授業が終わるチャイムを聞き、重い身体を起こす。
 黒板にはモーメントやら摩擦係数といった見覚えのない単語がずらっと並んでいた。教卓の教師が畳み掛けるように授業の要点を口早に説明するが、俺にはさっぱり分からない。
 ふと、隣の席に違和感を覚えて目を向ける。
 いつも其処に座っていた親友の姿がなかった。
 寝ぼけた頭では疑問符しか浮かばなかったが、徐々に覚醒していくと共にはっきりと状況を理解する。

 ああ、そうか。
 お前は今、此処にはいないんだな…

 理樹…



 彼が居ないと      たびー



 3年に上がった俺たちは、理樹を新リーダーとした新生リトルバスターズとして駆け出していた。理樹は恭介のようにはいかないが、時には楽しく、時には突っ込みながら俺たちを上手く引っ張ってくれている。
 しかし1週間前、その理樹が突然旅に出ると言い出した。理由は聞かずとも恭介絡みだというのは簡単に予想できた。学園側には地方の大学見学と伝えてあって、旅はそのついでらしい。
 別にそこまで恭介に拘る必要はないとは思ったが、理樹がそう決めたなら口出しするつもりはなかった。
 そして俺は、理樹がいない間バスターズのリーダー代理を引き受けることにした、
って。
 「うおおおぉぉぉっ!!忘れてたぁぁぁっ!!」
 「うるさいわよ井ノ原。教室では静かにしなさい」
 頭を抱える俺の傍に二木がやってきた。
 そういえば3年に上がる際、コイツや三枝も同じクラスになっていた。噂では恭介と寮長の学園最後の計らいだとか聞いているが、本当のところは誰も知らない。
 「んだよ二木。俺は今大事な事を思い出したんだよ!」
 「そう。ならついでにこっちも思い出してほしいわね」
 そう言いながら黒い長方形の物を差し出される。
 「なんだこれ?」
 「見て分からない?学級日誌よ。あなた日直でしょう。今朝の仕事は忘れてたみたいだけど」
 「えぇっ、マジかよ。じゃあ、もう一人の奴は?」
 すると二木は苦いものでも噛み潰したかのように顔を顰める。
 え?俺なんか悪い事でも言ったか?
 「…もう一人は理樹よ。といっても、今はいないけどね。まったく…」
 何処ほっつき歩いてるのかしら、と文句を呟いているがその表情は何処か寂しそうにも見えた。
 だが、俺は敢えて口には出さず別の話題を振る事にした。
 「そういやお前、いつの間にか理樹の事名前で呼んでるよな。もしかして付き合ってんのか?」
 「っ!!?」
 先程まで騒がしかった教室がシン、と静まり返る。
 慌てふためく二木と、笑い声を上げる俺を残して。
 え?また俺なんか悪い事でも言ったか?冗談だってのに。
 俺と二木を見てひそひそと話すクラスの連中。所々、本気で言ってるのかとか、マジで気付いてなくねとか、流石は筋肉だぜとか聞こえる。ありがとよ。
 「…井ノ原」
 「なんだよ?って、こえええぇぇぇっ!!」
 真っ赤な顔に浮かべられた邪悪な微笑み。加えて浮かび上がった青筋がぴくぴくと痙攣を起こしていた。初めて見る二木の器用な表情が更に恐怖を加速させる。こいつは…来ヶ谷に匹敵する恐ろしさだ!
 「な・に・か言った?」
 「ひいいいぃぃぃっ!!!」
 俺は力の限り、首を横に振る。そうしなければいけないと俺の中の筋肉が警報を鳴らしていた。
 それを見た二木は、ふぅ、と息をつく。
 「それじゃ日誌を書いたら教室の隅にあるダンボール箱を資料室まで運んでちょうだいあと教室の備品が幾つか足りないから帰りに購買で買ってきて領収書忘れずに貰ってくるのよその後で空き教室にある修復できそうにない机と椅子を校舎裏まで運んでおいてついでに旧家具部の廃棄予定の家具も一緒に運んでくれると助かるわそれから」
 「おい待てよ!そんな一遍に言われても分かんねぇよ!つーかそれ日直の仕事じゃないだろ!」
 俺の反論にも、あら、と不敵に笑って受け流す。
 「理樹なら手伝ってくれるわよ?女の子に力仕事はさせられないって」
 「なにっ?マジか」
 「今はあなたが彼の代理なんでしょう?だから頼んでる訳だけど」
 ダメなら仕方ないわね、とわざとらしく肩を竦める。
 そうだ、今の俺は理樹の代わりだ。
 こんな事で理樹の名前に傷をつけたら理樹に顔向けできねぇ。
 「おっしゃあ!任せとけ!」
 「あ、ちょっと井ノ原!」
 最後に二木が何か言ったような気がしたが、俺は構わず教室を飛び出した。


 ☆ ☆ ☆


 そして、放課後。
 「よしっ!全部終わったぜ!」
 「…まさか本当に全部やるとは思わなかったわ」
 「え?」
 「何でもないわ。ご苦労様」
 俺は呆然としたまま去っていく二木の背中を見ていた。
 何だ?言われた通りにやったってのに。

げしっ!

 何者かに背中を蹴られて首を傾げたまま前につんのめる。
 「痛っ!何しやがるてめえっ!」
 勢いよく振り返ると、そこには幼馴染の一人、鈴の姿が。
 背中を蹴った張本人は謝る様子もなく、寧ろ両腕を組んで偉そうにふんぞり返っている。
 「フン、さっさと行くぞこの馬鹿」
 「あん?行くって何処に?」
 「練習に決まってるだろ、このボケーっ!!」

 バキィッ!!

 間髪入れずに鈴の見事なハイキックが俺の頭に命中する。こんな事考えられる余裕があるからダメージは大したことはない。だが、最近少しだけ女らしくなったと思っていた矢先にこれでは幼馴染みとして少し悲しかった。
 2度も蹴っておきながら悪びれる様子を1ミリも見せない目の前の幼馴染は組んでいた両手を腰に当て俺を睨み上げた。
 「今日は理樹の代わりにお前がバッターやるんだろ」
 「お、そういやそうだった」
 そうだ。今日の俺は理樹の役目を果たさなければならない。
 こんな事で理樹の顔に泥を塗るような真似したら理樹に申し訳がねぇ。
 そうと決まればこんな所でぐずぐずしてられねぇ!
 「おっしゃあ!行くぞ鈴!」
 「ふにゃっ!?」
 俺は急がんとばかりに鈴の手を取って周りの迷惑を顧みず廊下を走り出した。
 「触るなボケーっ!!」
 バキィッ!!
 本日3度目のキックを頂きました!


 ☆ ☆ ☆


 グラウンドにはもう既に他のメンバーが集まっていた。
 皆思い思いのポジションで素振りしたりキャッチボールしたりお茶したりしている。
 「って、バラバラじゃねーか。結束も何もねーじゃんか」
 「うっさい、お前が理樹の代わりにまとめろ」
 そうだった。今の俺は理樹の代役だった、いや、寧ろ今の俺は理樹そのものだと言っても過言じゃない。ここは一つ、理樹っぽく声を掛けた方がベストだろう。
 そう思った俺はバッターボックスに立ってグラウンドのメンバーに声を掛けた。
 「みんなー!しまっていこー!(理樹の真似)」
 「キショいわボケーっ!!」 
 「真・ライジングニャットボールっ!?」
 力学を完全に無視した超高速のストレートが鈍い音を立てながら俺の脇腹に突き刺さった。跳ね返らずに刺さったボールの衝撃が全て筋肉に伝えられ、激痛のあまりその場に崩れ落ちる。しかし、犯人はうずくまる俺を無様だと言わんばかりにマウンドから見下ろしていた。
 「馬鹿やってるお前が悪いんだ」
 「ちっ、分あったよ。さあ来い、鈴!」
 ジーパンに付いた土を払い、バットを構えて仕切り直す。
 今度は鈴もしっかりとボールを投げてくれた。
 俺はそのままバットを豪快にフルスイング。

 カッキーン!!

 高い快音を響かせながらボールは空に吸い込まれるようにぐんぐんと伸びていく。
 一同はそれを目で追っていたがふと物陰、校舎の向こう側へと消えて見えなくなった。
 綺麗なアーチを描いた特大ホームランに我ながら感服する。
 「へっ、俺の筋肉に掛かればざっとこんなもんよ」
 「飛ばしすぎじゃボケーっ!!」
 「はりゃほれうまうーっ!!?」
 またしても鈴の殺人級ストレートが俺の脇腹に深々と突き刺さった。
 筋肉が衝撃を全て吸収してしまっている分、ずきずきと痛む。
 「拾ってこい」
 「はい…」
 俺は脇腹を押さえながら言われるままに校舎裏へと消えたボールを捜しに行った。

 その後も5球に1球くらいのペースで特大アーチが飛び出し、その度にメジャーもびっくりな超剛速球のデッドボールを浴びてボールを捜すというパターンを日が暮れるまで繰り返した。


 ☆ ☆ ☆


 夜。
 風呂に入るついでに身体を確かめてみたが何処にもボールの痣は見当たらなかった。あれだけ食らったからもしやと思ったが、俺の筋肉にしてみれば要らない心配だったようだ。
 風呂から上がった俺はベランダから流れ込む冷えた風を受けながら部屋を見渡す。あまり広いとは言えない部屋が今日は少しだけ広がって見えた。
 いつものように少し鬱陶しそうにしながらも笑ってくれるルームメイトの姿が今はない。たったそれだけの、世界からすれば小さな変化が俺の中では寂しさを大きく募らせる。
 ふと、理樹が恭介が居なくなって少し寂しいと言っていたのを思い出した。その時、俺は元気付けようと豪快に笑い飛ばしてやった筈だ。
 「へへっ、なんだよ…理樹のこと、ちっとも笑えねぇじゃねーか…」
 もしこの場に恭介や謙吾が居たら、こんな俺を笑い飛ばしてくれるだろうか。多分、そうするだろうなと思う。俺にとってもあいつらにとっても理樹という存在はとても大きなものに違いないから。
 「さて、筋トレでもすっか!」
 しんみりとした空気は苦手だ。
 それにまだ理樹の代わりは終わった訳ではない。そう自分に言い聞かせてスクワットの体勢に入る。
 と、その時。
 バタン!と大きな音を立てて部屋のドアが開かれた。
 一瞬、理樹が帰ってきた、と期待したが、それは所詮一瞬であった。
 部屋に入ってきたのは道着にお手製のリトバスジャンパーと相変わらず訳の分からない格好をした謙吾だった。
 その両手にはボードゲームやトランプ、あおひげ等のおもちゃが大量に抱えられていた。
 「真人、遊ぶぞ!」
 「おいおい、お前それ何処から持ってきたんだよ?」
 「ん、これか?恭介が卒業する時に貰ったヤツだ。最近使ってなかったからな。偶にはこういうのもいいだろう」
 「いや、あんまりそういう気分じゃないんだが…」
 そう言った俺の顔を謙吾は不思議そうにじっと見つめる。
 何だか謙吾にじっと見られるのは正直気色悪い。
 「今日は真人が理樹の代わりに遊んでくれると聞いたんだが…気分が乗らないなら致し方ないか」
 謙吾は寂しそうに肩を落としてドアノブに手を掛けた。
 しまった。今の俺は理樹の影武者を立派に演じなければいけないのだ。
 ここで謙吾を帰らせれば理樹に汚名を着せることになってしまう。それだけは避けなくてはならない。
 俺は咄嗟に謙吾の肩を掴んでいた。
 「謙吾、一緒に遊ぼうよ(理樹の真似)」
 「真人…」
 「違うよ謙吾。僕だよ、理樹だよ(理樹の真似)」
 「え、真人じゃないのか?」
 「うん。まあ、とりあえず座ってよ(理樹の真似)」
 「ああ!まさ、いや理樹!」
 互いに向き合って座ると謙吾が山積みに置かれたおもちゃの中から人生ゲームを取り出した。
 「よし、まずはこれだ」
 「え?人生ゲームって二人でやんのかよ?」
 「どうした理樹?何だか真人みたいだぞ」
 「いやいやいや、そんな事ないよ(理樹の真似)」
 「まあ、偶には二人でやるのもいいと思ってな」
 「えぇー」
 思わず不満の声を上げるが、謙吾が気付く様子はない。
こうして俺と謙吾、二人だけのゲーム大会が始まった。


  ☆ ☆ ☆


 カチコチカチコチ。
 普段は全く気にしない秒針の進む音が耳の奥に響いてくる。見れば時間は既に1時を回っていた。 
ハードな練習(主に死球)の所為で体力的にも精神的にも限界が来ていた。
 ぶっちゃけ眠い…
 早く謙吾の野郎を追っ払っちまおう。勿論、理樹の真似を忘れずに。
 「ね、ねぇ謙吾…そろそろ終わりにしない?(理樹の真似)」
 「え?まだまだ夜はこれからだろう。だらしないぞ理樹」
 ゲームが進むに連れてテンションが上がっていく謙吾。いつもなら強引に打ち切る所だが、今は理樹の分身である以上そういう訳にもいかない。まだ半分しか崩されてないおもちゃの山に目をやり思わず溜め息を吐いた。こうなったら謙吾が飽きるまでとことん付き合ってやる。



 だがその前に、これくらいは許されるだろう。



 『うおおぉーっ!!理樹ぃー、早く帰ってきてくれぇーっ!!』

 開け放たれたベランダから俺の叫びが夜の男子寮に木霊した。 

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