「倉田さ―――ん、出てくるんだ―――っ!!」

 武田克彦は己の限界まで声を張り上げて繰り返している。

「克彦さん……」

 佐祐理は心底驚いたように大声で叫び続ける克彦を見ている。

「ってことはあいつが佐祐理さんの――」

 佐祐理は祐一の言葉に無言で頷く。
 まさか彼が一人で来るとは思っていなかった。
 佐祐理は彼の事を高校1年の時から知っている。佐祐理の知る彼はいつでも愛想良く気のいいお兄さんとい うイメージで接してきた。しかしそんな笑顔の仮面の裏ではどこか氷のように冷徹で非情な部分が潜んでいる のを佐祐理は肌で感じていた。だから佐祐理は彼と会うときには笑顔で付き合いながらも無意識の内に一線を 引いて付き合っていたのだ。
 しかし、たった一人でこんなところまで来て佐祐理を大声で呼び続けるなど彼の印象にはない行動。
 まさか本気で――

 そう思いかけた時、祐一は佐祐理の手を握った。

「動揺するな。あいつは……どこか油断ができねぇ」

 祐一も、そして久瀬も初めて彼を見た時から感じ取っていた。
 この気の良さそうな青年は只者ではない、と。

「倉田さ―――ん! 君のお父様も心配されていたぞ―――っ!! 脅されてそこにいるんだろ―――っ!?  心配ないから出てきてくれ―――っ!!」

 お父様。
 その言葉が克彦の口から発せられた瞬間、佐祐理の心が揺れる。

「佐祐理さん?」

 異変に気づいた祐一が心配そうに佐祐理の顔を覗き込む。
 佐祐理の顔は真っ青で、両の腕でその華奢な身体を抱き、ただ震えていた。

「佐祐理さんっ!! しっかりしろっ!!」

 佐祐理に祐一の言葉は届かない。
 ただ一言小さく、

 ――お父様……

 と呟く声が聞こえた。
 祐一はその声を聞いて、改めて覚悟を決める。

「――久瀬、北川、ちょっと佐祐理さんを頼む。俺は――下にいってあいつを黙らせてくる」
「お、おい、相沢! 正気か!? そんなことしたらお前の顔が――」
「俺の面なんかとっくの昔にに割れてるさ。だからこそあいつはあんなところに来てるんだろ――あいつを黙 らせねぇと、佐祐理さんの震えは――止まらない」

 祐一はそう言うと、身を翻して一目散に階下に駆けていく。

「――祐一!」

 一階で木刀を構えて警戒していた舞とすれ違う。

「舞はそこで待機しててくれ! 俺は――行ってくる!」

 外に出た。
 暗い工場内から日の下に出て、そのあまりの光に祐一は目を細める。
 この光、この温度、この世界――
 こんな日の下で、君と生きていきたいから――!

「君は――」
「ああ、俺が誘拐犯だ」

 まるで大口径の銃を突きつけるように祐一は克彦を睨みつけた。

    ☆   ☆   ☆

「旦那様、武田の息子がどうやら動いたようです」

 倉田康臣は東城のその知らせを苦々しく聞いていた。
 こっちが躊躇していると思いやがって、余計な事を――
 康臣は心の中で毒づいた。
 とは言うもののこちらが二の足を踏んでいるのは厳然たる事実だ。

「旦那様、いかがなさいますか……?」

 ――うるさい。
 ――うるさいうるさいうるさいっ!
 そう怒鳴りつけてやりたかった。
 しかし、康臣は怖いのだ。
 あの時と同じように、怖かったのだ。

 ――自分を否定する娘の姿を見るのが、怖いのだ。

 あまりの自らの情けなさに涙が出てくる。
 こんなにも自分は小心で情けない男だったのか。
 しかし、そんな強がりとは全く無関係に膝は震える。

 ――結局俺はそんなものだったのだ。

 自分以外の全てが怖かった。
 世界が怖かった。
 自分の考えの及ばぬものが怖かった。
 妻が怖かった。
 娘が怖かった。
 息子が怖かった。

 ――親父が、怖かった。

 そして康臣は恐怖した分だけ強くなった。
 わからないものを、理解出来ないものを従わせ屈服させた時にだけその恐怖が薄らぐ気がした。
 恐怖の分だけ権力を、地位を、金を手に入れた。
 そして、ただそれだけの男だった。

「旦那様ッ!!」
「うッ、うるさいッ!! 使用人風情が、俺に何を言うかッ!!」

 瞬間、世界が揺れた。
 康臣には何が起こったのか分からなかった。
 ただその目に映るのは、自分を悲痛な顔で見下ろす使用人・東城の姿だった。

「旦那様、非礼はお詫びします」
「東城……?」
「しかし、恐れながら申し上げます……佐祐理お嬢様は苦しんでおられました。婚約を、旦那様に告げられ てから、ずっとお嬢様は苦しんでこられました……旦那様がお嬢様の世界を閉じておしまいになったから」
「俺が……」

 告げる東城の顔も苦悶の色に染まっている。

「旦那様がお嬢様を大切に思っておられるのは分かります。ですが、旦那様は急ぎすぎました……急ぎすぎる あまりお嬢様の未来を自分のエゴで決めてしまおうとなさりました」
「…………」
「――お嬢様の幸せは、お嬢様以外には分かりません。お金でも、地位でも、権力でもありません。お嬢様に 必要なのは――白紙の未来なんです」
「…………!」
「あの少年と、あの少女と出会ってから、お嬢様はお変わりになられました。そしてこれからもきっと変わって いかれます。それを――ただ静かに見守ってやるのが、わたし達大人の仕事なのではありませんか……?」

 康臣は動かない。
 東城も動かない。
 時は流れる。
 時代は変わる。
 そして人も。
 何もかもあの頃のままではいられない。
 けれど――

「俺は……」
「…………」
「俺は……何も変わっちゃいない……あの時と同じ、馬鹿のままだ」

 康臣は泣いていた。
 涙は雫になって、やがて硬い床に落ちて弾けた。

「東城」
「なんなりと、旦那様」
「――ホテルに滞在している武田に伝言を頼む。俺は――少々行くところが、ある」
「は――はいッ!」

    ☆   ☆   ☆

「ああ、俺が誘拐犯だ」

 まるで大口径の銃を突きつけるように祐一は克彦を睨みつけた。

「君か……君は自分が何をしているのか分かっているのか……? 未成年の倉田さんを誘拐してこのような 場所に監禁……これは立派な犯罪だ……君も、そのくらいのことが分からない年ではないだろう?」
「…………」
「もう、いいから倉田さんを解放しろ。君では、倉田さんを幸せには出来ん」

 祐一は、その瞬間確かに笑った。

「ほう……じゃあお前には幸せに出来るってのか?」
「何……?」
「あんたには佐祐理さんを幸せにできるのか――って聞いてんだよ!」
「そ、そんなもの当たり前だッ! 僕を……一体誰だと思っている? 僕は武田グループの後継者で、ゆくゆ くはこの国で敵とするものはいなくなるほどの力を持つ……君のような一般人とは住む世界が違うんだ。無論 倉田さんにしたってそうだ。君にはそれが――」

「それがなんだってんだッ!!!」

 大喝した。
 空気が震えたような気がした。

「へっ! そんなこと関係ねぇんだよっ! 俺は佐祐理さんを幸せに出来るのかって聞いたんだッ! 金が幸 せか? 権力が幸せか? 力が幸せか? そんなもんは全部飾りだ、関係ねぇんだっ!!」
「な……! ならば君なら――出来るって言うのか……!!」

「俺は、佐祐理さんを愛してる。佐祐理さんのことならどんなことでも受け止めてやるし、どんな事だって受 け入れてやる。佐祐理さんが苦しいなら一緒に苦しんでやるし、一緒に泣いてやる。嬉しいときは一緒に笑っ てやる――俺は佐祐理さんを一人になんかしない」
「そ、そんなことっ! 口ではなんとでも言えるだろうッ!!」
「なら、アンタは出来るのか? 地位と権力と金で幸せにするって言ったアンタだ、佐祐理さんのためにそん なもん全て捨てたっていいって――本当に言えるのかよ……?」
「――っ!!」
「俺は……決めたんだ。佐祐理さんも含めて……俺の周りにいる人たち全てと、幸せになる。他の誰でもない、 この俺が……俺が決めたんだッ!! 誰にも文句は言わせねぇッ!!」

 祐一の発した声はあたり一面に響き渡り、この場にいる人間全ての耳に届いた。
 舞にも、北川にも、久瀬にも。

 そして佐祐理にも。

 沈黙。
 やがて。
 深い溜息と共に克彦の目がすぅっと細まる。

「……もういい。これ以上は時間の無駄だ……でも、倉田の娘は意地でも連れて帰らせてもらうぜ―― おいッ!! 出番だッ!!」
「なッ……!?」
「お嬢さんはこの中のどこかにいる。探し出して……連れて来いッ!!」

 周囲の茂みから突然5、6人の男が飛び出した。
 彼らは一直線に廃工場の中に向かって行く。

 祐一が唖然としてその様子を見ていると、背後から響く克彦の嘲笑。

「どうしたよ……彼氏……こんなザマで本当にあの娘を幸せになんて出来るのか?」
「くッ……!!」

 身を翻し、男達に追いすがる。
 ――ちくしょう、間に合わない……!

 ドガッ

 鈍い音と共に走っていった男が二人、吹っ飛ばされる。
 男達の隙間から見えたその姿は――


「――舞!」
「ここは――通さない」


 ゆらりと舞の姿が揺れたかと思うと、男が不用意に出した右の拳の下を潜って低い体勢から木刀一閃。

「ぐわっ」

 無防備な顎に強烈過ぎる一撃を食らい男は倒れる。

「なッ……!?」

 そのあまりにも優雅すぎる身のこなしに祐一も克彦も一瞬見とれる。
 ――そうだ。
 あいつは、人間じゃとても捉えられなかったような魔物と何年も闘ってきた奴だった――!

「うおおおおおおぉぉぉっっっ!!」

 負けじと祐一も、舞に気を取られて背後がお留守になっている男に渾身のタックルを食らわせる。
 
「うおりゃあああああァァァッッ!!」
「うおおおぉぉぉっっっっ!!!」

 そして、工場内から現れる二つの影。

「久瀬! 北川!」
「へへっ! 加勢するぜ、相棒!」
「全く、相沢、こんなことになるとは聞いてないぞ……!」

 そして、大乱戦。
 祐一と北川はともかく、久瀬も喧嘩に慣れているわけではない。
 しかし、必死で抵抗する。
 絶対工場内には入れない、と。
 絶対佐祐理には指一本触れさせない、と。
 しかし、男達も伊達に克彦に集められたわけではない。元々こういう事態を想定して集められたメンバー だ。舞はともかく、闘い慣れてない祐一たちとの差はやがて歴然となる。
 スタミナと耐久力に任せて男達は攻める。
 舞を中心に祐一達も粘るが、やがて均衡は崩れた。

「うわあっ」

 懐に踏み込まれた久瀬は、巨大な体躯をそのままぶつけられ簡単に吹っ飛ぶ。

「久瀬っ!! ぐはっ……!?」

 久瀬を庇おうとした北川も、男の蹴りをモロに鳩尾に食らって悶絶する。

「久瀬っ! 北川っ! クソッ……!」

 倒れた久瀬と北川に駆け寄ろうとする祐一。だが――

「おっと、君ももう動かないほうがいい」

 後ろから、最後通牒のように男の声がした。
 背中には木刀らしきものが当てられている。
 横を見ると木刀を奪われた舞が二人の男にうつ伏せに組み敷かれている。

「フン、梃子摺らせやがって、勝負あり――だ。これ以上僕らの手を煩わせんでくれ」

 克彦は立ち尽くす祐一を蔑むように見下ろす。
 その表情には明らかに余裕と愉悦の色が浮かんでいた。

「分かったろ? これが『力』さ。とても君なんかじゃ手の届かない世界の――な」

 熱にうかされたように喋り続ける克彦。

「勿論この程度の『力』じゃ国どころかこの街ですら支配なんて出来やしない……だがな、倉田の『力』を取り 込めば僕の『力』はもっと大きくなる。もっともっと強くなるっ! ははっ、今に見ていろ、そのうちにこの国 で僕に逆らえる奴などはいなくなるっ! 僕がこの国に君臨した時、遥か下の方から僕の姿を羨むんだな! は ははははははっ!!」

 克彦は狂ったように笑い続ける。
 祐一はそれを――


「――マジで哀れな奴だな、アンタは」


 ――哀れむような目で見ていた。

「……何ぃ?」
「もう一度言ってやろうか? アンタは、可哀相な奴だ」
「はは、負け惜しみはよすんだな。見苦しいぜ」
「――そんなふうに、アンタは『力』だけでしか人の価値を見出せない。アンタの中にあるのは、上か、下か、 それだけだ」

 克彦は少し意外そうに祐一を見た後、再び表情を歪める。

「ハッ! 世の中には勝者と敗者以外存在せん。例え勝負を放棄しようと、そんな人間を待つのは単なる 堕落だ。ほんの一握りの支配者と、絶対多数の奴隷、それがこの世だ」
「負けた者は有無を言わせず奴隷――そんなのは地獄と変わらないじゃないか」
「そうさ! この世は地獄そのものなんだよ」

 祐一は、ゆっくりと目を閉じる。

「なら聞くが――全ての勝負に勝ち続けた支配者……そいつには一体何が残るんだ?」
「…………」
「全てが終わった後、そいつには一体何が残っている?」
「そ、そんなのは……」

 両者の間に沈黙が流れる。

「誰もアンタに言わなかったんだろ? だから俺が言ってやる。アンタは――空っぽだ」
「何だと……!」
「アンタの中には何一つありはしない。空虚で、どうしようもなく孤独だ」
「…………」
「だから『力』を求める。自分の中に何も無いから。そんな風に自分を飾り立てなきゃ自分の価値を、自分が 存在していることを証明できないんだ。いつだってどうしようもなく不安なんだ。違うか?」
「おっ……お前に何が分かるッ!!」
「ああ、分かんねーさ! アンタのことなんかこれっぽっちだって分かりゃしねーよッ! だが、アンタみたい に空っぽな奴に俺の友達が傷つけられんのは我慢がならねぇッ! 俺はっ! アンタみたいな人間を……絶対に 認めねぇッ!!」

 克彦は怒りのままに口を開きかけるが、思い止まり感情を鎮める。

「……もう、いい。君の戯言を聞くのも些か飽きた。時間もかなり過ぎてしまったし……そろそろ倉田くんは連 れて帰ることにするよ。おいっ、中に入って倉田くんを探してきてくれ」

 手の空いている男に指示を出し、男は無言で廃工場内に入ろうとする。

 止まる。

「おいっ!? どうしたっ!?」

 克彦が叫ぶ。
 そしてその一瞬後に、彼の部下が止まった理由が日光の下に姿を現した。

「さ、佐祐理さん……」

 佐祐理の表情からは普段の笑顔は消え、絶対零度の眼差しは静かに克彦に向けられていた。



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