星の向こう側       <>



 どこからか蝉の声が聞こえる。自分の存在を精いっぱいアピールするために、強く、弱く、夏の空に響かせていた。そんな蝉の鳴き声に混じって、時限終了のチャイムが鳴る。その音とともに直枝少年は生徒玄関を飛び出していた。友人たちと遊んでいるうちに鍛えられたその脚で、強く、強く大地を蹴った。照りつける太陽にたちまち全身に汗が噴き出す。手のひらで汗のぬぐいながら、直枝少年は走り続けた。
 目指すは、郵便局。校門をくぐり、商店街を一息に走り抜ける。ここには知り合いが多い。全力疾走している自分をあまり見られたくなかった。しかし、
「あら、直枝君。そんなに急いでどうしたの?」
 喫茶店屋のおばさんが声をかけてきた。まずい。いつもなら立ち止まって、息子さんの愚痴を聞くところだが、今はそうはいかない。ここでスピードを落とすわけにはいかない。
「ごめん、おばさん!今急いでいるから!」
「あ、ちょっと…」
 おばさんの返事も聞かずに、走り抜ける。時間がない。一刻も早く、目的地に着かなければならない。腕を今までよりも強く振り上げ、腿に力を入れる。肺に酸素を送り込むため、鼻から空気を思いっきり吸い込む。さっきよりもクリアになった世界を、直枝少年は走る。
 商店街を通ると、まだ建設中の家が立ち並ぶ住宅街だ。ここは、トラックが頻繁に通過する。ここで急いて事故を起こすなんては真似したくない。少しスピードを落とし、それでも、十分なスピードを維持しながら、直枝少年は駆けてゆく。自宅を過ぎるとき、鞄を置いてゆこうか、と直枝少年は思った。そろそろ鞄が重くなってきている。元来生真面目な彼はいつものように教科書はすべて鞄に入れてきてしまった。さすがに辞典などは学校に置いてきているが、ただでさえ夏の日光が彼の体力を奪う。鞄を置くついでに家で少し休憩を…、と考え出したところで直枝少年ははっと我に返る。そんな事をしている場合ではなかった。友が、かけがいのない友が待っているのだ。甘い誘惑に負けるわけにはいかない。直枝少年は首を振って今の考えを打ち消す。そしてそのまま曲がり角を、

ドンッ!

 胸のところへ大きな衝撃。誰かの小さな悲鳴。やけにゆっくりに動く世界。訳も分からずに、直枝少年は倒れる少女の手をつかみ、引き上げる。否応無しに触れ合う体は、細く柔らかかった。
「あ、ありがとうございます…」
 胸の中で少女がお礼を言う。いまだに自分が少女の可憐な体を抱きしめていると気づいた直枝少年は慌てて自分から少女を引きはがす。
「怪我はありませんか?」
「はい…」
 少女は頬を染めてもじもじしている。その時、直枝少年は感じた。今自分たちを確かに包んでいる桃色ほわほわ〜な空気を。今まで男同士で遊んでばかりだった直枝少年は、こんなときどうしていいのかわからない。同級生からラヴレターをもらった時も、どうすればいいかわからずに、友人に助けを請うた。結局、返事は友人がしてくれたのだが、それからしばらく直枝少年は男色家、という噂が尾を引いて現われ、彼はしばらく陰惨な気持ちで毎日を過ごすことになった。
「あの、お名前は…」
 少女が目を輝かせている。直枝少年は焦った。さっきまでの汗は引き、代わりに背中に冷たい汗が流れたのを感じる。それと同時に彼は思い出した。自分には重大な用件があるのだ。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
「あの…」
「すいません、今とても急いでいるので。えっと、ぶつかってすいませんでした」
 そのまま横を猛スピードで走り抜ける直枝少年に、少女は叫ぶ。
「お名前はー!?」
「直枝です。直枝――」
そして彼は再び走り始めた。



「直枝、さん…か…」
 少女は道を歩きながら、少年の名を口にする。
 残念ながら名前までは聞き取れなかったし、自分も名乗る前に彼は走り去っていった。
「また、会えるかな」
 少女は太陽を見上げる。この火照りは、太陽のせいじゃなさそうだ。



 燃え盛る太陽の熱で、地面に陽炎ができる。その幻影の中を、直枝少年は駆けた。さっきのやり取りで、だいぶ時間を食った。皆はもう集まっているだろうか。皆の期待を裏切るわけにはいかない。直枝少年は一層足に力を込める。曲がり角を、極力注意しながら抜けると、目の前には郵便局。赤い建物の中へ、直枝少年は飛び込んだ。
「おや、直枝君。」
 近所に住むなじみの職員が顔を出す。
「おじさん、僕宛に、に、荷物…届いてないかな…」
 息も絶え絶えに問いかける。
「おお、届いとるよ。…えーっと、これだ。ほら」
 職員は奥から小さな小包を持ってくる。
「ありがとう」
「そんなに急いでどうした。そんなに大切なもんなんか?」
「う、うん。友達と約束してるんだ。それじゃ」
 職員の他意なき質問にどもりながらも応え、直枝少年は郵便局を後に大地を蹴る。荷物には振動がいかないように、壊れないように細心の注意を払いながら。
 もと来た道を再び戻る。可憐な女の子と出会った曲がり角、まだまだ完成しない住宅街、活気づいた商店街。走り、走り、走る。
 そして終着点。学校の真向かいの、その古い木造の家の玄関を開けた。そこには、今自分が履いている学校指定の通学靴が何足も乱雑に置いてある。自分の靴もその中の一つに加え、勝手知ったる我が家のように、直枝少年は二階の階段を駆け上がった。その先にある部屋の前で、彼は息を整えるために大きく深呼吸し、そして、そのノブに触れる。

ガチャリ。

 そこには、彼の親友たちがいた。男三人大の字になって寝ころんでいた彼らは逆さに直枝少年の姿を確認すると、一斉に立ち上がり、苦労をねぎらい、部屋へと迎えた。しかし、彼らの視線は直枝少年の持つ小包にあった。そして、この部屋の主が、押し入れの中から段ボールを一つそっと取り出す。ねぎらいの言葉をかけ終わると、部屋が急に静かになる。誰もが無言で、最新型のクーラーだけがゴウゴウとやかましくその存在を示す。その重たい空気を破って、部屋の主が直枝少年に話しかけた。
「…直枝、ついに届いたんだな」
 直枝少年は汗を滴らせながら、笑顔で。





「ついに届いたんだ!エロ本の、乳首の星を消す道具が!!」
 男たちの目指すものは、いつでも星の向こう側にある。

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