イスカールのおうさま ぶりかま
――葉留佳っ、はるかぁっ!――
あの時、雨音のように降りしきるすすり泣きの中で私は、いきる目的を見つけた。
- 1 -
ぽん、ぽん、ぽん、ぽん。規則正しく音を刻む。書類に判が押されていく。一見無造作に、その実一枚一枚精査して。うず高く積み上げられた書類の未処理の山が見る見るうちに嵩を減らし、処理済の塔を築いていく。
日が大きく傾き、山の三分の二ほどを切り崩したところで音が途切れ、その間ずっと座りっぱなしだった人物が大きく伸びをする。
「ん〜っ、つっかれたぁー」
少女である。肩を叩きながらうぁ〜、とか、うぇ〜、とか、おばさん臭く呻いたり、手足を伸ばしてだらしなく机に突っ伏したりしている姿は少にも女にも疑問符がついてしまうが、少女である。
「――そう、八百屋のおばちゃんじみた仕草に惑わされてはいけない。たとえ西日に照らされた横顔が日々の生活に追われる主婦のようであっても、彼女は少女なのだ」
「ちょーっと棗くん。久しぶりに来たと思ったらなーに、その妙なナレーション。あたしに喧嘩でも売ってる?」
「あれ、駄目か?少女と大人の女との境にあるアンバランスなお色気なんかをアピールしたつもりだったんだが」
「……今ので色気を感じた男子がいたらあたしゃその子の正気を疑うわ」
声に不意を衝かれて顔を上げると、扉にもたれるように立っていた長身の少年と目が合う。少女はすぐさま半眼になって睨むのだが、彼は涼しい顔を崩さない。彼女の疲れは重さを増して肺の奥に澱み、溜息で吐き出せたのはほんの僅かだった。
少女には、彼が今ここに来た理由の見当がついている。やるべきことが山積している今、用件は早めに済ませておくに越したことはない。
「朱鷺戸さんのこと?」
「ああ」
彼女が切り出すと、少年もすぐに応じる。朱鷺戸沙耶という少女について、彼が気付いたこと、抱いた疑問を少女に突きつけていく。穏やかに、冷静に話しながら彼の支配する空気が張り詰めていく。
「朱鷺戸は漫画のキャラだ。うちの生徒じゃない。……あいつは誰だ?お前は、何をさせようとしてる?」
しかし、彼女は常と変わらぬ弛緩した空気を纏ったまま、困ったように頬を掻く。
「んー、実はあたしもよく知らないのよねぇ」
「はぁ?」
「だって、気がついたらもう彼女はいたんだもの」
その魂を見つけたのはほぼ偶然、と言っていい。直江理樹から伸びたとても細い縁の糸。彼の縁の根のほうにある、とても古く、すぐにでも切れそうな糸の先を握り締めていた小さな魂。『願い』だけで留まっていた彼女は名前も過去も憶えていなかった。
「じゃあ、あれは誰かの『願い』だってことか」
「多分、ね。けどそれが誰のものなのかはあたしには分からないわね」
彼女が憶えていたのは愛読書だった漫画のストーリーと、学園生活への強い憧れ。
だが、彼女が一人で作れるのは張りぼての学園でしかないから。
「ほら、気質っていうか性質って言うか、あたしそういうものだからさ。強い『願い』があるとこう、身体が勝手に!って感じで」
「身体なんかないじゃねぇか。ったく」
少年は疑念も露わなままに吐き捨てる。それを惚けて受け流す。
「あーら、棗くんの目は節穴?ここにこぉんなナイスバディがあるじゃなぁい。これに魅力を感じないなんて、棗くんてやっぱり――」
「ロリじゃねぇっ!」
「まだなんにも言ってないよーん」
「ぐ……」
言うほどには起伏のない身体をくねらせた挑発に反射的に乗ってしまい、墓穴を掘る。
一瞬歯噛みした彼は、鉄の意志で荒ぶる心を鎮め、彼女に釘を刺す。
「……まあ、別に、あんたが自分の役割を忘れてさえいなけりゃいいさ。俺の計画はあんたの協力がなきゃ成り立たないからな」
「うん、ちゃんと仕事はするわ。あたしがこうしていられるのはあなたのお陰だしね」
彼女が真摯に頷いてみせると、まだ信じきれない風情でじっと見つめていたが、やがて溜息を一つ吐いて、踵を返した。
「しばらく様子を見る。もし朱鷺戸が理樹に悪影響を及ぼすようなら、そのときは俺が排除する。いいな?」
「……はーい、わかってるわよぅ」
「頼むぜ、あとちょっとなんだからよ」
机に突っ伏し、顔だけ上げて、唇を尖らせ、しぶしぶと頷く。その動きはあらかじめ準備されていたように滑らかだ。
並外れて鋭いこの少年に、隠し事を見抜かれないように。
少年が完全に見えなくなってから、ようやく緊張を解いて椅子に背中を預ける。油断は禁物だが、ひとまずは大丈夫だろう。
(頑張ってね、朱鷺戸さん。……なんて、言える立場じゃないけどね)
大きく息を吐き、思考と視線を現在に戻すと、先ほどよりも嵩を増している未処理の山。げんなりと天井を仰ぐ少女の耳に、聞きなれた規則正しい足音。体を起こし、扉のほうに向き直る。入ってくる彼女を笑顔で迎えるために。
「おつかれさま、かなちゃん」
- 2 -
ぽん、ぽん、ぽん、ぽん。規則正しく音を刻む。書類に判を押していく。はたから見れば適当に押しているようにしか見えないだろう、実際はそんなことないんだけど。
窓から西日が差し込んできて、一旦作業の手を止める。眉間を揉み揉み、肩を回す。疲れた、眠いー。ぶつぶつと口の中で愚痴をこぼす。疲れるのは仕方ないとしても、眠くなるのは何とかしたかったな。
「一休みしましょうか、あーちゃん先輩。お茶淹れます」
「お願いー。できればうんと濃くして欲しいな」
「はいはい。お茶請けは楓味堂のどら焼きにしましょうか。クドリャフカにもらったんです」
「あ、うれしいなー。あたし2つね、2つ!」
「分かりましたからそんなにはしゃがないで下さい。……もう、子供みたいなんだから」
じゃれあうような緩いやりとり。ああ、癒されるー。大きく伸びをしたり腕を回したりしていると、かなちゃんが声をかけてきた。
「あまり、はかどっていないみたいですね。仕事」
「ん?まあちょっとねー」
肩越しに佳奈多の顔を見上げる。何でもないように尋ねてきたけど、心配してくれてるんだよね。自分で気付いてはいないかもだけど。だから、私も彼女が心配しないよう、軽く返しておいた。
……実際はちょっとなんてものじゃなく滞っていたけれど。
(あの子たちに手伝ってもらうだけじゃ追いつかないわね。まったく、凝り性なんだからもー)
足下の段ボール箱の中で、今もせっせと生み出されているであろう未処理の山。この後開けるのが怖い。
黙ってしまったせいか、かなちゃんが不審そうにこちらを見てくるので、慌てて言い訳を組み立てる。
「あー。ほら、最近棗くんが何かと理由付けちゃ男子寮長を連れてっちゃうでしょ?部室のことで」
「そうですね。……どうせまた何か悪巧みしてるんでしょうけど」
「きっとそうねー。ふふっ、今度は何するのかしら?楽しみ――」
「あー・ちゃん・先・輩?」
かなちゃんがドスの効いた声で威嚇してきた。おーこわっ。
「こほんっ。まあ、それで困ってんのよねー。嘆願なんかだと向こうの都合も聞かなきゃいけないのも多いし」
「こちらの都合はお構い無しですか、勝手なものですね」
「まあまあかなちゃん、怒らない怒らない。それに、男子寮長のことはともかく、他の雑務は手伝ってもらってるわけだし、ね?」
「その呼び方はやめてください!もうっ、誰のために怒ってると……」
本人は口に出してないつもりなんだろうけど、呼び名に突っ込んだ弾みで独り言がだだ漏れだ。可愛いので指摘せずにもう少し聞いていよう。
「な、なんですかあーちゃん先輩。なにニヤニヤしてるんですか」
「いやー、嬉しくて。心配してくれてありがとね」
「っ!あ、あとでしわ寄せが来るのはこちらだから釘を刺しただけです!」
真っ赤になって必死に否定するのがまた可愛い、ってことにいつ気がつくのかしらね。深呼吸してクールダウンした後、見回りに行くと言って出て行く顔もまだ赤いままだった。
さーて、そろそろ仕事しますか。
コンコン。
案の定段ボール箱の中で増殖していた書類を引っ張り出し、もーれつ社員もかくやと思わせる勢いで片付けていた私は、その音で作業を中断させた。
「どうぞー、鍵は開いてるしあたし一人だから遠慮なく入って、ってもう入ってるし。こんにちは、棗くん」
「いや、もうこんばんはだ。随分根詰めてたんだな」
言われてみれば外はもう真っ暗だ。気がつくと同時に部屋も外に合わせて暗くなる。
「あらほーんと。ってぇ、誰のせいだと思ってんのよー」
「悪いと思ってるさ。だからほら、差し入れだ」
灯りを点けながら差し出された手には、拳大の銀色の塊が三・四・五つ。手提げのビニール袋に無造作に入っていた。
「おにぎり?どうしたのよそれ」
「どうって、決まってるだろ?学食でおばちゃんに作ってもらった」
「随分と気軽にひとの仕事を増やしてくれるわねー」
「別に食いたくないんならいいぜ。真人たちと食うからな」
「わ、待った待った!食べる、食べるわよっ。誰も食べないとは言ってないじゃない」
引っ込めかけられた手から慌てて袋を奪い取る。お腹がぺこぺこなのに気付いたばかりだ。眠気と同様どうにも出来ないもののひとつ。
アルミホイルの包みを開けると、白いご飯を握っただけの塊が現れた。ほんの少し、人肌くらいに温かい。
「塩だけで具は入れてない。それならあんたも食えると思ってな」
「ありがと。嬉しいなー、あたし最近のハイカラな食べ物は全然味わかんなくて。いただきまーす!」
両手で握ったご飯のてっぺんを、思い切って大きく齧りとる。舌に最初に触れるのは塩辛さ。すぐに口いっぱい頬張ったお米の香りが鼻を抜ける。
ちょっぴり糠の香りも混ざったそれを楽しむのも束の間、湧き上がる唾液に後押しされるようにあごを動かす。
噛むほどに口の中で甘みが生成され、僅かに残る塩の名残と絡み合う。
「んーっ、ほいひー(おいしー)」
「分かったから食いながら喋るなって」
こくこくと頷いて私は一気に一つ目を平らげた。次は片手に一つずつ持って二刀流だ。かなちゃんがいればお行儀が悪いって怒られそうだけど、今はいないからいいよね?
「はぐはぐむしゃむしゃもぐもぐっ!」
「一応おかずも持ってきたんだが……」
ありがたいがそれにはぶんぶんと首を横に振る。今はこれだけあればいい。あ、あとお水かな。
猛然と食べ進める私を呆れたように眺めながら、彼はお水を注いでくれた。うむ、苦しゅうない。
「喜んでもらえて何よりだ。ゆっくり食えよ」
「はえ、はんはふぉうふぁはっはんやわいを?(あれ、何か用があったんじゃないの?)」
一仕事終えた漢の顔で出て行こうとするから、食べながら声を掛けてみた。聞き取りづらかったのか、彼はそのまま寮長室を出ると、後手に扉を閉めてしまった。
五秒後、逆再生をかけたように戻ってきた。用を思い出したのね。
「ダンジョンの調査が終わった」
「あ、やっと終わったんだ?お疲れさま。それで?」
「無意識に造ったにしちゃ上出来だ。だが、罠も敵も結構ヌルい造りになってたんでな、次は俺が直接テコ入れすることにした。細部までこだわってバッキバキに改造してやるぜ!」
「随分ノリノリね?最初はあーんなシリアスに『あとちょっと、あとちょっとで終わるんだ。誰にも邪魔はさせねえぜ』なーんて言ってたのに」
「誰の真似だよ」
「あれ、似てなかった?」
似てねえよ、と一蹴されてしまった。会心の出来だと思ったんだけどなー。
ていうか、この余裕ないときに何楽しそうにかましてくれてんのよこの男は。今でもバランス保つので手一杯なのに、これ以上仕事増やしてどうすんのよもーっ。
「いや、朱鷺戸は原作どおり宝探ししてるだけだからな。クラスも違うしスパイ活動は夜中だけだしで、理樹との接点もなさそうだ」
「それは知ってるわよ。んで、それがダンジョンの改造とどう関係するわけ?」
「どうせやるなら、こだわって遊んだ方が面白えじゃねえか!そうすりゃ、欲求不満も早く解消されて一石二鳥だしな。だから俺は、闇の生徒会長として、ヤツの前に立ちはだかる」
「うわー、言いきったよこの人」
「心配すんなよ、すぐに終わらせるさ」
そーね、と気のない返事で返しておいた。何となくね。
「まあ、そういう訳でこっちの用は済んだからな。そろそろ次に行こうと思うんだが」
「あ、それはもうちょっと待って」
「どうして。今の状態を維持すんのは大変なんじゃないのか?」
「それはまあそうなんだけどねー」
確かにそうだけど、今終わらせるのは困る。
「未処理があんまり溜まった状態でリセットかけちゃうと、次でしわ寄せが来ちゃうのよ。
生徒が減っちゃったり校長室に幽霊が出たりね。ひどいときにはあなたたちの記憶や意識に影響が出るかもしれない」
「そうか、この間の筋肉旋風もそういうことだったのか!」
「いや、あれは素ね」
「マジでっ!?」
まあ、疑いたくなる気持ちは分かるけどね。
「そういうわけで、せめてもう少し処理するまで待ってもらえないかなー?」
「まあ、そういうことなら仕方ない、か。わかったよ」
「ありがとーっ、棗くん大好きっ、愛してるっ!」
「なんか、あんたに言われても全然嬉しくねぇな……」
「えーっ、やっぱり棗くんってロ――」
「じゃねぇっ!」
失礼ねー。私だって心はヲトメのままなんだから。
直枝くんが手伝いに来るのを黙認して欲しい、と申し出たときには流石に不審そうに見られた。彼の経験になるという説明にしぶしぶ了承してくれたけど、絶対に信じていないわね。
でも、多少の無理は通させてもらおう。たぶん、次の機会は無いから。
彼が出て行った後、一人薄暗い寮長室で残りのおにぎりをかじっていた。
いびつな形、本当は棗くんが自分で握ったんだろう。さっき漫画の話をしたときみたいに、楽しそうな顔で。彼はしばらく旅に出る、と言っていた。
最後のひとくちをゆっくり噛み締める。むかし一度だけ食べたしろいごはん。そのときのことを思い出して少し泣けた。
- 3 -
――だから、ばいばい、おねえちゃん――
――うん…『またね』…はるか――
手を繋ぐことを願った姉妹は、その手を再び離し、箱庭を去った。
少女たちの去った後、二人を見守っていた彼女は、再び箱庭へ。
- 4 -
たし、たし、たし、たし。上の空で単調なリズムを刻む。手にした猫じゃらしが左右に揺れる。はたからでも分かるほど無造作に、心は別のところに。戯れる黒猫は難なく穂先を捕らえ、そのまま押さえ込んで弄び始める。
穂先が半分ほどむしれてしまってもなお物思いにふけったまま、しゃがんだ膝に頬杖をついて、窓の外を眺めている。風にそよぐ木立の隙間から覗く空には小さな雲がひとつ。
「クロフォードが構って欲しそうにしているぞ」
「んー?」
言われて視線を下ろすと無残にむしられた猫じゃらしの残骸と、なぁなぁと甘えた声を上げながらストッキングに爪を立てている黒猫が。
「ふぎゃぁーーっ!?」
唐突に発せられた絶叫に飛びのく一人と一匹。絶叫の主はスカートがめくれるのも構わずに伝染したストッキングを検分して情けない声を上げる。
「うぁー、もう替えがないのにぃ。ぐすん」
「直せばいいんじゃないのか?」
「やりたくないの。もうあんまり余裕ないから」
少年の疑問に、彼女は空を見上げながら答える。夏の色を微かに孕んだ、雲ひとつない青空。
「そういえば、もう随分と雲は見ていないな」
「省エネ、ってやつよ。だましだましやってきたけど、もう外も節約しなきゃきついの」
あたしもほら、と笑いながら自分の腕を指で押す。ぺこぺこと中空の人形のようにへこむ腕を、少年は無表情に眺める。
「それで、終わったの?」
笑みを収めて、彼女が切り出す。貼りついた空の下、梢が風に揺れる。
「終わった。いや、終わる。そういうことになった」
そう、と短く答える彼女の声は、木々の囁きに紛れた。
「あんたは、どうしてまだここにいるんだ?」
彼の問いに、彼女は酷く小さな笑みをこぼす。
「三枝も二木もいない。わざわざ呼び戻したクドたちも行った」
彼には素性の目星がおおよそついているのだろう。佳奈多のときも、結局手を借りてしまった。
「朱鷺戸さんへの責任、ではないわね。虫が良すぎるわ」
呟く彼女は空を見上げたまま。言葉の半分は自らの内へ向けて。
「そーね、あなたが好きだから、じゃだめかな?」
空から目を逸らした彼女は、いつもの笑みを被っていて。少年は追及を諦める。
「あんたは俺の好みじゃないからな」
「そうよねぇ、棗くんの好みはもっともっとあちこち小さい子だもんねぇ?」
「違ーよっ!いい加減そのネタ引っ張るなよっ!」
互いに仮面を被りながらの軽口のやり取り。素顔を晒せば崩れ去る、脆い絆。結びつけるのは利害の一致。
「はいはい。しょうがない、もう引っ張らないわよ」
足下の黒猫が、ストッキングにまた穴を開けた。
- 5 -
『――駄目だ。あんたがそこを離れたら、学園を維持できない』
「ならせめて、誰かが友達役に――」
『許可できない。あいつ自身で友達を作れなきゃ意味がないんだ』
「だからってあれはやりすぎよ、棗さんには耐えられない!」
『耐えてもらわなきゃ困るんだよ。これが最終試験なんだ』
「あなたはあそこを見てないから。あそこで棗さんは一人なのよ!?」
『これからは、一人でも他人の中に混じっていけなきゃならないんだ。たった2週間だ、それくらい耐えられなくてどうする』
「あなたは思い違いをしてる。あそこで棗さんを囲んでいるのは――」
『ちっ、なぜ我慢できないんだ理樹!悪い、切るぞ。』
ぶつっ。
「心を繋げない人形と、どうしたら絆を結べるって言うのよ……」
- 6 -
聞こえる。
「こんな家、ブッ潰してやる!」
聞こえる。
「やめて下さい。やめなさい!」
「お願いします!子供たちを連れて行かないで!」
聞こえる。
「わかった。あなたたちの…言いなりになる」
聞こえる。
「鈴っ!!」
絆のちぎれる音がする。
私はまた、見ているしかできないのだろうか?
- 7 -
おひるやすみ。きゅうしょくのじかん。
子供たちの賑やかな笑い声が聞こえる。何者にも侵されない、平和なひととき。
私は、その暖かな空間を、その中心にいる少女を、窓の外から眺めていた。
ここを作ったのはたぶん彼女だろう。とても優しく少女を包む、ぬくもりの主は。
彼女らしい、とても甘い幻想だ。
まだ続いている。直枝くんと棗さん、二人を送り出すための長い長い準備が。
かなり消耗が激しいにもかかわらず、棗くんは一人で何か企んでいる。頑固よねえ、ほんと。
まあ、そっちがそのつもりなら私も勝手にやらせてもらおう。
首をめぐらして辺りを見る。そばにいるとは限らないけれど、もしかしたら……いた。
見守っている、大して太くもない樹の陰に隠れて。……さすがに頬っかむりはないんじゃないかな。
私の入った黒猫は、しっぽをぴんと立てると、怪しげな人物の潜む木陰へと足を向けた。
彼女の『願い』が必要だ。
- 8 -
はらはらと、箱庭は白いかけらになって散ってゆく。
長いゆめの終わり。
そして目覚めのはじまり。
少年に、最後のミッションが与えられる。
――鈴と二人で逃げろ。逃げて、生き残れ――
――大切なものだけを握り締めろ。そして、他の何を捨てても守れ――
棗くんにとっても最後のミッション。乗り越えた直枝くんたちを見て、きっとやり遂げた顔をしているだろう。
でも、悪いね。そこで終わりにはさせない。格好のいい幕引きなんてさせてあげない。
あの子たちを引き裂くなんて許さない。
- 9 -
○○なんていない。それは私がよく知っている。その名で呼ばれる私が。
捧げられ、忘れられ、漂っていただけの私が言うのだ。間違いない。
まあ、それを勘違いして祀ってくれたお陰で、あの子たちに会えたけれど。
直枝くんと棗さんを送り出し、僅かに残っていた雫が雪となって消えてゆく。
私の時間はこの先に進むことは出来ないらしい。
どうやらここが“終点”みたいね。年貢の納め時ってやつかしら?あーあ、残念。もうちょっと見たかったんだけどな。
まあ、いいか。目的は果たせたし。果たせた、よね?
……ホント、頼むわよ、直枝くん。あの子たちをよろしくね。
ぼんやりと意識が滲んでいく。
死ぬときは過去の記憶が走馬灯のように、なんて言うけど、こういうときは流れないものなのね。発見だわ。
死んだときは流れたっけ?……短すぎて忘れちゃったのかも。
ま……いいか。
……まだ消えないのね。しまらないなぁ。
さて、どうしようか。
目的は果たした。力も尽きた。心残りは……あった。
私が箱庭に招いた少女。
そうね、還る前に。せめて一度くらい、名に恥じないことをしようか。
記憶をたどり、“彼女”が遡った道筋を辿る。呼び込んだときと違い、意思の名残が濃く残っている。
“出発点”にいた彼女は、土砂に半ばまで埋もれ、虚ろな瞳で雨に打たれていた。
初めて見る本当の彼女。姿はまるで違っていたけれど、彼女で間違いない。
消えかかった灯火を前にして、奇跡を起こして助け出すなんてことは出来ない。
でも、出来ることもある。
周辺を探す。
いるはずだ。無事な人が。――いた。よかった、気を失ってるだけだ。他には?人数は多いほうがいい。
生きていたのは全部で六人。怪我人ばかりだが、力を合わせれば何とか。
次、近くに家は、誰か住んでいる人は。木こりなんてこの時代にいるのかな。
丸太小屋、じゃない、ろぐ、なんとか。木こりじゃないみたいだけど、この際何でもいい。
お願い、眠ってて!って、なんで起きてるのよっ! ああもう、テレビなんか見てないで寝ちゃいなさいよっ!
誰か、眠ってる人は……いた!ああ、かなりご年配だなぁ。ちょっと不安だけど贅沢は言ってられない。
“彼女”のところに戻ってくる。ここからが本番。彼女の『世界』と、彼らの『世界』を重ねる。
ここにいることを、みんなに知ってもらうために。
私の力じゃそこまでしかできないし、その先を見届けることも出来ないけど。
みんなが知って、動いてくれたとしても、きっと“彼女”が助かる見込みはほとんどないけど。
でも、やる。私の最後の悪あがきだ。
自己満足のために。だから本人が拒否しても受け付けない。
年齢よりもずっと幼く見えるその横顔を見下ろす。
ねえ、君。もし助かったら、今度は、自分自身として遊んでみない?
あなたは“ここ”からあの世界まで来れたじゃない。あなたの時間は、きっとあそこまで繋げられるよ。
《カミサマ》
――だいじょうぶ、“あたし”を信じなさいって――
ク ロ マ ク 黒子
イスカールのおうさま 或いは カミサマが見てる