fly away 安全 空間
――むかし、鳥を飼っていた。
白くてきれいな、ちいさな鳥。
傷つかないように、大事にかごのなかに入れていた。
あの鳥はいま――
ずいぶんと懐かしい夢を見た。
暗闇のなか、ゆっくりと目を開けた。知らない天井、固い枕、うすい布団。
自分はいまどこにいる?
じっとりとした肌に心地よい夜風が吹く。潮のにおい。それにつられるように、今日のひと時を思い出す。
(そうだ、海に……)
入院中にひらめいた思いつき。『俺たちだけの修学旅行』を実行したんだったか。
ブーーーン、ブーーーン、ブ。
俺の頭の上から、とつぜんの低いバイブレーション音。携帯のマナーモードだろうか? そういえば、俺の目が覚める前にも聞いたような気がする。むしろ、この音で目が覚めたというべきか。意外に大きい音がするんだなぁおいおいしっかりしろよマナーモード。というかこれ、もしかして俺の携帯か?
俺は腕を伸ばして、枕もとの携帯を確認する――よりも先に、動く気配が。
ぱちん。
折りたたみ式の携帯が開かれ、薄ぼんやりとした光を生み出す。その光に照らされているのは、理樹の顔。気だるそうにポチポチとボタンをいじっていたが、唐突に跳ね起きて、
「…………!!」
息をのんで動きを止める。
なんとなく寝たふりをしていると、理樹はほーっ、と息をついて、今度は慎重に立ち上がる。まるで俺たちを起こさずに部屋を抜け出そうとするかのように。
「ミッション、スタート」
小さく、理樹がつぶやく。そして俺の予想通り、そろりそろりと出入り口に向かう。
ギシ、ギシ、ギシ。トン、トン、トン……。
板張りの廊下のきしむ音。階段を下りる音。だんだん小さくなり、やがて聞こえなくなる。
「ふむ。外か」
両腕を上げ、振り下ろす勢いで起き上がる。窓際にひそんで外をうかがっていると、理樹の後姿が、おっかなびっくり歩いている。歩く先には寝る前まで遊んでいた浜辺。なにをたくらんでいるかは知らんが……しかし、『ミッション』ときたか。
まったく、誰に似たんだか。知らずに口元がつりあがる。
窓枠から体を乗り出し、左右を見渡す。幸い人の気配はない。
「ならこっちも、『ミッションスタート』だ」
真正面の木の枝に飛び移り、枝と幹を伝って音もなく地面に着地する。衝撃を殺した低い姿勢のまま前方をうかがう。『ターゲット』がこちらに気づいた気配はない。
「大佐、フェーズ1コンプリート。このままフェーズ2に移行する」
スパイにでもなったつもりで、本部の上司に報告する。「頼んだぞ、キョウスケ」もちろん応答はないので、自分で上司の役も演じる。楽しくなってきた。右手でピストルを作り、左手は銃底にそえる。銃口は下に。中腰のまま物陰から物陰へ移動し、ターゲットの後を追いかける。
空き缶を蹴飛ばして「うひゃあっ?」と驚いたり、隣の道路のヘッドライトに首をすくめたりと、ターゲットはどこか頼りなく歩いている。「おいおい、大丈夫か。付き添ってやろうか?」と何度声をかけそうになったことか。危ない危ない。きっとあれは、スパイをおびき出すターゲットの演技なんだ。
やがて、浜辺へとたどり着いた。ターゲットは海より一段高くなっている道路から下へおりる。この先はさえぎる物がなにもない。仕方なく、道路のはしに身をかがめて下の様子をうかがう。浜辺にはすでに人がいた。ターゲットが接触する人物だろう。ちょうど月が隠れ――ああ、月明かりってかなり明るかったんだな――誰だかわからない。
【だけどわかってしまった】
間違えるはずがない。間違えようがない。血のつながった肉親の姿を誰が間違えられようか。普段は結んでいる髪を下ろしていたって、そんなものは関係ない。
「…………」
「…………」
ザザー、ザザーという波音にまぎれて、ふたりの会話がよく聞こえない。
【だけどわかってしまった】
間違えるはずがない。間違えようがない。腕組みをして仁王立ちをする人影・だがその足が小刻みにふるえている・精一杯の強がりの証明。――そして、とまどうように挙動不審になる、もうひとつの影。
(マンガなら、ここでふたりを包むように虹色とかちいさな花とかをまき散らすんだろうな)
頭の片隅で、くだらないことを考える。そして、ずいぶんと野暮なことをしてしまった自分をドン、と殴りつける。
なるべく音を立てないようにその場を離れる。……大丈夫、気づかれた様子はない。
外に出たときと同じルートをたどって、自分の部屋へと戻る。部屋では、真人と謙吾がいびきをかいて眠りこけていた。なんとなくふたりの頭をはたいておいた。びくともしねぇ。
凸形に配置された布団の頂点、自分の布団にどっかりと寝っ転がる。
そういえば、この布団の配置だけで結構もめたな。
最初は四組が平行に敷かれてて、理樹がまずはじめに端っこを陣取った。すると真人が
『よっしゃ、オレは理樹の隣な!』
とか言い出して、謙吾も
『なにぃ? 馬鹿を言うな、理樹の隣は俺だ! おまえはいつも理樹と寝てるじゃないか』
と対抗。
『いつもはオレが上なんだよ! たまには気分変えてもいーじゃねえかよ!』
『否。よくない。俺は常にひとりなんだ。ここはひとつ、親友ならゆずるべきではないか?』
『いいや、ゆずらねえ』
『ゆずれと言っている』
『なんだ、やるか?』
『ああ。やるさ』
ヒートアップするふたり、うろたえる理樹。
『恭介! ふたりをとめてよ!』
『任せろ理樹。――俺が隣で寝れば、万事解決だ』
『恭介……オレの筋肉に勝てると思ってるのか?』
『茶番だな……だが、やるからには全力でいかせてもらおう』
『火に油を注いでどうするのさ!? あーもう、だったら僕真ん中に行くよ! それでみんなで僕を囲めばいいでしょ!?』
とまあこんな一悶着があって、今の凸形に落ち着いたんだったな。
……たまたま遊びに来ていた来ヶ谷と西園が、なぜか鼻血を噴いていたが……なぜだ。
スーッ。
ふすまが開く音。理樹が帰ってきたか。さっきと同じように、寝たふりをしてやり過ごす。
しかしそれは無用な気遣いだったようだ。どう見てもまわりが見えないほど浮かれている。あ、真人が踏まれた。
布団についたらついたで、三秒とじっとしていない。掛け布団に抱きつき、左右にごろごろごろ〜っと転がっている。ドルジか。
しかし、やがて睡魔が興奮を上回ったのか、身動きを止めて、真人と謙吾のいびきの合間に静かな呼吸音を響かせる。
まあ……なんというか。
(わかりやすいやつ)
夜の浜辺。ふたりきりの男女。戸惑うふたつの影。地に足が着いていない男。
告白、か。
布団を頭からかぶり、胎児のように体を丸める。眠ろう、眠っちまえ。
眠りにつく直前、思い出したように呟いてみる。
「大佐。ミッション、失敗だ……」
「で、俺はどうしてここにいるんだろう……」
「恭介? やっぱり、迷惑だった?」
そんなんじゃねぇよ、「どうする? 愛Full!」な目で俺を見るな。
「それより、こんなところに呼び出してなんの用だ?」
こんなところと言っても、昨日の朝昼夕と遊びほうけていた砂浜だ。
……そして、夜は理樹たちが密会していた場所。
「実は、恭介に話があるんだ」
「話?」
「うん。大事な話なんだ」
まあ十中八九「鈴と付き合うことになった」って話だろうな。その証拠に、理樹は緊張をほぐすために深呼吸を繰り返し、しかし手はぎゅぅっと握り締められたままだ。明らかに緊張しすぎている。
さてと、なにを言ってやろうか? やはりオーソドックスに「俺の妹は渡さん!」だろうか。それとも「鈴と付き合いたくば俺を倒してからにしろ!!」とか。意表をついて「むしろ俺と付き合っちゃえよ、ゆー☆」とでも言ってやろうか。
内心ニヤニヤしながら、表面だけはマジメを装って理樹を見つめる。
意を決したのか、やがて口を開いて、
「実は、鈴と付き合うことになったんだ」
まっすぐに、俺を貫くように言った。迷いなんかなにもない顔で。
――むかし、鳥を飼っていた。――
「…………そっか」
だから俺も、まっすぐに気持ちを伝える。
「よかったじゃないか」
「え? よかったじゃないかって、それだけ??」
「なにかほかに言ってほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「俺はな、ずっとそうなったらいいなと思っていたんだぜ?」
――白くてきれいな、ちいさな鳥。――
「恭介……」
「鈴を頼んだぞ」
「う、うん!」
「……で、帰ったら早速デートでもするのか?」
「いやいやいや、いきなりなんの話さ!?」
真っ赤になって手をぱたぱと左右に振る理樹。
「なんの話って、デートだよデート。恋人どおしになったんだろ? いきなりでもなんでもないさ」
「それは、その、そうだけど……うん。考えておくよ」
「なんなら、俺がデートのセッティングをしてもいいんだぜ?」
――傷つかないように、大事にかごのなかに入れていた。――
「ううん。僕がやるよ。僕がやらないと、意味がないと思うんだ」
「そっか」
目をつむって想像してみる。
雑誌で紹介されたお店へ行こうと提案する理樹。なにも考えずにうなずく鈴。行ってみたら『本日臨時休業』の張り紙。呆然とする理樹。怒り出す鈴。どうしようかと悩む理樹。野良猫を追い始める鈴。
なんだかんだと空回りしている姿しか思い浮かばないことに苦笑する。それは、デートというにはほど遠いかもしれない。だけどきっと……幸せ、なんだろうな。
「それじゃあ……えっと、ありがとう恭介!」
ぱたぱたと、宿のほうへ走り去る理樹。すれちがう。
(……少し、背、伸びたか?)
――あの鳥はいま――
振り返る。背中が遠い。遠い、背中。手を伸ばす。届かない。やがて、視界から消える。
その光景が、昔の情景と重なる。
あのちいさな白い鳥の行方。
むかし、鳥を飼っていた。
白くてきれいな、ちいさな鳥。
傷つかないように、大事にかごのなかに入れていた。
だが。
ガシャッ。
横から伸びてきた小さな手が、かごの戸を開けてしまう。
鳥は一瞬だけかごの出口に足をかけ、
ぱさぱさぱさっ。
あっというまに窓から出て行ってしまった。
染みるような青に溶け込まない、孤高の白。
『きれーだな』
逃がした本人は、悪びれもせずにそんなことを言う。
『……ああ』
俺は、苦笑交じりに、妹の頭をなでた。
あの鳥はいま。自由に空を駆け回っているんだろう。
視界の隅に、白がよぎる。目で追うと、
「あ……」
染みるような青に溶け込まない、孤高の白。
首が痛くなるほどに見上げる。俺の真上に、ちいさな白。一歩あとずさる。
ドサリ。
背中に衝撃。柔らかい砂に足を取られて、転んでしまった。目の前いっぱいに広がる、空。
そして、空に溶け込まずに、優雅に舞う白い鳥。それが、二羽。
一方が逃げれば、一方が追う。そばにくっついたかと思えば、また離れてしまう。その繰り返し。
手を伸ばす。精一杯手を伸ばす。白い鳥に手を重ねて、優しく握りしめる。大事にしまいこんだはずなのに、鳥はするりと手を抜け出して、楽しそうに空を飛ぶ。
――俺の手のなかでは、きっと狭すぎるんだろう。
心に穴が開いたかのような悲しみが俺を襲う。でもこれは、いつかは味わわないといけない悲しみ。遅いか早いかの違いだけで。
かざしていた手を落とす。日に焼ける前の砂が、ざりざりとした感触を返す。
染みるような青。そこにはもう。孤高の白たちは、見当たらなかった。
「広い、な」