壺中の天地       えりくら



 いつからか僕の隣には美魚がいた。美魚と僕が出会ったのは高校の頃のことで、その頃から美魚はいつも真っ白な日傘をさしていた。だから人ごみの中で美魚を見つけるのはいつも簡単な作業だった。土埃色をした風景の中で揺れている真っ白を探せばいい。カゲナシなどと陰口を叩かれる一方、美魚は他の誰よりも存在感があった。知り合って、視線を交わし合い、会話を成立させるようになるまでの経緯を、僕はよく覚えてはいない。何か特別なことがあったのかもしれないし、実は何もなかったのかもしれない。その時の僕の記憶は酷くあやふやで、そのことを美魚に聞いても確かな答えが返って来たためしはなかった。大事なのは私が今あなたと一緒にいるということで、それ以外にはないと思います。私は何か間違ったことを言っているでしょうか。
 美魚はいつも僕のすぐ隣を歩いていて、美魚の日傘の角はよく僕の後ろ頭を小突いた。ごめんなさいと、あまり悪いと思っていなさそうな顔で謝られても、僕はいつもいいよの一言だけで済ませていた。元々怒ってなどいないし、美魚もそのことをよくわかっていた。僕らは互いが考えていることを手にとるように理解することが出来た。僕が辛い思いをしていると美魚はどこからともなくやってきて、僕の望む言葉を僕にくれた。美魚が悲しんでいる時、僕は何時間だって美魚の隣にいた。僕らは川辺に並んで腰掛けて、とりとめもなく話し続けた。グラウンドの方からは部活動に勤しむ生徒達の声が川の流れる音に混じって響いていて、太陽は瞬く間に昇って落ちた。
 高校を卒業し、それなりに仲の良かった仲間達とも別れた僕は、まるでそうするのが当たり前のように美魚と暮らし始めた。美魚は僕から離れられないし、僕も美魚なしではやっていけない。そういうようなことを二人だけで話し合い、二人だけで決めた。美魚は静かに笑っていた。それは美魚がたまに見せる、本当に嬉しいことがあった時の笑顔だった。美魚がそばにいるだけで僕は十分だった。相変わらず美魚は真っ白な日傘を手放すことはなかった。
 二人だけの暮らしは楽ではなかった。美魚はバイトやその他労働をして賃金を得るという行為をしようとはしなかった。僕も美魚にそれを求めなかった。僕がその話をすると美魚が悲しい思いをすることはわかりきっていた。美魚を悲しませるのは僕の本意ではなかったので、話題にすら出さなかった。僕の稼ぎはそれなりに悪くはなく、狭い部屋で寄り添いながら慎ましく暮らす分には何の支障もなかった。
 二人で暮らすようになってからもその前も、僕らは性的な関係を結んではいなかった。もちろんセックスに興味がなかったわけではない。それは美魚にしたって同じだと思う。だけど僕らは互いにそういう部分を相手に求めようとはしなかった。夜は一つの布団で寄り添うようにして眠った。寒さが酷い夜は互いの手と手を絡ませて体温を分け合った。美魚の手はたやすく折れてしまいそうに細く、どんなに包み込んでもずっと冷たいままだった。美魚の手を温めることだけに、いつも僕は躍起になっていた。
 一度だけ、ずっとこのままでいいの、と美魚に尋ねたことがあった。このままという言葉の意味を美魚は執拗に知りたがった。このままとは、ずっと僕と一緒にいるだけで時間を消費するというような意味の言葉だった。僕は拙い言葉で何度も何度もつっかえながらそのことを伝えた。美魚は何も言わずにじっと僕の目を見ていた。僕の目の中に何かあるのか、と僕は聞いた。美魚はゆっくり首を横に振った。何もないのが好きなんですと、美魚と僕は初めてのキスをした。美魚の唇は柔らかく渇いていて、舌はこつんこつんと僕の前歯を控え目に叩いた。僕はゆっくりと口を少し開いて美魚を受け入れた。

 ある日、溜まりに溜まった郵便物の中から高校の同窓会の知らせを見つけた。日付はちょうど僕の仕事が休みの日だった。僕はどうするべきかを美魚に聞いた。あなたの好きにすればいいと思います、と微笑んだ。あんなことがあったのにね、と僕が笑うと、あんなことがあったからなんでしょうと、美魚は笑わなかった。
 会場は駅からすぐの居酒屋で、見るからに安そうな感じだった。自動ドアが開くとそこは人、人、人。もっと少ない人数でこじんまりとやるんだろうと勝手に想像していた僕は、少々驚いてしばらくその場に立ち尽くしてしまう。
「入らないの?」
 かけられた声に振り向くと、そこには見知った顔があった。
「直枝」
「うん、ひさしぶり」
 僕と直枝は連れ立って中に入り、隣同士の席に座った。ほどなく飲み物が行き渡り、幹事の二木さんの号令で会は始められた。
 僕と直枝は色々なことを話した。これまでのこと、これからのこと。事故のこと、あの頃の仲間達のこと。
「みんな忙しいみたいで、今日は僕と二木さんくらいかな」
「そう」
 僕はぐいと手元のビールを飲み下す。心地よい刺激に、苦み。これを気持ち良いと思い始めたのはいつのことだろうか。
「あ、そういえば西園さんも来てるよ。ほら向こうに」
 立ち上がって手を振りそうな直枝を手で制止する。
「いいよ。どうせ何話したらいいかわかんないし」
 お前ともな、という言葉を再度のビールで胸の奥に押し込めていく。

 ただいま、と引いたままの布団に包まっている美魚に言う。おかえりなさい、と静かな声が返ってくる。
 ねえ、君は誰なの。どうしたんですか急に。聞きたくなったんだ。私は西園美魚です。ごめん、違う、違うんだ、そういうことが聞きたいんじゃないんだ。君が誰なのかが知りたいんだ。君は美魚なのか、直枝なのか、二木さんなのか、それとも僕なのかなんて本当はどうでもいいんだ。どうでもいいことなんです。そうだ。違うんだ。僕はどうすることも出来ないけど、これだけは確かなんだ。愛してるんだ。美魚のことを世界で一番愛してるんだ。愛してるんです。怖いんだ。この気持ちが全部偽物になってしまうのが怖いんだ。でも本当にもなってほしくない。どっちつかずの真ん中で永遠にたゆたっていたいんだ。私はあなたといたいんです。僕は美魚といたいんだ。僕に足りないものがあるとして、それが何だってそんなことはどうでもいいんだ。何が出来なくたっていい。足をもがれても、腕を鈍器で潰されたって構わないんだ。脳みそだけの存在になって、美魚のことだけを考えていられたらいい。いいんですか。
 僕は何も言わずに布団にもぐり、彼女の手をそっと包む。何よりも冷たく、確かな体温。

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