ピッチャーがグラブを構えると、それに合わせるようにバッターの身体に自然と力がこもる。細かな身体の動きも見逃さず、相手がどんなボールを投げてくるのか見極めようとする。
 ピッチャーが振りかぶった。爆発的なエネルギーをボールに伝え、放たれたボールは一瞬でキャッチャーのミットに吸い込まれていく。バッターはコースを予測し、バットを振りぬくことでそれを阻止しようとする。マウンドからの距離が野球よりも短いソフトボールの場合、ボールを投げられてからでは遅い。
 笹瀬川佐々美は四番バッターである。決してそれは譲られたものではなく、自らの力で掴み取ったものだと思っている。また、それだけの努力もしてきたつもりだ。何万回と繰り返された行為に自然と身体が反応する。だから今日も、バットに乗せたボールを遠くへ飛ばすことができる。
 しかし、そうはならなかった。
「くっ」
 衝撃に腕がしびれる。思った以上にバットの内側に食い込んだボールは、快音を響かせることなく、ファールゾーンへ転がっていった。



ヒット     みのりふ



「先輩、大丈夫ですか?」
 顔をしかめた佐々美の周りに入部したての後輩が集まってくる。
「ええ、心配ありませんわ。ほんの少し振り遅れただけですから」
 そう言って、心配そうに集まろうとする後輩たちを制すると、腕の調子を確かめるように何度かバットを振ってみた。腕に残っていた痺れも取れたことを確認すると、ゆっくりとマウンドに向かう。それを見た後輩が慌てて佐々美のグラブを持ってくる。
「いい球でしたわ」
「そ、そうですか?」
 まさかそんな言葉をかけられるとは思わなかったのだろう、佐々美に言われた方は困惑げな表情を浮かべてしまう。笑顔を繕っている佐々美に怯えているようにも思えたが、佐々美は気にせずに足元の土をならし始めた。
「わたくしもうかうかとしていられませんわね」
 ボールを半ば強引に受け取ると、キャッチャーに合図をし、佐々美は投球練習を繰り返した。パァンとミットにボールが収まるたびに小気味のよい音を立てて辺りに反響する。
「速いですわ」
「さすがですっ」
 先ほどのことを忘れたようにすぐに飛び交う黄色い声。しかしそれでも佐々美は満足できないのか、息を弾ませながらも投げ続ける。
「む……」
 一息ついて、どこか不満げにグローブの中でボールを遊ばせる。どこかしっくりとしない手の感触。周りには気づかない違和感。集中しきれない自分の未熟さに腹が立つ。そんな空気を周りは感じ取ったのか、やがて佐々美に声をかけるものはいなくなった。
「はあっ、ありがとうございますわ」
 納得のいかないまま結局諦めた佐々美は、ボールを受け続けた仲間に礼を言うとグラウンドの隅でバットを振り始める。その横をダッシュを始めた部員が通り過ぎていくが、彼女には何の影響も与えない。
 何がいけなかったのか、先ほどのボールの軌道を思い返しながら振り抜く。想像の中ではボールは高く上がり、外野の頭を越していく。
「なぜですの……?」
もう一度振り抜く。そして何度も何度も。佐々美はその日の練習が終わるまで同じことを繰り返した。



「ふう」
 練習後に部活のメンバーと分かれると懐いてくる後輩たちを制し、ひとりで休める場所を求めた。すっきりとしない気分は大勢でいると却って滅入ってしまう。同じように部活を終え、帰宅する生徒を見るともなしに見送ると、佐々美はふらふらと歩き始めた。
 いつしか校舎裏にまでやってきていた。こんなところまで来てしまったと、壁に背中を寄りかからせて、群青色に染まった空を見上げる。どこか身体がきしむ、変なところに力が入ってしまったのだろうか。
 今までの自分なら打ち返していた。
「もちろん、あの日からですわね」
 棗鈴と勝負をし、敗れ去ったあの日の出来事。じっと手を見る。数え切れないほど素振りを繰り返し、ごつごつと硬くなった手のひら。この日までの努力が幻だったなんてことはない。しっかりとその手に証拠が残されている。
 それでも、ごっこ遊びに過ぎないと馬鹿にした相手に当てることすらできなかった。今までの努力をすべて否定されたような気持ちにさせられた。
 悔しい。才能には努力は勝てないのだろうか。迷いが自分自身をだめにしてしまっている。だから練習にも身が入らない。だけど弱みを見せることもできない。こんなことを相談できる相手がいないことを佐々美ははじめてつらいと思った。
「なぁー」
 気の抜けた声に、佐々美の思考が途切れた。
「は?」
 いつから現れたのか、黒い猫が焼却炉の隅からこちらの様子を窺っている。なんだかその猫に見覚えがあるような気がしていた。じっと見つめあうひとりと一匹。妙な空気が流れていく。よく分からない緊張感に佐々美が包まれていると、敵意のないのを見て取ったのか猫が尻尾を立てながら佐々美に近寄ってくる。その前足が汚れているように見え、佐々美はじっと目を凝らす。どうやら怪我をしているようだ、とそこで佐々美はようやく思い出した。
「あ、あの時の……」
「なぁ」
 動かない、いや動けない佐々美を恐れる様子もなく近づいてくると、靴に鼻を擦り付けてくる。甘える仕草は佐々美の興味を引くには十分だった。
「もしかしてお腹が空いているのかしら?」
 もっときちんと世話をしてあげなさいよと、心の中で呟く。とはいえ、あれだけの数が相手だ、面倒が見切れなくなっても仕方がない、鈴の姿を追っている佐々美にはある程度の事情が分かっていた。いや、偶然のことだ。その考えをすぐに否定する、素直になれない性格がよく現れていた。
 考えに耽る佐々美の足元で猫はしきりに身体を擦り付けている。まるでおねだりをしている姿に自然と笑みがこぼれた。
「わたくしの名前を知っているのかしら」
 今度は地面に背中をすりつけ始めた猫のお腹をつついてやる。反射的に身体を丸めて、その指に飛びかかる前足をさっとかわすと、佐々美は猫を踏まないように注意して足を踏み出した。
「でも、いくら『ささみ』だからといって、あなたに食べられるわけにはいきませんわよ」
 ちょっと待っていなさい、そういい残して、佐々美はどこかへと向かっていった。



「……あら、本当に待っているなんて」
 パックの牛乳を容器に注ぐと、猫の目の前に置いてやる。猫はチラッと佐々美を見上げると、目もくれずに容器に顔を突っ込んだ。
「少し温めてあげたほうがよろしいらしいですけど、これで我慢してくださるかしら?」
 すぐ側にしゃがみこむと指で耳をつついてみる。ピクリと耳は震わせるものの、相変わらず目の前の牛乳に夢中だ。
「野良猫は人に懐かないって聞きますけど、あなたは少し変わり者のようですわね」
 猫が牛乳に夢中になっている間に、もうひとつ用件を済ませてしまおうと、佐々美はポケットから包帯と消毒液を取り出した。
「まぁ、懐かれて悪い気はしませんけど」
 怪我をした前足を掴みあげると、しゅっとガーゼに消毒液を吹きかけ、それを当てる。さすがにそれは刺激が強すぎたか猫はびくっと身体を震わせて、抗議の視線を佐々美に向けた。
「ごめんなさいね……本当に悪かったわ」
 傷を覆うように包帯を巻いていく。牛乳から注意がそっちに向かったのか、猫は包帯の辺りをじっと眺めていた。
「わたくしではそれが精一杯ですわ。誰かに手伝ってもらえるとありがた……って何を考えているのっ」
 ぶんぶんと頭を振った。左右に髪が揺れて、パタパタと身体を叩く。それを獲物かなんかと思ったか、猫が伸び上がった。
「きゃっ、だから、ささみだからといって、あなたの食べ物ではありませんわっ」
 佐々美の剣幕に猫がしゅんとうなだれる。思わず吹き出してしまった。
「にゃっ」
 まるで伺いを立てるようにそろそろと前足を伸ばしてくる。佐々美が動かないのを見て取ったのか、猫は再び容器に顔を突っ込んだ。見れば喜びからか尻尾が揺れている。
「懐かない猫は身近にいますけど、あなたとは正反対ですわね……」
 人を必要以上に警戒し、常に毛を逆立てている野良猫のごとく振舞う知り合いの姿は、警戒する相手に好かれているのに寂しいと思う。
「人間は一人では生きていてはいけませんのに……あなた方と違って人は弱いですわよ」
 ふうっと息を吐いて、佐々美はしきりに猫の背中をさすっていた。指が黒い毛に沈み、一転して硬い骨の部分に触れる。しなやかに伸びる身体は十分に野生を感じられた。
「あの子が本当に猫でしたら、よかったのかもしれませんわね」
 彼女は幼い頃の風景しか信じられる物がないように振舞っている。鈴と名づけられた少女は金属のように硬い音を周囲に響かせている。それに対して佐々美自身でも声にならない複雑な感情を彼女に対して向けてしまうのだ。無意識に自分と似た匂いを感じ取っているのか、気にしないと思っていればいるほど気になってしまう。
「はっ?! な、何であいつのことを心配しなくてはいけませんのっ。もう、あなたの面倒を見てしまったのが悪いのですわ」
「にゃあ」
 それは違うと言いたげな猫の返事に、佐々美の気がそがれる。
「本当に変な猫ですわね。でもあなたと一緒にいるとなんだか気が休まる感じがする……ふうっ、このところのわたくしは少し考えすぎなのかしれませんわね」
「なぁ」
「あなたもそう思うの? もっと自然に振舞えばいいとおっしゃるの?」
 じっと猫を見つめる佐々美に、猫もじっと見つめ返す。佐々美が口にした言葉はかねてから佐々美の心の中に生まれていたもの。今度は猫は答えない。まるで答えは佐々美自身が見つけろとでも言うかのように。
 佐々美はすっと立ち上がった。いつしか空は紺色の幕が下り、足元の猫の姿さえ分からなくなっている。ふたつの瞳がきらきらと光り自分のことを見上げている。
 佐々美は手を左右に小さく振った。
「今日はもうおしまい。また会いましょう」
 その言葉にどんな気持ちが含まれていたのか、そこに存在している誰にも分かってはいない。それでも温かさは残った。
「ごきげんよう、あなたと話すことができて本当によかったわ。黒猫は不幸を呼ぶなんて嘘ですわね」
 砂を踏む音がゆっくりと遠ざかっていく。猫はずっとその後ろ姿を眺めていた。
「なあー」
 小さく一声鳴くと、猫もどこかへと消えていった。静けさと、猫が飲み干した皿だけが残される。それもゆっくりと闇に飲まれていくのであった。



 澄み切った空気に程よい気温、運動を楽しむには最適な季節。
「いきますよっ」
 マウンドからの声に、佐々美はグリップをぎゅっと握り締めた。今日はこのバットからどんな音が聞こえるのか、それは分からない。ただ思いっきり振り抜くだけだと初めから決めていた。だから佐々美はピッチャーが投げるモーションをあまり気にしないでいた。
 ブンと風を鋭く切り裂いて、バットが佐々美の身体の周りを回る。その後に遅れてボールがキャッチャーのミットに吸い込まれた。
「あら、どうかしたのかしら?」
 リアクションに困っているギャラリーの空気を感じ取り、佐々美は楽しげに笑った。すっきりとした自分に相応しい音が鳴りそうだ。そんな予感がして再び構え直した。
「今日もあの猫はいるかしら、ね」
 校舎裏に視線を向けて、久々に純粋に部活を楽しむことができることが心地よかった。だから当然、澄んだ音を響かせて、ボールは空へと吸い込まれていくのだ。
 それが笹瀬川佐々美なのだから。

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