『遠回りして』     山鳥

 戸口が開くと花の香が漂ってきた。季節の移りを知らされた。小僧が似合わぬ花を抱き、締まらぬ笑みを浮かべていた。
「花は、好かん。見舞いならもっと気を利かせんか」
 小僧は黙殺し、窓に歩み寄った。初めて訊ねてきたのは夏の盛りのことだ。あれから随分馴れ馴れしくなったものだった。
 日除けが解かれ空が広がった。鰯雲が街の向こうまで続いていた。目を下ろせば庭で手伝いが白い洗濯物を取り込んでいた。芝の照り返しが幾分弱くなっていた。
「なんの用だ?」
「今日は、約束を叶えてもらおうと思いまして」
 小僧は勿体つけて唇の端を釣り上げ、廊下を覗いた。淡い桜色の服が隙間から覗いた。
「え、えぇ〜っと、初めまして、神北小毬ですっ!」
 はにかんで、頭を下げる。星の髪飾りが揺れる。その微笑は無垢で、触れれば傷がつくような、脆弱な硝子細工を思わせた。
 わしが睨みつけると小毬はたじろぎ小僧に縋った。
「そんないきなり威嚇しなくてもさ……」
 小僧が苦笑して、間に入ってくる。大人げない、とでも言いたげだった。
「……小次郎だ」
 また窓を見る。通りでは幾人かの男が街路樹の枝を切り落としていた。
「ふえ? 小次郎……さん?」
 小僧に肘で小突かれた。こんな扱いをされる謂れは無い。だが、約束は約束だった。
「神北小次郎。おまえの祖父だ」
 小毬は分からないような顔をして、それから、目を輝かせた。
 外から小毬を呼ぶ声がした。慌しく出て行くと、部屋にはわしと小僧が残された。
「行かんでいいのか」
 頷いてみせる。似合いもしない真剣な目だった。
 二人が深い恋仲であることは一目で知れた。小僧に、小毬の伴侶が務まるとは思えなかった。
「覚悟はできたのか?」
 問うてはみたが、わしはもう小僧を見ていない。敷石に落ちた葉が、熊手でかき集められてはごみ袋に押し込められていく。
「小毬さんは、……小毬は、もう、大丈夫です」
 切り落とされた枝が束ねられ、収集車の刃に飲み込まれる。たわみ、折れ、砕かれてその奥の暗がりに消える。その音まで耳に届く気がした。
「興が乗らん。出て行け」
 少しの間を置いて、足音が離れていった。
 小僧はどんな顔をしていたのだろう。わしは記憶を辿る。こまりの連れになると誓った日、どんな顔をしていただろうか。
 思い出せなかった。絡みついた絹糸を辿るような行いに思えた。解いていくには糸はもう重なりすぎた。先端さえ、容易には見つからぬ。
 小僧は日除けを下ろさずに出て行った。わしは身体を起こし、紐に手をかけた。舗道を歩く二人が見えた。枝を切り落とされた木立に比べても、酷くか細い二条の影が、地面に並んで伸びていた。
 幾日かして隣のヨネさんが死んだ。転んで足を痛め、三日風呂に入れなかった。包帯が取れた秋口の冷えた日、ぬるま湯に長く浸かっていたそうだ。その晩熱を出し、肺炎になった。元気なジジイと学生の手伝いが代表して葬式に出ることになった。見知らぬ学生に引き出しの奥から香典袋を探して署名し預けた。いつも折り目をつけたピン札の五千円を入れている。
 じじばばの茶飲み話を墓石の話題が占めて、退屈だった。
 そんなとき小毬の友人だという若い娘が代わる代わる訊ねてきて、少し救われた。中でもけったいな羽織り物の小僧には見所があった。彼ほど剣客に精通した若者というのはそうざらには居まい。
 彼らの誰ひとりとして、小僧と小毬の話はしなかった。
 とどのつまり、無理だったのだ。一度正気を取り戻させたにしても、誰もこまりの苦しみを肩代わりすることはできないし、理解してやれない。以前のように、わしのところに現れないのを見ると、小僧は逃げ出してしまったのだろうと思う。人好きのする顔ではあるし、若者らしい実直さのある男だから、すぐに連れも見つかるだろう。そうしたほうが幸福であろうし、賢明だ。
 おそらくは血がこの苦しみを産んでいるのだろうと思う。一本の縦糸が幾多の横糸を絡めとり、今日まで脈々と生き延びてきたのだ。神北家の血筋が絶えれば、それももう終わることだろう。
 こまりたちの病はその目にあった。凡人なら見過ごしてしまう路傍の石のような闇にまで、彼らは気がついてしまう。他人は、並んで見つめていても、その奥を見通すことができない。
 だからこまりは孤独であった。
 二人の安息を求めた旅だった。奇異の目から逃れるための旅だった。
 こまりは今わの際で兄を呼んでいた。わしはこまりの手を握り続けていた。皮肉なことに、その手が力を失って、わしは初めて安息を得た。
 こまりは兄に会うことができたのだろうか。わしはそれを願う。現世では得られなかった安息を、来世で手に入れてくれていたなら。ただただ明るく照らされた道を、僅かでも歩めているならば。
 旅路の果てに見ゆるはまた孤独なり。
 小毬は、いつか拓也と会えるのだろうか。
 だが、雨の降る午後、小毬が部屋を訪ねてきた。
「えへへ、お久しぶりです……おじいちゃん?」
 小毬はわしを覚えていた。手には赤い傘と、雫を湛えた造花の籠を提げていた。
「もうすぐ理樹くんが、みんなを代表してお見舞い持ってくるからね」
 そして小毬は小僧を覚えていた。
 両手一杯にビニールで包まれた紙袋やらを抱えた小僧が、顔を出した。
「お、遅くなりました……」
 息を切らして、小毬に差し出された椅子に掛ける。
「退屈してたって聞きましたから、みんながその、小次郎さんにプレゼント、って」
 包みを解いて、中身を取り出す。人形やら食い物やら小説やら木刀やら。雑多に積み上げられていく。
 小毬が手拭いで小僧の髪を拭う。小僧が困惑して振り返ると、小毬は笑う。照れくさそうに、小僧も笑う。
 目を逸らしてしまいたい思いに駆られた。
 綿の薄い布団の中で、とめどなく泣き続けるこまりを抱きながら、ずっと祈っていた姿だった。
 頬に冷たい滴が垂れていた。
「ほ、ほぇぇっ!? ど、どうしたの、おじいちゃんっ?」
 小毬に肩を支えられる。真新しい服の裾がわしの汚れた頬を拭う。拭われど拭われど涙が伝い落ちた。
 わしや、こまりの父や祖父たちの人生は無意味だったのだろうか。なぜわしは、小僧のようにしてやることができなかったのだろう。なぜこまりの笑顔を受け取れなかったのだろう。それは自分自身の弱さのせいであることは、何度でも噛み締めてきた。こまりには詫びても詫び足りぬと思った。
 こまりは不幸だった。もしこまりが小僧のような男に好かれていれば、明かりに満ちた生涯を終えられたに違いない。こまりの不幸が不憫でならない。
 わしの手にまた滴が落ちた。枯れ果てたと思っていた涙が、いくらも、溢れた。
「……ごめんね」
 小毬の上ずった声がした。
 しわがれた手に落ちたのは、小毬の両の瞳からこぼれた涙だった。
「……なにを謝ることがある」
「私が、ずっと迷惑かけてきたんだよね。それなのに、私だけ……」
 先が続かず、小毬は泣いた。
 そうではないと言いたかった。小毬やこまりが泣くことなどないのだ。もちろん小僧だって、本当は違う。ただわしだけが愚かだったのだ。
 そう伝えようとした。だが、わしも声が詰まった。
 こまりは優しい娘だった。食うものにも困るのに、好物だったはずなのに、ふかした甘藷を平気で他人に譲っていた。いつも損をするのは自分だった。自分が一番損をするなら、それでいいと本気で思っていた。
 小毬は、確かにこまりの孫だった。別の涙が溢れた。
 棒立ちしていた小僧が、目を腫らしてわしの手を取った。
「小次郎さんが居てくれたから……」
 こまりに伝えてやりたいことが初めてできた。滲んでなにも映らぬこの目が、七十年生きて、初めて見えた。



 久々に筆を手にした。書き慣れぬ字で、勝手が掴めず随分紙を無駄にした。だがその甲斐あってなかなかの出来に思える。
 さて、どのくらい包むか。
「小次郎さん、来ましたよ」
 戸口が開いて、饅頭かなにかを抱えた小僧が入ってくる
「なにやってるんですか?」
 小僧が肩口から、わしが手にしている熨斗袋を覗き込む。
「……ちょっと! な、なに書いてるんですかっ!!」
 顔を高潮させて、わしの手から奪う。
「こんにちは〜……って、なにやってるの? 二人とも」
 小毬の姿を見て、小僧が熨斗袋を慌てて隠す。
「わっはっはっはっは! 年寄りのやることじゃ! そうむきになるな!」
 願わくば、わしが生きているうちに手渡したいものだ。
 こまりへの格好の土産話にもなるだろう。
 小僧の手から、また取り上げ、その字を眺める。
 『出産祝』
 改めて見ても、我ながらなかなかの字だった。

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