今、僕は大ピンチだった。
 それが何かと言うと、今日の食卓の中に納豆が並んでいるからだ。そして僕はその納豆が苦手だった。



 苦手な食べ物の克服の仕方       mas



 ……どうしよう。僕は納豆が大の苦手。でも鈴にはそのことを言っていないし、知ってるはずもない。今になってここで言うのも恥ずかしい。
 他に並んでいる物を見てみよう。
 ご飯、味噌汁、魚などの和食が並んでいる。でも目を配らせるとそこには納豆。ねばねばと僕のことを睨んでいる。
 嫌だ。食べたくない。でも鈴に言いたくない。恥ずかしい。納豆が食卓に並ぶことはこれが始めてだ。もうどうしようもない。食べないという選択肢は出来ない。残したら鈴にその事をねちっこく怒られて蹴られて無視されたりして、僕の娯楽も一ヶ月間禁止になる。
 辛い事も乗り越えることができた僕だけど、納豆だけは嫌だった。今、この世から消えていいと思えるのはゴキブリと納豆だ。
「おい、理樹。表情が暗いぞ」
「あ、ああ。うん。大丈夫だから大丈夫だから……」
 汗が少し滲み出てきたかもしれない。ネチャネチャクチョクチョ、とさっき聞こえていたのはこいつをかき混ぜていた音が正体だった。嫌な臭いを醸し出している茶色い粒がねばねばと糸をひいて椀の中でひしめいている姿は僕にとっては強烈で食欲も少し失ってしまう。
 テレビの音声ではタレントたちが呑気に大声で笑っている。
「理樹はなんでそんな納豆をみつめてるんだ?」
「あ、ああ。うん……め…珍しいな、と思って」
「そうか。結構安かったからな」
 やっぱ普段から買い物をすると安いのには弱くなるのかな。と、どうでもいいことを思っていた。けど、問題は僕の目の先。こいつをどうしようか迷っていた。
「そうなんだ……」
 弱った小動物みたいに声が小さくなって行ってるのが自分でも感じ取れる。今、怒鳴られたらすぐにでもごめんなさいを連呼して謝ってしまいそうだ。
「ねえ…ちょっと具合が悪いからあまり多くは食べれないなぁ……なんて」
「アホかっ! 具合が悪いときこそちゃんと食べなきゃ更に悪くなって行くぞ!」
 少し、大声で言われてびくんっ、と体が揺れてしまった。
「そっか…そうだよね」
 ごくりと、僕が息を呑んだ音も鮮明に聞こえる。そして、心臓の音もドキドキと鳴り続ける。
 そして、食卓に夕食が並び終わった。
「よし、それじゃあいただきます」
 その鈴の声が少し遠くに聞こえた。そして、これは避けられない運命だと僕は悟った。
「い、いただきます」
 嫌だ……と叫びたかった。
 だけど、そんな声が無意識に小さく漏れてしまって鈴の耳に届いてしまった。
「理樹? 何が嫌なんだ?」
 もう、正直に言おうと思った。ここで変に誤魔化しても駄目だというのは分かっていた。
「納豆が、嫌いなんだ」
「ちゃんと食え」
 鈴は残酷にもそう言いのけた。
 その言葉を聞いて僕は少しずつ呼吸が乱れて行く。大嫌いな納豆を食べない結果が、蹴られたり怒られたり無視されたりして趣味にも没頭出来なくなり、食べた結果がそれらがない生活だ。そんな葛藤があった。
 次第に目眩もプラスされることになって視界がぼやける。そして、手に持っていた箸の先も見えなくなる。
「ほんとに大丈夫か?」
 鈴はそんな僕を心配してくれたけれど、もう覚悟を決めなければならなかった。
 だけど、返事をする力がなく、頷くだけしか出来なかった。
「わかった」
 鈴はそう言った。でも、頭が回らなくなった僕は鈴がなにを分かってくれたのか、理解出来なかった。
 僕はそれを考え込んでいたとこで残しても許してくれることになったのかな、とそんな淡い希望の答えを導き出した。
「理樹、こっち向け」
 声がした方向に顔を向けてみると、鈴は僕の横にいつの間にか移動してきているのに気づいた。
「口あけろ」
 言葉通り口を少し開いてみた瞬間。
 僕の顔は鈴の両手で挟まれて、その後すぐに口づけをされた。なにが起きているのか、理解をするのが遅れた。
 そして、鼻腔をくすぐっている鈴の匂いと共に、口づけをしている柔らかい鈴の口から何かが僕の口に移された。それがなんなのか分からないまま飲み込んでしまったけど、なにかの食べ物だったのは分かった。
 鈴はしばらく、手も口も僕から離してくれなかった。



 ――鈴が口移ししてくれた物が納豆だと知ったのはそのすぐ後のことだった。

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