垂直落下式 ぶりかま
耳を澄ますと、歓声が遠く聞こえる気がする。
やべぇ、心臓がバクバク言ってやがる。デビューしてから18年。オレの鋼鉄の心筋でも試合前のこの緊張を抑えることはとうとうできなかった。
しょうがねぇ、深呼吸でもするか。「すうぅーーーーーーっ、ぐ!?げはぁっ!!」く、クセぇっ!!控え室にしみこんだ血と汗とあと何だかよくわからねぇ色んなもんのニオイでオレの横隔膜がこむらがえってやがる!
パイプ椅子を半ば破壊しながら転げ落ち、その場にうずくまって咳き込むこと0コンマ2秒。オレは奇跡の生還を果たした。やべぇやべぇ、危なく心臓が止まるところだったぜ。
「ま、オレにかかれば全然ちょろいけどな!」
「嘘つけ。泣きながら鼻水たれてるくせに」
「よだれも垂れてるよ?」
「ぬおおっ!?」
いつの間に入ってきたのか、オレの子供たちが見上げていた。頼むから父ちゃんをそんな目で見ないでくれよ。
「全く、試合前に何をやってるんだ馬鹿親父」
呆れた顔でオレを見上げるのは娘のりん。名前のせいか最近ますます母親よりも鈴のほうに似てきやがった。主に性格が。その横でりんの袖を引っ張るのは力(リキ)。
「父さんも緊張してるんだよ。そっとしておいてあげてよ」
ううっ、優しさが鼻にしみるぜ。さすがオレの息子だ。
涙とヨダレと鼻水で湿っぽくなった顔をタオルで乱暴にぬぐう。「うわ、汚っ!?」はいはいすいませんでしたー!
まともになった顔で子供たちに向き直る。カミさんは一緒ではなく、どうもふたりだけで来たらしい。大したもんだと感心する反面、心配になる。
「お前らだけで来たのか?」
「お母さんと一緒だ。でももう帰ったぞ」
「最後の試合なんだからいっしょに観ようって言ったんだけど……」
「しょうがねぇさ。母ちゃんはオレがケガすんの嫌いだからな」
すまなそうな顔をするリキの頭を乱暴に撫でてやると、強くやりすぎたのかしばらくふらついていた。そんでりんには蹴られた。蹴るなよ。
「てゆーか、お母さんがなんでアイソをつかさないのか不思議だ」
的確にベンケイさんを削る攻撃に音を上げたオレを、ふんぞり返って見下ろしながらりんが言った。本気で不思議そうだなオイ。
つか、小2のクセに難しい言葉知ってやがんなコイツ。そこら辺はリキともどもオレに似なくてよかったぜ。
「それは言いすぎだよ……」
「でも、しょっちゅういなくなるじゃないか。相手なんかいなそうだから浮気はないだろうがな」
「その言い方はなんか引っかかるんだが」
地方興行や山ごもりで家を空けることが多いオレに、小言はあるものの文句を言わないカミさんには、いつも感謝してる。神さんとはよく言ったもんだぜ。
「そりゃもちろんオレと母ちゃんが愛し合ってるからさ。ま、お子ちゃまにはわかんねーだろうがな」
“愛”なんて真顔じゃ恥ずかしくてなかなか言えやしねえが、たまにはいいだろ。オレもりんに対抗してふんぞり返ってやった。
「床にはいつくばってるくせに偉そうだな」
……重いだろうに一生懸命起こそうとしてくれてるリキは本当にいい息子だぜ。
出番までの長く感じる短い時間を、オレは子供たちと過ごすことにした。情けねぇことに、こいつらが来たら緊張がおさまっちまったからな。
「悪ぃな、水しかなくてよ」
「仕方ないよ、控え室なんだから」
水と氷ばかりがぎっしり詰まった冷蔵庫から、素っ気ないデザインのペットボトルを持ってくると、力は文句も言わずに笑って受け取ってくれた。すまねぇな、父ちゃん相手にそんなに気を使ってくれなくてもいいんだぜ?
「そうだ、父ちゃん特製のマッス――」
「いるかそんなもん」
最後まで言わせてもくれずにバッサリと断りやがった。お前はもうちょっと気ぃ使ってくれよ、りん。
「つうか、なんか怒ってねぇか?父ちゃん何かしたか?」
「怒ってない!」
むちゃくちゃ怒ってるじゃねぇか。全然意味がわからねぇぜ。助けを求めて力にアイコンタクトしたら、力のやつ妙な踊りを始めやがった。
「なんだそりゃ……膝の上でヒラヒラ?うふーん?わっかんねぇな、もうちっと分かりやすいヒント……なんだ、シ〜って」
「口から思考がだだもれじゃぼけーっ!!」
強く踏み切って身体を浮き上がらせながら捻り、スカートをひるがえしながらしなやかに伸びた足でオレのこめかみを打ち抜いた。
何だってんだ一体。
「せいぜい派手に負けてこい」
「おう、カッコよく勝ってやるぜ!」
別れぎわまでそっぽを向いて生意気なりんと、りんの分までまとめて心配しているような情けない顔の力をまとめて抱え、オレはそう約束した。
子供たちが客席に行くと、控え室が前にも増して静かになった気がする。メインまではあと少し。オレは目を閉じた。
……こんな時、もしかしたら家族のことや昔のことなんかが頭をよぎるのかも知れねぇが、今のオレには、ただ真っ暗な中にピリピリとシビれる皮膚の感覚だけが浮かんでいた。
息苦しくなる一歩手前、男の足音がしてドアが開け放たれた。
「マサトさん、出番です!!」
「おっしゃぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
マスクをかぶったオレは、腹の底から雄叫びを上げ、鋼の軍団<きんにくども>に号令をかける。
オレの名はバスターマサト。人はオレを悪夢の筋肉列車と呼ぶ。
うお、まぶしいぜ……。
開始からもう30分はたっただろうか。マットに寝そべったオレは、天井から突き刺してくる強烈なライトに顔をしかめた。
フン!と気合と共に背中で跳ねる。カウント2.95のドラマ。
寝返りを打ってぜえぜえと息をする。もう四つんばいになることすら全身の力を振りしぼる重労働だ。
全身がギシギシきしむ。腕も、足も、腰も背中も首もなんもかんもが叩き潰されたみてぇに言うことをきかねぇ。
中途半端に身体を起こしたオレを対戦相手が立たせる。もちろん手を貸したわけじゃない。オレの身体は足元もおぼつかないままにロープへとふっ飛ばされる。
硬いロープに身体を叩きつけ、投げた相手のところに勢いをつけて帰っていく。リングの中央で待ち構えるヤツは腕を回して客にアピールしていた。
「今日は“約束”無しで行くぜ。ちゃんとついて来いよ?」
「へっ、オレはいつだって真剣<ガチ>だぜ。そっちこそ泣き入れんじゃねぇぞ?」
ゴング直前、リングの真ん中で交わした言葉がふっと浮かぶ。
――――交差する。
入れ替わる――――。
突き出された腕をくぐり抜けたオレはその勢いを使って別のロープへとヤツを飛ばした。そして今度はオレの番だと腕を高く突き上げる。歓声と悲鳴が混じりあう。だが、それはすぐ歓声一色に塗りかえられるんだ。胸板に突き刺さるようなドロップキックでオレがマットに沈むから。
ちくしょう、いつもオレの一枚上を行きやがる。背中から叩きつけられ、さすがのオレもクラクラだ。ヤツがコーナーへと駆け上がるのを見ても、とっさに立ち上がることができない。
ヤツの背中がゆっくりとせまり、裏返っていくのをただ眺めていた。着地を見定めるヤツの目が一瞬オレと
「twooooooooooooooooooooooohhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh……」
何だこりゃ。やけに濁った音、つうか声なのか?やたらとウルセェのに妙に間延びして聞こえてやがる。
まわりを見ようにも首が動かねぇ。そんなら目だけでもと思ったがこれもダメだ。いや、動きはするんだがとにかく鈍い。なるほど、これが首が回らないってヤツか?試合中でも勉強しちまうこの余裕。さすがオレだぜ。
「試合中じゃねえかっ!」
つっこんだつもりが、口も動かねぇ。今になってようやく首が横を向いた。見てびっくりだぜ、みんなノロノロ動いてるじゃねぇか。こいつはアレか、オレの何かが目覚めて覚醒したってヤツだな。そうか、とうとうオレの筋肉が人類を超える時が来たって訳だな!やべぇ!
だが上がるテンションとは裏腹に、オレの身体は全然言うことを聞いてくれない。くそ、不便だな超人って。
オレが超人覚醒したことなんか周りは当然気付いていない。観客も、レフリーも、オレを押さえ込んでいるヤツでさえ。え、つかフォールされてんのかオレ?ちょ、待て、カウントいくつだよ!?動け、オレの身体!みなぎれ、オレの筋肉!!
……あれからどのくらい経っただろう。もうほとんど止まっちまった時間の中、オレの心はとても静かだった。オレの周りの何もかもが、見ただけじゃ分からないくらいゆっくりと動く。もう音さえ聞こえない。オレの気持ちだけが空回りする、静かな世界。
目の前いっぱいに広がった観客席は満員御礼だ。最期を飾るのにこれ以上の舞台はない。いつか感じた寂しさを少しだけ思い出した。
(これで、いいよな?)
その時。
目をこらすことも出来ない、ただだらしなく広がった視界の隅っこに。
見つけた。
そいつらは立ち上がって、顔をくっしゃくしゃの真っ赤っかにして、でっかい口をあけてナンか叫んでた。
心臓が動いたら血管が切れるくらいに気合を入れてそっちを見る。見ようとする。
へへっ。りん、お前、負けろとか言ってなかったか?力、お前泣きそうじゃねぇか。
(いいわけねえさ。ああ、いいワケがねぇっ!)
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
耳が割れるような大音量がオレをぶん殴る。
オレの横にはフォールをはね返されたヤツが息も荒く転がっていた。
身体を起こしたのはほぼ同時、おっかねぇツラで睨みつけてくるヤツをオレも睨み返す。
チラッと客席を見た。見てろよ、父ちゃん今からかるーく勝ってやっから。
先に立ち上がるとどよどよっと客が揺れた。んだよ、そんなに意外かよ?けどまあ実際立つのがやっとで今にもぶっ倒れそうだ。
ヤツだってもうすぐに立ち上がってくる。律儀に待ってちゃやられちまう。オレは中腰になったヤツの髪を鷲掴みにすると、そこへ自慢の石頭を叩きつけた。
目の前に何度も星が散る。自分の足もふらつくほどに頭突きをかましてやったヤツの顔は、流血で真っ赤に染まっていた。右目に血が入って開けられないから、オレも多分似たようなもんなんだろう。どっちの頭が切れたのか判らねぇな。いや、どっちもか。
膝を付きそうになるヤツの身体を抱え込む。最期の一花、咲かせてやらぁ。
「お、るあぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーっ!!」
気合一発、ヤツの身体を高々と担ぎ上げる。上下逆さまになったヤツは足をバタつかせて逃げようとするが、もう逃げられねぇ。オレは、そのまんまリングの中央で雄叫びを上げた。
「筋肉筋肉うぅっ!!」
筋肉筋肉!と客席も大合唱だ。もちろん、りんと力のも聞こえたぜ。
「筋肉筋肉うーーーーっ!!」
後楽園ホールが揺れるほどの筋肉コールがオレの筋肉を目覚めさせる。
「喰ぅらえぁーーーーーーっ!!」
後ろへと倒れこむオレの身体が、流れ星よりも真っ逆さまにヤツの頭をマットへと叩きつける。
力は使い果たした。どこが痛いか判らないぐらいに身体が痛ぇ。もう指先一本動かねぇ。目も開かねぇ。けど、何かはやりとげられた気がする。
耳を澄ますと、歓声が遠く聞こえる気がする。
―――――――――――――――――――――――――ちくしょう。