けして特別な理由があったわけでもなく、ただなんとなく、というのが俺達の行動基準だった。
いつもと同じように春原の部屋でぐうたらと過ごしていたら、あいつが「たまには街のほうに出てみないか?」と言っただけのことだ。もちろん俺には諸手を挙げて賛成するだけの理由も、断固として拒否するだけの理由もない。
だらだらと二人並んで駅まで歩き、たらたらと意味の無い会話で電車の中の退屈をしのぎ、ふらふらと目的もなく慣れない街を彷徨った。
部屋を出てくる時には高かった太陽も、何軒目かのゲーセンを出た時にはすっかりその姿を消していた。
「なぁ、あのビル。見えるか?」
見えるか、も何も、俺達の目の前には、少し前に狂った連中が占拠した飛行機が突っ込んだような双子の摩天楼がそびえたっている。権威の象徴か、欲望の顕現か、どちらにしてもあの建造物に俺はあまり良いイメージを持っていない。
俺はうんざりしたように首を縦に振った。実際、一日中目的もなく煩雑なこの街をだらだらと歩き回った俺達は心底疲れきっていた。
「あのビルって確か景色が見えるようなところがあっただろ」
「ああ、聞いたことはあるな」
「行ってみないか?」
馬鹿じゃないのか、と思った。
そんなところ、今頃リッチな食事を堪能した後のツガイの男女が二人のロマンチックな時間を楽しむためにある場所だ。高校生の、しかも男二人が足を踏み入れていい場所じゃない。第一精神衛生上、非常によろしくないじゃないか。
「なんとかと煙は高い所が好き、ってか」
「あん? なんとかって何だよ?」
「分かりやすく翻訳すると、お前ってことだ」
「ナイスガイってことか」
ライトフライ級馬鹿ランキング1位こと春原陽平はご満悦だった。
結局俺は春原の希望を断り切れず、最上階までノンストップで直行するエレベーターに乗り込むことになった。
ついさっきまで足元にあったはずの地面はどんどん遠ざかり、その分だけ俺達は天国に近づいていく。高い所が怖いわけではないが、あまりいい気持ちはしない。
ピンポーンと音がして、俺達を載せたエレベーターは最上階に着いた。
展望フロアは思った通りにカップルで一杯だった。俺達はどこかおどおどしながら比較的人が少ない窓際のベンチに腰を下ろす。
「ゴミが人のようだ」
逆だ。
しかし、どこか薄ら寒さを覚えるブラックユーモアだ。狙って言ったのだとすれば、だが。
「なんでこんなとこに来たかったんだ?」
来たかった場所に来たはずなのに浮かない顔の春原は、ぼぅっとした様子でただ眼下の光景を眺めていた。
「なぁ、高いビルを見ると、その屋上から飛び降りたらどんな気持ちだろう、って想像しないか?」
「しないな」
「僕だけかな」
「お前だけだ」
「そうかな」
「そうだ」
はぁ、と春原には到底似合わない溜息をつく。
「飛び降り自殺をする時のためのシミュレーションをしにきたのか?」
「そうだ、って言ったらどうする?」
「別に。どうもしない」
「なんだよ、冷たいな」
「本当に飛び降りる、って言うんなら足元に置いとく遺書の代筆くらいはしてやらんでもない。1億2000万が涙する、直木賞も裸足で逃げ出す名作を書いてやる」
「はは」
「ははは」
隣のカップルは人目を憚らずに二人の愛を確かめ合っている。
思春期の俺達としては、その二人の顔面に思い切り北斗百裂拳をくらわしてやってもバチは当たらないんじゃないだろうか、と半分本気で考える。
「岡崎、お前今何考えてる?」
「多分、お前と同じことだ」
「幸い僕達は今、そこで買った紙コップの冷たい冷たいジュースを持っている」
春原と俺は、互いの顔と紙コップを見合わせて、ニヤリと笑った。
俺達の半分しかない本気は、二人合わせてようやく一人前になれる。
「やるか?」
「ああ」
ちょうどエレベーターが開いたところだ。
春原と俺は来るべきその瞬間を待ちきれず、口元に隠しきれない笑みを浮かべながら、じっとタイミングを計る。
いち、
にの、
さんっ!
紙コップがカップルの頭上を舞うのと俺達が閉まる寸前のエレベーターに滑り込んだのはほぼ同時だった。背後で男女の悲鳴らしき声が聞こえてきて、ぐんぐんと天国から遠ざかっていくエレベーターの中で俺達は腹を抱えて笑い転げた。こんな愉快なことは、久しぶりだった。
十二分に笑い転げた後、俺達は互いに顔を見合わせ、どちらからともなく溜息をついた。
「僕、この前、ラブレターもらったんだ」
春原の唐突で脈絡のない台詞はどこか自嘲めいていて、このエレベーターの中の醒めた空気とは高い親和性があるように感じられた。いつものようにからかってやる気力も残っていなかった俺は、ただ一言「そっか」と言ってやるのが精一杯だった。
既に終電もなく、天国に一番近い場所で乳繰り合っている奴らとは違って車もバイクも持っていない俺達は、月明かりの下で途方に暮れた。当然のようにタクシーを拾って帰れるだけの金など持っているはずもなく、俺達はまた目的もなく歩き出すことになる。
ポケットに手を突っ込んで背中を丸めて歩くのは、俺達に似合っているような気がした。
「どこの馬鹿だろうな。お前にラブレター、なんて」
「さぁね」
これまた自嘲めいたリズムの言葉は、汚れた街角に響いて消えた。
ヤブレタラブレター
えりくら
「隣のクラスの遠坂なんてどうだ?」
「ばっか、お前身の程を知れって。あんな上玉の優等生がお前にラブレターなんか出すわけないだろ」
「ぐっ……じゃあここは意表を突いて、そのもういっこ隣のクラスのいいんちょの小牧は? 大人しい感じでいかにもラブレター書きそうなタイプだろ」
「そりゃ確かにそうだが、お前のような不良を好きになりそうなタイプではないな。どっちかって言うと大人しい感じの男の方が好きなんじゃないか? あのタイプは」
「うーん、確かに……じゃあ月宮ならどうだっ!?」
「春原、ロリはやばい。ロリは。後ろに手が回る」
二人してうむはてうむはて、と考え込む。今春から晴れて受験生という身分に身を堕とす人間とは思えない頭の使い方である。尤も、俺や春原のような劣等生には、初めから関係のある話題とは言えないのだが。
最早周りから俺達に注がれる視線は、軽蔑や侮蔑といった種類のものしか存在していないような気さえする。窓の外に吹き荒れる木枯らしと同じで、気にしたら、負けだ。
そんな俺達にとって春原に届けられた名無しのラブレターは、極めて質の高い娯楽性を持つ暇つぶしだった。時間をどぶに捨てるほど持て余している俺達にとって、そんな暇つぶしならいつだって大歓迎だった。
とりあえず春原をからかって、からかうのに飽きたら文面を朗読して二人で笑い転げて、それにも飽きたらこれを書いた奴のことを妄想してみたりした。
「よし」
何を思ったか春原は一声上げて立ち上がる。
「帰るか」
「いきなりそれか」
「なに? 岡崎、帰んないの?」
「帰るけどさ」
言うが早いか、中に何も詰まっていない鞄を持って足早に教室を後にする。
言い咎める者は最早クラス内には誰もいない。俺達に何を言っても無駄だ、くらいのことは奴らでもこの1年間の経験で知っているのだ。
「おいそこのボンクラ二人組」
一人だけ、経験から学ばない愚か者がいたらしい。
無論そんな奴はこの学校に二人もいない。
「なんだよ」
いつにない強気の春原が、この学校で俺達と並び立つ唯一の人間である藤林杏と相対する。
「あんたらの頭が年中茹だってるのは知ってるけどさ。せめて今日最後の授業くらいは受けて行きなさいよ」
「やだよ」
「こんな中途半端な時間に帰って何すんのよ」
「岡崎と二人でバイクに乗って風になるんだ」
「どうせゲーセンのくせに」
なぜお前がそれを知っている。
口に出そうになったがやめておいた。
思ったことをそのまま口に出さないのが社会性だ。少なくとも杏の前では、そうだ。
「あんたら二人、単位やばいわよ」
少し真面目な顔で杏が言う。
「知ったこっちゃないね」
余裕たっぷり、という顔を作って春原が言う。
「まあ、あんたらがそれでいいならいいけどね」
「お、今日は意外とあっさり引き下がるんだな」
「だって授業さぼって留年するのはあんたらであって、私じゃないもの」
「そりゃそうだ」
そこで俺達と杏は互いに背を向ける。
いつものことだ。
別に見捨てられたわけでもなく、見限ったわけでもなく、ただ俺達はそういう関係であるというだけのことだ。
俺はそんな関係に寂しさを感じることはない。
しかし、隣にいるこいつはどうなのだろう。
俺の想像が間違っていないのならば、こんな時こいつが見せる寂しそうな顔は、俺達をぞんざいにたしなめる杏に向けられているはずなのだ。
「ねぇ」
背後からの声。
春原はぴくりと肩を震わせて反応するが、けして後は振り返らない。俺は春原の代わりをするように形式上振り返っておくことにする。
「あんたらがどんなバカなことやってるか知らないけどさ」
にぃ、と、およそ学級委員らしからぬ笑みを浮かべる。
「面白い話が合ったらさ、たまには私も混ぜなさいよね」
俺はあくまで春原の代わりに答えることにした。
「気が向いたらな」
じゃあね、と杏が教室に戻っていくのと、授業開始5分前を告げる予鈴が鳴ったのはほぼ同時だった。
俺達はうるさい教師が来る前にその場を立ち去ることにした。
昇降口で靴を履き替え外に出ると、心まで枯れさせてしまえそうな木枯らしが俺達を迎える。
だが俺は、この木枯らしの中にしか俺達の居場所はないんじゃないだろうかと思えるほど、不思議な開放感と安心感を感じてしまう。
この風の中には俺達を咎める父親もいなければ、俺達を優しく受け入れてくれる母親もいない。何も追いかけてこなければ、何を追いかけることもない。
自由ってそれほどいいものじゃない。
「なぁ岡崎」
木枯らしのリズムにのせて、隣にいる馬鹿が呟く。
「僕達のクラスに神尾っていうポニーテールの子がいたの知ってるか?」
「ああ、夏終わってから学校に来なくなった子だろ」
そういう奴もいた。
別に羨ましくもなんともないが、自分がどこにも行く必要がなくなるというのはどんな気持ちなのか、多少の興味はある。
「あの子、意外と僕の好みだったんだよなぁ」
「お前、あんなのが良かったのか」
「ラブレター、あの子だったらいいなぁ」
そう呟いた春原は、少しもそんなことを思っている顔ではなかった。
「あの子だったら、そりゃ、いいな」
「だろ」
中身のない会話は、俺の持っている手提げ鞄に少し似ていた。
「例えばさぁ、お前が肩を壊してなかったとするじゃん」
「ああ」
唐突に始まった話題は俺の古傷に触れるものだったが、不快ではなかった。
今日も飽きもせずに吹きくる木枯らしのせいかもしれなかった。
「そしたら岡崎の実力ならウチのバスケ部でも1年からレギュラーとって、大活躍だ。インターハイなんて軽く出場して、MVPなんかとっちゃって、この学校どころか町中の人気者になっちまうとする」
「ああ」
「当然、周りの女どもが街のスターを放っておくわけがない。お前はひっきりなしに女をとっかえひっかえして、それはそれは毎日毎日を楽しく過ごしたとする」
「何やっても上手くいくし、どんなことをしたって許されるってか」
「そうだ。もし、そんな毎日が実現したとしたら」
「したとしたら?」
俺は春原が続けるのを待つ。
「お前は、楽しいと思うか?」
それは疑問ですらなかった。
何でも思うがままに上手くいき、失敗も挫折も知らずにただただ光が溢れる道を歩いていく。
今の俺達のように、誰かから軽蔑されることもない。
自分に誇りを持てる自分。
楽しいのか。
それは、
楽しいのか。
「思わないな。そんなもんクソ食らえ、だ」
「何でだ」
ニヤリと口元に笑みを浮かべ、言ってやる。
「今の俺には女と遊ぶよりも、この間春原という男にバイクのレーシングテクで負けたという屈辱を晴らすことのほうが、百倍くらい重要だ」
その日は、春原とゲーセンで財布の金が無くなるまで遊んで、夜が明けるまで春原の家で過ごしてから家に帰った。
楽しくはなかった。
△▼△▼△▼
1週間後、夕方の6時に体育館の裏側の通用口で待ってますので、答えを聞かせてください。
待ってます。
そんな文句で締めくくられた手紙を春原が受け取ってから、もうすぐ1週間が経とうとしていた。
手紙のことで俺と春原が盛り上がっていたのも2、3日の話で、一昨日も昨日もそのことは話題にも上らなかった。
それでも時間は過ぎていく。
奴がどういう判断を下すのか、他人事ながら興味があったので俺はその期日のことをなんとか覚えていたわけなのだが、春原当人はどうだろうか。俺はあいつが覚えていると自信を持って断言することは、出来ない。
現にあいつは、5時間目が終わろうとしているこの時間になっても、一向に姿を現す様子がない。
まぁ、いいか。
俺はあいつと親友でもなんでもない。
あいつがどんな結論を下そうが、それによってどんな幸福を、もしくは不幸を被ろうが俺には全く関係ない。俺はそう勝手に結論付ける。6時間目の教師の話がクソ面白くもないということも手伝って、俺は全てが終わるまで眠ることにした。
目覚めた時、辺りは既に夕方だった。
がらんとした教室で、俺は一人で机に突っ伏して眠っていたわけだ。
誰か起こしてくれてもいいのに。
そうちらっと考えた自分の愚かさを、次の瞬間恥じる。そういった他人の干渉や、自分に対する感傷を徹底的といえるまでに排除してきたからこそ、今の俺がある。
そして、それは過程こそ違えど、春原と俺が持つ数少ないが根幹に関わる共通点である。
それでいい。
俺達は、それでいい。
そう言って俺達は自分の夢や希望と一緒に、周囲との関わりを出来るだけ自分の周りから遠ざけてきた。本気で他人と付き合うことは俺達にとって危険な、嵌ったら脱け出せない、ある種の麻薬的なものだった。
何故なら、本気で他人と向き合うことは、本気で自分と向き合うということだからだ。まるで鏡のように、人との関わりは如実に今現在の自分の姿を映し出す。
そして俺達は、そんな自分の今を見せ続けられることに、きっと耐えられない。
妙に、春原のことが気になった。
時間は5時50分。
今から走っていけば、例の通用口の真上にある教室に辿り着ける。
俺は何も持たずに、その場所へと走った。
都合よく、その教室は鍵がかかっていなかった。
出来るだけ足音を立てないように、窓際に歩み寄り、慎重に窓を開ける。外気がすぅっと通っていく。そのあまりの冷たさに、思わず身を凍らせる。
春原はそこにいた。
手ぶらで、しかし、大した緊張もせず、コートのポケットに手を突っ込んでぼぅっとしている。ここからでは春原の後姿しか見えず、どんな表情をしているのかを確認することが出来ない。
もどかしい。
時間は5分前。気の早い奴ならとっくに待ち合わせの場所に来ててもいいはずの時間だ。
体育館裏の通用口というのは薄暗い。普段から正門と比べて人数も少なく、この時間になるとほとんど人の姿は見えない。街灯がないというのも理由の一つだろうし、近くに民家が少ないというのも人を遠ざける要因になっている。
だから、ここは人に気づかれたくないことをするにはもってこいの場所として、俺達の学校では有名なスポットの一つだ。噂では、人目を忍ぶカップルが落ち合ったり、隠れ不良がタバコを吸ったりするのに活用されているそうだ。
不意に体育館の横の方から笑い声が聞こえてきた。
俺は思わず身を竦ませる。
春原も、それに気づいた様子で、向こうを一瞥した。
途端、空気が変わったような感覚を覚えた。
足音が近づいてくる。
一つではない。
笑い声とともに、5、6人はいるであろうその団体は真っ直ぐに春原の方に向かって歩いてくる。
そうか。
俺は今更ながらに気がついた。
今時ラブレターを書いてくるような古風な女の子が、校内で1、2を争う不良と目されている春原を呼び出すのに、待ち合わせの場所にこんな薄暗く人が来ない場所を選ぶはずがなかったんだよな。
春原は、意外にも驚いた様子はなく、むしろその連中を待ち構えていたかのようにじっとその場所に立っている。
あの団体は一体どんな奴らだ。手にはスポーツバックのようなものをぶら下げているところを見ると、どこかの運動部か。
奴らは春原を取り囲んで、何か言い、弾けるように笑っている。その言葉の一つ一つは小さくて、俺がいる2階の教室の窓までは届かない。
しかしその空気で、奴らが春原のことをからかって笑っているのだけは分かる。
騙しの恋文にまんまと騙されてノコノコ待ち合わせ場所にやってきた間抜けを笑うなんてのは、いじめの手段としても古風すぎて今時どこのドラマや漫画でもやってやしない。ましてやそれに引っかかる奴なんて。間抜け、と笑われるのも仕方の無いことなのかもしれない。
だが、春原を見ろ。
春原は何を言われても言い返さず、ただ笑われるままに、ただ嬲られるままに、その身を任せている。俺はそんな春原の姿に拭い切れない違和感を感じた。
「あんな事件起こして、部に散々迷惑かけたお前がよおッ!!」
一人の声がここまで届いた。
その言葉から奴らの素性が割れた。
同時に、春原がなぜ何も言い返さず、ただされるがままになっているのかも。
下は、怒鳴っているのか、笑っているのか、何が何だかわからなくなっていた。おそらく当人達も自分らが何をしているのか分かっていないだろう。
それでも奴らは笑い続けるだろう。
春原という哀れな男を。
不意に窓の外から鈍い音が響き、慌てて俺は窓から下を覗き見る。
笑っていた奴らの一人が鼻血を出しながら這いつくばっている。
やったのは間違いなく春原だ。
他の連中は、まさか春原が手を出してくるとは思っていなかったのか、倒れている奴の顔とそこから垂れてくる血の雫を、ただ呆然と眺めているようだった。ぽたりぽたりと落ちる雫は薄茶の地面に紅い模様を描く。
しかし、それも一瞬のことで、すぐさま乱闘が始まる。
ファーストヒットは春原のものだったとしても、所詮は多勢に無勢。すぐに倒れている奴と春原の立場は逆転する。
おそらく1分ともたなかっただろう。けんかが強いほうではない春原はたちまち奴らの中心でボコボコに殴られることになった。顔面を殴られ、わき腹を蹴られ、腕を極められ、足首を踏まれる。あっという間に、あたりは春原の血の方が多くなる。
奴らは一通り春原を殴ると手を止めた。
春原は地面に蹲ったまま、動かない。
いつだって、俺達はそうなんだ。
最初に一発強烈なパンチを食らう。
途端に俺達は地面を這わされる。
やっとのことで起き上がった頃にはテンカウントはとうに終わっていて、観客もなく審判団もいない、がらんとした会場で一人、自分の試合の後片付けをする羽目になる哀れなボクサーだ。
誰も俺達に手を差し伸べない。
それは世間だったり、父親だったり、サッカー部の連中だったりするが、連中のすることはいつだって、同じだ。
いつだって、俺達の左頬に渾身の力を込めた右ストレートを見舞うだけ。
いつだって、いつだって、いつだって――
「お前なんか、一生そうやって地べたに這いつくばってりゃいいんだよッ!!」
奴らの一人の捨て台詞に、目の前が真っ赤になる。
自分でも気づかないうちに、俺は窓から飛び出していた。
地面にドスンと落ちた衝撃が、足の裏から脳天まで0.001秒で伝達される。
今の俺にはその痛みすら、アドレナリン。
俺は訳の分からないことをわめきながら奴らに向かっていった。
不意をうたれた奴らは驚愕の表情を浮かべ、俺に対する反撃の機会を逸した。
どこかで見たことあるような、そうでもないような奴の顔のど真ん中に思い切り、手加減なしのパンチをお見舞いする。ダッシュの加速と俺の体重が乗っている分だけ、春原の時よりも大きく奴は吹っ飛んだ。
「お、おかざきっ?」
後ろから春原の声。
関係ない。
今だけは、止まれない。
「お前らだって、俺達と同じ、クズだろうがあッ!!」
奴らと殴り合いをする内に、いつの間にか俺は泣いていた。
泣きながら、殴っていた。
殴られて泣いてしまったのかもしれない。
だけど零した涙の分だけ、奴らにパンチを見舞ってやりたかった。
それだけは、確かだった。
△▼△▼△▼
気がつくと、空は墨を塗りたくったように真っ黒だった。
背中には冷え切ったアスファルトの感触がある。
身体を起こそうと左手に体重を乗せるが、その瞬間体中を走った激痛に思わず声を漏らしてしまう。見ると、左の拳が血で真っ赤に染まっていた。大きく裂けた肉の隙間から想像していたよりも乳白色な骨が薄っすら覗いている。一応、握って、開いて、の動作をする。肉が裂けている分、痛みは激しいが、きちんと動く。骨にも神経にも、おそらく異常はない。
奴らを死ぬほど殴った証拠だ。
そう思うと、なぜだか無性に笑えてきた。
声を出して笑うと、口の中が切れていて、滅茶苦茶に染みた。
おそらく鏡を見ると、二目と見られないボコボコの顔が映るはずだ。
隣を見ると、俺に勝るとも劣らないボコボコの顔をして春原が仰向けで転がっている。
「生きてるか」
「なんとか」
「しぶといな」
「岡崎には負けるよ」
「そりゃそうだ」
「ははっ」
「ははっ」
二人して笑った。
まったく、笑い飛ばしたくなるようなサイテーの夜だ。
だけど、
後から後から込み上げてきて止められないこの笑顔の衝動は一体何なんだろう。
きっと、隣で哀れに寝転んでいる馬鹿の顔があまりにも面白すぎるからに違いない。
「岡崎、いつから見てたんだよ」
「最初からだ」
「ちえっ、だったら最初から助けてくれよな」
「やなこった」
少し黙る。
俺も、春原も動く様子がない。
もっとも、俺の場合今動けと言われても、間違いなく無理だ。
どうせなら、と思う。
「春原」
「なんだよ」
「お前さ、あの手紙、本当はサッカー部の奴らの仕業だって最初から気づいてたんじゃないのか? そうでもないと、連中が現れた時のお前の落ち着きっぷりが説明出来ない」
春原は少し考え込む。
フリをしているだけなのかもしれないが。
「別に確信してたわけじゃない。ただあの手紙の文字が、僕がいた頃にマネージャーやってた女の先輩の字に少し似てるな、って思ってただけさ」
「じゃああれは、卒業前の先輩達が仕組んだ一種のお礼参りってことか」
「ま、そういうことでしょ。分からなくもないよ。僕も部にいた頃は、色んな意味で散々あの先輩方には迷惑かけっぱなしだったしね。卒業前に、あの勝手に辞めてった馬鹿な後輩をシメとかなきゃ、とでも思ったんじゃない?」
確かに、いつもの春原なら言われっぱなしで黙っているわけがない。
何か屁理屈の一つでもこねるか、やばくなる前にさっさと逃げ出してしまうのがいつものこいつだ。
「最初は僕もあいつらが満足するまで言わせておいてやろうと思ってたさ。でもあいつらが言ったことがどうしても許せなくて、気がついたら一番ムカつく奴の顔を思い切り殴ってた。はは、本当にすげぇ手応えだったよ。間違いなく、今までで一番だ」
そう言って顔を不細工に歪めて笑う春原は、初めて出会った時のこいつとダブって見えた。
「そんなに餓えてんのか、お前、藤林とかいう女のケツ追い掛け回してるんじゃなかったのか、だってさ」
「そうか」
もう一発殴ってやればよかった、と思った。
自分の知らない所で悪口を言うのも言われるのも言わせるのも嫌うあいつの殴る分だけ、もう一発。
「なぁ、岡崎。俺達ってこんなだけどさ、これから何か良いことあるんじゃないか、って思っちゃ、だめかなぁ。幸せになりたいとか、思ったらだめなのかなぁ。なぁ、どう思う?」
俺は答えなかった。
こいつの疑問に答えられるだけの答えなど、持ち合わせていなかった。
代わりに、自分の身体の感覚を確かめる。
さっきよりは少し軽くなった。
明日の学校はとりあえずサボろう。家に帰って親父の保険証と金を勝手に持ち出して春原と一緒に病院に行こう。きっと若くて美人で巨乳の看護婦が俺達を優しくだだ甘に手当てしてくれるに違いない。
「とりあえず、全てはそれからだ」
「は? 何が?」
立ち上がる。
身体はどこも悪くない。
どこもだ。
「奴らへの復讐の方法を考えるのも。とびきり可愛い女の子を見つけてよろしくやるのも」
そう言って、切れた唇を思い切り吊り上げて、ニヤリ。
それを見て全てを了解したであろう春原に手を差し伸べてやる。
春原は俺の手を掴み「よいしょっ」とオヤジくさい掛け声と共に立ち上がる。
互いに肩を貸しあいながら、ふら付きながら、いつも通り、予定通りに向かうのは春原の部屋。
いつもと何も変わらない。
いつだって、変わらない。
「春になれば」
「ああ」
きっと聞こえていないのに、適当に相槌をうつ、隣でふら付く馬鹿。
「春になれば、きっと何かいいこと、あるさ」
「あるかな?」
「あるさ」
「なんで言い切れるんだよ」
「そんなの、決まってる」
そうさ、決まってる。
その頃には、奴らへの復讐も、可愛い女の子のナンパも、全て卒なく完了しているはずだ。桜も咲き乱れ、正に絶好のシチュエーションが用意されているに違いない。
春を迎える前の夜は、そんな俺達のささやかな希望さえ飲み込んでしまうかのように、あくまで暗く黒く、暗黒色にその身を染めている。
分かっている。
春になっても、この退屈な毎日は変わらないし、何か素敵な出会いが待っているはずもない。
昔やった「春が新たな出会いを運んでくる」というような売り文句で消費者どもから大好評を博したお気楽なゲームのシナリオを思い出す。
俺達が住んでいる、この真っ暗な空の下に吹く春風は、俺達に何か一つだって与えてはくれない。
そんなもんはゲームの中だけの話。
妄想と想像が創り出した、安っぽい御伽噺だ。
夜になっても飽きずに吹きくる木枯らしは俺達の傷を癒しはしない。
ただ、抉るだけ。
「そんなの、決まってる」
それでも、何も無いって誰が言い切れる?
これから先ずっと、良いことや幸せなことが何一つ無いなんて、神様だって決められやしないんだ。
だったら、何か、あるかもしれないじゃないか。
なぁ――そうだろう?
「春だからだ」