音信 浜村 ゆのつ
つまりそれは簡単な事なのだ。
私から一歩を踏み出せばいいだけ。姉妹として、そして親子として今までしているはずだった事を、あらためてすればいいだけの事。その為に、ちょっとした行動を起こせばいいだけなのだ。
それは実に簡単なはずなんだけど……
「……最初の一歩というのはえてして踏み出しにくいものなのよ」
誰に説明しているのかしら私は?
最後の一枚となった便箋を丸めてゴミ箱に放る。そして、自嘲混じりのため息と共にボールペンを放り出すと、そいつは机の端まで転がっていき、止まった。何もない机にボールペンが一本、逆に寂しい。
大体何で今こんなに苦労しなければならないのか、そう、別に今すぐ行動しなくても明日でも明後日でも一年後でも死んでからでもいいじゃない……あ、いや最後は駄目か、さすがに。
ともかく、今までこんなに長く出来なかったのだから、少しずつ、少しずつでもきっと問題はない……と思う。思うけど……
「ううう……」
頭を抱える。
そうやって、ここ一週間クドリャフカがいなくなる度に机の前で悶々としていたのはこの私。書いては消し、そして丸めてゴミ箱送り。ちょっとずつ前進どころか、むしろ全速後進しかねない勢いだ。
これじゃあ正直どうにもならない。
邪魔なのはつまらない意地とかプライド、そして、今までそれが正しいと思っていた自分。過ちを認めるのは難しい、認めても、そこからさらに前へと進むのはもっと難しい。
それはわかっているのだけれど、わかっていてもどうしようもないものはあるのである。
「あーもうっ!!」
八つ当たり気味に机を叩くと、ボールペンが跳ね上がって床へと落ちる。風紀委員長たる私がこんな事をしてどうする。寮の机は共用物じゃない、備品は大切に扱いなさいと、クドリャフカにも常々言っているというのに……
頭を抱えながら隣の机を見れば、慌てて出て行ったのかごちゃごちゃと鉛筆だのなんだのが転がっている。
帰ってきた直後に、急ぎの用があるらしく、わふわふ言いながら飛び出していったのだけど、余裕をみて行動するとういうのがないのかしらあの子は。
帰ってきたら、ちゃんと注意してあげないと……将来困るのはあの子なんだから。
「……しょうがないわね」
ため息まじりに立ち上がり、彼女の机を軽く片づける。
鉛筆消しゴム蓋の開いたペンケース、倒れたぬいぐるみがつぶらな瞳でこちらを見つめ、そして転がる目覚まし時計からは、乾電池が脱走を図っていた。
それにしても、青ざめた熊のぬいぐるみ……あの子の感性はよくわからない。彼女曰く『とても可愛い白熊さんなのですよわふー』だそうだけど、ひとまず青い白熊というのは存在自体が間違っている気がする。
さて、整然とした私の机とは対照的に、いろいろな物がある彼女の机。雑然としているようで、奇妙に楽しげなのは気のせいかしら?
そんな事を考えていると、一瞬、あいつら……リトルバスターズと共にいるクドリャフカと、風紀委員を従えている私の姿が重なる。
友人達と共に騒いで、揃って怒られる彼女と、ただ一人誉められる私の姿……どちらが幸せなのかは言うまでもなかった。
「孤独……ね」
どんなに嘲るように言っても、どうしても吹き飛ばせない困った言葉。気にしないようにしても、なぜだか私につきまとう、嫌な言葉。
「ねぇ、私は孤独だと思う?」
倒れた青白熊に声をかけながら、本日何度目かの自嘲。ぬいぐるみにそんなことを聞いているだなんて、私もずいぶん乙女じゃない。
「乙女だなんて……私が?」
思わず失笑してしまう。私が乙女?そんなのはあり得ない。どっちかっていうとサッチャーね、鉄の女。
「わふー孤独じゃないと思うのですよー。私と佳奈多さんはお友達なのです!」
「うっわ!?」
突然の声に思わず叫ぶ、後ろで「わふー!?」とかぼふーとかいう声と音がして、静寂が戻ってきた。
……ひとまず、今ありえない声が聞こえた気がする。っていうかありえちゃいけない。ついでに今の叫び声も消しておきたい。
胸に手を当て、状況を確認。
静かな部屋の中、初夏の風にカーテンが揺れている。少しだけ夏の匂いを詰め込んで、暖かな風が流れ込む。遠くに聞こえる電車の音は、鉄橋を渡っているのかしら?
差し込む日射しは夕方のもの、クドリャフカの机には小さな影。そして、私の下の方からまんまるな目でこちらを覗き込んでいるのは……
「わふー、佳奈多さんただいまです!」
「ククククククドリャフカ!?」
屈託なく笑う私のルームメイト。なんで……なんで……出かけてたんじゃないの!?
扉を開ける音なんてしなかったはず、この子は、いつも元気いっぱい扉を開けて、もっと元気にただいまののですーなんて言って、静かにしなさいと私に怒られて……
「クが多いのですー豪華なのです」
そんな私の混乱をよそに、嬉しそうになにやらよくわからないことを言い出すクドリャフカ。豪華なの?
顔が真っ赤になって、ひとまず突っ込みの言葉も出てこない。まずい、落ち着け、私は隙を見せてはいけないんだから。
ひとまず、落ち着いて何事もなかったかのように装いましょう、そうしましょう。
私は、いつもの表情を作って彼女を迎える。
「おかえりクドリャフカ、机をちゃんと片づけないとだめじゃない」
「わふー申し訳ないのです……」
「しょうがないわね……」
縮こまるクドリャフカにため息をつく。ようやく調子が戻ってきた。
あとはこのまま何事もなかったかのように……
「お詫びにその白熊さんはぷれぜんとですー」
「ほえ?」
できなかった。間抜けな声を出して自分の胸元を見て……
「っ!?」
目にとまったのはクドリャフカの青い白熊人形。まさかとっさに抱きしめて……?
ぬいぐるみを抱きしめながら、偉そうに叱る自分の姿が頭によぎる。
……死にたい。
でも、硬直した私をよそに、クドリャフカは嬉しそうに言葉を続ける。
「わふー佳奈多さんにならあげてもいいのです。でも、佳奈多さんがろじぇすとう゛ぇんすきーの事を気に入って下さるとは思いませんでした!大切にしてくださいなのですー」
笑顔のクドリャフカに、どんどん顔が真っ赤になっていくのがわかる。何その偉そうな名前とか突っ込む余裕なんてどこにもない。
「〜〜〜〜っ!」
思わず放り投げた、ぬいぐるみは空を飛び、クドリャフカをかすめると、ベットを飛び跳ね壁にぶつかる。ごろんと転がった小さな瞳が、恨めしげにこちらを見つめていた。
「わふっ!?佳奈多さん何をするんですかっ!」
「あ、わ、クドリャフカ、ごめんなさい」
そして、ほぼ同時に抗議の声をぶつけてきた彼女に慌てて謝る。かすめただけだからケガはないと思うけど……大丈夫かしら?
「佳奈多さん、お人形も大切にしないといけないのですよ。きっと痛いのです」
「あ、え、そ……そうね、ごめんなさい、ロジェ……なんとか」
いつになく真面目なクドリャフカを見て、反射的にぬいぐるみに謝ってしまう。困った、一度ペースを乱されるとなかなか元には戻れない。
「わふーそれでいいのです!ろじぇすとう゛ぇんすきーも、きっと許してくれたのです。それにいいあだ名が出来てうれしがっているのですよー」
「あだ名?」
「ろじぇは素敵な名前なのですよー、今日からあなたはろじぇなのです。わふー!」
いつの間にか、この熊はロジェという名前になったらしい。そしてクドリャフカは万歳三唱してはしゃいでいる。
……そんなに嬉しかったのかしら?
「今日からロジェと佳奈多さんはお友達なのです。私もお友達でみんなお友達なのですー」
友達……という単語が少し嬉しい。今までだったら、きっと拒絶していたであろう言葉、受け入れられなかった言葉、でも……
「まぁ、いいわ」
自嘲を一つ、でも今度の自嘲は少し明るい。
「わふ?わふ〜♪」
首を傾げるクドリャフカの頭をなでながら、私は言った。
「ありがとう、大切にするわ。大切な……友達からの贈り物だものね」
「わふっ!」
尻尾があるなら振っているであろうくらい嬉しそうに頷くクドリャフカに、少しだけ表情が緩む。
私にはようやく家族ができた。
なら、友達が出来てもいいだろう、一人と一匹。
今ならあの手紙を書けそうな気がする。
母への手紙、ずっと書けなかった母への手紙……
「……しまった、便箋はさっきので最後か」
散々書き損じた挙げ句、肝心なときになくなってしまった。まぁいい、買ってくればいいだけの話。そして、今度こそ書き上げよう、ちょっとでもいいから……私の気持ちを。
「わふー丁度よかったのですー」
「え?」
その時、耳に届いたクドリャフカの言葉に、問い返す。何が丁度よかったの?
「あのですねー佳奈多さんがお手紙を一杯書いているみたいでしたので、今日お手紙セットを買ってきたのですよ!」
そう言って、手に持っていた鞄から、色ペンやらなにやらをごちゃごちゃ取り出すクドリャフカ。
……硯だの筆だの、ちょっと気になるものもあるけど。
「……知ってたの?」
「はい、一杯書きかけの便箋が捨ててありましたからっ!」
ため息と同時に自分に呆れる。なんだ、ばればれじゃない。ばれたところでなんの問題もないものを、必死に隠そうとしていたのは私だけ。本当に間抜けな話だ。
そんな私に、彼女はいつものように笑って続けた。
「いつもお世話になっているお礼なのですー!受け取って下さいっ!!」
「しょうがな……いえ、嬉しいわ、ありがとうクドリャフカ」
「わふっ!」
ぴょんと飛び跳ねるルームメイトに苦笑しながら、彼女から次々と贈り物を受け取る、手に持ちきれなくなって机に置けば、たちまち私の机はクドリャフカ色に染まってしまった。もうごちゃごちゃだ。
「これを買いに行っていたのね」
「わふっ!」
私の言葉に、嬉しそうに彼女は頷く。ああ、寮に帰るなり飛び出していったのはこういう事だったのね。
「ありがとう」
それは滅多に心から言わない言葉、それなのに今日はやたらと口にしてしまう。そして、これからはもっともっと多く言えるはず。言えるようになろう。
「わふー!どういたしましてなのです。それと、その言葉は葉留佳さんにも言ってあげて下さい!」
「え、葉留佳に?」
その時、突然出てきた意外な名前に思わず問い返す。
「はい!私はこの街にはあまり詳しくないので、葉留佳さんに案内をお願いしたのですよっ!!」
嬉しそうに言うクドリャフカ、そっか、あの子が……
「はいなのです。送って頂いたのでまだそこに……」
「……はい?」
予想外の言葉に、私は固まる。何、葉留佳が、クドリャフカと一緒に……もしかして今までの全部?
「……え?」
ぎぎぎと視線を上げる。扉の影にぴょこっと隠れる、見覚えのある髪の毛……
「葉留佳?」
私の問いかけに、おそるおそるといった風に、彼女は顔を出した。
「や……やはは、集中してたから邪魔するの悪いかなーって静かに扉を開けたのですヨ? 他意はないのですヨ?」
あはははとか笑いながらこちらに歩いてくる葉留佳。明らかに嘘だ、っていうか手に持っているビデオカメラは何? 明らかに私の日常を撮ろうとしていたに違いないでしょうが! 期待以上のものが撮れたんでしょうね、そうでしょうね!
ひとまず、確信犯を誤用すべきなのはこういう時だということがよくわかったわ。
私は葉留佳に言った。
「語尾がカタカナの時点で信用できない」
「や、HAHAHA、そんな、文字は見えないのですヨ? それにそんなこと言ったら私は普段から……」
「信用できないに決まってるでしょ」
「ひどい!?」
大仰にダメージを表現する葉留佳に、ため息をついて呼吸を落ち着ける。
「で、どこから撮ってたの?」
何呼吸か置いて、冷静に質問。私があまり怒っていないと思ったのだろうか? 葉留佳は少し表情を緩める。
「さ、最初の一歩を踏み出すのって難しいよね」
「ほとんど全部じゃねーか」
「うわ、言葉、言葉遣いがまずいことなってるってお姉ちゃん!? 言葉の乱れは風紀の乱れですヨ!?」
慌て出す葉留佳を見ながら、私は歩き出す。扉の方へ。
「大丈夫よ、葉留佳」
とっておきの笑みで、葉留佳を見つめた。葉留佳の動きが止まり、クドリャフカはいつの間にか布団を被って丸まっている、賢明ね、さすがは私の友人だわ。
後ろで扉を閉めて、ついでに鍵とチェーンでがっちり。
そして言葉を続ける。
「今日のあなたの記憶、全部なかった事にするから。クドリャフカもそれでいいわよね? あ、それとロジェを頼むわね。巻き込まれると危ないから」
「わふ! わふ!!」
「そうね、いい子だわ。さすがは私の友人ね」
「きゅーん……」
「よくない! 異議あり!! っていうか、クド公「わふ」しか言ってないじゃん!」
ますますがっちりと丸まったクドリャフカに、慈愛の視線を送ると、次いでなんかわめいてる葉留佳へ向ける。
「私とクドリャフカの仲だもの、これでちゃんと判るわ。ね、クドリャフカ?」
「わふ! わふっ!!」
「怯えてるだけじゃん! 脅迫反対っ! クド公を大切にっ! 動物愛護!!」
「クドリャフカは大切にするわよ、クドリャフカは」
「しまったー!? ついでに私も大切に! はるちん愛護運動っ! ジュネーブ条約を守ろうっ!」
「そんなの知らないわ。あ、でもあなたの事も大切にするわよ? なんせ姉妹だもの、お姉ちゃんが丁寧に教えてあげるわ。……していいことと悪いことを」
その後、三枝家に、長年離れていた佳奈多から、葉留佳の教育について延々と書かれた巻物が届いたとか、代わりに葉留佳がしばらく音信不通になったとかいう出来事があったが、それはまた別の物語である。
どっとはらい。