Hevenly       橘



”我々はただの一歩たりとも天に近づくことは出来ない
 垂直に進むことは我々の力にはない
 しかしながら
 天を長々と仰いでいれば天が我々をすくい上げて下さる”
浅田寅ヲ『パイドパイパー』より

 朝早く目が覚めてしまった私は、学校の敷地内を散歩していた。朝の見回りのついでだ。
 ふと中庭に立ち止まり、上を見上げる。屋上のタンクに人影。あんなところに立ち入るなんて生徒なんて想像がつく。ここに棲む人間なんて、私を含めて十人程度しか居ないのだから。
 こんな早朝にもかかわらず玄関の鍵が開いていた。私は靴を上履きに履き替えると屋上へと階段を上っていった。
 屋上への扉。普段は壊れた椅子や机が積み上げられているのに、今日は何故か綺麗に整理されており、ドアの鍵が開いていた。
 ドアを開く。爽やかな風が吹き込む。早朝独特の澄んだ空気に満ちていた。
 タンクを見上げる。やはり予想通りだった。神北小毬さん。タンクの上に上がって、空を眺めているようだった。人の気配のしない静かな朝の風に長いリボンをはためかせ、真っ白な喉を晒して天を仰ぐ神北さん。その姿に声を掛けるのを躊躇われた。それに今、声を掛けて驚かせてしまうと危険だ。私は彼女が下に降りるのを静かに待つことにした。
 しばらくすると彼女はタンクの側面につけられた梯子を伝って降りてきた。私が嫌味を言う前に彼女から話しかけてくる。
「待っててくれたんだ。ありがと、かなちゃん」
「・・・・・・気付いていたのね」
「うん。でも、かなちゃんは待っててくれると思ってたから〜」
 顔が火照るのを感じる。人から感謝されることなんて慣れていないから、どうしていいのかわからなくなる。
「許可無く屋上に入ることは禁止されているはずよ」
「うん。・・・・・・でも、ここには理樹君もりんちゃんも居ないから」
「・・・・・・そうね。私も風紀委員長を演じる必要もないというわけね」
 二人の間に風が吹く。彼女と二人きりで会うのは初めてだ。ひとりでいるときの彼女からは、普段のあの柔らかくて温かな印象が嘘のように思われた。今の彼女からは儚げでおぼろげな、そんな印象を受ける。先程の光景を目の当たりにした所為だろうか?
「で、何をしていたの?神北さん」
「おいのりしていたの」
「お祈り?」
「そう、おいのり」
 馬鹿馬鹿しい。私は鼻で笑う。
「あなたは神様なんて信じているの?」
「かみさま?かなちゃんは、神様を信じていないの?」
 その言葉に、私は目を瞑る。神様なんて居やしない。私の知っている神様は、三枝がつくった三枝のためのニセモノの神様。あれのせいで私たちは・・・・・・
「そんなもの、居るわけ無いわ」
「ふうん。そうなんだ〜」
「で、あなたは信じているというわけね。おめでたいわね」
「ううん。信じていないよ」
 彼女の言葉に驚いている間に、神北さんは両手を後ろに組んで私の周囲を歩き始めた。
「神様なんて居やしない。居たとしても私たちを救ってなどしてくれない。ねえ、かなちゃん。だったら何で神様は『居る』の?」
 一瞬意味が分からなかったのだが、すぐに答えに行き着いた。そう、結局は三枝の神様と神北さんの言う神様は同じなのだ。だが、それを言い出す前に彼女の口が開きだす。
「それは、世界が無慈悲で残酷だから。どんなに社会や科学が発達しても、私たちが生き物である以上、限りある資源を取り合うの。取り合えば、そこに不均衡が生まれる。それは自然の摂理―――」
 彼女の言葉を私が繋ぐ。
「―――弱肉強食。強い者があらゆる幸福を享受し、弱い者は全てを奪われ搾取されるだけ―――」
 さらに私の言葉を彼女が繋ぐ。これは世にも奇妙な、残酷な言葉のジャムセッション。こんな静謐な朝にするには、あまりに場違いな内容。でも、それが逆に心地よかった。
「―――得られなかった人達はただただ運が悪かった。ただそれだけ。だけど、それを納得できるほど人間は達観できないし、それを認識できないほど愚かじゃないの。だから弱い者、虐げられた者は自分を救ってもらうために神様を必要としたんだよ」
 普段と同じ、柔らかな笑顔を彼女は浮かべた。それが更なる違和感を私に与える。彼女はこんな人だったのだろうか?だとしたら、もっと以前から話しかけておけばよかった。私には周りの女の子たちが眩しすぎて、声を掛けることすら躊躇われていたのだ。彼女たちがもつ「普通さ」、それが私にとってはこの上も無く残酷なものだったから。
「全くもってその通りだわ。もっとも、そんなもの信じても無駄なのにね」
「ううん、無駄ではないんだけどね。だけど私はそーゆーの好きじゃない、かな?神様を信じることは、世界を否定することに繋がるから。私は現実の、この世界が好きなの」
 私には彼女の言葉が信じられなかった。私にとって世界は、否定するべきものでしかなかったから。
「無慈悲で残酷なのに?」
 私の言葉に、彼女の足が止まる。
「ふえ?」
「あなた、さっきそう言ったじゃない」
 彼女は私に向き直る。
「うん。本当に救いの無いどうしようもない世界だけど、私たちにはそこしか無いから〜。それしかないのだから、それを愛するのは普通じゃないかな?」
 耳を疑った。ほんのちょっと前までは、私と似た考えだと思っていたのに。実際のところ、彼女と私の考えの間には絶望的なまでの差異があったのだ。
 私は取り繕うように質問をした。
「今居る、この夢の中の世界は?ここなら何でも叶う。ここじゃ駄目なのかしら?」
「そうだね。ここでは願ったことは何でも叶う、確かにそうかもしれない。でも、ここは結局は本当の世界と同じ、自然の草木を移築した箱庭のようなものに過ぎないの。だから、自然の草木が枯れるのと同様に、箱庭の花や木が朽ち果ててしまうのを止めることはできないんだよ。ここには時間を巻き戻したり、春なのに雪を降らせたり、そんな魔法のようなことは出来るけど、私たちを救う力は持っていないの」
「・・・・・・ごめんなさい。話が見えなくなってきたわ。つまりあなたは神様もこの夢の中も、現実の世界もどれひとつとして、自分を救えないと思っている。だったら、あなたは何に対して、祈っていたの?」
「現実の世界だよ。さっきも言ったと思うけど、私にはあの世界しか無いから」
「救いようも無い世界に何を期待しているの?祈ったところで、誰もあなた達を救ってはくれない。そんなの非合理的だわ」
「??う〜ん?かなちゃんはどこか根本的なところで勘違いしてるのかな?私は救ってもらうことを期待して、祈っているんじゃないんだよ」
「え?」
 彼女は少し困った表情をすると、腕を組んで目を瞑った。そして、考え事がまとまったのか、目を開けると話を再開させた。
「『祈る』という行為はそれ自身で完結する行為なの。何か自分では本当にどうすることもできないことがあったとき、人は世界の理不尽さを呪うの。そしてその嘆きの果てに、世界に祈るの。もちろん、世界は残酷で決して自分を助けてくれはしないと分かった上で。分かっているけれど、その思いを止めることができなくて、張り詰めた水面から水が溢れるように、祈ってしまう。だからこそ、祈りは汚れなく尊いの」
「・・・・・・祈っても叶わないからこそ祈る?」
 再び彼女は屋上の上をうろうろと歩き出す。
「そう。もし祈りが叶いでもした日には、『単独で完結した行為』ではなくなって、科学や超能力、果ては魔法などと呼ばれる『方法』、つまり『結果』を伴わない限り完結できない行為と同列に堕ちてしまうの」
「・・・・・・よくわからないわ」
 祈りを捧げる神北さん。何を祈っているのか、大体の予想はついた。直枝理樹と棗鈴の幸せな人生。そして、神北さんたち自身の幸せな終焉。
 祈りを捧げるということは、自分たちではどうしようもないと思っているということ。それは、この世界自体の否定を意味していた。棗恭介がリトルバスターズの面々と作り上げた虚構の世界。神北さんはこの世界の限界を知ってしまったのかもしれない。確かに、例えこの中でいろいろな問題を解決して成長したとしても、自分の周囲の人間全てが死んでしまう、そんな無惨な事実を受け止められるようになるとは到底考えられなかった。
 私は彼女の意外な強さに驚いた。神北さんはこの世界の欠陥と、対処のしようが無いことを知り抜きながら、表面的には普段と変わらない振る舞いをしている。他の人たちに気付かれないように、ずっと声を殺してる。それは、仮に彼らが知っても絶望するだけで、何の助けにもならないことを知っているから。それならば、彼らにこの世界に意味があると信じ込ませたまま終わらせてしまおうと考えたのだろう。彼女は独りでこの絶望に耐えることを選んだのだ。
 そして、その強さゆえに抱えた、彼女の悲しみの大きさに胸が痛んだ。祈りは彼女の嘆きそのもの。そう考えてみれば、あのときの彼女の儚げな表情も納得がいった。
 私が物思いから離れたとき、神北さんはフェンスを乗り越え、向こう側に足を降ろし、下を見下ろしていた。
「こうしてみると高いね。謙吾君たちはこんなところから飛び降りたんだ〜」
「ちょっと、あなた!何してるの!?」
 私がフェンスに手を掛けて登ろうとすると、彼女が手で制する。
「風紀委員長さんがそんなことしたら駄目ですよー。私ならだいじょーぶだから。たとえ散り散りに千切れても、ここでは死なないから。だってもう、とっくに死んでるから」
 さらりとそんなことを言われては、私もどう返したらいいのか分からない。私はフェンスに向かって伸ばした手を下にだらりと垂らして、フェンス越しに彼女と向き合った。
「えへへ、重くなっちゃったね。ええと、私の言いたいことはこーゆーことだよ。ただ祈ってあげて。かなちゃんの大切な人のために」
 太陽が眩しい。いつの間にか、朝の空にある夜の残滓は太陽の光で霧散して、すっかり人々が活動を始める時間になっていた。振り返って外を眺めていた神北さんが、こちらに向き直る。
「あ、もうすぐ朝ごはんの時間だね。じゃあ、さよなら。また会いましょう?」
 神北さんが両手を広げる。背中を反らせる。つま先で屋上の床を蹴る。音も無く、そのまま空へ滑り込む様に彼女は、十字架を思わせる体勢のまま、屋上から身を投げた。
「―――っ、神北さんっ!」
 私は急いでフェンスに駆け寄り、下を覗く。しかし、地面に神北さんの体は無く、壁にも引っかかっておらず、彼女は雲を散らすように掻き消えてしまっていた。そんなバカな。
 全てが非現実的だった。神北さんの様子も、彼女の話す内容も全てがおかしかった。
 そもそも彼女は、本当に神北さんだったのだろうか?全ては朝の光が見せた幻で、私はもう、ずっと一人だったのではないだろうか?馬鹿馬鹿しい考えなのは承知の上だが、やはりそちらのほうが納得がいった。

 私は空を見上げた。祈りは届かなくても、届かないからこそ純粋で美しい。彼女の言葉にどこか甘くて苦い、そんな不思議な響きがあった。その響は、じわりと私の全身に染み渡り、胸の奥を温める。ざわざわと、私の水面に波紋が浮かぶ。
 空の先を見据える。ニセモノの空の先、夢の世界を越えて。あのクソッタレな世界の最果てを、私は見つめる。
 そして、祈る。
 あの子の、幸せな最期を。
 あの子の人生に、何らかの意味があらんことを。

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