文字色の恋 翔菜
最近、クドリャフカのゴミ箱がおかしい。
クドリャフカが、ではなくて、クドリャフカのゴミ箱が、だ。
ゴミ箱は、私のものが私の机の右側、クドリャフカのものがクドリャフカの机の左側に設置してある。
つまり、2人の机の間に、それぞれのゴミ箱が置いてある事になる。
ひとまとめにすればいいものだろうけど、いかに寮生活と言えど2人で生活すればゴミはやはり2人分出るもので、それぞれのゴミ箱が必要になるわけだ。
1ヶ月ほど前からだろうか。
クドリャフカのゴミ箱に、紙くずが増え始めた。
それこそ、収集日の前には溢れ出てしまいそうなほどのスピードで捨てられている。
何十枚、いや、もしかしたら何百枚を数えるかもしれない。
とんでもないスピードでひとり遊びでも敢行しているのだろうかと少しばかり風紀委員長らしくないアレな可能性も考えてしまったけれど、クドリャフカに限ってそれは無い。
断じてない。
あんなに可愛い私のクドリャフカが、などとあってたまるものか。
ええありませんとも。
こほん。
まぁ、冗談はさておき見ればそのほとんどは普通の紙である事はよくわかる。
くしゃくしゃに、いい加減に丸められた紙の山。
ティッシュやアクセサリー類の包装紙なんかは、ほとんどない。
色とりどりだったり可愛らしかったりと、原稿用紙やルーズリーフなどの類でも無さそうだし。
なにかこう、物凄く恥ずかしくて赤面しそうなポエムとかが書いてありそうな気がするわね。わくわく。
「……うーん……」
そして今。
屈み込んだ私の目の前には、クドリャフカのゴミ箱から落ちてしまった数枚の紙があった。
いけないことだとは思いながらも、手にとってみる。
いつもの私なら踏みとどまるところだけど、1ヶ月もこんな状態では流石に中身が気になってしまう。
……。
色とりどり、と言うだけではなく、四隅は小さな花のイラストが彩られていた。
がさごそとゴミ箱をあさり、他の紙を手に取る。
……必死にゴミ箱をあさる風紀委員長。誰かに見られたりしたら大変よねぇ、と思ったけどここはクドリャフカと私の部屋だ。問題は無い。
白やピンクや黄緑、色だけのものも多い。
またイラストが増え始めた。犬、パンダ、ロケット、こうもり…………火星人?
いやいや。
「なんなのかしら、これ……」
がさごそ。
「あー……」
ハートマーク。
「あー…………」
がさごそ。
「あー…………あー、あー……はいはい」
納得弾連発猛打賞。
『LOVE』の文字。便箋。ハートマークのシール。天使。
でもまだ、確定ではない。そう、内容を知るまでは。
読むか。読むの? うん、読もう。読みましょうマイ・ロード。いいえ、まずは落ち着くのよ佳奈多。そして状況を整理しましょう。
……これは決して盗み見ではないし、プライバシーの侵害でもない。
クドリャフカのゴミ箱が大変な事になっていたから善意で整理したらたまたま内容が目に入ってしまっただけなの。
OK? OK。レッツスタート。リードリード。
今までのものを、床にしっかりと並べる。
ぎっしりと文字が詰められたものから、字間に余裕があるもの、シンプルにまとめたのだろうかそもそも3分の1も書かれていないものまで、さまざまなものがあった。
読んでいく。早く、けれどしっかりと。
……その書き方と同様に内容もさまざまだったけれど、共通しているものがひとつだけ。
『お慕いしています』『好きでした』『付き合ってください』『あなたの事を想うと胸が締め付けられるのです』『愛しています』、エトセトラエトセトラ……。
共通しているのは、相手に好意を、特別な感情を伝える言葉。
うん。なんていうかもう。ねぇ。
「やっぱりラブレターよね、これ……」
クドリャフカが恋、か。
私には今、昔から通じてずっと、特別な意味で好きな異性は居ない。
……こう言った事に関しては、私よりも大分先に進んでいたらしい。
「『あの日あの時あの場所であなたに』……」
以下略。
えー……と?
さすがにパクリに走っちゃいけないと思うわよクドリャフカ。
「…………に、しても」
……なんとなく、気付く。
この丸め方は、捨て方は、クドリャフカにしてはどうにも投げやりと言うかいい加減と言うか。
怒りか悲しみか、あるいはどうにも出来ないもどかしさや苛立ち、迷い。
そう言った激しく、かつめまぐるしく変わる感情をぶつけるかのような、そんな印象が感じられる。
私も、似たようなものだからだろうか。それははっきりとはわからなかったけれど。
内容。時折荒れる筆致、筆跡。長時間押し付けて滲んだインク。紙の丸め方。
よくよく見ればこのラブレターは純粋な気持ちを綴っているにも関わらずどうにも歪で、存外重い。
少なくとも、私たちくらいの年頃であれば。
「さて……」
どうしたものか、と顎に手を添える。
今からこれをまた適当に丸めてゴミ箱にぽい、と行きたいところだけど。
何もしなくて、いいものだろうか。何か私に、出来るだろうか。
何かしらの悩みを抱えているであろうルームメイトに。
「いや」
ここまでしておいて今更だけど、……誰にだって、隠しておきたい事のひとつやふたつくらい、きっとある。
私だってそうだ。
紙を手に、ゴミ箱に突っ込む。
だからこれは……少なくとも現時点に置いては、出来ればクドリャフカ自身から相談でもしてくるまで、見なかったことに
「佳奈多さん?」
「ぃひゃふ!?」
心臓が跳ね上がった。比喩でもなんでもなく、その一瞬だけ本当に心拍が胸が痛むほどに強くなった。
それくらい、背後からの声に驚いた。誰の声か。振り向くまでも無い、けれど、振り向かなくてはならない。
「……ぉ、おお、おぉ帰りなさい、クドリャフカ。は、早かったわね」
「わふ。今日はあまり天気がよくなかったので、休息もかねて早く練習が終わったのです」
「そ、そうなの……」
脈拍が鋭くなったのは一瞬、呼吸は乱れる事もなく……けれど、冷や汗が止まらない。
やばい。クドリャフカがどう思っているかはさておいても、私にとってよろしくない状況なのは確かだ。
ルームメイト的にも風紀委員長的にも非常にバッドだ。多分修羅場的な意味で。
室内の窓から見た空は灰色で、雨は降りそうには無いけど気分がどんよりするような天気ではある。
クドリャフカの言った事は紛れもなく本当なのだろう。こんな事で彼女が嘘をつく理由もないのだし。
「佳奈多さん」
「なにかしら」
なんとか平静を装うとしたけど、声が上ずってしまった。
裏返らなかっただけよかったとすべきか、判断に苦しむところではある。
「それ、読みましたか?」
はっきりとは感情を出さず、けれど目はしっかりと見据えて。
「えっと……まぁ、……はい」
こんなに下手に出るのは、いったいどれくらいぶりの事だろう。
むしろ、同年代に対しては初めてかもしれないくらい頭の位置が低い。
クドリャフカの身長自体が低いから、その低さもいっそうのものだ。
今になって、軽率な行動だったと思う。私らしくない、とも。
1枚だけ、まだ手に持ったままである事に今更気付き、しかし離すことは出来なかった。
ただただ沈黙の中、クドリャフカの言葉を待つ。
けれど。言葉はなく。
「ねぇ、クドリャフカ。これは……」
沈黙に耐えられないなんて、らしくもない。
でも、恋なんて知らない私に、恋を知る――或いは知った――クドリャフカの心境は決してわかるものではない。
だから、耐えられなかった。
「恋文……らぶれたー、です」
わかりきったことを、それはもう、真剣な顔で。
……こんな内容で良いのか。相手に渡すか渡すまいか。想いを伝えるか否か。
そう迷った挙句にゴミ箱に捨てたわけではない事くらい、色恋沙汰に疎い私にだってわかっている。
だからこそ、微妙な空気になっているのだし。
「クドリャフカ」
「なんでしょう、佳奈多さん」
「このラブレターがなんなのか……聞いてみても構わないかしら?」
人の想いを勝手に見た贖罪にはなりえないし、そんなもので済ます気も無いけれど。
誰かに話すことで何かが変わるかもしれないから。だから聞いてみようと、そう思った。
クドリャフカは座り、少し逡巡して。
「私は」
「……」
「私は、文字に恋してるんです。そうやって文字にして……大好きな人への想いを、吐き出して、振り切って、前に進もうと」
必死に笑おうとして作った曖昧な笑顔で。
文字に恋。どうしてか不思議な響き。
クドリャフカが。好きな相手に好意を伝えるためのラブレターに。何故、どうして、捨てるからと言って怒りや苛立ちさえも混じった感情を乗せてしまったのか。
恋をした事の無い私には断定は出来ないけれど、推測くらいなら容易に出来る。
相手には既に想い人が……ひょっとすると、付き合っている相手が居る、と。
つまりはそういうことだ。
相手の名前は最初からこうやって捨てるつもりで書いたからだろうか、どこにも書かれていなかった。
けど、ここまで聞けば普段のクドリャフカや、周りの人たちを知っていれば見当はつく。
……たぶん、直枝理樹だ。
だとすると、彼は。
彼は、棗鈴と。どこぞの騒がし3年生のせいで、今の直枝理樹と棗鈴の関係は誰だって知っている。
そして、彼らは。
端から見ても、どちらもクドリャフカにとって大切な存在で。
だから言えないのだろう。
「届かなくてもいいんです。届かないほうがいいんです。ただ、とどめたままにはできなくて……だから」
私は。
本当に軽率だった。
でも、
「…………」
グッ、と拳を握る。
悩み、苦しんでいる人が居て。このまま聞いただけで終わったら、風紀委員長のプライドも、私個人のプライドもずたずただ。
何より、……そんなちっぽけな事情よりも。ルームメイトとして恋の話にも乗れないのは、叱咤してやることすら出来ないのはものすごく情けない。
それに、この子は。……ふざけている。そんな言い訳が、この私に通用するものか。
「そうやって、後ろばかりを見てちゃ……前になんて進めるわけが無いわね」
威圧するような、そんな堂々とした口調で。
これでいい。軽々しくクドリャフカの心に踏み込んでしまったと縮こまるよりも、こうやっている方がずっと私らしい。
不安そうに、クドリャフカが顔を上げる。
「か、佳奈多さん?」
「何が文字に恋よ。それっぽい事を言えばなんでも解決するわけ?」
そもそもは勝手に見た私が悪かったのは大いに分かっている。
けど、結果オーライだ。そうなるようにしてやればいい。クドリャフカが前に進むために、多少の非難は被ってやろうじゃないの。
「…………」
「届かないほうがいい? 本気でそう思うなら、文字にもしないで黙ってトイレに篭って泣いていればいいのよ。……本当は前に進む気なんてこれっぽちもないんでしょう?
ずっと書いていればいつかは伝わるかも知れない、いつかは自分の方を見てくれるかも知れない……そんな叶いもしない幻想を抱いているのが見え見えね」
「えっと、……その」
何かに脅えるみたいに。
何かに惑うように。
何かに踏み込むみたいに。
クドリャフカが視線をさ迷わせている。
……大丈夫。私の言った事が違うのなら、こうはならない。大丈夫。だいじょうぶ。
「楽よね。ホントは直接言う勇気からしてまずありもしないくせに、そうやって言い訳して、何もかも全部諦めていれば」
本当に、楽だ。
何もかも本当は全部諦めているくせに。直接、思っていることを伝えられもしないのに。
『家族』でありたい人に、妹にすらそうできない私が、何を偉そうに言っているのだろう。
私だって、何度その気持ちを文字にしようとしただろう。そして結局、文字にすら出来なかった分際で。
でも、言葉を止める気は無かった。
ともすれば心を挫きかねない他人からの酷な言葉は一方で、強い一押しになる可能性もある。
クドリャフカならきっと後者に出来る、そう思っているから、信じているから。
「まぁ、もしかしたら一応前に進む気はあるのかも知れないけど……どのみち、後ろを見たまま前に行こうとしたってね、こけて余計に恥をかくだけよ」
「……そんな歩きかたはでんじゃー、ですね」
「そうよ」
もし前に進むつもりであっても。ちゃんと前を見なくちゃ、前に進めるわけがない。
少しくらいなら兎も角、いつまでも後ろを見たまま前に向かって進めるほどに、人は器用に出来てはいないのだ。
そんな行為は、クドリャフカが言ったようにあまりにも危険すぎる。
もし前を向き進む事で傷つくのだとしても。前を見ていなければもっともっと大きな傷を負う事になる。
それこそ、下手をすれば取り返しのつかないほどに大きな傷を。
「………………」
溜め息を吐きそうになるのを沈黙を欲して堪えた。
そうやって雁字搦めになって動けずにいるのが、今の私だ。
行くべき場所に、向き合うべき現実に、背を向けたまま進もうとしてこけて傷ついて痛みに耐えられずに逃げて。
それで晴れて。
日常を日常として何の違和感もなく過ごし楽しめていても、肝心な事からは目を逸らし続けて一歩も先に進めずにいる弱虫の完成。
クドリャフカには、そうなって欲しくない。クドリャフカのためにも、遠回しになるのだろうけど、親しくしているあの子の為にも。
あなたは、ぜったいに、私みたいな弱虫ではないはずだ。
「だから、ねぇ、クドリャフカ」
「はい、佳奈多さん」
さっきまでとは違う、強気な瞳を私に向けてくる。
……ううん、きっと、私とは違う、もっと先の何かをしっかりと見据えている。
「当たって砕けろ……とまでは言わないけど。でも、当たりもしないでうじうじしてちゃ、得るものなんてなにもないんだから」
「……そうですね。このままじゃ、私」
「そうね、どうせならちょっと進歩させて……矢文で呼び出してみるなんてどうかしら」
「わふー!? とってもえきさいてぃんぐなのです!」
捨ててしまうだけの文字色の恋に比べれば、突き刺さる矢色の恋はちょっとは迫力も度胸もある。
まぁ、これもどうかと思うけど。
ただ、ちゃんと相手に届けるのであれば、ラブレターと言う手段自体は決して否定するものではないのだし。
……うん、冗談を言うくらいの余裕は出てきた。
示し合わせたわけではないけれど、2人して立ち上がる。
「では、佳奈多さん」
しゅたっ、と足を揃え、敬礼するみたいに右手を額の辺りに持って行き。
そのまま、クドリャフカは背を向けた……私に、だ。
そしてその右手を高く上げ、
「能美クドリャフカ、行って来ますです!」
「えぇ、行ってらっしゃい、クドリャフカ」
微笑みながら、さっきのクドリャフカの真似をして右手を額の辺りへ。
「……佳奈多さんも、ふぁいとっ、ですよ」
「え?」
とててて、と部屋のドアを閉めるとき以外は決してこちらを見ず、クドリャフカは駆けて行った。
なんとなく、下ろした右手の平を眺める。
……気付かれてはいないだろうけど。なにかある、とは思われたらしい。
「はあぁー……」
少し移動して背を壁に預け、そのままずるずると落ちて行く。
緊張した。すっごい緊張した。
……思ったよりは、いい方向でなんとかなった。
「あー、しんぞうがー……」
ひとりぼやいて、胸を押さえる。
体温が上がっている。汗も少し。顔も多分、赤いだろう。
見せ掛けだけの威勢。張子の虎の癖に……まぁ、上出来だったと思う。
……ちょっと悪いけど、勝手に見た事もうやむやにしちゃったし。
「でもあの子、どうするつもりなのかしらね」
あそこまで言っておいてだけど、いきなり告白だと流石にやりすぎだろう。
インパクトはあるかも知れないけど、順番としては間違いだらけ。どろどろしそうだし。
「ま」
クドリャフカはあれでいて結構しっかりしているし、何とかするか。
周りの人たちだって……うん。
……さて、私はこれからどうしようか。
自分の心から目を逸らさないで、再び歩き出す事は出来るだろうか。
誰かに酷な言葉を投げ掛けられたとして、それを糧にする事は出来るだろうか。
……いや。まず私が誰かに話さなければ、何も始まらないか。
「わたしも、書いてみようかな……」
愛しの妹と、家族になるために。
ひとまず文字にしてみるのも悪くないかも知れない。
クドリャフカが文字色の恋をしたように。
ああ。
…………なるほど、私はそうやっている間に誰かが手紙を見つけてくれる事を期待しているわけだ。
私がクドリャフカの手紙を見つけて、好奇心から読んでしまったように。
「そんなんじゃ駄目ね」
今回のはたまたま、偶然だ。
でも、まぁ。
時間は余り残されていないかもしれないけど、焦って結論を急いだって何もいい事はない。
冷静にゆっくり考えるくらいは、クドリャフカだって許してくれるだろう。
だから、今はとりあえず。
「負けるな。頑張れ、クドリャフカ」
心の底から、彼女の恋を応援してみよう。