「うみゅー、りきー」
「どしたの、鈴」
「なんでおまえはへいきなんだー」
「いや、別に平気ではないけど」
―― たまにはこんなのも ―― 翔菜
理樹と鈴の住むアパート。
その一室で、笹瀬川佐々美は床に横たわったなんだかいまいち気力の感じられない生き物を見下ろしていた。
そして、一言。
「……この醜態。惨めですわね、棗鈴」
「うるさーい」
「だいたい、なんでわたくしを呼びましたの?」
「ひまだったからだ」
佐々美の目の前には、ぺちぺちと畳を叩きながら寝転んでいる三毛柄のパジャマを身に着けた鈴。
丁度、大学での講義が終わった頃合で何やらメールで呼び出されたので来てみればこの言い草にこの態度。
動いているのは手首から先だけで、腕――特に右腕――を動かすとかなりの激痛が走るようだ。
ついでにだるそうでもある。
歩くのも苦痛なのか、先ほどなどもそもそと匍匐前進していた。
鈴の自己申告によると腰も足も相当キているらしい。
まぁ、要するに。
「それにしても筋肉痛ぐらいでこの有り様……惨めプラス無様ですわね」
「ぜんぶ理樹がわるーい」
「……直枝さん、夜の営みはもう少し自重したほうがよろしいのではなくて?」
鈴の言葉を聞いた佐々美が理樹に目をむけ、そんな事を言う。
理樹はジュースの入った、夢の国の住人たちが描かれたグラスを乗せたお盆を持ってやってくると、「いやまあ」と返しながら佐々美の前にことんと置いた。
「そっちじゃなくてね」
「違いますの?」
「違いますよ」
「いいや違わない。どーだうらやましいか今年もクリスマスをひとりささみ過ごす予定の寂しく」
「なんか今めちゃくちゃムカつくこんがらがり方しましたわね……ええい、この口、この口ですかしらそんな戯言を言うのは」
「よへいいひゃふなるからやめんかー!」
「……口まで筋肉痛ですの?」
「まさか」
座りながら、呆れ気味に理樹が返答する。
自分の分のジュースを口に含み、ほふぅーと一息。
続けて、「あーいたたた」などと言いながら自らの右の二の腕をふにふにした。
「棗さんに比べれば軽いようですけど……」
「うん、僕も筋肉痛」
「で、なんでわたくしを呼びましたの?」
「ひまだったから?」
「ひまだったからだ」
確認するように目を向けた理樹に鈴が頷く。
その後で腰から下にタオルケットを巻いてちゃぶ台の下までころころ転がった。
理樹はひとつ溜め息を吐くと鈴に近付き、手を伸ばす。
「ほら鈴、パジャマはだけてる」
「理樹は見ていいぞ。ざざみは見るな」
「見せ付けておいてよく言いますわ。そもそも普通逆じゃありませんの? ……それに」
鈴の……特に胸元あたりに目をやった後で口元に手をあて、ふ、と小さく笑う。
ぴしっ、と空気のみならず光ですらその動きを止めてしまったかのような沈黙。
しかし臆せず躊躇わず、佐々美は口を開いた。
「そんな貧相なもの見る価値は…………」
「お前もそんな変わらんだろー!」
「あら、それでも棗さんよりはありましてよ?」
「あたしだって成長してるんだ! なんたって理樹が」
「はいはいストップストーップ!」
なにやらやばい発言が――今更かもしれないが――出かけたところで、理樹が割って入る。
いくらなんでも呼び出しておいてそんな惚気にしかならない会話に突入してしまうのは失礼にも程がある。
と言うか気まずいし、逆に鈴と佐々美の2人に弄られかねない。
「筋肉痛の原因は……あれでしょうか」
言い、古ぼけた箪笥(引っ越しに際し鈴の実家の倉庫から引きずり出したもの)の脇に置いてあるものを指差す。
薄茶色の真新しいグローブと小さなネットに入った2つの硬球が、使って欲しいとばかりに窓から差し込む日差しと環形蛍光灯の光を反射していた。
「ん、笹瀬川さん正解。はい、記念品」
そそそ、と理樹がジュースの入ったグラスを移動させる。
すすす、と佐々美はそれを押し戻した。
「飲みかけなんていりませんわよ」
「んー、じゃあ鈴ので」
「嫌だ。これはあたしんだ」
「わたくしも嫌ですわ」
「なら、冷蔵庫にあるポーションとペプシキュウリを……」
「……いりませんわよ、そんな一過性の話題にしかならなかった微妙なもの……」
含有される成分が健康的である分だけ、青汁あたりの方がまだありがたいというものである。
もっとも、今のノリの理樹と鈴にそんな事を言えば即座にドラッグストアに駆け込んでまで青汁を渡してきそうなので、佐々美は何も言わなかったが。
沈黙は金雄弁は銀、である。
「それにしても、あのグローブとボールはどうしましたの?」
「ん、なんか3連戦の結果予想してハガキ送ったら当たった」
「プロ野球中継見てたらプレゼントのお知らせがあってさ。実は温泉旅行狙いだったんだけど」
「またジジババくさい理由……で、なんとなくそれを使って久しぶりに野球したら筋肉痛、と。……相当鈍ってましたのね」
「ささみみたいに毎日筋肉筋肉言いながらきたえてないからな」
「……ただ単に現役と言うだけですわよ。別に筋肉を鍛えるためにやっているわけじゃありません」
「まああれだ。あたしに1ヶ月くらい練習を続ける根気があればまたざざみくらい簡単に打ち取れるようになる」
「またそんなびみょーにネガティブな宣戦布告をされましても……」
呆れて深い溜め息を吐き、ストローを口に含んだ。
少し薄くなったそれを飲み込んでから、ふと視線を感じて、佐々美はそちらに目を向ける。
案の定と言うか何と言うか、理樹だった。
「…………」
「…………」
「……なんでしょうか」
ニヨニヨとしていた。
その表情のまま同じ姿勢で居るときついのだろうか、理樹は足を崩した。
ちょっと女の子っぽい座り方ですわね、と思い、しかし佐々美は口に出さない。
佐々美がそんな風に思ったことなど知りもしないまま、理樹は嬉しそうに言う。
「いや、仲良いなと思って」
「……まぁ、そう形容するのは可能かも知れませんけど、素直に受け入れたくありませんわね」
「なるほど、これが最近よく聞く『つんどら』だな」
……仰向けで寝転んでいるため顔の向きが逆さまだったから間抜けなことこの上なかったが、一応は真面目な顔で鈴がそう言った。
「つんどら?」
鈴の言った用語の意味がわからず、佐々美は少し間の抜けた声で返す。
言うまでもなかろうが、そのまま受け取るとこれは永久凍土が広がる地域の事である。それだけを聞くとこの上なくお寒い人間のように思える。
今の流れでまさかそんな事を言いたかったわけではあるまいと佐々美は思ったが、何と間違えたのかわからず、首を捻るばかりだ。
理樹は理解し、そのどことなく可愛らしかった佐々美の仕草もあって、口を押さえて小さく笑っていたが。
と、佐々美が理樹の動きに気付き、少し不満そうに顔を向ける。
「直枝さん、気付いているなら棗さんが何を言おうとしたのか教えて欲しいですわ」
「そんなことより、ねぇ笹瀬川さん。来月の宝塚記念どうなると思う?」
「……まるで普段から競馬の話をしているかのような自然さでそんな話を振られても……わかりませんわよ、競馬なんて」
「うん、僕もさっぱり。……交流戦の話題の方が良かったかな?」
「どちらにせよ、はぐらかそうとしているのだけはよぉくわかりましたわ」
目を細め眉を釣り上げて威圧するかのような声で返す。
後頭部を掻き、これは言うまで引き下がらないなぁ、と理樹は観念した。
「まぁ、意味は後ほど……」
「ん? なんだ。あたしもしかして間違えたのか?」
「かわいい間違いだったから、鈴はそのままでいてよ」
「ぅ、うみゅ……そうか」
鈴が顔を真っ赤にして、しかし寝転んで顔を上向けているため隠すこともしない。
理樹が鈴の前髪を梳くと、鈴は余計顔を赤くして、しかし気持ち良さそうに目を閉じた。
「こほんっ」
そんなふたりの横から、咳払いがひとつ。
「あの……一応客人がいるところで惚気ないで下さいません?」
「客人? だれだ?」
「わたくしですわよ!」
「……あ。うん、あー、うん、客だ、ささこは客だな」
「わたくし本当に暇潰しに呼ばれたんですのね……」
「まぁまぁ。鈴はこんな風に言うけど、晩御飯くらいはご馳走するよ。1日じっくり寝かせたカレー」
「要約すると『昨日の余りもの』と言う事でしょうか?」
「ざんねんだったな! あたしと理樹は自分たちで作ったカレーは必ず1日寝かせてから食べる!」
「あなた方のこだわりはよくわかりましたけれど、特に残念だとは思いませんわ」
ぺちぺちぺちぺちと畳を叩いて言った鈴に下目をくれてやる。
鈴はそれに臆せず、ぺちぺちとやはり畳をたたき続ける。
うるさいよ。
注意するつもりでだろうか、鈴の額をこてんと軽く押してから、太もものあたりに触れて「あいたた」とぼやきながら理樹が立ち上がった。
台所へ行き、ジュースの半分残ったペットボトルを手に戻ってきて、また座る。
「はじめからこうしてればよかったんだけどね」
「まったくですわね。……いただきますわ」
理樹の差し出してきたペットボトルに、グラスを寄せる。
注がれたジュースを口にする前に、佐々美は鈴の方を見ると、諦めの混じった口調で声をかけた。
「あと、棗さん」
「にゃう?」
「さっきから思っていたのですけど……せめて起き上がったらどうです?」
「筋肉いたい……」
「もはや半分以上は怠惰ですわね……。直枝さん、これは甘やかしすぎじゃ」
「まぁ、今日は特に予定もないし。動くべき時に動いてくれれば」
理樹の言う動くべき時とやらがいつなのか訝しく思いながら、佐々美は溜め息を吐いた。
*
夜。
部屋の中にはテレビもラジオもつけず、開け放った窓から吹き込む風の音だけがあった。
そこに、プルを開ける音と空気の抜ける音が響く。
「ごめんね、笹瀬川さん」
「……今更ですわね」
カン、と軽く缶を合わせて乾杯し、2人とも一口だけ口に含んだ。
舌に苦味が広がり、胃が僅かに熱くなる。
「にしても、棗さんが寝入った後にビール……アルコールだなんて。何をなさるおつもりかしら」
「いやまあ、別になにも」
「それはそれでちょっと気に入りませんわね」
「笹瀬川さんに魅力がないって言ってるわけじゃなく」
「ええ、わかっていますわ」
くすくすと小さく、少し意地悪く笑った佐々美に、理樹は苦笑で返す。
先ほどより少し多めに煽り、一気に胃の中に流し込んだ。
「ふぅー」
「……それにしても。どういう風の吹き回しですの?」
「え? いや、なんとなくお酒が飲みたいなぁと」
「そのことじゃありません。……棗さんと、その……野球をした事ですわ」
「ああ」
理樹の返事は短く、また特別深い感情も含まれてはいなかった。
だからとて、軽いものでもなかったが。
2人で出来る事なんてせいぜいキャッチボールから、投球練習に軽いノックくらいだ。
なんとなく手にした硬球を指先で弄び、佐々美は疑問に思う。
あの事故以来、せいぜい見るくらいしかしなかった――そこに至るまでも随分かかったが――野球を、何故自ら。それも、酷い筋肉痛になるまで。
「どちらから?」
「鈴から。あれが届いた時に、しばらくグローブを眺めてからやろうって言ってきたんだ。理由は、わからないけど」
「…………」
「懐かしんで、少し浸って。でも楽しんで出来たよ」
「やっぱり、悲しみなんて薄まるものですわね」
「うーん、そうじゃなくて……昔みんなでやった事を思い出して落ち込むんじゃなく、そうやって懐かしむ事が出来るようになったんだと思う」
「いずれにせよ、時の流れ、ですか」
「……かな」
佐々美の言葉に頷いて、理樹は笑う。
あのあと、やっぱり簡単には立ち直れなくて、苦労して。
でも結局のところ、一番の薬は時間が経つことだったのだと鈴とボールを投げ合って気付いた。
思い出して悲しみに暮れるのではなく、思い出して懐かしむ事が出来るようになるのは、果たして進歩なのだろうかと僅かは悩みもした。
けれど、こうやってなんの取っ掛かりもなく話せるこの瞬間があるからには、間違いなく進歩なのだろう。
力強く踏み出した一歩ではなく、摺り足で進んだ数ミリであっても。
「……笹瀬川さんは」
「…………」
「笹瀬川さんは、どう?」
「それを」
……あの日、好意を抱いていた人がこの世界からいなくなって。
佐々美は視線を逸らしてから缶の中身を少し多めに喉に流し込み、短くはない沈黙を作り出す。
理樹もまた、その沈黙を長引かせるためにしばしアルコールに浸った。
掛け時計が連続秒針だったため、秒針の動く音すらもせず、また風の音だけになる。
遠くから犬の鳴き声が聞こえたあたりで、全ての音を小さな声で裂いて、佐々美が続きを紡ぐ。
「あなたが聞きますの?」
「あいたたたた」
「忘れる気はありませんわ。けれど、まぁ……執着する気もありません。最初から」
「そっか……」
理樹は視線を伏せ、小さく笑う。
それから十数秒して、意を決したかのように佐々美に声をかけた。
「ねぇ」
「はい」
「今度さ……一緒に、野球しない?」
「……どうしましょうかしら」
ソフトボールをまだ現役でやっているのだから、負ける気はさらさらない。
けれどやはり、これはそんな矜持だけの問題ではないから、佐々美は返答を躊躇った。
「ぅ……みゅ」
と、思考の最中、奥の部屋から気の抜けそうな声が聞こえて、襖が開いた。
がたん、と襖にもたれかかり喧しい音を響かせながら、ボサボサ頭の鈴が顔を出す。
「あら、起きましたの?」
「アルコールのにおいがした……」
「いやいや」
まるでアルコール中毒患者みたいな台詞を吐いた鈴に理樹が短く突っ込む。
どちらかと言うと弱いから嗅ぎ取ったのだろうが、酒自体は嫌いではないのだから困りものではあった。
「鈴も飲む?」
「のむー」
「筋肉痛は大丈夫?」
「あんまだいじょうぶじゃない。まだ足も腕も頭もいたい……」
「頭の方はただの寝すぎですわよ、確実に」
佐々美の至極真っ当な指摘はスルーして、鈴が理樹に近付き、きんにくいたいうみーと鳴きながら背中から抱きついた。
そのまま手を伸ばしてちゃぶ台の上の缶ビールを取ろうとしたが届かず、理樹の手から奪い取って飲み始めた。
動きからして、大分よくなってはいるらしい。
「鈴、そのビール落とさないでよ?」
「……理樹。もしものときは、あたしのすべてを受け止めてくれ」
「いつからビールは鈴の全てになったのさ……」
「だから客人の前で……」
何やらイチャつき始めた2人を視界から外すべく目を閉じ、微妙に震えた声で佐々美が呟く。
「まあまあ」
「まあまあ」
「なにかこう2人に揃って宥められるとわたくしが悪いみたいじゃ……ああもう、いいです、いいです、お好きにどうぞ」
はぁ、と溜め息を吐いて苦笑すると、またビールを煽る。
「なんだかんだでそれなりに楽しそうだぞささみ」
「まぁ、そこそこには。ちょっと自重していただきたいですけれど」
「そうか、足りないか、じゃあこうしよう」
「? ……ちょっと、なにを、ひゃっ!?」
鈴が理樹から離れ、佐々美の背後に回って抱きつく。
「にょーし、きょーは3人であさまでのむぞー」
「や、さけくさ……って、棗さんもう酔い始めてますの!? あなた半分くらいしか飲んでませんわよね!?」
「きにするなさしみ!」
「わたくしはなまものじゃありませんわ!」
「……えっと、……ごめんね、笹瀬川さん」
「…………まあ、いいですわよ。たまになら、こんなのも」
諦めの混じった口調で言い、抱きついた鈴の腕を取り、「うにゃー!?」と痛がることも構わずふにふにと強めに揉んでやる。
仕返し兼マッサージだ。
「じゃあ、次のたまの機会にさ」
佐々美の目を見て、やっぱり笑顔のまま、理樹は続ける。
「さっきの返事、聞かせてくれると嬉しい」
一緒に、野球を。
「その次のたまの機会、そう遠くないうちにやってきそうですわね……」
「かもね」
せめて、筋肉痛でぐだぐだしているところに呼び出されないことを祈るのみである。