ボクの朝は早い。
 他の人みたいにぴぴぴ、ぴぴぴって唸る硬くてちくたく動く物の唸り声に起こされるわけじゃないんだ。出来ればボクもぴぴぴ君(今名前つけたんだ、えらいでしょ)で起きたいんだけど。
 だけど、ボクにはそうもゆっくりしてはいられない理由があるんだ。
「……ん、ぅん……っ……」
 ブンッ
 突如ボクの頭上から迫り来る物体。ボクはすんでのところでひらりとかわす。ボクの足をかすめるようにして物体は柔らかい布団にぼすんと突き刺さる。
 ふうっ、あぶないあぶない。
 ぷひー。
 ボクは冷や汗を掻きながらちらりと後ろを確認する。

「……くぅ……くぅ……」

 そこにはいつも変わらぬ愛しい寝顔。
 ボクの一番のトモダチ、杏ちゃん。

 そして。

 ボクは杏ちゃんの一番のトモダチだ。






キミはトモダチ






 杏ちゃんは可愛い。
 だが寝相が悪い。15分に1回くらいは今のような調子で凶悪な一撃がボクを襲う。杏ちゃんのことは大好きだけど、杏ちゃんが繰り出す一撃は受け止めるには流石に強烈すぎるので嫌いだ。
 でもボクは杏ちゃんのベッドで眠りにつくことをやめる気はない。
 なぜかって?
 そりゃ、ボクは杏ちゃんの一番のトモダチだからさ。

 さ、お日さまものぼり始めたことだし、いつものように散歩に行こう。
 ボクは朝目が覚めるとすぐ、杏ちゃん達が起きてくる前に散歩に行く。お日さまの光を体中に浴びて、まだ人影もまばらなこの街を歩くと、今日も一日頑張ろうって気持ちになれる。
 ボクはすとんと杏ちゃんのベッドから飛び降りる。その勢いを使って頭ですすすと杏ちゃんの部屋のドアを開ける。もちろん音を立てるようなヘマはしない。杏ちゃんの、自分の安眠を妨害した者への容赦のなさはきっとボクが一番よく知ってる。
 てくてくと廊下を歩く。途中、杏ちゃんの双子の妹である椋ちゃんの部屋の前を通り過ぎる。
 ちなみにボクは椋ちゃんが苦手だ。そりゃ確かに椋ちゃんは杏ちゃんの姉妹で、可愛い。でもたまに椋ちゃんの部屋の中から禍々しい気配とともに「ふふふ……これでわたしと岡崎さんは……! ふふふ……」と、凄く不気味な声が聞こえてくることがあるんだ。ぶるるっ。思い出したら寒気がしてきちゃった。嫌なこと思い出すのやめっやめっ。
 いつものようにボクのために開けてある裏口から外に出る。ドアを開けてくれているのは、杏ちゃん達のお母さん。すっごく優しくていい人。そして、とてもきれいな人。多分杏ちゃん達以上にボクのことを信頼してくれている。杏ちゃんも将来あんなふうになるんだろうなぁ、と思うと少し胸が熱くなる。
 ボク、病気なのかなぁ?

 てくてくてくてく歩いていると、街の新聞屋さんとすれ違う。ここらへん一帯の新聞を配っているあの人とボクはちょっとした顔馴染み。ボクがすいっと前足を上げると、あの人はぶぶんとバイクを一際大きく唸らせる。これがボクらの挨拶。
 新聞屋さんだけじゃない。名前は忘れちゃったけどナントカさんの家の屋根の上で朝っぱらから寝そべっている虎縞の猫くん、家から出て5分くらい歩いた所にある電柱の上のほうに巣を作っている鳥くん、いつも繋がれていてろくに散歩もしてもられないけどすごく大人しい性格の犬くん。などなど。ボクはトモダチが多いんだ。
 もちろん、一番のトモダチは杏ちゃんだけどね。

 散歩から帰ってくると、もうお母さんは台所で朝ごはんを作っていた。
「おはよう、ボタンちゃん」
 おはようございますっ
「ぷひーっ」
 おはようございますって言いたいのに、ボクの口(鼻?)からはいつもの音しか出ない。
 どうしてボクはみんなと同じ言葉が話せないんだろう? お母さん、杏ちゃん、椋ちゃんはもちろん、新聞屋さん、猫くん、鳥くん、犬くん。ボクだって、みんなと同じように寝て、同じようにご飯を食べて、同じように生きているのに。
 ボクはそれが悲しくて、お母さんとの挨拶もそこそこにぴゅいっと奥のほうへ走り去る。
「ふふふ……」とお母さんの笑う声が後ろから聞こえる。
 ボクは走る。
 散歩から帰ってきて、お母さんが朝ごはんを作っていて、ボクはやっぱり喋れなくて、それでもキミはいつものように――
「おはようっボタンっ」
 ボクは勢いよく杏ちゃんの胸にダイビング。杏ちゃんはいつものようにボクをぽふっと優しく受け止めてくれた。
 同じ言葉が話せなくても、杏ちゃんに抱かれるこの瞬間がボクは大好きだ。


    △▼△▼△▼


 気づいた時には手を差し伸べられていた。
 目の前ににゅっと現れたその手をどうしたらいいのか分からなかった。
 とりあえず匂いを嗅いだ。
 ふんふんふんふん。
「きゃっ、ちょちょっ、くすぐったいってっ!」
 意外な反応が返ってくる。
 というか意外も何も、匂いを嗅いだモノから返ってくる反応などボクが知っているはずもなかった。
 記憶に残っている中で、何かの匂いを嗅いだのはそれが初めてだったから。
 でも、なぜかその手からは懐かしい匂いがした。
 懐かしい?
 初めてのものなのに?
 分からなかった。
 分からないなりに、ボクは理解した。

 その手はボクを傷つけない。

 ぺろり。
 ボクは差し出されたその手を一生懸命なめた。
 きゃあきゃあ言う声は次第に大きくなっていく。
 ボクはなめつづけた。
 美味しかった。
 でも食べられそうになかった。
 お腹は空いていた。
 それでも、なめつづけた。
 短い舌を使って、精一杯なめつづけた。
 親のカタキのようになめつづけた。
 時間と体力の続く限り、なめつづけてやるつもりだった――


    △▼△▼△▼


 ぶいーん、ぶいーん。
 特徴ある吸い込み音に目を覚ます。
 この音はお母さんが「そーじき」ってやつを使ってる音だ。目に見えないほどちっちゃいゴミとか、虫とかを吸い込んでまとめて捨ててしまえる便利な機械……らしい。お母さんはよくその機械を使って家中を綺麗にしている。その機械を使っている時お母さんはいつも汗だくだ。手伝ってあげたいけど、ボクには長い手も足も、それを使いこなせるだけの良い頭もない。
 ボクはお母さんの邪魔にならないよう、そおっと家を出た。

 お日さまは朝よりもかなり真上のほうに位置を変えていた。ボクは汗っかきなので、出来るだけ暑くならないよう日陰を選んで歩く。
 杏ちゃんは今日もあの変な音のする乗り物に乗って出かけていった。ちょっと前から杏ちゃんはあの乗り物に夢中だ。杏ちゃんはあの乗り物のことをバイクと言う。でも、ボクにはあれが新聞屋さんの乗っているバイクと同じものとは思えない。だって新聞屋さんのバイクは「ぺっぺっぺっ……」なんて間抜けな音を出して走らないもの。
 今ボクが目指しているのは、杏ちゃんがその変な乗り物でいつも通っているところだ。
 学校、学校っ!
「ごふーっ! ごふーっ!」
 自然とボクの鼻息も荒くなる。
 杏ちゃんのところに行くことを考えると自然に楽しい気分になる。楽しいと僕の鼻息は次第に荒くなる。僕の鼻息が荒いのは幸せな証拠だ。
 もう数え切れないくらいに行き続けているおかげで、最近ではもうすっかり道にも迷わなくなった。
 そう言えば、学校に行き始めた最初の頃、よく途中の道で会ったやつがいたっけ。

「お、ボタンじゃねーか」

 そう、確かそいつはオカザキトモヤって名前だった。



『ボタン、このバカはね、オカザキトモヤっていうのよ』

 ボクは杏ちゃんに紹介されるまでもなくその名前を知っていた。
 なぜボクは会ったことも見たこともない人間の名前を知っている?
 答えは簡単、聞いたことがあるからだ。
 杏ちゃんは気づいていないかもしれないが、夜中、それこそボクが睡眠不足になるくらい杏ちゃんの口は切ない響きで何度も、何度も。

 トモヤ。
 トモヤ、と。

「トモヤ」って一体何なんだろう。
 何も知らない僕は、杏ちゃんの夜の切ない囁きを耳にするたびに、そんなことを考えていた。
「ボタン、お前もどうせ学校だろ? 一緒に行こうぜ」
 誰が、お前なんかと。
 もしもボクが言葉を喋れたら、そんな言葉を躊躇いもなく吐き棄てていたのだろうか。
 いや、そんなことはきっと出来やしないと思う。
「ごふっ! ごふっ!」
「そーかそーか、よし一緒に行こうな」
 ボクはオカザキトモヤと並んで学校に向かって歩き出す。

 ボクがオカザキトモヤと不仲だったなら、きっと杏ちゃんは悲しむ。それはきっと本当のことなんだと思う。杏ちゃんが悲しむことは、ボクはしたくない。
 ボクは杏ちゃんの一番のトモダチなんだから。

 オカザキトモヤと一緒に校門をくぐり、やがて昇降口に到着しようか、という時に声をかけられる。
 声の主はもちろん杏ちゃん。
「朋也遅いじゃな……って、ボタン? アンタまた来ちゃったの?」
「ごふーっ! ごふーっ!」
「しっ! ここは学校なんだからっ! し・ず・か・に!」
「ふーっ! ふーっ!」
 ボクは思わず喜びの声を上げてしまい、杏ちゃんに思いっきり口を封じられてしまう。
 痛い。
 てか苦しい。
「おい杏、ボタンマジでやばそうだぞ?」
「大丈夫よ。ボタンは強い子だからこの程度でどうにかなったりはしないわ」
 いや、かなりどうにかなりかかってるボクがここにいるんだよ杏ちゃん。
「朋也、いい加減遅刻癖直しなさいよね。先生の評価これ以上下げたら就職かなりきついわよ」
「いやぁ、昨日は春原のところで色々盛り上がってしまって」
「またあのバカは……! まだシメ足らなかったか」
「あー春原などどうなっても構わんが、警察のご厄介になるようなことは頼むからやめてくれな」
「大丈夫よ。世の中には完全犯罪っていう素晴らしい言葉があるわ」
「いやいやそういう問題じゃないんだが」
 ボクの口を万力のような握力で握りしめたままの杏ちゃん。
 ボク……もう……限界……
「ぷひ〜……」
 くてん。
「お、おい! 杏! ボタン! ボタンが!」
「うわっ! ボタンっ! しっかりしてっ! ボタンっ!」
 ボクはその時会ったこともないおばあちゃんと三途の川をバックに再会したところだった。


     △▼△▼△▼


 ボクはその手から水を飲ませてもらったところでようやくその手の全体像を見た。
 ボクはそれの名前を知っていた。
 人間だ。
 ボクは人間という動物について何も知らなかった。
 ただ、ボクに手を差し伸べて水を飲ませてくれるのが人間だとしたら、人間というのはきっとすごく優しい動物に違いないと思った。
 人間はボクよりも何倍も背が高かったが、しゃがんでボクの目線と合わせようとしていた。
 人間は頭のてっぺんから長い毛をゆらゆらさせていて、すっごく触ってみたかった。
 人間はとても綺麗な鳴き声をしていた。

 その人間はまだ何も知らないボクに向かってこう一声鳴いたのだ。

「わたしとトモダチにならない?」

 人間の鳴き声の意味を少しずつ理解しかけていたボクは、人間の発した「トモダチ」という言葉に強く惹かれた。
 どういう意味なんだろう。
 トモダチって、一体何なんだろう。
 ボクは悲しいくらいに何も知らなかった。
 でも、差し伸べられた手はとても温かくて、そして、美味しかった。

 トモダチに――なろう。

 ボクは頷くように一声鳴いたのだった。


    △▼△▼△▼


 教師の一本調子な解説をBGMにうたた寝をする生徒の群れ、その中の一人であるオカザキトモヤの机の横にぬいぐるみとしてぶら下げられているボク。
 ボクって一体何なんだろう?
 ちょっと自分の存在について疑問を感じてしまった。
 ボクは杏ちゃんの手によって昏睡させられ、そのままオカザキトモヤの手によってぬいぐるみとして保管されていたらしい。相変わらずのこの扱い。誰かの台詞じゃないけど、不服も何も、不服だよ。こうなってしまったが最後、授業が終わるまでずっとボクはぬいぐるみのフリをし続けなくてはならない。それはあまりにも学校に来すぎるボクに、杏ちゃんから出された条件だった。
「いーい、ボタン? 学校に来た時は、ぬいぐるみのフリをするのよ。そうしないとアンタ、学校に来られなくなっちゃうんだからね?」
 それは、嫌だ。
 だからボクは弱々しく「ぷひひ……」と鳴きながら頷くしかなかった。ボクは杏ちゃんの一番のトモダチなのに。一緒にいるためにはぬいぐるみのフリをしなきゃいけないなんて、なんでさ。
 しかも杏ちゃん、学校にいる時は大抵ボクをこのオカザキトモヤに預ける。ボクが一緒にいたいのは杏ちゃんなのに。ボクにとって誰よりも大切なのは、杏ちゃんなのに。
 年取った教師はそんなこと知らないとばかりに誰も聞いていない授業を続ける。

 ボクは誰にも気づかれないように、斜め上で居眠りを続けるオカザキトモヤに視線を向ける。実はこいつのことはそれほど嫌いじゃない。ていうか人間の中ではかなり好きな部類に入る。
 杏ちゃんと出会ってトモダチになってからどれくらい経ったのかは忘れたが、その間、人間は優しいだけの動物ではないことは痛いほどに理解した。賢い人間と同じくらい愚かな人間がいる。温かい人間と同じくらい冷たい人間がいる。出会う人間全てがボクのトモダチではない。それくらいのことはボクにも分かる。
 でも、ボクはオカザキトモヤに対して、どこか割り切れない気持ちを持っている。
 隙あらば噛み付いてやりたい。
 許されるなら、思い切り体当たりを食らわしてやりたい。
 でもボクは、それをしない。晴れないもやもやを抱えながら、愛想良く当たり障り無く接していく。杏ちゃんがこのオカザキトモヤに対して何かしらの気持ちを抱いているのはボクにだってわかる。
 夜、眠っているはずの杏ちゃんから切ない響きでその名前が紡がれるたびにそれを思い知らされる。
 杏ちゃんが自分の気持ち全てをこのオカザキトモヤに見せてはいないように。
 ボクもまた、オカザキトモヤに対して消化しきれない思いを抱えている。それはきっと。
 きっとオカザキトモヤは、杏ちゃんにとっても大切なトモダチだから。
 ならば、ボクにとってもオカザキトモヤは大切なトモダチのはずなんだ。



 きーんこーんと授業終了のチャイムが鳴り響く。ボクは、いつものようにオカザキトモヤに抱えられ、教室の中で杏ちゃんが迎えに来てくれるのを待つ。がやがやと、生徒達はそれぞればらばらに散っていく。一人二人と減っていき、ついにボクとオカザキトモヤ以外の人間は全ていなくなる。
「なぁボタン」
「ぷひ?」
 なんだよ、オカザキトモヤ。
「お前ってさ、すっげぇ杏のこと好きだよな」
「ごふっごふっ」
 当たり前だよ。
 杏ちゃんはボクの一番のトモダチなんだ。
「あんなキレイにオトされても好きなのか」
「ごふ〜」
 うっ、そりゃあれは勘弁してほしいよ……
 でもあれが杏ちゃんなんだからしょうがないんだよ。
 手加減が上手い杏ちゃんなんてきっと杏ちゃんじゃない。
「なぁお前考え直せよ。お前を大切にしてくれる奴はきっとこの世にゃ他にもいるぜ」
「ガフーッ!」
「なんてことボタンに吹き込んでんのよアンタは――――ッ!!!」
 ボクが怒るまでも無く、物理法則を無視したスピードでオカザキトモヤの顔にめり込む漢和辞典(O文社)。オカザキトモヤは近くにあった机や椅子を巻き込んでどんがらがっしゃんと豪快に倒れこんだ。
 ほらね。
 手加減できる杏ちゃんなんて、絶対杏ちゃんじゃない。


「いてて……ちょっとした冗談じゃないかよ……」
「どーだか。ふんッ」
「なぁ、何そんなに怒ってんだよ」
「ボタンをかどわかして外国に売り飛ばそうとしてた」
「ごふっ!?」
「んなわけあるか……」

 杏ちゃんの衝撃発言にちょっと身を竦ませる。
 一瞬ボクが売られてホントのボタン鍋にされてる映像が浮かんじゃったよ。
 記憶から消したい。

「あ〜あ、朋也がまさかねぇ……ボタンを狙ってたとは、迂闊だったわ……」
「おいおい、もう勘弁してくれよ」

 そりゃちょっとボタン鍋には興味あったけどさ。
 ぼそりと呟いたその言葉にちょっとむかついたので軽く足を蹴ってやる。
 げしっ

「あいてっ!? あっ! こいつ! 待てこらっ!!」

 誰が待つか。
 杏ちゃんを中心にどたばたどたばた逃げ回る。
 杏ちゃんが笑っている。
 オカザキトモヤもちょっと笑っている。
 ボクは笑えているだろうか。
 例え笑えていなくても、身体全体で楽しいって感情を表現したい。
 トモダチといれば、幸せ。
 そう教えてくれたのは、杏ちゃんだ。

「あのさ、朋也――」


「朋也くん」


 不意に柔らかな風がはしゃぎまわる僕らを軽く撫でて、そのまま空に消えていく。
 風の消えていたほうを振り返れば、そこには。

「渚」

 オカザキトモヤの声。
 杏ちゃんを呼ぶ時とは微妙に異なる声。
 普段より少し低くて、抱きしめたくなるような切ないトーンを含んだ声。
 ボクはそれを聞いてなんともいえない気持ちになる。
 この後にオカザキトモヤが杏ちゃんに告げる言葉がわかっているから。

「杏、じゃ――」

 耐え切れなくなってボクは杏ちゃんの足元に走り寄る。
 これを何回繰り返しても、ボクはこの後の台詞を言う杏ちゃんの顔を見ることが出来ない。

「はいはい朋也。また明日ね」

 そして踵を返して歩き出す。
 ボクはそれに付き従う。

 ボクにはなぜ長い手足がないのだろうか。
 ボクにはなぜ人間のような顔がないのだろうか。
 ボクはなぜ杏ちゃんの涙を拭ってやることが出来ないのだろうか。
 幾つもの夜に流された涙の雫は幾つあったか知れない。
 ボクが人間のようにハンカチを携帯することが出来たなら、流れる涙を拭ってやることが出来たなら、少しは今という時間は変わっていたのだろうか。

 けれど。
 それでも。

 たった一つだけ、譲れないものがある。

「ごふーっ! ごふーっ!」

 鼻息も荒く、ボクはいつもの楽しい顔をする。
 その顔のまま、鼻先を杏ちゃんの足に擦り付ける。
 何度も、何度も。
 昔差し伸べられた手のようなぬくもりが、杏ちゃんに伝わっていると信じて。

「ごふーっ! ごふーっ!」

 ボクはきっと今夜も杏ちゃんと一緒の布団で寝ることを止めない。
 そりゃ杏ちゃんの寝相は最悪で。
 たまに不意打ちで殴られたりもするけど。
 夜毎流れる杏ちゃんの涙を、ボクが拭わずに誰が拭うんだ。

「……っ」

 抱き締められる。
 杏ちゃんの匂い。
 杏ちゃんの温もり。
 それは今だけは、ボクだけのもの。
 だけど、ボクとキミとの身長の差が少しだけ恨めしい。
 それは埋まらない、永遠にも似たボクらの距離。
 それでも。
 杏ちゃんが、オカザキトモヤのトモダチであるように――

「ごふーっ! ごふーっ!」

 ボクは杏ちゃんの一番のトモダチだ。




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