誰にもみとられなかった白      117



 私は一人で立っていた。校舎とをつなぐ渡り廊下、そこでポツンと独りで立っていた。聞こえる雨音、屋根があるだけの渡り廊下には容赦なく冷たい雨が吹き込んで体と服を濡らすが、しかし私はそんな事には一切の感情を示すことなくただじっとソレを見続けていた。
「…………バカみたい」
 意味無く呟いた言葉を雨音が叩いて散らす。私の視線の先には白球、ボロボロになった野球のボール。渡り廊下から少し離れた場所に打ち捨てられて汚れた白。
「バカみたい」
 私は繰り返す。意味なんてないって、自分が一番気が付いているはずなのに。
 例えば、このボールはいつから打ち捨てられていたかなんて想像。野球部がここまでボールを飛ばしてきたのか、それともどこかの生徒がキャッチボールをしていて失くしてしまったボールなのか。そんな頭の中の想像でさえもリトルバスターズという名称は浮かんでこない。
「本当、バカみたい」
 自嘲的な笑みを漏らす。リトルバスターズなんて名称は浮かんでこない、そんな言葉が出た時点で名称は浮かんでいるというのにどうしても白球とリトルバスターズをつなげたくなかった私がそこにいた事に気がつく。いや、そんな私がいた事なんてとっくに気が付いていた。それなのに気がつかなかった事にして、事実から目をそむけ続けている。それでも野球のボールを見つけて思考にふけったという事はやはりあの騒がしい一団に未練があるという事で――――
 グルグルと取りとめもなく意味もない思考が頭を回る。
「…………」
 もう影も形もなくなってしまったリトルバスターズという集団。修学旅行の事故から半年、あの騒がしくも愉快だったみんなはどこにもいない。いや、あの面々ならばあの世でも愉快にやっているのかも知れないけれども。
 彼らの騒ぎは痛快だった。突如として運動部のキャプテンを集めたチームと野球で対戦したりとか、校内で場所を問わずにバトルを繰り広げたりとか。
 何より飽きるという事がなかった。野球では負けたとはいえ手に汗を握る接戦を繰り広げたり、バトルでは野次馬に道具を投げ込ませたりした。自分の投げ込んだ武器で戦って貰ったりすると異様にテンションがあがったものだ。いやまあ、調子にのって3Dメガネを投げ込んだのは反省してるけど。掴んだ直枝君、半泣きだったし。

 ざぁざぁと冷たい雨が降る。僅かに飛び込んでくる飛沫が徐々に体を濡らしていく。
 正直に言おう。私はあの集団が好きだった、大好きだった。そして――――恋をしていた。棗 恭介、リトルバスターズのリーダーに私は恋をしていたのだ。
 それはほんの小さなきっかけ。野球の試合、キャプテンチームの5番がホームラン級の打球を打った。それをセンターだった棗君は必死になって追い、そしてダイビングキャッチ。そのままホームランスペースに落ちた。決勝点になったあの3ランホームランの瞬間、私の初恋は始まった。
 ボールをキャッチする、たったそれだけの動作。棗君とは今まで同じクラスになった事もあったしバトル観戦も何度もしたというのに、そんな小さな行動に私の心臓は悲鳴をあげた。
 コイって何? 食べられるの?
 前日にそんな冗談を言ってそりゃ魚の鯉だと突っ込まれていた私の初恋は、「スマン、ボールは取ったが俺が落ちちまった」と苦しそうに笑っていた同い年の男の子。
 戸惑った。恋なんて知らなかったからどうすればいいのかも分からなかった。3年だと言うのに勉強も上の空、気がつけば棗君を探していた。
「やっぱり、相手の事も理解しないと!」
 テンパったあげくにそんな突拍子もない事に考えが至ったせいで、私は一回だけリトルバスターズの野球の練習に参加した事があった。体育の授業でのソフトボールくらいしか経験の無かった私にとって、野球はやっぱり難しくて何度もエラーをしてしまう。だけど一回だけボールが捕れた時、みんなが我が事のように喜んでくれた。
 ――違う、我が事のようにじゃない。彼らにとって、仲間とは本当に我が事なんだ。それに気がついて笑顔で褒めてくれる棗君を見た時、私の心臓はまた悲鳴をあげた。あれが惚れ直したというものなのだろうか?

 時は過ぎて、私はようやく告白する決意を固めた。どうせ後一年も経たないで卒業なのだ、どうせならば玉砕してやろうと自分を叱咤する。
 告白する時期は修学旅行中に決めた。棗君以外のメンバーは二年生だからリトルバスターズの中で彼だけが学校に残るチャンスはこれ以外に無い。いっそみんなの前で告白しようかとも思ったが、私にそんな勇気はないらしい。想像しただけで目を回してしまった。自分でもちょっと意外だ。座右の銘は『女は度胸』なのに。いま決めたんだけど。
 修学旅行当日。緊張して朝早く目が覚めてしまい、中庭を散歩していたらバッタリと棗君に出会ってしまった。何をしているかは持っているカバンの大きさを見ればだいたい分かる。忍び込むつもりだ、修学旅行に。
「…………」
「…………」
 無言で見合う私達。私は突然意中の人に出会ってしまってフリーズしていたし、棗君もまさかこんな時間に人に出会うとも思っていなかったのだろう。
「…………」
「…………」
 だんだんと棗君の顔に冷や汗が滲んでくる。それはそうだ、もうこれ以上ない程の現行犯で言い訳のしようも無い。そんな棗君が面白くて私は思わずクスクスと笑う。
「あ、あのな、これは、」
「いいよ、黙っててあげる」
「へ?」
 それでも必死に弁解しようとした棗君の言葉を遮って、私はそんな言葉を口にしていた。
「黙っててあげる。どうせ修学旅行に参加するつもりなんでしょ?」
「ほ、本当かっ?」
 私の言葉が余りに思わぬ言葉だったからだろう。棗君は喜色満面だ。
「もちろんよ」
 だって、私はそんなあなたが好きになったんだから。それは心の中に仕舞いこむ。どうせ今はそんな雰囲気ではないし。
「いや、悪いな」
「いいのよ。代わりに一つだけお願いがあるから」
 私の言葉にん?と首を傾げる棗君。
「なんだ?」
「修学旅行から帰ってきたら時間をくれない? 少しでいいからさ」
「俺のでいいのか?」
 怪訝そうな顔をする棗君に、更に私が怪訝そうな顔をする。
「謙吾じゃなくてか?」
 その言葉に私の胸が苦しくなる。棗君が私の好きな人が宮沢君だと勘違いしている事、それがびっくりする程辛かった。
「うん、宮沢君じゃなくて棗君」
「そうか……わかった。それとな、ありがとう」
 不思議そうな顔をしたまま棗君はお礼を言って駆けていく。あれではきっと、宮沢君じゃなくて棗君だと言った私の気持ちに微塵も気がついていないに違いない。でも、それでも言おう、それだからこそ言おう。棗君に好きだって。
「約束、したからね」
 自分にだけ聞こえるように私はそう呟いた。

「約束、したからね…………」
 意味無く呟いた言葉は虚しく響き、雨に叩き潰される。
「は、はは……」
 それがどこか悲しくて、紛らわすように私は地面に落ちた白球を拾い上げる。濡れて冷えきった体は思ったとおりに動かなくて、ボールを拾うだけの動作が随分とギクシャクとした。
「…………」
 その汚れた白を見て思いだす、どこかで聞いた初恋の色は白いという話。
 初めての恋に色はなくて、ただ純粋な白さがある。純粋に相手を好きだと思える感情、純白の想い。それが初恋なんだって。
 恋という感情は色々なものが混ざりやすい。嫉妬や打算は恋を穢すけど、初めての恋は白く貴い。
「それでも、初恋は叶わない」
 そして初恋はもう一つ有名な逸話を持つ。曰く、初恋は叶わない。それは恋というものは本来白色ではないものだかららしい。例えば恋の果てに子供が出来たりすると、どうしても純粋ではいられなくなる。だから白い恋は実らない。
「…………けど、こんな形で実らないのはあんまりよ」
 想いを伝える約束だけを残して逝ってしまうなんて。せめて約束が無ければよかったのに、せめて約束が果たされれば良かったのに。もう汚れようの無い純白は、雪のように蕩けるのを待つばかり。
「っ!」
 それが悔しくて、私は強く唇を噛む。唇から赤色が、瞳から無色が流れる。それらはポタリポタリと手の中のボールにたれていく。けれども心の中の白は変わらない。穢れもしなければ消えもしない。
「っく、ひっく――」
 嗚咽が漏れる。もう届かない想い、決して完成する事のない恋。ただ、ゆっくりと終わりだけを待つ白。
 リトルバスターズもそうだ。メンバーの死は悼んでくれても、リトルバスターズというグループだけは誰も悼まない。ただ朽ち果てるだけだったこのボールのように、どこにも届かず静かに緩やかに消えていく。
「っぐ、ふぐぅ、うぇぇ……」
 私は泣きながらハンカチを取り出して手の中のくすんだ白を磨いた。どうしてこんな事をしているのか、私にも分からない。もしかしたらリトルバスターズをこのボールを通して見たから、これが汚れているのが我慢できなかっただけなのかも知れない。
 ほんの少しだけ汚れが落ちたボール。それを胸に掻き抱いて、私は泣き続ける。長い間外に放り出されたボールはもとの白さを全く取り戻せていない。それは、とても悲しい事実だった。
「あぁ、うわぁぁぁ」
 もう、どうにもならない。壊れてしまったものは戻らないし、壊れないものを壊すことも出来ない。汚れた白色を通してそれを理解してしまった私はせめて見届けようと思った。胸に抱いた白を最期まで。
「あ、あ。あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……――」
 慟哭はやがて雄叫びへ。私はお腹の底から声を絞り出して、力一杯にボールを雨空へ投げ飛ばした。どうか天の果てにいるだろう彼らにこの白球が届きますようにと。



 汚れたボールが灰色の空へと消えていく。
 誰にもみとられなかった白は今、一人の少女にみとられて空へ向かう。

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