幸せへ向けて     おりびい


「これはいけます!」

 そのチラシを見た瞬間わたしは今コンビニにいるということを忘れて叫んでしまいました。店員や他のお客さんがこちらへ視線を向けたのを感じて、相手へ視線を返すと慌てたように目をそらされてしまいました。人は恥ずかしくなると顔が赤くなるというのは本当なのですね。冷蔵庫のグラスに映されたわたしの顔を見るとたしかに赤くなっています。当分はこの店に来られそうにありません。逃げるように店を出てわたしは今後のことを思案しました。





「お寿司……ですか?」
「はい、恵方巻きというそうです。もともとは関西で昔から伝わる風習だそうですが、最近は他の地域でもわりと行われるようになったようです」
「ああ、テレビで見たことあるな」

 ノリがいい皆さんのことですから突然言われても即座に参加すると思いますが、それでもこっそり計画するなどということはあまり良い態度とは言えないので、昨日考えたことをわたしは皆さんに相談します。

「まあ、いいんじゃないのか。お前らも特に問題ないだろ」
「いいけど俺料理なんか出来ねえぞ」
「実際その場に立てば何か仕事は見つかると思います」
「そうか。オーケー」
「謙吾君はお料理上手だよね」
「まあな。文武両道。力任せではなく頭を使うことも覚えないといけないからな」
「うわあ、最近は料理できる男の子ってもてるからね。それに比べて料理できない女の子は……」
「葉留佳さん。そういうことは数え切れないほど料理に挑んでから言って下さい。最初からできないとあきらめていたのでは少しも成長しませんよ」
「みおちんはきびしいな。でもちょっとそのお寿司がんばってみようかな」
「その意気です。今回はみんなで頑張っていくことですけど、翌週は流石に女の子同士戦わないといけませんよ」

 これは失言だったかもしれません。みるみるうちに女子メンバーの顔が赤くなっていきます。小毬さん、葉留佳さん、クドリャフカさん、来ヶ谷さんそして以前はそのようなイメージがまったくなかった鈴さんも。頬を赤く染めた顔でちらちらと直枝さんの方を覗いています。ところで直枝さん、直枝さんも顔を赤くしていますが、それはわたし達を意識してのことでしょうか。それとも自分が恭介さんに渡すことを意識してのことでしょうか……以前なら恭介さんに渡すことだけを思いついていたと思うのに。やはりわたしも変わっていっているのですね。きっと良い方向へ。





 小毬さんやクドリャフカさんそれに宮沢さんは料理の基本ができていますし、恭介さんと来ヶ谷さんは簡単な説明で理解できるほど飲み込みが早いですから特に問題はありませんね。問題は後の方ですね。

「井ノ原さんは後でうちわでごはんをあおぐのが大変ですからそれまでは休んでおいて下さい。葉留佳さんはクドリャフカさんと伊達巻卵をお願いします。直枝さんと鈴さんはキュウリを刻んで下さい」
「いいのか休んでて」
「あいよ」
「がんばってみるよ」
「わかった」

 まず手始めにわたしが二人に見本を見せます。とは言えキュウリ一本をそのままの長さで細長く切るなどということは、あまりしないことなので少し緊張しますね。手元が狂わないように落ち着きませんと。

「そうしてみると母親が子供に料理を教えているみたいだな」

 来ヶ谷さんが妙なことを言ってきます。実際の年よりも幼く見られることが多いのに、そのような母親役は無理がありますよ。でも言われて少し嬉しいとも思います。わたしも普段忙しいお母さんが休みの合間を縫ってわたしに料理を教えてくれた時は嬉しかったですし。料理を教えるというのは母と娘共通の喜びかもしれません。

「そしてそのついでに料理を教わっている父親が理樹君というわけか」
「ちょっと来ヶ谷さんそれは……」

 何ですかそれは。私と夫婦だといけないのですか。今だって痛い思いをしてあなたのために料理を作っているというのに……今何か不自然なことを考えたような気が。

「みお! 血が出てるぞ」
「真人ちょっとばんそうこうとか取ってきてくれ」
「わかった」
「私の一言が原因みたいだな、すまなかった」
「それにしても血を流した包丁を持ったままぼうとっとしていると、なんか怖いシーンを見てるみたいですね」
「ああ、リトルバスターズが愛憎劇の果てに崩壊なんて俺は死んでも嫌だ。気をつけろよ、理樹」
「なんでぼくに振るの」

 思わぬ醜態をさらしてしまいました。料理を慣れで行ってはいけないということですね……決して直枝さんを意識して失敗したということはありません。いったいわたしは誰に言い訳をしているのでしょう。





「今年は南南東の方を向いて食べると袋には書いているな」
「それじゃみんな」
「待って下さい」

 わたしの制止の言葉にみなさんの目がわたしに集まります。流れを止めてしまったのは心苦しく思います。でもこれからいう一言そのために私はこのイベントを企画したのですから。

「直枝さんこちらへ来て下さい」
「うん」
「それで恭介さんの前で跪いて恵方巻きを……」
「もういい、西園オチはもうわかったからこれ以上何も言わないでくれ」
「恭介さんのいる方角がいつだって直枝さんにとっての恵方です」
「いやいや、そんな目をきらきらして言われても騙されないから」
「すげえ、なんかこうして自信もって宣言されるとまるで名台詞のように聞こえる」
「……井ノ原さんは余った海苔でも食べておいて下さい」
「俺だけ扱い違い過ぎるだろ!」





 みなさんどうしてわかってくれないのでしょうか。その後もいろいろな言葉で止められて結局直枝さんは元の位置で食べることになってしまいました。

 モグモグ

 食べている間は無言でいるというのが決まりみたいですけれど、これは決まりとかに関係なく口がいっぱいになって食べられませんね。何か視線を感じたので見ると直枝さんが私の方をぼんやりと見ています。そうでした。直枝さんは人の食事風景を見て興奮する変態さんでした。こちらが今は言い返せないのをいいことにそのような態度に出るなんてずるい人です。これはお返ししませんと。来週はわたしがあなたの食べる姿を見て楽しみますからね。さて来週へ向けてしっかり準備しましょう。

第2回『冬』に戻る
会期別へ戻る
概要へ戻る

inserted by FC2 system