アーチの向こう       流星



「降ってくるものなんだ」目を開けると同時、そんな父の言葉を思い出した。
 天気予報のお姉さんが、テレビの中でこの街への桜前線の到来を告げた、その約一週間後のことだった。自宅近くの公園で、アーチ状に連なる桜の下を両親と手を繋いで歩いていた。力強く咲く桜に、子供ながらに圧倒されたのだろう。口をぽかんと開けたまま見上げていた。それは、かなりのアホ面丸出しだったのだろうと今更ながらに思う。
「口閉じてないと、花びらが入っちゃうぞ」と注意したのは母だった。実際口には入らなかったものの、視界のそこかしこで、はらはらとまるで雪のように舞い落ちる花びらが映る。そこで初めて、地面に落ちているものを意識した。隙間なく敷き詰められた絨毯のようなそれは相変わらずの薄桃色ではあったけれども、土や泥で汚れている。どちらかと言えば、道端に捨てられたゴミのようだと思った。
「どうして、花って落ちてきちゃうのかな?」
 とてもでないが花とは呼べそうにもないそのさまが、僕はきっと悲しかったのだと思う。口をついて出た質問は、子供特有の素朴な疑問と取られたか、或いはもっと哲学的なものと取られたのか、それは知らない。ただ父は、僕と繋いだ左手はそのままに、残った右手で僕の頭を撫でながら「降ってくるものなんだ」と口にした。
「いいかい理樹。あれは幸せのかたちなんだ」
「しあわせ?」
「ああ、そうだ。嬉しいとか楽しいとか面白いとか、そういうものが集まってあのかたちを取っているんだ」
「僕の嬉しいとか楽しいとかも?」
「そう。そして、そういうものがこの木には咲いているんだよ」
 手を出してごらん、という父の指示に従って、水を掬うような形に丸めた両手を前方へ差し出す。程なくして、ひらり、とその中に滑り込む薄桃色。手の中だけではなく、腕に、肩に、頭に、次々と花びらが乗っかる。
「理樹の身体にくっついたもの。それがお前の幸せだよ」
 僕の鼻頭に付いた花弁を取り、僕の手の中へゆっくりと滑り込ませながら、父はもう一度「降ってくるものなんだ」と繰り返した。その言葉の響きだけが、僕の頭の中にずっと残っている。

 何年も前の父の言葉を今更になって思い出した理由は、僕が目を開けると同時に上から降ってきた鈴の姿を見たからに他ならない。より正確に言うのなら、鈴は僕のベッドに飛び乗って、まさにこれからマウントポジションを取ろうとしていた。最高点から僕の上へしなやかに落ちてくる、その一秒にも満たないような時間を、まるでスローモーションのようにぼんやりと寝ぼけ眼で見ていた。
「何だ、理樹、起きたか」
 鈴は少し不満そうだ。何をされるかなんて、長い付き合いの中で分かりきっている。少しずつ眠りから醒めてきた頭と共に、感覚もゆっくりと目を覚まし出したようで、両頬に若干の違和感がある。
「頬っぺた、何かしたでしょ?」
「理樹がいつまでも起きないから、ほっぺがどこまで伸びるのか引っ張ってみた」
「そんなことやらないでよ」
「いつまでも起きない理樹が悪い。それに安心しろ。血は出なかった」
「いや、訊いてないし。……僕としては、普通の起こし方をして欲しいところなんだけど」
「あたしらしくて、いーだろ」
 違うのか、と真顔で訊いてくる鈴。確かにそうだね、僕達らしい。肯定せざるを得ない。
 微かにこびり付く眠気を吹き飛ばすように頭を振り、それから室内を眺める。昨日の鈴との晩酌の残骸が、テーブルの上、そしてその周囲に広がっていてなかなかに悲惨な様相を呈している。片付けるのには時間が掛かりそうだとげんなりした。
 テレビの周りには、レンタルしてきたDVDのケースがいくつか転がっている。腕を伸ばして、それを拾い上げる。『Back to the Future』とタイトルが付いていて、そういえば夕べは久しぶりにこの作品を見たことを思い出した。
 タイムマシン。ちょっと考える。もし僕がそれを手に入れたら何をしようか。
「いいから早く起きてくれ。んで、テーブルの周り片付けよう」
「鈴のリアリスト。もう少し僕に夢を見させてよ」
「……次は血が出るまで引っ張るからな。ほっぺの皮膚がはがれるか試してみよう。そうすれば永遠に眠れるかもしれないぞ?」
「物騒だね」
 一時的な逃避はあっけなく終わりを迎えさせられる。渋々ながら立ち上がり、洗面所へ向かう。季節柄冷たくなってきている水が、僕に残された最後の眠気成分と一緒にあっけなく排水溝に流されていく。ようやく夢から醒めたような気分で鏡を覗き込むと、頬がやたらと赤くて熱い。幾らなんでも、力入れすぎだろう。
 鈴が掃除機をかけていた。敷いてある絨毯の上に、粉々になったおつまみの屑と思しきものが散乱しているのはさすがに参る。鈴は「何だこいつ、取れろ!」とかちょっと気合が入っているけど、掃除機の吸引力は上がらない。むしろ落ちていく一方で、鈴のいらいらゲージが反対に上がっていく。足が出なくなった分だけ大人になったんだろうな、なんて思いながら、テーブルの上を片していく。こっちもひどい有様だ。
「理樹のぼけーっ! せっかく掃除したところに、食べ物の屑を落とすなっ!」
 怒られた。じゃあテーブルの上から掃除を始めればよかったじゃない、とは思うのだけれど、今の鈴は聞きそうにもない。零さないよう慎重に片付け終える。
 テレビ周りのDVDを整理する。それほど本数はなく、ほとんどがレンタルで済ませるのだが、ジブリ作品だけはいくつかある。鈴が買ったものだ。あの鈴が自ら買うことに関して、疑問というか違和感というか、そういうものを覚えた記憶がある。ちょっとだけ訊いてみると、何故か胸を張って「あたしはどーぶつが好きだからだ」とか答えた。改めてタイトルを見てみると、『魔女の宅急便』、『となりのトトロ』、『猫の恩返し』。自信満々にしてればばれないだろ、とでも思っているようだが、実に分かりやすい。思い出すたびに笑いが漏れる。
「何一人で笑ってるんだ」
 甲高い掃除機の音が止まって、鈴が訝しげにこっちを見ている。掃除は終わりのようで、昨夜の惨劇は影も形もなくすっかり片付いていた。
「思い出し笑い、だよ」
「思い出し笑いをする奴はエロい」
「知ってるでしょ?」
「じゃ、キモい。むしろキロい」
「おおっと、流行るといいねぇ、その新語」
 言いながら最後のDVDを片付けようとして、それの返却日が今日であることに気が付いた。『Back to the Future』の見慣れたロゴが、ジャケットの上で大きく自己主張をしている。
 窓から入ってくる高度を上げた太陽の光が、ケースに反射して眩しく光る。僕はまたちょっと考える。タイムマシン。もし僕がそれを手に入れたら何をしようか。昔に戻って、自分のアホ面でも指摘するか、或いは。
「とりあえず昨日に戻って、僕らに『飲みすぎるな』とでも忠告しようかな」
 掃除も大変だったし、と呟く。意味も分かっていないだろうに、鈴が「そーだ、そーしろ」と訳知り顔で頷いた。


 秋風の冷たい。太陽は高くにあるが、気温自体は上がりきらない。コートなしでもまだいけるが、これ以上の薄着になると耐え切れない、そんな微妙な寒さが染みる。けれど、身体を震わせるほどの寒さを感じているのは、秋のせいだけではないことを薄々理解している。僕は一人で帰路を急いでいた。
 お昼ごはんを食べた後、鈴は夕飯の買い物へ、僕はDVDの返却へと家を出た。何だか昔話のおじいさんとおばあさんみたいな役割分担をしたと考えると、何となく笑えた。事実、鈴が見たら間違いなく「キロい」とか言い出しかねない表情だったのだと思う。
 本屋とレンタルショップを兼ねた店内に入ると、客はそれなりにいた。休日だからなのだろう、とぼんやりと見回してみる。静かな店内に一つだけ、大きな、言ってみれば場違いな甲高い音がした。少し聞いていると、それが子供の声だと分かった。一定時間ごとに大きな声を張り上げる姿に少しだけ興味をそそられ、その姿を探した。声の方向に歩を進めると、すぐに見つかる。
 年端もいかない少年だった。本の陳列棚の上方を、目を輝かせて見つめては、隣の父親と思しき人物に「これは?」と問いかけていた。その度に、父親は少年に丁寧に説明している。それが終わると、理解したのかしていないのか、少年は再び次の棚を指差して同じ行動を繰り返す。
 見上げて問いかける少年と隣の父親。それだけの光景だった。そのはずなのに目を離せず、しばらくぼんやりと眺めていた。
 返却を終え、店を出た。来たときより、何故か寒さを感じる。早く家に帰りたいと、そう思う。頭の中に響くのはあの言葉。『降ってくるものなんだ』
 くだらない、と思う。父の語ってくれた論理は、子供の追及を逃れるためだけの、一時だけ嘘で塗り固めるだけの詭弁だ。じゃあ何故、桜は春にしか咲かないのだろうか。そう重ねて問えば、父は何と答えたのだろうか。
 もしも、タイムマシンがあればどうしようか。今一度、僕は僕に問いかける。あの時に戻って、父に再び疑問をぶつけるのか、或いは笑い飛ばすのもいいだろうか。こんな風に。僕は空を見上げて思う。神様なんて信じていないけれど、もしいるのならその存在ごと笑い飛ばしてやる。「あーっはっはっはっ!」そんな芝居がかった笑い声は、秋の空に吸い込まれるのだろう。
 寒さは消えない。手が冷たい。水を掬うような形に両手を丸め、暖めるようにそこに息を吐きかけた、その時だった。
 その手の中に、するりと音もなく、茶色い枯葉が滑り込んできた。
 風の悪戯か。僕は辺りを見回す。なだらかに続く坂の向こう、道の両脇にアーチ状に立つ桜の木を見つけた。花どころか葉すら風に飛ばされ、一つも付いていない丸裸の木を見て、今度こそ僕は笑い飛ばす。
 花びらは幸せのかたちなら、これは何なのさ? さしずめ、悲しみとか嘆きとか、そんなものの集合体が、この葉っぱなんだろう?
 僕はアーチの入り口に立ち、クラウチングスタートの姿勢を取る。もし、まだ何か言いたいことがあるなら、証明して欲しかった。幸せなんてものがまだ残っているのなら、僕に降らせて見て欲しい。祈ってなどいない。期待してなどいない。奇跡はとうに枯れ果てた。
 雷のトンネルを抜けたマーティ・マクフライは、元の時代へ帰り着いた。木のトンネルを抜けたメイとサツキは、トトロの元へ辿り着いた。
 ならば僕は、枯れ木のトンネルを抜けた僕は、どこに辿り着ける?
「よーい」答えなんて決まってる。「ドンっ!」僕は駆け出す。
 花びらなんて、どこにもない。枯葉すら、僕の上には降り注がない。それは地面にも見当たらない。大事なものは、全部置き忘れてきた。ひたすらに駆け抜けた。アーチの終わり、見えないゴールテープを切り、そこで足を止めた。
 息が上がる。疲れて仕方がない。久しぶりの全力疾走だった。吐きそうだ。こみ上げる何かを必死で飲み込む。膝に手を付いて、何とか体力を回復させようとする。吐く息が白く変わっている。
 得るものなんて何一つなかった。腕にも、肩にも、頭にも、何一つくっついてなどいない。僕が立つのは、ここだ。そんな当たり前のことの再確認だ。それでいい。そう思う。
 もう少し休んだら、帰ろう。まだ頭を上げることも出来ない。風邪を引いてしまいそうなほど、秋風が冷たい。寒いな。
「理樹、どうした?」
 頭の上から、声が降ってきた。相変わらず頭は上げられないけど、誰なのかは見なくたって誰かは分かる。けれど僕は何も言えない。口を開いたら出てきてしまいそうな胃の中身を、せき止めることに必死だったから。
「何やってるか分からんが、帰るぞ」
 鈴は、そっと僕の手を掴んだ。それだけで、冷たい風が鳴りを潜めたように思えた。僕が単純すぎるのだろうか。
 くだらない。けれど、父の言葉を一つだけ信じよう。
「降ってくるものなんだ」とそっと呟く。なるほど、悪くない。

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