真人の馬鹿 山鳥
最強か。いい夢だな。先生も昔はキン肉バスターの練習したよ。布団でな……知ってるか? キン肉バスター。
誰もいなくなった職員室で、先生は俺にそんな話をした。知らない、と答えると、先生は少しだけ笑った。
「中学に入ったらさ、井ノ原はなにか運動するのか?」
首を振る。
「じゃあ、どうやって最強になるんだ?」
そんなの決まってる。俺は二の腕に力こぶを作って見せた。
「うん、すごく立派だ。先生な、井ノ原は将来大物になると思う。力だって強いし身体も大きい。……それに、友達のために本気で怒れるなんて、すごいことだぞ。井ノ原なら、最強になれる」
大きな手に両肩を掴まれた。
「でもな、その力で人を殴ったりしちゃ、絶対ダメだ。おまえがやったことは、悪いことなんだぞ」
メガネの奥から先生の目が俺を睨んだ。俺は正面から睨み返した。頷くもんかと思った。理樹を馬鹿にしたあいつが悪いんだ。
「お前の力はそんなことのためにあるんじゃないだろう?」
俺は馬鹿だったけど、なにを言っても分かってもらえないことは知っていた。だから俺はずっと黙っていた。
しばらく時間が経って、先生は手を離してくれた。
「……向こうも謝ってる。ごめんってさ。もう遅いから、帰りなさい」
話が終わったらしいから、立ち上がって先生に背中を向けた。
「一度誰かから借りてさ、キン肉マン、読んでみてよ」
俺は職員室を出た。暗くなった廊下には目を赤くした理樹と恭介たちが待っていた。一緒に日が暮れた道を帰った。
理樹は俺の隣を少し離れて歩いた。
「僕のために真人が叱られることないよ。僕は大丈夫だから」
別れ際、理樹がそう言った。俯いて、俺の目も見られないままだった。
俺が殴るのは仲間を馬鹿にした奴だけだった。俺の強さは仲間と俺の居場所を守るためにあった。
理樹たちが頑張って俺を高校に入れてくれたように、俺も筋肉を鍛え続けた。
学年が上がるたび俺の出る幕もなくなったが、それでも鍛えた。
いつか役に立ちたいと思った。
あくる日、恭介がこんなことを言い出した。
「野球チームを作る。チーム名は、リトルバスターズだ」
恭介ファンの理樹は目を輝かせた。
そのせいで俺は今恭介とキャッチボールしていた。
「よーし、いっくぞー! ちゃんと捕れよーっ!」
腹立つくらいいい笑顔でグローブを掲げて、大きな山なりのボールを投げてよこす。適当に受けて、適当に返した。
内野を見るとマウンドに鈴が立っていて、理樹はホームベースの後ろに構えるボール拾いになっていた。驚くことに一球も理樹の守備範囲に投げていなかった。
「キャッチボール、なかなか楽しいなっ」
鈴は満足げで、全身真っ黒の理樹も嬉しそうだった。
メンバーなど増える気配もなかった。恭介は二人に任せるつもりらしい。多分、今年いっぱい四人で野球をするんだろう。そう思うとやるせない。
そもそも、恭介は最近おかしい。前までの五倍増しくらいでおかしい。色々理由をつけていたが、負けず嫌いの恭介が鈴をピッチャーにするだなんて言い出したのがまず信じられん。
「俺の筋肉を頼る気はないってのか?」
恭介に訊ねてみたことがある。
「いやなに、鈴や理樹にもこういう経験をさせといてやろうと思ってな」
その考えがわけわからん。
「経験させようにも、四人じゃなにもできないぜ」
理樹はともかく、鈴に人集めなんて無理に決まってる。
「心配ない。あいつらならやってくれるさ。休み時間いつも一目散に教室を出て行ってるじゃないか」
「鈴は猫と遊んでるだけだがな」
「……じゃあ、理樹が」
「鈴にくっ付いてってるだけだろ」
「くっそ! あいつらやる気あるのかよ! あと一週間だぞ!?」
珍しく慌てていた。
「こりゃ、俺たちがなんとかするしかねえだろ」
恭介は腕を組み黙り込んでいたが、腹を括ってほふく前進のためのウォームアップを始めると、
「それでも待つ! こんなこともできないで、野球ができるか!」
そう言って立ち去ってしまった。
いや、できるんじゃねえの?
ツッコミも待たなかった。
それから、恭介の読みが冴えたのか理樹の頑張りが通じたのか。一向にチームの筋肉量は増えないものの、なんのかんのとメンバーは集まった。8人だったが。
ともかく人数を揃えて当日を迎えた。
朝、鈴が逃げ出した。
「この期に及んで往生際の悪い奴だな」
驚くでもなく恭介は味噌汁を啜った。
「お前に似たんじゃないのか。他人の迷惑を顧みないところなど、瓜二つだぞ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか、謙吾よ」
「皮肉に決まってるだろうが」
「そうじゃなくて、探さなきゃ!」
焦ってるのは理樹一人だった。
「……そうだな。理樹の言うとおりだ」
恭介はおしんこを齧り、少し黙ってから、身を乗り出して理樹の肩を掴んだ。
「お前に緊急ミッションを与える」
「いや、そうなるとは思ってたけどね……」
「よし。それでこそ理樹だ。ただ説得は難しいだろうからな、これをやろう」
鞄に手を突っ込んで、袋詰めのカップゼリーとモンペチを取り出した。
ため息をひとつ、理樹は駆け出した。
「やけに準備がいいじゃないか」
恭介は不敵に笑って見せた。
「大丈夫なのかよ、あれ」
「なぁに、鈴は理樹にラブラブぞっこんだからな。なんとかなるだろ」
「ダメだったらどうすんだよ」
「そんときはそんとき、兄である俺が責任を取ろう」
任せとけ、と胸を叩く。その仕草が頼りない。
「7対9じゃ試合になんねえぞ」
「そうだな。今日だけでも、どこかに助っ人がいてくれればいいんだが」
恭介はそう言って謙吾の顔を見た。
「俺はもう行くぞ。二人とも頑張れよ。理樹と鈴にも言っといてくれ」
謙吾はさっさと席を立ち、歩いていってしまった。
「……まずい、予想外だ」
恭介が頭を抱えた
「お前最近なんか変だよな。行き当たりばったりというか」
「……先のことなんてそうそう分かってたまるかよ」
理樹が授業にも出ず、どうにかこうにかなだめすかして、予定より一時間遅れて試合が始まった。始まると同時にメンバーがマウンドに集まった。プレイボールの5秒後だった。
「ほら、謝れ」
恭介が鈴の頭に手を添える。バッターボックスでは陸上部のキャプテンがそりゃ痛そうにもんどりうっていた。
「どうした。お前がやったことだぞ」
頭を下げさせようとするが、鈴はうんうん呻くばかりで、口を開こうとしない。
「いや、棗、いいよ。いきなりで驚いただけだから」
陸上部は白い歯を覗かせて一塁に歩き出した。結局鈴はなにも言えず、理樹も申し訳なさそうに俯くばかりだった。鈴は恨めしげに理樹や俺の目を見るが、いったいどうしろってんだろう。
あとは散々だった。
次打者の初球、ワンバウンドしたボールを理樹が弾いた。二進するランナーを刺そうとボールを投げると、来ヶ谷の頭上を越える暴投になった。無人のセンターをボールが転がった。必死で追ったが筋肉の出番さえなかった。
フォアボールでランナーを溜めて、暴投か長打で返した。守備なんていないも一緒だった。マウンドに集まろうとするメンバーを鈴が威嚇し、理樹にも声は届かなかった。
向こうが三つ、糞ボールを空振りしてくれて、やっと守りが終わった。
二人はもう声も出せなかった。輪にも入らないで木陰に座り込んでいた。
「この回三点取れば、とりあえずコールドは免れる」
理樹たちには見向きもせず、恭介は話す。
「今は点を取ることに集中しよう」
恭介を囲む全員が無言で頷いた。
みんな理樹と鈴を元気づけたいと思っていた。
粘りに粘って、ツーアウト、一塁三塁。凡退して肩を落とす理樹とすれ違いながら打席に向かった。
今こそ、俺の筋肉の出番だった。
他の奴が言うとおり、俺は筋肉馬鹿だから、慰めとか励ましなんてできやしない。だからせめて、この筋肉で伝えられたらと思った。
プレッシャーも不思議とまるで感じなかった。試しに素振りをしてみると、まるで重さを感じない。
「それ、小毬のだぞ!」
三塁から恭介が声を出した。
バットを持ち替えて打席の一番前に立った。先輩だかなんだか知らねえが、構わず睨みつけた。俺の雰囲気に圧倒されていた。
ベンチでは、理樹と鈴が怯えるように戦況を見つめていた。いかにも弱っちい姿だった。ガキの頃となにも変わらなかった。
俺の筋肉は奴らを守るためにあるんだ。
二人のためなら、なんでもできる気がした。
初球、全身の筋肉を総動員して、バットを振り抜いた。
あと二回変化球を空振って、ピッチャーが軽くガッツポーズした。
試合が終わった。
「……うおお、俺の馬鹿っ!」
頭を抱えた。
バットで頭をバコバコ殴りつけていると、神北たちがなにか話しかけてきたが、全く耳に入らなかった。
筋肉馬鹿からただの馬鹿になってしまった。
今更になって、本当に今更、馬鹿というのは糞の役にも立たないと知った。
屁で空を飛ぶヒーローも、もう時代遅れだった。
試合後、二人は部室に顔を出さなかった。みんな落ち込んでいて、二人がこの場にいないのを気にしてるのは馬鹿でもわかった。
「落ち込むなよ。お前らしくないぜ」
恭介の手が肩に置かれた。
「俺みたいな馬鹿はほっといて、あいつらを慰めてやってくれ……」
「そんな自虐すんなって。スポーツなんてこんなもんさ」
恭介は軽い調子だが。
「んなこと言ってもよ、無理やりやらせたのは俺らだろうが」
申し訳なかった。頭の悪さは人を傷つけると知った。
それを、恭介は鼻で笑った。
「最終的に打たれたのも打てなかったのもあの二人だろ。だいたい、慰めようにもここにいないんだから、ほっとけってことだ」
……恭介の態度が頭にきて。
その頭が悪いもんだから、ついいらないことを言ってしまう。
「最近お前、妙に冷たくねえか?」
お前が守ってやらないで、誰が守ってやるんだよ、と。
俺は馬鹿で、謙吾も馬鹿で、だったら守ってやれるのは恭介だけだろう。そう詰め寄った。
「今まで甘くしすぎただけだ。あと、あいつらが甘えすぎた」
意にも介さず、恭介は解散を宣言した。
「甘やかしてもいいことないからな。たまにはこういうことも大事だ」
部室を出て、俺は二人を探した。
二人が弱っちくても、俺たち三人でずっと守ってやれると思ってたし、ただ強ければ守ってやれると思ってた。
それが馬鹿の馬鹿らしいところだった。
あちこち走り回るが、馬鹿だから二人がどこにいるかも分からなかった。屋上にもよじ登ったし、体育館の床下も覗いた。女子寮の防衛線も突破した。それでも二人は見つからなかった。
学校中走り回って、ちょっと息が切れた。こんなときの筋肉だろうに、鍛え方が甘かった。
このまま、二人が俺たちの輪から外れっぱなしになるんじゃないかと思った。怖い想像だった。俺が今そうなったら、なんて考えることもできねえ。だから二人の側にいてやりたいと思った。
そうでないと、二人はどこかに消えちまうんじゃないかと思った。
最後の最後、俺の部屋を覗いた。
「あ、お帰り、真人」
ベッドに二人が座っていた。
「お帰りじゃねえよ!」
思わず怒鳴ると、鈴がびくりと肩を震わせた。理樹も気まずそうに目を伏せた。
……さて、ここからどうすんだ、俺。
二人を見つけたはいいが、どうしていいか分からなかった。
普通友達ってのは、漫画でもなんでも、どんな馬鹿でも、こういうとき言葉が出るもんだった。
だが俺は究極の馬鹿だった。
「さっきは、ごめん。みんな怒ってるよね」
理樹が呟く。
「……わるかった」
理樹の陰に隠れながら、鈴も。
「そうじゃねえよ。そうじゃなくて……」
自分の馬鹿さ加減が恨めしく思えた。
こんな馬鹿とみんなよく一緒にいてくれたものだと、また今さらありがたかった。
だから、なにか言ってやりたかった。
「そうじゃなくてだな……」
言葉が見つからない。
それでもなにか言いたかったから。
「筋トレしようぜ!」
最初に思いついた言葉を、口に出していた。
二人が馬鹿を見る目で馬鹿を見た。
自棄になって、その場で指立て伏せを始めた。せめて二人に笑って、馬鹿にして欲しかった。
二人は俺の馬鹿な行いをぼやっと見ている。俺は一心不乱に腕を動かした。頼むから笑って欲しい。そう思う分、いつもより背中が重かった。
「……な、なんでこの状況で筋トレなのさ!」
理樹のツッコミが入った。
ツッコんでから、理樹は吹き出した。鈴も釣られて少しだけ笑った。
「こいつ、馬鹿だな」
その言葉に、身体が軽くなった。筋肉にフルスロットルで酸素が巡った。俺は勢いを増した。
「理樹! 鈴! お前らも鍛えて、リゾンベだっ!」
「リゾンベってなにさ!」
「ほんとに馬鹿だな」
二人は声を出して笑った。
ボールが俺の頭上に舞った。
犠牲フライには十分。誰もがそう思ったことだろう。
だが、この俺様に常識なんざ通用しねえ。
「バックホームだ!」
鈴の声。理樹も大きく手を上げて返球を待つ。
ボールが落ちてくる。助走をつけ、受け止める。ランナーがタッチアップする。
「いっくぜええええええええ!!!」
矢のような返球。
一直線に理樹のミットに伸びた。
乾いた音を立てて、理樹のミットがバックネットに突き刺さった。
「強すぎじゃぼけーっ!」
鈴が外野まで駆けてきて、思い切り蹴られる。
「うっ! つ、次は加減します……」
「鈴ちゃん、わざとじゃないんだからそんな怒っちゃだめだよ〜」
神北が寄ってきて、鈴の怒りをなだめた。
内野ではみんな、苦笑いで俺を見ていた。三枝が俺の方を指差しながら、理樹になにか耳打ちしていた。それから二人で笑い合っていた。
こうしていると、馬鹿も悪くなかった。
きっとこの先、なにがあっても、俺はずっと馬鹿のままなんだろうと思った。