におい≒記憶      ぶりかま



 ニオイ。嗅覚というものは記憶と密接に繋がっている、と人は言う。本能が、食料のありかや周囲の環境、あるいは身に迫る危険の記憶をニオイと結びつけて蓄積し、ニオイを鍵として瞬時に検索するため、らしい。
 理屈はどうだか知らないが、ある種のニオイは確かに、俺の記憶を呼び覚ます――

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 鼻を鬱陶しくくすぐる、ざらざらと乾いたニオイ。太陽に炙られ、細かく砕けた土埃のニオイだ。湿った土のニオイには気持が沈むが、乾いた、特に熱く灼けた土のニオイは心をざわつかせる。連想するのは、戦い。
 風に巻き上がる土埃のニオイが俺に戦いの予感を運んでくる。戦いの末、自らの血と混ざり合った土にまみれ、這い蹲る弱者。それが敵であったことも、味方の誰かであったこともある。そして、自分であったことも。勝利の記憶は薄れていくが、敗北の傷痕は決して忘れることはない。

 季節は冬。時折舞い上がる土埃に視界が霞む。チリチリによじれた枯葉が木枯らしに流され、俺の首筋にまとわり付く。鬱陶しいそいつを払いながら、俺は眼前の敵を睨みつけた。
 ソイツは当時の俺より二回りは大きく、こちらを小馬鹿にした薄笑いに巨体を揺らしていた。
「何だ、テメェが“北町の虎”かよ?まだ餓鬼じゃねェか。…やれやれ、期待して損したぜ」
 うっそりと胸を反らし、俺を見下す。こちらの視線などそよ風ほども恐れちゃいない。その自信を裏打ちするだけの強さをヤツは持っている。
 ヤツの足下でボロ雑巾のように横たわっている“新聞屋(ブンヤ)”だって、全盛期を過ぎたとはいえ近所の若い衆を束ねていた実力者だった。
 壊れた玩具を前にして遊び足りない子供のように、脚でごろりと無造作に転がす。ヤツの退屈そうな顔に、知らず血が沸騰する。だが、怒りに任せて叩きのめしたところで俺の気は済まない。
 今にも暴れだしそうな衝動に身を焦がしながら、俺は努めてクールに口を開く。
「そうがっかりするなって。遊び足りないなら俺がたっぷり相手してやるぜ。“福祉会館の黒豚”さんよ」
「黒豚じゃねえ、“黒獅子”だ!てめぇ、ぶっ殺すっ!!」
 安い挑発に乗って激昂するソイツを迎え撃ちながら、俺は言ってやった。
「お前、もう負けてんだよ」

 戦いの衝動とともに記憶の底から浮上した俺は、すぐに今の戦いへと意識を向ける。
 今度の戦いで斃れるのは果たして誰だ?敵か。俺か。それとも、仲間か。
 戦いに望む覚悟は既に完了した。さあ、戦いを始めようじゃないか。

「ぬおー」
「こら、ドルジ!グラウンドでごろごろするなっ」
「うわぁ、すごい土まみれ…」
「ぬおー」
「日向ぼっこかぁ〜気持よさそうだね〜…くー」
「こ、小毬さんっ、ねちゃだめなのですっ!?」
「ぬお」

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 不快だ…。生温くへばりつくような空気がニオイを運んでくる。濃密な湿気に耐えかねた地面が発するそれは、雨のニオイ。
 嵐になる。俺は確信する。それはいまだ癒えず、血を流し続ける記憶が鳴らす警鐘だ。二度と繰り返さないための。

「くそっ、こっちも水没してる。他を当たるぞ!」
 パチンコ球の散弾みたいな豪雨の中、俺は仲間数匹を連れて避難できる場所を探し、さまよっていた。
 最初に避難した橋の下は、雨が降り出すとほぼ同時に急激に川の水かさが増し、危険だと判断したのだ。
「“虎”、やっぱり動かない方が良かったんじゃないか?もう毛皮が重くてこれ以上歩けないよ」
「そう思うなら戻ってもいいぜ“空き缶拾い”。今ごろはそこも川に沈んでるだろうがな」
 苛立ちに揺れる尻尾を隠しもせず、ぶっきらぼうに言い返す。何も疲れているのはこいつだけじゃない。
 橋の下を出てからもう長い間歩き通しだ。だが、どこもかしこも水浸しの有様で、へたり込むことすら出来ない。
 俺一人なら、それでも何とか適当な隙間に潜り込めただろうが、そのときは女と子供を連れていた。
 一刻も早く安全な場所を探さなければならない。
「…ぼうや?」
「どうした“垂れ耳”?」
 振り向くと仲間のメスがきょろきょろと辺りを慌てたように見回しており、他の連中もすぐ異変に気付いた。
 子猫が一匹いない。
「ぼうやっ!」
 “垂れ耳”が半狂乱になって声をあげる。他の子供たちも、事態が飲み込めないまでも切迫した状況を察したのか母親と一緒になってきょうだいを呼ぶ。
「どこだ…」
 どこか物陰に迷い込んでしまったのだろうか、そうであればいいと捜していた俺は、冠水した道路の一点を目に留めた。茶色く濁った一面の水溜りで、そこだけ微かに白く沸き立っている。
「側溝…!」
 ようやく一人歩きし始めたばかりの子供だ、好奇心に駆られて沸き立つ水に近寄ってしまったのかもしれない。水を蹴立てて駆け寄るが、濁った水は見通すことも出来ず、痕跡すら見つけられない。
 “垂れ耳”が悲痛な叫びを上げる。側溝に飛び込もうとするのを慌てて押さえ込んだ。
「馬鹿野郎!飛び込んだって流されるだけだ!」
 それでも諦めきれずもがく母親に、噛んで含めるように言い聞かせる。
「この水量じゃ無理だ。それに、他の子供たちはどうなる。みんなお前が必要なんだぞ!」
 自分で言っていて反吐が出そうだったが、不快感はご立派な建前で塗りつぶして言い切る。
 子供たちの父親はいいとこの家猫だ。今はきっと明るい屋根の下で昼寝でもしているだろう。自分に子供が居ることも知らずに。
「…急ごう。雨がまた強くなってきた」
 背を向け、返事を待たずに歩き出す。溢れかえったドブのニオイが、骨の髄まで染み付いていくようだった。

 ツンと鼻の奥に走る痛みで我に返った。見上げるとうすらどんよりと空が翳っている。鼻を蠢かすと雨のニオイはますます強くなっている。風も強い。やはり嵐が来るのだ。
 もう二度と繰り返さない。俺は誰も見捨てないし、失わない。
 冷静であれ。自分にそう言い聞かせ、目からこぼれそうになる弱い心を拭うため、立ち上がった。

「ぬおー」
「すっげぇ!ドルジが立った!」
「しかも、なにやら前脚をさかんに動かしているぞ!」
「ぬおー」
「これは…もしかして顔を洗おうとしているのではないでしょうか」
「うむ。雨が降るときは猫が顔を洗う、というやつだな。しかし…」
「ぬおー」
「顔に全然届いてないですネ」
「どっちかっていうと雨乞いの踊りみたいだよね…」
「とてもえきぞちっくなのですっ!」 
「ぬおー」

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 迂闊だった。鼻腔をくすぐるこのニオイ。気付いたときには身体が既に動いていた。懸命に駆ける四肢とは独立するように、どこか醒めた思考が脳内を巡る。このニオイにへばりついた記憶が勝手に浮上する。
 仲間たちとの出会いや別れ、信じていた者からの裏切り、孤独。様々な他者との関わりの中、いつもこのニオイがそばにあった。妬み、憎しみといった負の感情と、喜び、楽しみという正の感情が混じりあう混沌の記憶。

「来ました!ヤツです!」
 偵察に出ていた“腹白”が息せき切って駆け込んできた。広場に集まっていた仲間たちも報告に色めき立つ。
「昨日は二丁目のヤツらに危うく出し抜かれるところだったからな。今日はしくじるんじゃねぇぞ!」
 “空き缶拾い”が気勢を上げる。この弟分との付き合いは長い。ついこの間まで俺の尻尾を追いかけていたガキが随分ふてぶてしくなったもんだ、などと年寄り臭い感慨にふけっていた。
 二丁目の奴らは塀の上に陣取り、俺たちを見下ろしている。先頭に立つのは“夜叉三毛”、女だてらにバラバラだった二丁目のごろつきどもを纏め上げた傑物だ。
 だが間もなく道の向こうから馴染みのある人間のニオイが近づいてくると、皆軽口を一旦おさめて一斉にそちらへと首を向ける。
「出だしで決まる。先手を取れ」
 俺の指示はそれだけだ。後は各々が判断して最善の結果を導き出す。俺はそう信じていた。
 位置取りは地べたにいる俺たちが僅かに有利。昨日は不意打ちを喰らったが、同じ手は二度通用しない。
 隣家の塀の陰から姿を現した人間。丸っこい体をした大柄な女だ。
 姿を視認した瞬間に双方の軍勢が一斉に動き出す。高い位置に陣取っていた二丁目の連中は先んじて飛び出す。しかしそれは一瞬の差でしかない。
 入り口に近い俺たちは“空き缶拾い”率いる先鋒が既に標的の足元に迫っている。
「今だ、かかれ!」
 俺の号令で先鋒が標的への攻撃を開始する。標的の脚にしがみつき、顔をこすりつけて威嚇の声を上げる。標的は足を止め、小首をかしげて頬に手を当てるが攻撃の手は緩めない。二丁目どもがたどり着く前に更に畳み掛ける。
――なーおー。にゃごなごー♪
――あらあら、せっかちさんだこと。はいはい、ご飯にしましょうねー?
 精神攻撃が絶大なる効果を発揮し、標的の足止めに成功。標的はその場に膝をついて俺たちに貢物を差し出すのだ。
 ぱきゃっ、といういささか間の抜けた音と共に勝利のニオイがあたりに立ちこめる。
 仲間たちは勝利の雄叫びを上げながら標的の足元に群がっていく。
 俺も仲間の輪に加わり、勝利の美酒を味わおうと一歩を踏み出し、そして気付いた。雄叫びの数が多すぎる。
 俺の仲間だけじゃない、二丁目の連中までもが勝利の雄叫びを上げているのだ。何故――。
 困惑する俺の目の前を悠々と“夜叉三毛”が通り過ぎていく。俺に一瞥もくれず。そして、仲間たちの中心にいた“空き缶拾い”に寄り添い、甘えた声をあげた。
 そこまで来てようやく俺は腹心の裏切りと、自らの孤立を悟ったのだ。敗北の象徴と化したニオイに腹の虫を泣かせながら。

 今、俺の行く先にはあの時とは違う仲間たち。駆け寄る俺に目もくれず、みな一点を見つめている。
 だが、それでいい。それがいい。群れとは違う寄り合い所帯。競い合い、ごくたまに寄り添う。気負わず並び立てる居心地のいい場所。
 今新たに重なる記憶が幸せなものであればいいと願いながら、衝動のまま動く身体に行く末を託し、思考を手放す。

「ぬおっ、ぬおっ」
「こら、ダメだっ。このモンペチはみんなの分!」
「ぬおぅ…」
「そんな悲しい顔をしたってだめだ。お前いっぱい食べたじゃないか」
「ぬおー」
「…仕方ない。あたしのゼリーをやろう。いっこだけだぞ?」
「ぬおっ、ぬおっ」
「あ、こら、いっこだけだって言ったろーっ!!」

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 窓の外を流れる雲を眺め、思う。何に寄り添うこともなく、といってただ朽ちてゆくことも許せず、もがき、抗っていた日々を。
 俺にはじめて出来た、家族のニオイとともに。

 孤独こそがねこのあるべき姿だとうそぶいて突っ張ってみたが、食い物ばかりか身体を休める場所にさえ不自由する有様だった。
 塀に囲まれた、じめじめとうす寒い路地に這いつくばって僅かな休息を貪っていた俺は、そのときあの人間に出会ったんだ。
――なんだ、きったねぇ猫だな。
 人間の餓鬼の声だ。弱りきっていた俺は鼻すらまともに働いていなかったらしい。声を聞くまで気付くことが出来なかった。
――お前も一人なのか?
 顔を上げるのも億劫だ。最悪だが、俺はここで終わるらしい。どうせなら犬にでも食い殺された方がましだと思ったが、逃げ切る体力がないことも分かっていた。
「うるせぇ、消えろ」
 せめてもの強がりとヒトコト吐き捨てた。もう目を開けるのすら重労働だ。
――よし。お前、来いよ。会わせたいヤツがいるんだ。
 餓鬼の手に捕らえられた俺は、自分のあっけない最期に可笑しさを覚えながら、さっさと意識を手放した。

――がんばったんだなー。お前、すごいやつだ。
 何かあたたかいものに包まれて、声を聞いた気がした。何を言っているかは分からないが、どんな気持で言っているかは分かる気がした。
――きょうからお前もうちの子になるか?そうか、よろしくな。
 ややあって、自分がニオイに包まれていることを知った。暖かく、明るいニオイと、乳のニオイ。遠い、遠い昔にも俺を包んでいた、これは――

 うたたねから目覚めると、今では馴染みとなったあのニオイがやってくる。あのときから俺の家族となり、ともに過ごしてきた人間のニオイが。
 俺は彼女にゆっくりと歩み寄る。俺に穏やかな日々を運んでくる、忘れがたきそのニオイの主へ。
 そして、いつまでも共にあろうと願う。母のニオイのする少女と。

「あら、ドルジ君じゃない。どうしたの?お腹すいちゃった?」
「ぬおっ、ぬおっ、ぬおっ」
「あ、ちょっと慌てないでって、うひゃあっ!?」
「ぬおー」
「何しとるんじゃこらーっ!てゆーか、あたしは無視かっ!?」
「ぬお?」
「『どちら様ですか?』って顔ね、これは」
「なにいっ!?」
「ぬおっ、ぬおっ」
「あ、ちょっと、そんなとこっ、くすぐった…ぁんっ」
「お前なんかきらいだーっ!」
「ぬおー」

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 理屈はわからない。だが確かに、俺の記憶を、呼び覚ます。

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