退屈な時間を過ごした後に体中の関節を脱臼せんばかりに伸びをするのは人間として誰もが備えている 本能であるに違いない。

「ふわぁ……」

 勿論、相沢祐一の如き自他共に認める変人ですら例外ではない。
 本能に任せ力一杯伸びをすると、バキバキバキボキと他人が聞いたら複雑骨折したかと勘違いしそうな音が 辺りに響く。

「うっわー、いたそー……」

 そう言って顔を顰めたのは相沢祐一の同居人である水瀬名雪。

「いやいや、痛そうに見えて中々気持ちいーんだって、これがまた」
「祐一が気持ち良くても傍で聞いてるわたしが痛いんだよぅ……」
「へーへー」

 名雪の言葉を軽く聞き流しつつ、更に肩を回す回す回す。
 バキベキボキ。
 いやーやめてー、と耳を塞ぐ名雪。
 そんなことをしている間に他の列から同じように伸びをしつつ歩いてくるのは祐一のクラスメートの北川と 久瀬と香里。

「おう、元気だったか親友」
「いや、かなり眠いぜ悪友」

 すれ違いざまに祐一が必殺の右を繰り出すと、幻の左のクロスカウンターで迎え撃つ北川。
 常人の目には捉えきれないスピードで放たれたパンチは、互いの顔にクリーンヒット。
 結果、相打ち。

「何やってるんだ、この馬鹿どもは」
「右に同じ」
「以下同文」

 ばったりと見事なダブルノックダウンをやってのけた馬鹿二人を見下ろしながら、彼らの専属保護者兼お目 付け役である久瀬と香里と名雪は処置なしという顔でやれやれと肩をすくめた。
 ここは高校生が教師という名の看守が施す授業と言うありがたい説法を受ける場所、簡単に言うと教室で ある。夏休みボケにも程がある、と半ドンの授業を受け終えた周囲の生徒達は思ったとか思わなかった とか。


「見ろ、相沢」
「え〜なになに? E判定。合格可能性15%未満。志望校変更の必要性あり……」
「そこじゃねぇ! 点数の部分だ!」

 授業が終わり、午後からの予定には多少の余裕がある例の5人は、互いに夏休み中に受けた模試の結果を見 せ合いながらあーだこーだと盛り上がっている。

「ほぅほぅ……おお! 北川D判定まであと残り10点じゃねーか!」
「ふふん、どーだ恐れ入ったか相沢よ。悔しかったらボクの靴の裏でも舐めながらブヒブヒ鳴いてみたらどう だね?」
「いや、俺はもう余裕でDだから」
「あ、すいません相沢さん靴の裏舐めさせてもらっていいですか? ブヒブヒ」

 どうやら判定とプライドの間にはイコール関係が存在しているようだった。

「でもさ、祐一も北川君もすごいよー。夏の間頑張った成果だねっ」
「ちょっとちょっと水瀬さん。この馬鹿どもはすぐ調子に乗るからあまり褒めないほうがいい」
「なにぃっ! おいこら久瀬! そういうテメーはどーなんだよおい! 見せやがれっ」

 北川は久瀬の成績表をひったくる。
 そこに刻まれた文字は――
 B。

「……」
「……」
「――おい、ご両人。何か僕に言うことがあるんじゃないか? ん?」

 得意気な表情でフフンと鼻で笑う久瀬に、祐一と北川は目を見合わせる。

「「久瀬さま、足の裏お舐めしましょふべらっ」」

 スコンスコンと「3‐Bの鉄拳制裁」の異名を持つ美坂香里の拳の前に強制的に沈黙させられる祐一と 北川。

「全く、本当に馬鹿なんだからコイツらは」
「まぁまぁ……ところで香里はどうだったの?」

 香里を宥めつつ話題変更を図る名雪。

「うーん、わたしはCね。今回の模試はちょっと失敗しちゃってね。でも、今の時期にどんないい成績取った ってあんまり参考にはならないわよ」
「確かに。この時期にEだった奴が受かったなんて話はゴマンとあるからな」

 久瀬も香里に同意する。

「おお! ってことはオレにも十分チャンスはあるってわけだな!」
「そうだよ北川君! まだまだここから、ふぁいと、だよっ」

 うおっしゃあ! と気勢を上げる北川。
 名雪も自分に気合を入れているようだ。結局、名雪もスポーツ推薦を蹴って受験戦争に再参戦することを決 めた。夏の模試も受けていない彼女の戦いはこれから始まるのだ。

「しかし、この間まで散々無茶して遊びまわったからな。そのツケは来るかもしれんぞ」

 夏の「事件」に参加した久瀬の冷静な意見に、祐一と北川はギクッとする。

「そうそう、相沢くん達はこの間まで3人で遊びまわってたらしいじゃない。この時期に、余裕ねー」

 ジト目で厳しい突っ込みを入れる香里に、脛に傷持つ3人は揃って「ははは……」と乾いた笑いを漏ら した。

 ちなみに、祐一達は香里と名雪に「事件」の話は一切していない。
 極めてプライベートな問題も絡んでいること、一歩間違えば檻の中だったことなどを考慮して、この事件に 関しては部外者に口外するのは避けたほうがいいだろうと言う結論に至ったのだ。

 結局、克彦たちが帰った後に廃工場にもう一泊だけして解散することになった。何故なら、その時には問題 の大半が既に解決していたことを知ったからだ。
 佐祐理の父である倉田康臣は廃工場に行く前に今回の婚姻と企業同士の合併についての方針を武田に打診し ていたのだ。その内容とは『武田克彦と倉田佐祐理の結婚を白紙に戻すこと』と『倉田グループの企業の経営 権を全面的に武田に委譲すること』の2点。結婚をキャンセルすることを企業の経営権を譲渡することで手打 ちにするという、なんとも武田にとって有利な提案だった。武田はその提案を快諾し、問題はその日のうちに 解決を見ることとなったのだ。祐一達が起こした「誘拐事件もどき」はその流れで黙殺されることになった。 祐一達が廃工場を離れ、決死の覚悟で倉田家に戻った時には既にほとんどの人間が残務処理に追われていて祐 一達には目もくれないという有様だったのだ。ようやく掴まえたメイドの東城からそれまでの経緯を聞きだし て、その場で祐一達は解散することになった。「なんか、拍子抜けだなぁ」という、全てが終わった後の北川 の呟きが全てを表していると言えよう。
 そして、祐一達は円満に元の生活に戻り、佐祐理は予備校に再入学をした。
 何もかもが上手くいった。
 上手くいき過ぎてなんだか不安になるほどだった。

「俺達がしたことって……結局なんだったんだろうなぁ……」
「ん? 相沢、何か言ったか?」

 相変わらず耳敏い北川は、祐一の小さな呟きを聞き逃すことなくキャッチする。

「いや……なんでもねーよ」

 今日の午後はこの5人に佐祐理と舞も含めての勉強会の予定である。
 事件が終わった後も久瀬や舞や佐祐理とつるんでいたらいつの間にかそこに名雪と香里が加わって、気づいた ら7人という大所帯になってしまった。
 佐祐理の様子は一見したところ、事件前とあまり変わっていない。相変わらず良く笑うし、相変わらず元気 だし、相変わらず舞とは大親友である。

 一つだけ変わったことと言えば、佐祐理の一人称が「わたし」になったことぐらいだ。

 確かに祐一達が行動したことで、この何物にも替えがたい日常を取り戻すことが出来たのかもしれない。 しかし、肝心な部分で致命的に置いてけぼりを食らったような、どこか煮え切らない部分もあった。事実、 事件は祐一の与り知らぬところで終わっていたし、佐祐理の婚約者である武田克彦を最終的に撃退したのも 本来自分が守るべき存在の佐祐理だった。
 何より佐祐理から告白の返事すらもらっていなかった。
 遠まわしに振られているんじゃないかとか、暗黙の了解じゃないかとか、また悶々と眠れない夜が続いた が、その内に考えることを止めてしまった。
 ――いいじゃないか。俺達は皆一緒にいると楽しくて、無敵で、最高だ。
 今はそれでいい。

「んじゃ、そろそろ行くか」

 待ち合わせの時間まであと10分。
 校門で待ち合わせをしているので佐祐理達が着いているかどうかは教室にいればすぐに分かる。
 でも、何故か今日は先に待ち合わせ場所に着いて、余裕で佐祐理たちを待っていたいような気分だった。
 そしてお嬢様たちが着いたら、自分に出来る最高の笑顔で迎えてやるのだ。

 ――待ってろ、倉田佐祐理。

 祐一は、不敵に笑った。

Epilogue S-side
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