佐祐理は、夢を見ていた。
 夢に見るのは遠い昔、薄れ掛けた記憶。
 あの日自分の母と見た、あの蜃気楼の街。
 自分の隣にはあの日の母の姿があった。

 ――ねぇ、お母様。
 ――佐祐理は……『わたし』は……どうしたらいいのかな……?

 母は表情を変えない。
 自分と一緒にあの蜃気楼の街を見た日も。
 二人きりで父の帰りを待ち続けた日も。
 自分を残して、一人蜃気楼の街へ行ってしまった日も――

 ――ねぇ、お母様。
 ――どうしてお母様は、辛いことがあった日も、悲しかった日も、ずぅっとずぅっと笑っていられる の……?
 ――『わたし』には、無理だよ……
 ――悲しいのに、泣きたいのに、笑うなんて……出来ないよ……
 ――だって心が引き裂かれちゃうの。引き裂かれてばらばらになっちゃうの。ばらばらになったら、もう戻 れないの、きっと。

 母は表情を変えない。

 ――お母様は辛くなかったの? お父様とずぅっと会えなくて寂しくなかったの?

 母は笑顔のままで、ゆっくりと首を横に振った。

 ――なら、どうして泣かなかったの? 泣けばよかったんじゃないの? 寂しいって、一人にしないでって、 お父様に言えば良かったんじゃないの?
 ――どうして、ずぅっと笑っていられたの?

 母は笑顔のまま、沈黙は流れ、やがて言葉は流れ出す。

 ――それはね、佐祐理――

    ☆   ☆   ☆

「場所特定できました。地図上に表示します」
「ふむ……街外れの廃工場か」

 万が一を考えて娘の携帯にGPS機能をつけていたことが功を奏したことに些か複雑な気持ちで康臣は部下 の言葉に頷いた。

「倉田さん、どうするんですか? たかが餓鬼のご遊戯、叩き潰すことは容易いでしょう?」

 康臣の隣には昨日の披露宴で事実上の親族となるはずだった武田の姿があった。
 武田には昨日誘拐犯からの連絡があった時点ですぐに連絡をした。これからのことについて共同して動かな ければならないことも多いはずで、情報は共有していたほうがいいと判断したためだ。
 そして娘の携帯に付属させたGPS機能で居場所を特定し、夜の内にその場所は隠密に探らせた。倉田の娘 を誘拐するなどという大胆不敵な行動をとった誘拐犯が実は娘の高校の時の友達だと知った時は心底驚いたが、 逆に安堵があった。高校の時の親しい友達なら危害を加えられることもないはずだ。
 しかし、逆に処理に困る問題でもある。
 武田に対して動くのを止めているのもそのせいだ。

 ――娘は自ら望んであそこにいるのではないか。

 その想像が康臣の頭をもたげた時、彼が受けた衝撃は決して小さくはなかった。
 幼い頃から自分の言葉に逆らうことは無く、いつだって笑顔でいた佐祐理。

 ――しかし、それを放置した結果どうなったかを忘れたわけではあるまい――

 その想像が彼を必要以上に慎重にさせた。
 勿論、部隊を送り込んで事態を収拾させることはさして難しいことではない。だがそれでは前と同じことの 繰り返しだ。
 あんなことは――二度とあってはならない。

 結局、彼は今日一日は決断を避けることにして、事態が動くのを待つことにした。

 ――佳織、俺はどうしたらいい?

 自室の写真立ての中で笑う、今は亡き妻に語りかけても、言葉は返ってくることは無かった。


「倉田の爺さん、やっぱり腰が引けちゃったんじゃないのか?」

 武田は今回のために予約していたホテルに戻ってきていた。

「まぁそう言うな……しかし、このままだと婚約解消から合併話も雲散霧消しかねん」

 部屋に戻ってきた武田は、昨日一日花嫁に待ちぼうけを食らった自分の息子・克彦とこれからのことを話し 合うつもりだった。

「そりゃねーぜ。それじゃあ今まで何のために必死に種蒔き続けたのか分からないじゃないか……倉田の爺さん がそんなに腰抜けなんだったらこっちで勝手に動いちまえばいいんじゃないか? どうせ餓鬼のお遊びなん だろ? 多少使える人間を5、6人連れて行けばお釣りが来るさ」

 克彦は自分の息子ながら非常に有能だった。
 2年前に自分の会社に入社させてからも彼は結果を常に出してきた。その大きな要因となったのが判断の早 さとその正確さだ。彼自身自分の能力には大きな自負を持っており、失敗することなどは考えもしない、生ま れついてのエリートだった。

「しかし……倉田にはこちらが勝手に動くことを止められた」
「何だよ、親父まで腰抜けか? こういうのはまず動いてみないと手遅れになるかもしれないぜ。向こうに難 癖付けられる前に結果を出せば何の問題も無いさ」

 そう言って克彦は立ち上がった。

「お、おい、克彦。どこへ行くんだ?」

 そして克彦はその端正な顔を歪めて不敵に笑った。

「決まってるだろ? 俺の花嫁の所さ」

 そう言い残して克彦は父が取っている部屋を出て行った。

 武田が自分の息子についてその資質を疑う所があるとすれば、彼のああいった行き過ぎた行動力だ。
 しかし克彦が言うことにも一理ある。このまま手をこまねいて大きな魚を釣り逃すわけにはいかないのだ。
 しばらく考えた結果、武田は息子の行動を止めることは止め、このまま成り行きに任せることにした。


「ああ、そうだ。今から使える奴5、6人集めて至急こっちの方まで来てくれ。頼むぜ」

 克彦が呼びつけたのは言わば彼の右腕たちだ。
 彼の言うとおりに動き、能力も申し分ない。そして裏の仕事に手をつけることにも躊躇わない、克彦の 切り札だ。
 今回のことは彼にとって想定外のイレギュラーだ。
 半分以上釣り上げたと信じて疑わなかった獲物が急に手のひらをすり抜けて逃げ出されたような気分だ った。
 ――イレギュラーは出来るだけ早く是正されねばならない。
 これは彼の信念だ。

「こちとら何年も時間かけて下準備したんだ……今更爺さんの気の迷いなんかで反故にされてたまる かよ……!」

 克彦は結果を得るために手段を選ぶつもりは無かった。
 要は決定的な言葉が爺さんから出てしまう前に、向こうの姫さんを押さえればこっちの勝ちだ。
 克彦はこれまで勝ち続けてきた人間だ。それはこれからもそうだと思っているし、そういう能力もある。
 物事に勝つのに必要なのは、何よりもまして判断のスピードとタイミングである。どれだけ頭を悩ませて 最良の策を考えようが、即行動する人間のスピードには追いつけないこともある。タイミングを逃し何もか も台無しになることもある。それならば悩むよりもまずは行動だ。
 それが克彦の行動哲学だった。

 ――待ってろ、姫様。今から王子様が助けに行ってやるからな。

 そう言った克彦の顔に浮かんでいたのは王子と言うには似つかわしくない、獰猛な笑顔だった。

    ☆   ☆   ☆

 電灯も無い廃工場で、祐一は見張りの部屋で毛布に包まれながら朝を迎えた。

「ちゃー、寝ちまったかぁ……」

 こんな所で眠っていたと知られたら久瀬あたりに何を言われるか分かったもんじゃない。

「おいーっす。相沢ちゃん見張りご苦労!」
「うわっ!」

 慌てて身体を起こす。
 戸口の所に居たのは明るい色の茶髪にアンテナ一本、自称気のいい好青年の北川潤だった。

「なんだお前か……驚かせんなよ」
「お、悪い悪い……それでだ。そろそろ朝飯の時間だから下りて来いよ。と言ってもまたジャンクなモンしか 無いけどな」
「それは言わないお約束。じゃあ片付けてすぐ行くよ」
「早く来いよー……お、それと相沢」
「なんだいマイブラザー」
「君の頭のサイドについた寝癖を何とかしてから来たほうがいいんじゃないかい?」

 じゃあばよ兄弟、と北川はさっさと階段を下りていった。
 祐一はバツの悪い顔で寝癖直しの水を探しに階下に下りていった。

 ……気づいてたんならさっさと言えよな。


「相沢、今日はどうするんだ?」

 朝食の最中、久瀬が菓子パンを齧りながら祐一に聞く。

「うーん、そうだなぁ……」

 正直に言うと倉田康臣に要求を告げた以上、これ以上祐一達にはすることがないのも確かだった。
 後は交渉決裂するなり、相手が要求を呑むなりするまで粘る。
 というか、それ以外に祐一達に打つ手は無かった。

「とりあえず先方からの連絡待ちかな……それ以外は特になし」

 うげっ、とヒマな時間を持て余すのを極力嫌う人種の北川が声を漏らす。

「うわ、じゃあ連絡あるまでこんな娯楽も皆無な廃工場で過ごさなきゃいかんのかー」

 やってられっかー、と北川が後方にどうっと倒れこむ。

「じゃあトランプでもする?」

 そう言って5人の注目を集めながら持ってきた鞄の中身をごそごそ漁るのは川澄舞。
 探るのが途中で面倒になってきたのか、鞄をひっくり返してどさどさどさと鞄の中身をぶちまける。

「トランプに花札にウノ……とにかく一杯持ってきた」

 修学旅行じゃないんだから。
 突っ込みたい気持ちを抑えるのに祐一は必死。

「あははーっ、じゃあ今日はこれで遊べるねっ」

 佐祐理は遊ぶ気マンマンだった。


「あがりーっ」
「うわぁ、また佐祐理さんが大富豪かよー」
「さぁさぁ、佐祐理にカードを差し出すのは誰ですかー?」

 トランプやろーぜ、と決めてから大富豪を始めたが、それから早3時間。意外とトランプは遊べることに 今更ながら気づいた5人だった。

「悪いな北川。これで僕はあがりだ」

 久瀬、元生徒会長の意地で大貧民を回避。

「ノォーーーッ、また俺かよーー!」
「北川さん、さっさとカードを差し出してくださいねーっ」
「貧民に人権はないのかーっ!?」
「あははーっ、貧しい者にはそんなもんは存在しませんよーっ」

 強え。
 佐祐理は理不尽なぐらいに強かった。
 舞は上手く立ち回っていつも平民。久瀬と祐一が富豪と貧民を行ったり来たり。そして北川の大貧民と佐祐 理の大富豪はグリーンシートの指定席だった。

「ううぅ……何故だ……」

 泣きながらカードを配る北川。
 カード配りは大貧民の義務だった。

 カード交換が終わり、何回目かは既に忘れた、ゲームスタート。

 大富豪は基本的に弱いカードから出していくのがセオリーだ。自分から出せる順番を効率良く勝ち得て、 他のカードに勝てない弱いカードをいかに場に出していくかが勝負の鍵を握っている。稀に超強力なカード 運で一般人がとても追いつけない財力でもって圧倒的に場を支配する本物の「大富豪」が現れる場合もある のだが、基本的には戦略と判断力が場を支配する知的なゲームなのだ。

「ローカルなルールが多いのも大富豪の特徴だ」
「祐一、誰と喋ってるの?」
「気にするな。ほら、8切り」

 8を出すと場を流せるのだ。
 他にも革命、階段、縛りなども含めたらローカルルールは数え切れない。
 提示してくるルールの差で出身地域は大体割れるのだ。

 ここまでとりあえず皆楽しそうに遊んでいる。
 祐一は佐祐理の楽しそうな様子を見て一安堵していた。
 どんな理由があろうと、どんな理屈をつけようと、自分達は佐祐理を無理矢理拉致った誘拐犯である。当然 の如く連れ去られる側の佐祐理の意志などは端から無視であるし、事実そう言って連れてきた。結果として佐 祐理が祐一の行動に逆らうことはなかったが、未だに直接佐祐理と話すことが出来ないでいるのもまた事 実。
 本当の所、佐祐理はどう思っているのか。
 祐一は未だにそれを聞けずにいる。
 勿論これは祐一自身の信念に基づいて行動した結果であるし、そのことを今更どうこう言っても始まらない。 後悔だけは絶対にしない。
 矛盾しているかもしれないが、だからこそ佐祐理にもそんな後悔しない決断をしてほしいと祐一は心の中で 思っている。
 無理矢理こんなところまで連れてきて、そんなことを言うのは無責任かもしれない。それは百も承知だ。だけ ど――

「む……!」

 突然舞が険しい顔つきになる。
 祐一もそれを察して真剣な表情で、

「どうした舞? 月のお客さんか?」

 グーで殴られた。

「祐一にはデリカシーが無さ過ぎる」
「イテテ……じゃあどうしたんだよ?」


「外に……誰かいる」


 全体に緊張が走る。
 カードはそのままに、周りを見渡せる見張り部屋のほうに北川と久瀬が走った。舞は武器として持ってきた 木刀を手にする。

 場所がバレることは考えていなかったわけではない。佐祐理の携帯を連絡手段として使った時点で場所がばれ るのはある程度計算していた。しかし、こんなに早く直接ここに誰か来るのは考えていなかった。せめて次の交 渉までは待つだろうというのが祐一の読みだったのだ。
 ――誰だ?

「誰が……誰が来たんですか……?」

 佐祐理だけは別の部屋に避難させようと思っていた祐一は、佐祐理の手を取ろうとして引っ込める。

「佐祐理さん……」
「佐祐理も上に行きます……!」

 佐祐理の目を見た。
 そして、祐一は覚悟を決めて頷くと佐祐理の手を引いて見張り部屋に走り出した。


 そして祐一達は3階の高さから見下ろして。

「久瀬……」
「ああ、間違いない。あの時のあいつだ」

 彼は姿を見せない祐一達を挑発するかのように。

「克彦さん……」

 武田克彦はたった一人で廃工場の前に立っていたのだ。



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