アンソダイトの森のなか 安全 空間
狭苦しいアパートの一室。色あせささくれ立った畳、ガムテープで足を固定したちゃぶ台、その上に転がる、空きカン・空きカン・空きカン。
隣を見れば、うすい布団にはさまれて眠る、鈴の寝姿。いつものポニーテールは解かれて、シーツの上に波を作っていた。
僕は右手のビールを傾けて、ほとんどない中身を名残惜しそうにすすった。空きカンが増えた。
もう一度鈴を見る。真っ赤な顔をして、ヨダレを垂らしながらぴーすか眠っていた。
「ったく、気持ちよさそうに寝てるな」
差し向かいで座る彼も同じことを思っていたらしい。
いつものイタズラ小僧のような笑顔で、鈴の目にかかっていた前髪をやさしくかき分けた。
うみゅう、なんてつぶやいて、僕たちに背を向けるように横に転がる。せっかくかき分けた前髪が、向こうにこぼれ落ちていく。
「まあ、結構パカパカ飲んでたからね」
「そうだな。つうかどんだけ飲んでんだよ。ひのふのみの……大量」
ちゃぶ台の上の空きカンを数えるも、途中でバカらしくなってしまったらしい。
ひょい、と肩をすくめて見せる。
僕はまだ残っているお酒がないか、ひとつひとつ持ち上げてみる。
「おいおいまだ飲むのかよ」
「飲まないの?」
「……ああ、俺はいいよ」
たしかにこれ以上飲むと明日に響くかもしれない。
僕は探すのをあきらめて、片づけをすることにした。とりあえず目についた空きカンを、片っ端からビニール袋に詰めこんでいく。すぐに袋は一杯になった。
口をしばり、台所のゴミ箱のあたりに置く。
立ち上がったついでに、水道水をコップについで、飲んだ。ぬるりとした感触が、少量のさび臭さと共に流しこまれた。
部屋に戻ると、彼は鈴の枕元にあぐらをかいていた。心の底から慈しむような、透明な笑顔が見えた。
なんとなく邪魔をする気になれず立ちつくしていた僕の耳に、つけっぱなしのニュースが聞こえる。
『――で発生していたバック走行のみで逃げる手口の連続車両強盗事件ですが、今日未明犯人と思われる女性が逮捕されました。女性は容疑を認めており――』
なんだかよくわからない事件だなぁ、と思った。
そして、ぼんやりとした目を鈴のほうに向ける、
「……はぁ?」
途中で、視界の端になにかが引っかかった。
お城だった。
「はぁ?」
窓の向こう。電線。青空。白い雲。お城。はいダウト。
この近くにお城なんてものはない。だというのに、江戸城もかくやというでっかいお城が建っていた。というか浮かんでいた。
浮かんでいた? ……浮かんでる!? え、なに、ラ○ュタ!?
窓辺に駆け寄って見る。お城。目をこすって見る。お城。何度見直してもお城、お城。
城下町のようなレンガ造りの家々。え、そこだけヨーロッパ? ちょんまげを結った人、貫頭衣を着た人、ふんわりドレスの人。
今日ハロウィンだっけ? カレンダーを見る。あれ、カレンダーがない。カレンダーカレンダー……ってそもそもこの部屋にカレンダーなんてなかったじゃないか!
「なんだありゃ」
「ぼぼ僕が聞きたいくらいだよっ」
「んー……ならちょっくら調べてくるか」
「調べるって……!?」
聞き返す暇もなく。彼は窓枠に足をかけるとひょいっと地面に降り立った。
窓の向こうには、横一直線に走る川。その岸に向かって歩く。川の向こうから、にょきにょきと木の橋がのびてくる。
よくわからないけど、行かせてはいけない! ダメだ、ダメだ! お願い戻ってきて!!
「ちょっと行ってくる。俺が戻ってこなかったら……生き恥さらせ」
「待って……待ってよ!」
僕の言葉は届かない。彼はくるりと背中を向けて、一瞬だけ左手を後ろ手に振った。少しずつ小さくなる背中に僕は、
「きょうす……!?」
自分の言葉に驚いて、体が飛び跳ねる。薄暗い部屋。体を起こす。セミダブルのベッドが、キシ、と音を立てる。
うみゅぅ、という声が聞こえる。左を見ると、鈴が寒そうに体を縮こまらせていた。身を起こした分、掛け布団がめくれ上がってしまっていた。隙間がなくなるようにかけ直した。んにゅー……と満足そうな寝息。
それにしても……大学のころの部屋に、日本風のお城に、グラウンド横の川……極めつけに恭介、か。
「変な夢」
やはり、今日だからこんな夢を見てしまったのだろうか。
時計を見ると、そろそろ出かける支度をしなければいけない時間だった。
ベッドから抜け出して、クリーム色のカーテンを一気に開け放った。暖かい光がさしこんでくる。まぶしさに細めた目で空を見ると、文句なしの快晴だった。
僕はいまだにベッドで丸くなっている彼女を、優しく揺り動かす。
うゅー……とうめいて、重そうなまぶたを持ち上げた。
「おはよう、いい天気だよ。そろそろ起きないとマズイよ」
「……さむいねむいいきたくない」
「はいはい起きるよー」
ばっさー、とかけ布団を放り投げる。
恨めしげな顔をしながら、しぶしぶといった風にベッドから這い出てくる。
そんな彼女のために朝食を作り、ふたりで平らげる。昨日から用意していた服に着替えて、二回戸締りを確認した後、家を出た。
バスと電車を乗り継いで、目的の場所へつく。時計を見ると時間ギリギリだった。
少しだけ走って、集合場所へと走りこんだ。息を整えてから、なるべく静かに部屋に入る。
部屋のなかにはすでに、参加者がそろっているようだった。
「おはようございます」
ふわり、と隣で栗色の髪が踊った。会釈をしたらしい。
「おぉ、直枝ンところの坊主じゃねえか」
「お久しぶりです、井ノ原さん」
「かーっ、またしばらく見ないうちにでっかくなってンじゃねぇか。そっちの嬢ちゃんも女っぽくなってるしよ、そろそろ子供のひとりやふた……」
「おっほん。世間話はそれぐらいで。もう始まる」
「……おはようございます、来ヶ谷さん」
「おはよう。貴重品だけ持って、本堂のほうへ行くぞ」
その言葉に従うように、参加者のみんながぞろぞろと席を立っていく。
僕たちもバッグとコートを置くと、それにならうように歩き出した。
階段を上がって二階。そこがもう目的地だった。用意されていたイスの、一番端っこに鈴と並んで座る。
着席してすぐ、僕たちが入ってきた戸とは違う戸から、お坊さんが入ってきた。そして、並んで座る僕たちに向かって浅く長いおじぎをした。
「それではこれより、十三回忌を、合同にて、執り行いたいと思います」
僕たちも、おじぎを返した。
――みんながいなくなったバス事故から、十三年が経った。
言葉にするとただそれだけ。鈴とふたりきりで過ごした、たったそれだけの時間。でも、僕はずいぶんと長い時間が経ったと思う。
少なくとも、乱立した墓石を見て、風景がぼやけることがないぐらいには。
「理樹……どうした?」
「なんでもないよ」
物思いにふけっていた僕を、鈴が訝しげな目で見上げてくる。
僕はごまかすように、水を張った桶を持ち替えた。
『棗家の墓』
墓地の端っこのほうに、それはあった。
一年に一度は来ているが、それでも放置されていた間の汚れが、墓石にこびりついていた。
柄杓で水をすくってかける。一回、二回、三回。鈴がブラシで墓石を磨く。ごし、ごし、ごし。
あらかたキレイにしたところで、もう一度水をかける。こんなものだろう。
お線香に火をつけて、供える。両手を合わせて目をつむる。報告することは……思い浮かばなかった。ただ「元気だよ」とだけ言って、目を開けた。
隣では鈴が、眉間にしわを寄せながら手を合わせていた。なにを思っているのだろう? なにも言わない鈴をいくら見ても、わからなかった。
長いような短いような時間は終わりを告げた。鈴が横目でこちらをうかがう。すると「……かったな」とつぶやいて、目を開けた。なにか勝負していたらしい。
そして、僕たちは順番に回る。
『井ノ原家の墓』
『来ヶ谷家の墓』
『西園家の墓』
『能美家の墓』
……クドのお墓は、本当なら祖国につくられるはずだった。
しかし、クドのお祖父さんの計らいで、日本に作られ、日本式に供養されることになったのだった。
そのお祖父さんは来ていない。体調がよくない……というよりは、失礼ながらもう年なのだろう。なので代わりに、クドのお墓に水をかけて、ブラシで磨く。
あとは謙吾、小毬さん、葉留佳さんだけなのだが……この三人は、実家のほうですでに用意されていたらしく、ここにはない。明日お墓参りに行く予定だ。
全部回り終わると、墓地にはもう僕たちしか残っていなかった。
「戻ろうか、鈴」
返事はない。隣には、渋面の鈴。行きたくないようだ。
この後はみんなで昼食をとるのだが……みんな子供じゃないわけで。もちろんお酒もでるわけで。
お酒、というよりも酔っ払いが苦手な鈴が渋るのも無理はない。
僕は苦笑して、鈴の手を引いて歩く。一緒にいるよ、と。
きゅ、と握り返された。そばにいてくれ、と。
「うぷっ……」
僕は一人で外に出ていた。
おじさん・おばさんに代わる代わるお酌をされて、お腹はたぷたぷだった。
途中で鈴が消えたから、その分まで回ってきてたっぷんたっぷんだった。
いまならドルジといい勝負ができる自信がある。
弱めに吹く風が、前髪をくしゃくしゃにして去っていく。一緒に奪われていく熱の感触が心地いい。
……どれくらいぼーっとしていただろう。
ふと持ち上げた視線の先に、鈴が丸くなっているのを見つけた。
ふわふわと揺れる地面を踏みながら、近づいていく。
「逃げるなんてひどいよ」
「なんだ、もうおわったのか?」
「いやいやいや、せめて悪びれようとするぐらいしてよ……。その子は?」
「ヘレンだ」
三重苦? いや、ないな。
いつのまにか消えていた鈴は、どこで捕獲したのか猫とたわむれていたのであった。
お座りのまま目を閉じて、なで回されるままになっている。
「あたしはもどらないぞ。ずっとヘレンとあそぶんだ」
「そう言わずに戻ってきてよ……僕ひとりじゃちょっとつらいよ」
「あいさつしたし、おしゃくもした。もうじゅーぶんだろ」
……たしかに、昔ならあいさつすらせずに逃げていただろう。
しょうがないなぁ、と苦笑して、僕もその場にしゃがみこんだ。
手を伸ばして、猫に触れる。もこもこのふかふかだ。
鈴は猫の手をつかんで、肉球をふにふにしていた。
五分くらいふたりがかりで猫を堪能していたが、やがて目をパチりと開いて、一伸びすると、塀の向こうに姿を消してしまった。
「いっちゃった」
鈴はばいばい、と見えない猫に手を振って、膝についた土を払いながら立ち上がる。
つられるように立ち上がって、背筋を伸ばした。
ばきばきという音が聞こえ、目には空の青さが映った。
「あ」
そう言えば恭介に伝えることがあった。
僕はのんびりと――いや、地面が揺れてるからゆっくりとしか動けないんだけど――恭介のお墓にむかう。
新しい卒塔婆、少しくすんだ墓石、消えかかったお線香。
僕は手を合わせると、目をそらさずに言った。
「来月、僕たち、結婚するよ」
供えられたばかりの花が、吹き抜ける風とともにうなずいた。