手に馴染んだギターを掴み、階段を一段ずつ下りる。
 これからライブだというのに、心の中には高揚感など欠片も無い。
 代わりに冷え切った心は、底なしの沼に沈んでいくようだ。

 いつから俺は、こんな風になってしまったのか。

 以前はこんなじゃなかった。
 見に来てくれた人に「何か」を伝えたい、生きる喜びを与えたいと、いつも魂を燃やし尽くすような気迫でラ イブに臨んでいた。
 ところが今ではどうだ。
 確かにライブをする度に観客の動員数はどんどん増えていった。しかしそれに比例するように、俺に対する様 々な縛りも増えていく。
 イメージ、売り上げ、動員、売名……
 社会の上澄みにまみれて、伝えたかった想いはどんどん薄まっていった。

 ステージ脇のドアを開ける。
 僅かに開いたドアの隙間から、天井知らずな勢いで集まった観客達の歓声が耳をつんざくように響く。
 呼んでいる。
 彼らは呼んでいるのだ。

 ――誰を?

 そんなの決まっている。
 皆が呼んでいるのは、新進気鋭のロッカーである「芳野祐介」だ。
 生身の俺の名前を呼ぶ人間などはいない。

 ギターをかき鳴らし、ステージに上がる。
 歓声がうるさいくらいに押し寄せてくる。
 皆が「芳野祐介」の名前を呼ぶ。
 俺がソロの弾き語り形式で歌う1曲目、それは強烈過ぎるくらいのメッセージソング。
 声の限りに叫び続ける俺。
 その曲の勢いにのって会場中がまるで爆発したかのように震動する。

 ――お前ら、俺が何を言ってるのか、本当に分かってるのか?

 観客の声がやけに遠く聞こえた。





車中にて





 電車が止まった振動に目を覚ました俺は、辺りを寝ぼけ眼で見回す。
 どうやら電車はどこかの駅に停車したらしい。いつの間にか眠ってしまっていた俺は周りの見覚えの無い景色 に少し驚いた。
 俺はどこまで来てしまったんだろう。
 真剣に考えようとした次の瞬間、面倒になってその思考を投げ捨てる。別に何処へ行こうと構わないんだから 、自分がどんな場所にいるかなど知る必要はない。
 そう考えて再度眠りに就こうとした瞬間、電車のドアが開き、周りに立ち込めているであろう冷気が一気に車 内に進入してきた。
 身を凍えさせる冷気と一緒に、誰かがこの車両に乗り込んでくる気配がした。俺は今その誰かが入ってきた出 入口に背を向けるようにして座っているため、その誰かを見ることは出来ない。いや、ただ見ようとはしなかっ ただけだ。
 何もかもがどうでも良かった。
 背後に感じる気配から、その誰かが俺の真後ろの席に座ったのを感じた。
 それを待っていたかのようにドアが閉まり、俺と顔も知らない誰かを乗せた電車はソロソロと走り出す。

 走り出してすぐのこと。
 俺の乗り込んだ車両は一瞬バランスを崩したかのように大きく揺れた。何が起こったかは定かではないが、お そらく突風にでも煽られたのだろう。時折思い出したかのように軽く揺れるだけで、その後の走行には何の支障 も無かった。
 俺の今の苦悩や葛藤も、実際の所長い人生の中では先ほどの突風のような物に煽られたというだけのことなの だろうか。煽られた瞬間には恐るべき突風も、通り過ぎてしまえばただの過去に過ぎない。そういうことだって 十二分に有り得るし、人生とはすべからくそういうものだという程度のことは俺も理解はしている。
 それともこれは、どうしようもなく致命症なのか。
 見つからない答えもそのままに、俺と顔も知らない誰かを乗せた電車は何処へともなく走り続けた。
 窓の外は季節外れの雪が降り続いている。とても今が三月とは思えない光景と、足下から吹き付ける熱風はど うにもちぐはぐだった。


 結論から言うと、俺は逃げ出した。
 ライブやレコーディングのスケジュールは1年後まで一杯で、合間合間に挿入されるテレビを始めとするメデ ィアへの露出。仕事が終わってもプライベートではハイエナのような週刊誌やゴシップ紙の記者連中に追い回さ れる。
 マネージャーは「今がキミの頑張りどころ」だと言う。
 じゃあ聞くが。
 俺は一体どこまで頑張れば、やりたいことをやれるのか。
 いつまで我慢すれば、伝えたいことを伝えられるのか。
 どこまで走り続ければ、歌いたい歌を歌えるのか。
 出来ることなら怒鳴りつけて、殴りつけて、そんな自分の内で渦巻く負の感情を全てぶちまけてやりたかった 。
 だが、そんな彼も犠牲者なのだ。
 俺と同じように、だ。
 もう既に俺は「芳野祐介」という名の巨大プロジェクトなのだ。
 自分一人で歯車を回せるはずもなく、また自分一人で歯車を回しているわけではない。どこかが異常を起こせ ば歯車は止まる。どこかの部品が欠けてしまえば、歯車は脆くも崩れ去る。
 彼も俺も、名前も知らないような末端の一人でさえも、皆同じように「芳野祐介」を構成する部品なのだ。  俺だけがワガママを言うわけにはいかない。
 分かっている。
 分かっているんだ、そんなことは。

 俺は「芳野祐介」を構成する部品の中では最も重要な部品として、最も有用な部品となるように義務付けられ た。
 人々が目を背けるような現実を描いた歌詞はプロデューサーに簡単に蹴っ飛ばされる。
 そして彼らは言うのだ。
 もっと多くの人々が共感するようなメロディを作れ。
 もっと多くの人が理解できるような歌詞を書け。
 もっと「売れる」曲を書け、と。
 そこには生臭い現実などあってはいけない、泥臭く見せてはいけない、それはキミの「キャラクター」に合わ ない、上澄みで構わない、カッコよく魅せろ、若い女性を惹きつけろ、スキャンダルになるようなことはするな 、大衆に迎合しろ、Love&Peaceを歌え。

 ――そんな物の何処に「俺」があるんだ。

 もう俺は限界だった。
 これ以上俺の中にある大切なものを土足で踏み躙られたら、きっと俺は失ってしまう。
 いつか、自分でも気づかないうちに、失ってしまうんだ。

 俺の心の奥底にある、大切なあの人の面影さえも。


 窓の外の雪が本格的に降り始めた。辺りは真っ白な吹雪で覆われ始めている。それとは矛盾するように、 足元からは相変わらず熱風が吹き出てくる。窓の外は見ているだけで凍死しそうなのに、おかげで靴下の裏に 汗までかいてしまった。
 電車の車内には車両の連結するドアの真上にニュースを表示する電光板がある。そこには先程から何回も表示 されているニュースが一つある。

『人気ロック歌手・芳野祐介が謎の失踪! 予定されていたライブはキャンセルされる模様……』

 溜息をつく。
 すると、背後から全く俺と同じタイミングで溜息をついたような音がした。
 先程止まった駅から乗り込んできた人間だろうか。
 何故か軽くうろたえてしまった俺は、さっき電車に乗る前に買っておいた、まだ封を開けていないホットコー ヒーの缶を取り落としてしまう。
 缶コーヒーは存外に鈍い音を立てて俺の背後に転がっていった。
 心の中で舌打ちをする。
 こんな俺のニュースがガンガン流れる車内で、誰かに顔を見られたら騒ぎになる。騒ぎになったら最後、俺は 連れ戻され、またあの日々が始まるだろう。
 転がっていった缶コーヒーのことを諦めたその瞬間、缶コーヒーが転がる音が急に途絶えた。
 どうしたのかと思って振り返ると、俺の背後からある一つの手が缶コーヒーを持ったまま、にゅっと突き出さ れていた。
 どうしようか迷っているとその手が喋った。

「缶コーヒー、落とされましたよね? どうぞ」

 女の声だった。しかもかなり若い。
 いや、幼いというべきか。
 突き出された腕は白い服を着ていた。
 中学生か、高校生くらいだろうか。

「ああ、ありがとう」

 俺はそう言ってその手から缶コーヒーを受け取った。

 言葉にすればたった二言だけのやり取り。そんな短い交流だったのに何故か心を癒されたような気持ちになっ た。
 考えてみれば、最近普通の会話を他人と交わしていない。会うのはいつも音楽関係の人間ばかりで、話す内容 も仕事の話に限定されている。
 久しぶりに人間と口を聞いたという気がする。そして、ただそれだけのことで癒されるほどに俺は追い詰めら れていたということだ。

 孤独は人の心をささくれ立たせる。

「あ、あの――」

 気付いた時にはもう言葉を発していた。
 何故だか、この少女(だと思う。多分)との会話をこのまま終わらせたくなかった。

「あっ……あ、はい」

 少女の声は心底驚いたかのような調子だった。
 まさか缶コーヒーを拾ってあげた程度のことでもう一度その相手から話し掛けられるとは思っていなかったの だろう。

「あの……凄い雪ですね」

 ワケがわからなかった。
 口を開いてみたのはいいが、何を話すか考えてなかったので、窓の外の非現実的な光景を衝動的に口に出して しまったのだ。

「はぁ……そうですね」

 人の良さそうな声。
 苦笑いをしながら律儀に返事をする少女の姿が目に浮かぶようだ。
 しかしそこから会話が広がるはずもなく、車内を再び沈黙が支配した。

 窓の外は先程と全く同じように雪が攻撃的に降り続いている。
 俺は一旦背後の少女との会話を諦め、改めて窓の外の光景に意識を移した。
 段々と電車は都会を離れ、建物が少なくなり、代わりに田んぼや畑が目立つようになってきた。何を作ってい るのかは分からないが。窓の外にも歩いている人などはほとんど見当たらない。まるでこの世界に存在している のは俺と背後の少女だけのような気がしてくる。電光板はさっきまでと同じようにニュースを伝え続けているが 、それすら他の人間の存在を証明する証左にはならないのではないだろうか。

 俺は他の人間が全ていなくなることを望んでいるのだろうか。

 俺は苦笑する。
 もはや俺は、俺が伝えたかったものが何だったのかすら分からなくなりかけている。
 だとしたら。
 だとしたら俺は。
 だとしたら俺は何のために歌うのだろう。

 ――何のために生きるのだろう。

 ポツリと手の甲に水のようなものが落ちてきたのを感じた。
 続けて2粒、3粒と落ちてくる。
 俺は、泣いていた。

「くっ……うぁ……あぁ……おぉ……」

 身体を起こしていられなくなり、堪らずに俺は膝の間に顔をうずめる。昔は自慢だった喉からはみっともなく 嗚咽が漏れた。
 何かを表現する人間にとって、最もステージ上でしてはいけないこととは泣くことだ。
 確かに、観客を感動させるためには、何かを伝えるためには、伝える側の人間の感情をむき出しにすることは 必要だ。
 笑うし、怒るし、悲しむし、喜ぶ。
 しかし、たった一つ、泣くことだけは許されない。
 ステージ上の人間の涙は、嗚咽は、観客の気持ちを切ってしまう。
 俺は、泣かなかった。
 涙を見せることだけはしてはいけないんだと、自分に言い聞かせてきた。

 そして俺は泣かなくなった。

 一つずつ悲しみが降り積もるたび、涙は心の奥にしまいこんできた。
 涙が一粒ずつ押し込められるたび、心は割れそうになった。
 心が少しずつひび割れるたび、また一つ悲しみが増えた。

 そして心が決壊した時、俺はこの有様だった。
 俺はどうすればいいんだろう。
 俺は、
 俺は、
 俺は――

「――例えば」

 背後から響いた鈴のような声に驚く。

「例えば、ここに一人の少女がいたとします」

 突然始まった会話に、俺は何も言えずに沈黙するしかない。
 少女の声は続く。

「少女はある理由からたった一人の姉と不仲になってしまい、着のみ着のまま、たった一つ姉がいつも聞いてい たCDとCDウォークマンだけを持って家を飛び出しました」
「その少女は……お姉さんに何かしたのかい?」
「そこは流すところです」

 なんとか会話にしようと聞いたのに、実につれなく返された。
 ぷいっとそっぽ向かれたような気がした。
 しかし少女はそんなことは気にするにも値しないとばかりに話を続ける。

「電車に乗ってどこか知らない所に行ってしまおうと駅に来ました。でも電車はあと30分待たないと来ません。 少女は、姉から無断で借りてきたCDを聞くことにしました」

 カチリ。
 どこからかスイッチを入れたような音が流れた気がした。

「穏やかな姉が聞くには少し不似合いなほどに激しい曲でした。でも――」

 少女は一旦言葉を切った。
 足元から吹き付ける熱風。
 その駆動音と電車が走る音だけが辺りに響いている。

「――その曲は、身近な人と一緒にいられる幸せを歌った曲でした」

 少女はそう言って、その曲の一節を口ずさんだ。
 それは偶然なのか必然なのか、俺が作った曲だった。
 酷く調子っぱずれで、リズムも音程もあったもんじゃない。
 だけど、そこには心があった。
 俺が失くしていたはずの――

「その曲は――」

 俺が口を挟もうとすると、

「――中途半端ですけど、話はここでおしまいです」

 電車が止まり、ドアが開いた。
 いつの間に駅に着いていたのだろうか。

「君は――」
「おにいさんと、もう少し話していたいのは山々ですが、ここで失礼することにします」

 背後で立ち上がって歩き出す気配がした。
 俺は慌てて立ち上がって振り返り、彼女の姿を見ようとした。
 すると――

「一つの曲が、一人の少女の人生を変えることもあるってことです。例え、その人に自覚はなくとも――ね」

 まるでドラマみたいですよね、と。
 彼女は確かに笑っていた。

 ショートに切りそろえられた髪と肩に羽織っているストールが、ドアから吹き込んでくる風に揺られて、まる で音楽を奏でているようだった。

「――本当は、そのCDの歌手のことを好きだったのはわたしの方だったんです」

 では失礼しました、と言うと少女は雪と風が踊る外の世界にその身を躍らせていった。
 待ってくれ、と言おうとした瞬間、電車のドアは、まるで彼女と俺の世界を断絶するように、閉まった。

 暫くの間俺は呆然としていたのだろう。
 降り続いていた雪はいつの間にか止み、途切れ途切れの雲の隙間からは太陽の光が差し込み、まるで天国へと 続く階段のように光の筋が伸びている。
 あの階段を、上ろうかと思ったこともあった。
 しかし今は、無性に歌が歌いたかった。
 こんな気持ちは久しぶりだった。
 あの少女は雪と共に俺の心の暗闇まで持ち去ってしまったのだろうか。

 ――もう少しだけ、頑張ってみようか。

 次の駅で、乗り換えよう。
 まだ行く先は見えないが、なんとかやれそうな気がした。
 そう。
 これは俺の夢だったんだから。




    ☆   ☆   ☆




 そして俺は、俺の生まれた街で、愛する人の側で夢の続きを見ている。
 生活は決して楽ではないが、辛くはない。
 あの出口のないトンネルを行くような日々のことを思えば、俺は何だってやれるし、何処だって生きて いける。

「少し休憩にしない?」

 にっこり笑って公子がお茶を持ってきてくれる。
 俺はギターをしばし横に置いて休憩することにした。
 テレビに目をやると、相変わらず気の重くなるようなニュースを映し出している。

「曲の方は、どんな感じなの?」

 公子が自分もお茶を啜りながら聞いてきた。

「そうだなぁ、今回はバンドを使うにしてもかなり聞きやすい感じにしようかと思ってるんだけど……うーん、 難しいな」

 うーむ、と頭を悩ませていると、

「わたしは祐くんの曲ならどんな曲でも大好きだから、とっても楽しみ」

 などと公子が言う。
 公子はこう言ってくれるが、こいつがバラードのほうが好みだと言うことは、こっちは既に調べはついている のだ。
 以前ヘビメタのガシガシのヤツを聞かせたら、普段は寄らない眉の間の皺が思いっきり寄せている公子の顔を 見たことがある。
 軽くトラウマになりそうだった。

「とりあえず表題の曲は出来てるんだけどな」
「へぇ、どんな曲?」
「ラブ・アンド・スパナ」
「変なの」
「ちなみに岡崎案だ」
「あらあら」

 二人で軽く苦笑する。
 ラブ・アンド・スパナって。
 どんなセンスなんだ、一体。
 最高じゃないか。

 ニュース番組は今日起こったニュースから、特集のコーナーになっていた。
 今日の特集は、難病から奇跡的に助かった少女の話らしい。彼女の両親や姉、それに恋人。薄幸の少女と呼ぶ には、その周囲は愛に溢れすぎていた。
 挫けそうな時、あるミュージシャンの曲で大いに励まされたと、今は笑顔の彼女が語る。

 数年前、どん底だった頃に、電車の中で会った少女のことを思い出す。
 あれは夢だったのではないかと思う時もあったが、それから短い間ではあったがプロとして音楽を続けること が出来たのは間違いなくあの少女のおかげだ。
 あの時彼女は、間違いなく俺を救ったのだ。

 絆は巡り巡って、予想もしないところで人と人とを繋ぐものだ。
 これから俺が作る音楽は俺と俺の周囲の人たちのためのものだが、それが循環するように巡り巡って想像もつ かないほど遠くの人の所に届くこともあるかもしれない。
 そんな時に、今から作る曲が、その人に何かを伝えられるなら、こんなに幸せなことはない。

「よし! じゃあもうちょっとだけ頑張るかっ!」

 気合を入れなおし、使い古したギターと適当な紙と鉛筆を手繰り寄せる。

「ふふっ、頑張ってね」

 笑顔で茶碗を片付ける公子を見送って、俺はもう一度ピックを拾った。


 俺は、歌おうと思う。
 愛とスパナの歌を。




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