それは呪いにも等しくあり 翔菜
逢魔ヶ刻。
夕と夜の境界で揺れる陽が淡く照らす廊下を、理樹は歩いていた。
理由は大したことではない。
教室へ忘れ物を取りに行くためである。
引き戸を開け、教室に入る。
「あ……」
まず最初に目に入ったのは、自分の席に座り、腕を枕に寝入っている鈴だった。
呼吸に合わせて肩が動き、長い髪が揺れる。穏やかな寝息が、静まった教室では心地よく聞こえた。
一瞬、魅入る。
僅かに開いた唇、閉じた目、綺麗な睫毛、沈み行く夕陽に照らされた艶やかな茶の髪。
それらが、理樹の動きを止め、その視線を釘付けにさせた。
忘れ物の事など、既に頭の中には無かった。
普段意識しなかった鈴の可愛さが、可憐さが――ともすると、触れただけで壊れてしまいそうな儚さが、頭を埋め尽くす。
聞こえる音は鈴の寝息だけ。
外からの音はなく、理樹はその音を聞いていたいがために音を出さない。
そうして、数十秒が過ぎただろうか。
にゃう、とベランダから猫の鳴き声。
「……!」
そこでやっと理樹は動き……そして、気付いた。
鈴が枕にしている左腕。
その手に握られているものに。
そう言えば、と思う。
小学校の頃は、今、鈴の小さな白い手に握られているものひとつで、騒がしくしていた連中も居たものだった。
ふと、疑問。
鈴は何故、それを握っているのかと言う。恐らく練習していたのだろう。
だが、高校では中学までと違い、それを使う授業は無いはずだ。中学の頃のものを引っ張り出してきた、と言う事。
では、何故わざわざ――
考えかけるが、そんな疑問は今の理樹にとってはどうでも良い事だった。
触れたい、と思う。
どこで、どこに、と自ら疑問を抱く。
そんなの、決まっている。鈴が握っているそれに、異性の持つそれに触れたいと思ったのであれば、必然と触れるべき箇所は決まっている。
いや……自分の物でも、そうするしか用途のない道具なのだ。そのために生まれた道具だ。
それは扱う者の技量によっては多くの人々を魅了しうる道具。主役となる事もあれば主役を引き立てるために使われる事も、そもそも使われない場合も。
「すぅー」
「!」
理樹が身体を強張らせる。
知らず知らずのうちに鈴へと近付いていたらしい。
音も立てず静かに。無意識のうちの行動だったというのに。
「鈴……」
名を呟き、改めてその姿を見る。
陽はほとんどが沈み、髪を照らしていた朱はなく、闇に染まり始めていた。
……ソフト部かサッカー部あたりが練習を続けているのだろうか。
校庭では照明が使われ、その白い光が夕陽の朱に変わって教室をほんの少しだけ、足元が見えるくらい照らす。
歩ける。触れられる。
「でも」
思い直す。無理だ。鈴の手に握られているのだから、それに触れれば、理樹が手にすれば――間違いなく、鈴は起きる。
「ん……」
夢の中で何かあったのだろう。
僅かに鈴が動き、手に握られていたものが、机の上で小さく音を立てる。
鈴は、起きなかった。不思議と、目を閉じ小さく息を吐いて安堵する。
「あれ?」
理樹が目を逸らしたその間に、鈴の手から、それは離れていた。
「そんな……」
逡巡する。これなら、触れられる。手に出来る。
ダメだ、と思うのに、その魅力に引き込まれる。ある種呪いにも等しい。
また、鈴を見る。
穏やかな寝顔。可愛い寝顔。
出会った時は男の子だと思っていた。
けれど、今の鈴は。
近くに居すぎて、日頃意識する事は無かったけれど。
クラスの男子にだってモテる。普段の行動と相俟って、それが一部の女子からの不評を買ってしまうくらいには。
それくらい、鈴は可愛くなった。……或いは、鈴が可愛い事に、理樹が気付いた。
それでも、普段から意識する事は無く。隣に居て、近くて、だから。
そんな単純な見方だけではない、中学高校と経て、鈴は成長した。
女の子らしく、他の子と同じように、年相応に。
呼吸とともに上下する小さな肩。
呼吸とともに上下する胸の膨らみ。
唇。整った鼻。細い腰を覆う長くて綺麗な髪。
こんなに可愛い女の子の持つ、その道具に、触れられたなら、きっと。
男として。
「すごく、」
幸せな事なんじゃ、ないかと。
恭介はどう思うだろう。謙吾はどう感じるだろう。真人は……どうでもいいか。
では、他の皆は。
きっと、笑い飛ばす。それだけだ。大した事は無い。いつもと同じだ。少なくとも許されざる行為というわけではないだろう。
いや、そもそも知られる事が無いのだ――鈴にさえ、気付かれなければ。
近付く。手が届く範囲まで来た。
「鈴」
また、名を呟き。
「ごめん」
罪悪感から、事前の謝罪を行う。
聞こえないのだから、意味のない行為。
理樹の優しさゆえの言葉。けれど、そんなものを軽く越える、男としての欲望が、今の理樹を突き動かしていた。
小さな寝息。可愛い寝顔。
その手から離れ、危ういバランスで机の上に乗っていたそれを、理樹は手に取った。
そして静かに握り、動かし、見る。『棗 鈴』と名前が彫られている。
そこにあったはずの白い塗料はほとんどが禿げてしまっていたが。
ああ、と思う。
これは間違いなく、鈴の物だ。
ならこれは、鈴しか使った事がないのだろう。
誰にだって触れられていないはずだ。そこに踏み込ませないくらいには、鈴は堅かったような気がする。
意識的にせよ、無意識的にせよ、だ。
それを、理樹は、自らの口に、唇に、近付け……そして。
「………………」
確かに、触れた。
感無量だった。理由は説明出来そうもない。
なのに無性に嬉しかった。達成感があった。
――――ぴゅるぴっ!
「え」
あれ?
息を吹いてしまったらしい。
理樹が手に持った鈴のそれが――アルトリコーダーが、澄んだ音を奏でたのである。
結構な音量だった。鈴が、その音に反応して目を開いた。
「んう……」
「え、ぁ」
ただ元に戻せばよかった。だが、理樹は動揺していた。
その事に思い至る前に、どうすればいいか悩みあたふたとし、そして。
鈴が完全に眠りから覚め目を擦りながら顔を上げ。
隣に立つ理樹と目が合った。その鈴の視界の隅には、理樹の手に握られたアルトリコーダー。
少し、濡れているようにも見える。
覚醒すると同時、状況を認識した。
「……理樹……」
「お、おはよう、鈴」
「……なにをしている?」
「えっと、」
何を? そうだ、理樹は教室に何をしに来たのだったか。
「わ」
「わ?」
「WAWAWA、わすれもの〜♪」
「…………」
「…………」
「…………」
外した。滑った。と言うかそもそも意味が無かった。
鈴の疑問に対する答えには、決してなりえていない。
「それ」
アルトリコーダーを指差す。
「ぅ」
「あたしの、だな?」
「……はい」
「なんで理樹が持ってる?」
「……はい」
「変態」
「……はい」
否定のしようが無かった。
その後。
恭介たちには冷やかされからかわれ、リトルバスターズ女子メンバーには距離を取られたり弄られたり。
鈴は一週間、口を聞いてくれず、
杉並には「なんで私のじゃないの!?」と泣かれた。
意味が分からなかった。