We don't forget our journey. 仁也
一瞬、目の前の光景が理解できなかった。
修学旅行へ向かう途中、我が校のバスは一列に連なって道路を走っていた。
その中の一台、前を走っていたバスが突然、暴力的な衝突音を響かせたと思った次の瞬間、私の視界から消えた。
ゴムタイヤとアスファルトの摩擦が奏でる耳障りな急ブレーキの泣き声の意味が、今になって私の頭に浸透してくる。
地面には痛々しい抵抗の跡が刻まれていた。
無惨に引き千切られた古びたガードレールと、バスを飲み込んでいった何もない空間が徐々に私の心を恐怖で凍りつかせる代わりに私の頭に、これが現実だよ、と寒気が走るほど優しく囁きかけてくれた。
私の身体が振動に振り回される。気付けば、自分の乗っているバスも急停車していた。
同校の他のバス達も一様に足を停めている光景を見て、改めて事態の緊急性が脳髄に染み渡る。
同じ車両に乗っていたクラスメイト達の混乱と興奮の悲鳴が、歓迎できない盛り上がりを産み出してくれた。
お陰で考えていたことが霧散してしまった。
私は洗濯機のように回転する頭を、コンセントを全て引き抜く勢いで鎮める努力を尽くし、数秒前まで抱えていた考え事の内容を必死に想起する。
数秒前まで、私は目の前を走るバスを睨みつけていた。
ひょっとしたら、その車両にはあの子が乗っているかもしれないと思ったから。
今朝、学校の駐車場でクラスごとのバスに別れて乗り込むとき、あの子の姿はなかった。
点呼をとった担任は首を傾げながら寮に電話したが、結果は空振り。
全寮制の学校とはいえ、私もあの子も頻繁に自宅に帰っていたから。寮にいないなら自宅だろう、遅刻なら置いていくしかない、と深く追求されないのも無理はなかった。
私も少し意外に感じたが、あの子が修学旅行を欠席するのも十分すぎる理由はあった。
修学旅行のスケジュールはクラスごとの行動、クラス内で班に別れての班行動が大半を占める。このクラスに居場所の無いあの子にとって、それは苦痛以外の何者でもないだろう。
ならばあの子が欠席するのも納得のいく話だった。だがバスが走り出したあと、私の頭にもう一つの可能性が浮かんできた。
それは他のクラスのバスに紛れ込んでいる可能性。
クドリャフカや来々谷さんの居るクラスなら、あの子の友達も多いだろう。
その可能性に気付いたのがバスが発車したあとで良かったかもしれない。バスが出る前に気付いていたら、自分に厳しい私のことだ、またあの子の怨みを買おうと規律を振りかざして、罵詈雑言を吐き散らしていただろう。
いつものことだ。
いつものこと、もう何年も前から変わらない。
変わらないし、今更変えられない。
あの子から私に噛みつくこともあれば、私からあの子に噛みつくこともある。だから変えられないし、変わらない。
変わる必要もない。
その疑惑が浮かんでから、目の前を走る件のバスに透視能力を持つ超能力者のように視線を突き刺していたが、生憎私はそんな空想の世界にしか存在しない力は持ち合わせていないので代わりに頭を動かす。
トラブルメーカーのあの子の性格を考えれば、むしろその可能性のほうが高いんじゃないかと疑念が確信に変わり始めていた頃、彼女達が乗っていると思しき疑惑の車両は崖下へ投げ出された。
気付けば、心臓が身体を突き破りそうなまでに暴れていた。
呼吸が荒い。苦しい。苦しいのは息だけじゃない。
だって、未だに信じられない、信じたくない、信じられない。けど、目の前の画用紙は現実という色で鮮やかに塗り上げられていた。
あんなところから落ちたら、中に乗っている人はどうなるの?
私はバスの扉に体当たりをしていた。
無駄にぶつけた肩が痛い。
多分そのあとに鬼気迫る形相で運転席に向かって、開けて、と叫んだのだと思う。
運転手は驚きを顔に張り付かせて、理性的判断より先に反射的に扉の開閉スイッチを押していた。
足をもつれさせながら車外へ転げ出る。
頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
ああ、もう現実逃避するのは止めよう。あのバスには間違いなくクドリャフカも来々谷さんも乗ってる。一刻も早く助けに行かなければならない。
願わくば、あの子は今日は本当に病欠か何かで家で寝込んでいて先程の私の推測、いや憶測は杞憂であって欲しいと祈った。
全力疾走にはまったく向かない革靴でアスファルトの地面を蹴り続けながら、もつれた思考を迅速に纏める。
運が良ければ生きている、運が悪かったときの想像は理性と感情の両人ともに受け取り拒否された。
運に関しては私もあの子も救いようがないことは今は考えたくない。
破れたガードレールの傍に数人の教師が集まっていた。
携帯電話を耳にあてている者、ガードレールに手をついて崖下を見下ろしている者、徒歩で崖下までおりられる道がないかと興奮気味に訊いている者、様々だ。
何人かの教師が私の姿を認めて、バスに戻りなさいだの、先生達に任せてだの怒鳴っていたのは今の私にとって不要な雑音でしかない。
ガードレールの途切れている場所に辿り着き、そこから崖下を見下ろす。
7、8メートルほど下に今、道路を占領しているものと同じデザインのバスが木々を薙ぎ倒し横倒しになっていた。
このくらいの高さなら大丈夫、運が良ければ、と自分の心臓に言い聞かせる。
窓硝子は割れているようだが、中の様子は窺い知れない。
私は顔を上げ、辺りを見回すと目当ての物はすぐ見つかった。
遠目にで気付き難いが、道路を数十メートル行ったところに下におりる石段があった。
すぐさまそこを目指して、再び革靴を磨り減らす。
待て二木、先生の話を聞け、といった声が後ろから追いかけてくる。
私が普段優等生だから強行手段をとらず言葉だけで説得しようとしていたようだが、好都合だった。
救出の為の人手を石段へと導く為、私は足を動かす。
背の高い木々に囲まれた日当たりの悪い土を踏みしめた後は、もう誰一人として私を止めようとする人間はいなかった。
私より足の速い男性教員達はみな私を追い越し、バスの転落場所に向けて駆けていく。
私も足を止めない。
と、次の瞬間、私は耳を疑った。
いや、正確には耳が聞こえなくなったのだ。
理解の追いつかない頭を必死に回転させてその原因を見つけようとする。
私の鼓膜を占有する“これ”は何?
轟音? 爆発音?
視線を空に転じると、私の向かう方向の先で業火が踊っていた。
理由にはすぐに思い至った。
ああ、ガソリンに引火したのか。
本当に運が悪い。
胸の中が黒いもので押し潰される。
あと10分あれば、何人かは助けられたかもしれない。
この人手なら、15分あれば全員救出できた。
そんな風に思いながら、地面を蹴る速さはさらに増していた。
そのときの私の頭の中は空っぽだっただろう。
悪い想像なんて入り込む隙間もないくらい空っぽで、真っ黒だった。
こういうのを現実逃避と呼ぶなら、私は全力疾走で逃げてやる。まだ死んでない、まだこの目で確かめてない。
その光景を見たとき真っ先に思い浮かんだのは奇跡という言葉だった。
爆発の起こった場所から少し離れた、森の拓けたところで転落したバスに乗っていた生徒達が集められていた。
その大半がどこかしら怪我を負っている、中には意識のない者もいるようだが、歓喜の涙を流しながら、全員いるな、と点呼を済ませた男性教師の様子から死者は出ていないことが窺えた。
クドリャフカも来々谷さんも命に別状はない様子だったのをこの目で確認して、ひとつ息を吐き出す。
99%の絶望と1%の希望、その割合は逆転した。
私の胸を満たすのは99%の希望。しかしまだそれは100%ではない。
先生はクラス全員の生存を確認したようだが、私はこれからこのクラスの者でない生徒を探さなければならない。
胸の中ではまだ1%の黒い腫瘍が早鐘を打っていた。
自分で捜し歩くこともできるし、意識のある生徒に訊くこともできるが一番手っ取り早い手段は。
私はスカートのポケットに手を突っ込んだ。固い感触が指先に当たる。
そしてそれを取り出し、親指でボタンを繰る。
電話帳を開き、あの子の名前にカーソルを合わせる。
両親が戻ってきて、三枝の家から見放されたあの子を引き取ったことで、あの子を学校に行かせてやれるようになった。
それを契機にあの子も携帯電話を持たされた。
その番号は私にも知らされている。もっとも、今までお互いかけたこともかけられたもなかったが。
これでもしあの子が、最初からバスに乗ってなくて今日の事故のことも何も知らないで電話口に出たら、なんて言い訳しよう。
その内容を考える暇も惜しくて、手の中の機械に呼び出し音を鳴らせる。
数瞬遅れて、私の背後から間抜けなメロディーが奏でられた。
あの子の自作の曲か何かなのだろう。
そちらに振り向く、木の陰に隠れてて今まで気付かなかった。
悪い予想ほど当たるものだな、と呆然とした。
何でこの子はウチのクラスのバスに乗らなかったのだろう。
同じクラスのはずなのに。
一緒に産まれた私達は、今まで生きてきてずっと差別されてきた。
そしてその終わり方さえも、こんな風に差別されるなら皮肉が利きすぎだろう。
同じ顔をしているのに。同じ家で育ったはずなのに。同じ学校の同じクラスなのに。
私は五体満足で立っていて、この子は満身創痍で横たわっていた。
意識はないようだが、口元に手を近づけると空気の流れを感じた。ちゃんと呼吸はしているようだ。
片足の本来曲がるべきではない部分が曲がっている。
一見してわかる外傷はそれくらいだった。
頭を強く打っていたり、内臓が破裂していたりすればまったく安心はできない。
早く、病院に連れて行かないと。
息が苦しかった。その原因はここまで走って来たことだけではない気がする。
心臓の鼓動も未だ止まない。
死ぬはずない。死なない。大丈夫。
そう自分に言い聞かせても、黒い腫瘍が心を喰い尽していく。
運に関しては、本当に救いようがないのだお互いに。
痛々しく傷ついたこの子の姿を見ていると、空転した思考は責任の所在に向く。
なんでこんなことになったんだろう?
あのバスに乗ったからだ。
あのバスに乗りさえしなければ。
私がこの子を追いつめさえしなければ。
私がこの子の居場所を奪わなければ、こんなことにはならなかった。
口の中に苦いものが広がる。
体の芯から震えが走った。
その感情の色を、人は後悔と呼ぶ。
気付くと、周囲が騒がしい。
救急車が到着したらしかった。
担架を広げた救急隊員達が、怪我の酷い患者から優先して乗せてください、と叫んでいる。
意識のある生徒達は我先にと、気絶している友人を運んでもらおうと声を張り上げていた。
私はその人達に、負けてはいけないような気がした。
一生に一度くらい、自分の好きなものを好きと言っていい日があると思う。
救急車に乗るというのは生まれて初めての体験だった。
耳に痛いサイレンの、その音源と同乗しているというのは耐え難い苦痛だった。聴覚的に。
椅子が電車と同じ横向きというのも気分が悪い。ちょっと酔った。
向かいに座る救急隊員の人が、絶え間なく私の顔色を窺いながら気休めの言葉を吐いてくれた。何を言われたのかは正直よく憶えていない。
女の子の顔をそんなにじろじろ見るのはマナー違反だと思う。
手術室の前で、ランプが消えるのを待ち続けるというのも凍(こご)えるくらい退屈だった。
私にできることと言えば、力なく長椅子に座り込んで待つことだけだった。
傷ついたあの子の姿を見れないのは、さっきよりマシかもしれない。
もう大分長い時間待たされている気がする。
携帯電話の時計を確認してみると、さっき見たときから五分しか経っていなかった。
手術ってどれくらいの時間がかかるものなんだろう?
長ければ十数時間かかるものらしいが、怪我の度合いにもよるだろう。
葉留佳の怪我の具合はどれくらいなのだろうか? そんなものこっちが知りたい。
さっきから堂々巡りだった。
こうしていると余計なことばかり考えてしまう。
今日という日がこんな日になるなんて思いもしなかった。
この修学旅行が終わったあともいつもと変わらないいがみ合いと苦痛に満ちた日常が続くものだと思っていた。
今日で終わってしまうのだろうか。あの子は解放されるのだろうか。
嫌だ。
そんなの嫌だ。
こんな形での解放なんて嫌だ!
あの子は生きて幸せになる道だってあったかもしれないのに。
私にはその役を担えなくても。
違う。
そうじゃない。
最初から私が!
私があの子に優しくしていれば。
していれば、よかったのに。
あ、あはは。
姉妹で喧嘩したまま死に別れて後悔するなんて、まるでチープなドラマのようじゃないか。笑えてくる。
あははは。
こういうときは死んだほうが幽霊になって出てきて仲直りするのがお約束なんだっけ?
だったら死ぬのは私のほうでよかったのに。
ああ、でもそれだと今度はあの子が三枝の家を継ぐことになるのか。
じゃ、これがあの子にとって一番幸せな終わり方なんだ。
すごいや。すごいや。よくそこまで考えたよ神様。
あははは。
はっ。
私はポケットからティッシュを取り出した。
やめよう、余計なことばかり考えてしまう。
手術室の扉を見上げる。
時間がかかるのは希望がある証拠だよね?
それとも最後の悪あがきなの?
だったらお願い。楽に死なせてなんかやらなくていい! 最後の最後まで足掻いてあの子を死神から引き離して!
大岡越前裁きだと本当の母親は我が子を綱引きしないんだっけ?
でも私は悪い姉だから無理やり引っ張ってもいいよね? どんなに痛がっても辛くても生きていて欲しいって願ってもいいよね?
なんでこんなことになったんだろう?
あのバスに乗ったからだ。
あのバスに乗りさえしなければ。
私がこの子を追いつめさえしなければ。
私がこの子の居場所を奪わなければ、こんなことにはならなかった。
これも何度目だろう。
時計さえなければ完全に時間の感覚など失せていたであろう静寂の牢獄の中、不意に手術中と書かれたランプが消えた。
私は弾かれたように長椅子から立ち上がり、その扉が開くのを待つ。
ドアが開くまでの一分にも満たないであろうその待ち時間が私には焦れったかった。
手術服に身を包んだ医師達数名がマスクを外しながら出てくる。
その中の一人、壮年の医師が私の表情を見ると、私が何か言う前に答えてくれた。
命に別状はないらしい。全治2ヶ月。夏休みが終わる前には退院できる。
今は眠っているので、目が覚めるまで安静にしておいて欲しいとのことだった。
99という数字がようやく3桁の大台に乗って私は胸を撫で下ろした。
今は本当にすることがないな。
ベッドで静かに眠る葉留佳の顔を見ながら、私はそう思った。
することと言えば、早々にこの部屋から出て行くことぐらいだ。
この子にとっても目が覚めて最初に見る顔が私では最悪だろう。
不意に、葉留佳の表情が歪む。
目が覚めたのか、と思ったがそうではなかった。
眉をしかめ、苦しげな息を吐き出している。
うなされているようだった。
安静にしておいてと言われた手前、起こしていいものかどうか一瞬迷って、私の出した結論は彼女の手を握るというものだった。
幼さの残る丸っこい指、小さな掌は温かかった。
強い力で握り返された代わりに、彼女の表情は和らいだ。
まいった。これではさらにこの場を去り難くなった。
この温かさをもっと感じていたい。
そう思っていたとき、騒々しい足音が廊下から響いてきた。
ノックもなしに部屋のドアが開かれる。
入ってきた2人は息せき切らして葉留佳の名を呼んだ。
今は眠ってるんだから静かにして、父さん母さん。
自分でも驚くほど冷静な声で、そう釘を刺していた。
葉留佳の寝顔を見て、2人の表情に安堵が浮かぶ。
私はなんとなく、手を握っているところをこれ以上両親に見られるのも嫌で、もう帰ろうと思った。
罪悪感を覚えながらも、強く握られた指を一本一本ほどいていく。
そして椅子から立ち上がり、ドアの方向へ向く。
そのとき、後ろから寝言が聞こえた。
「お姉ちゃん」
瞬間、瞼をきつく閉じた。
それは、懐かし過ぎる言葉だった。
私の肩が震える。
なんで、なんで。
熱いものが零(こぼ)れてくる。
葉留佳、葉留佳、目が覚めたの!?と母さんの声が震えている。
そうか、葉留佳が起きたのか。
なら私は早くこの部屋から去らないといけない。
振り返らずに、ドアへと足を進める。
そのとき、後ろから葉留佳の声が響いた。
「かなた……?」
私の姿に気付いたらしい。
何か言わないと。
いつものように冷たい言葉で突き放してこの場を去らないと。
でも、今なにか言ったらそれはすべて涙声になってしまいそうで。
私は何も答えずドアのノブへ右手を伸ばし、
その手を掴まれた。
小さな左手に。
腕を掴んで振り向かされる。
ああ、駄目じゃない葉留佳。
怪我してるのに無理してベッドから這い出してきちゃ。
葉留佳は自分で振り向かせておきながら、私の顔を見てぽかんと口を開けている。
そして取り繕うような苦笑いとともに頭を掻いて、
「や、やはは。これが鬼の目にも涙ってやつですかネ」
そんな、空気を読まないことを言うのだった。
早く、早く、この手を振りほどいて出ていかないと。
出ていかないと、いけないのに。
どうして私は、
葉留佳を抱きしめているんだろう。
「は、はるかぁ!」
嗚咽交じりの声、うまく喋れない。
「よかっ、たぁ。ほんとに」
その背を強く、強く抱きしめる。
何年ぶりだろう。
懐かしすぎた。
葉留佳は呆気にとられたように、
「かな――」
と言いかけて、
「――じゃない。お姉ちゃん」
私の耳元に、やさしい声が響いた。
神様なんてものの存在を信じたことはなかった。
いや、今この瞬間も信じてない。
それでも私は、私たちの行動をどこかで見ていて裁きを下している存在がいるなら、その存在に祈ろうと思う。
後悔だけはしないように。
お願いだから葉留佳を連れて行かないで。
これからは私が、私が葉留佳を守るから。
私が葉留佳を幸せにするから。
醜く捻じ曲がってしまった私の心を、治せる日が来るだろうか。
そんな日がいつか――――――――