。
 では痛くないのですね?
 痛くないんです痛いんです嬉しくないんです嬉しいんです悲しくないんです悲しいんです楽しいんです楽しくないんです怒っているんです怒らないんです分からないんです分かってるんです全部全部全部なんです痛いんですでもそんなのどうだって良いじゃないですか全部なんです。
 アナタは狂っていますね、痛いですか?
 狂っています。
 アナタは狂っていませんね、痛いですか?
 狂っていません。
 痛いですか、どちらですか?
 全部です。
 そこには単位がなくて全てがあって、だからこそ一つの小さなものへと戻るのだ。やがて水は少しずつその嵩を減らしていく。枯れていく、終わっていく。零れ落ちていく一滴一滴の為に水は嘆き滴っていくその姿を追った。粘りつくように身体をたゆませている。沸騰しているかのようだった。懸命に水面へと手を伸ばし取り戻そうとしている。その度に失われていく。滑稽なのではない。悲壮なのだ。同時に哀れだった。
 今だから分かる。それは、幼さと呼ばれるものの全てだった。
 だから僕はテーブルの上に置かれたグラスを手に取った。
 底に取り残された一滴の雫が見える。
 最後に残った水だった。
 指で掬い上げ、口に含む。
 それは、命の味がした。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい」

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