「一つ上の学年にはバケモンみたいな女二人組がいる』というのは、僕らの学年では有名な話だった。僕はその手の噂には疎かったので、最後までその伝説の先輩のご尊顔を拝見する事はなかったが、そんな僕でも知ってるほどの語り草になっていた女傑二人組のお話だ。
 一人が、陸上部長でインターハイ中距離部門個人入賞の水瀬名雪。そしてもう一人が、美坂香里だ。学力的には地域内で見てもさしてレベルの高いほうじゃない僕らの高校に在籍しながら、全国模試では常にトップクラスの成績。学校初の現役東大生の誕生はほぼ間違いないと目されていた怪物クラスの天才だ。そんな大天才がなぜ僕らの高校に来たのか、それは僕らの高校の七不思議の一つでもあった。一説には、美坂先輩には病弱な妹がいて、その妹が行けるようになるべく近所の高校をあえて選んだのだとか。
 美坂香里。
 そして、美坂シオリ。
 僕の頭の中ではその二つの名前がぐるぐると渦を巻いて、僕の思考をさらにかき回していた。





 そして僕はまたこうして彼女の隣に座って、彼女の白い手が描き出すカーブをただただ眺めている。
「……」
「……」
 僕らの間に会話は無い。あの日現れたあの髪の長い女によって、シオリの心はまた閉ざされてしまったのだろうか。あの女が実は魔女だったと告白されても、僕は一向に驚かないであろうという自信がある。
 今日彼女が描いているのは、噴水の向こう側にある遊具で遊び回っている幼い姉妹。ちょっと前までは動かない物しか描かなかった彼女も、最近は動きのある被写体も好んで描くようになったようだ。勿論技術の向上もあるのだろうが、何か心境の変化でもあったのだろうか。
 幼い姉妹は時にじゃれあい、時に助け合いながら、元々大きくもない遊具をさらに小さく見せるように縦横無尽に駆け回る。同じ年くらいのように見えても、やはり姉と妹の関係はあるのだろう。よく観察すると一方がもう一方をフォローする光景が多く見られるのが分かる。それはある種の美しさを感じさせた。芸術的な美しさとか、そういったものに縁の無い僕の胸をも打つ何かが、その光景の中に潜んでいる。気付かないものは通り過ぎるだけの、きっと誰しもがあった懐かしい時代の記憶を喚起させるノスタルジック。シオリもまた、それを感じているのだろうか。
 美坂香里。
 シオリと彼女が姉妹であったとしたなら、目の前の幼い姉妹のような時代を共に過ごしてきた間柄であったのだろうか。互いに助け合い、手を取り合って、あの幼い姉妹のように。
「なぁ、一つ聞いてもいいかな?」
「……はい」
 覚悟を決めた僕の雰囲気を肌で感じ取ったのか、彼女はスケッチブックから目を離してこちらに向き直り、僕の目を真っ直ぐに見つめる。その目は昔僕を射抜いたあの目と同質のものだ。
 だが、怯むわけにはいかない。さて、どこから切り出したものか――
「シオリってさ、もしかして僕と一緒の高校に行ってたんじゃないか?」
 考え抜いた挙句、僕が選んだのは搦め手からの突破口だった。
「この前思い出したんだけど、僕らの学年の一つ上に美坂香里っていう凄い先輩がいたんだ」
 美坂香里の名前を出した瞬間のシオリの表情は今まで僕が見たことない種類のものだった。
 言うなれば、恐怖。
 その切迫さに、僕は踏まなくてもいい地雷原に丸裸で突っ込んだことを自覚した。しかし、その地雷原を突破しないことには彼女の本質に近づけない。
 これまで通り、公園でのスケッチに付き合って座っているだけの関係ならそれでもいい。だが、そうじゃない。断じて、そうじゃない。
 そうだ。
 今の僕に必要なのは、覚悟だ。
 僕と彼女の関係が、以前付き合っていたあの子のような、距離が離れてしまうだけで雲散霧消してしまうような希薄な関係に終始したくない。
 踏み込むのには危険なんて付き物だ。
 踏み込め。
 覚悟を――決めろ。
「僕、思い出したんだよ」
 あるいは、僕が跡形もなく吹き飛ぶか、それとも僕がシオリを跡形もなく吹き飛ばしてしまうのか。今僕に必要なのは、そんな種類の覚悟だ。
「僕らの学年に、確か一人いたんだよ。入学式の日からずっと病気で休んでて、いつの間にか学校辞めてそれっきりになった子――美坂シオリ、君だよね」
 彼女は僕と目を合わそうとしない。先ほどまでの鋭い視線は嘘のような弱々しいものに変わってしまっていた。
 無言の肯定。僕は彼女の沈黙をそう受け取って、続ける。
「この前、君と別れる時に髪の長い女の人とすれ違ったんだ」
 びくり。
 彼女の肩が震える。
「あの人が来てからシオリの様子は明らかにおかしくなった。彼女が一体誰なのか、僕なりに考えてみたんだよ」
 シオリの震えが止まった。覚悟を決めたのかもしれない。今の僕と同じように。
「僕の学年でも有名人だったんだよ、確かあの人は。そう――今から思えばシオリの苗字を聞いていたのに思い出せなかったのは全く恥ずかしい話なんだけど」
 僕は軽く息を吸い込んだ。溜めて、吐き出す。
「あの人は、美坂香里――シオリのお姉さんじゃないのか?」
 ここが、当初僕が予定していた最大の地雷原だった。
 踏み込んでしまったからには、もう行くしかない。
「君とお姉さんとの間で何かあったのか? 何かあったなら――」
「――もうやめてッ!!」
 突然シオリが叫んだ。
 今までの彼女とは違う。髪を振り乱し、眉は見る影もなく吊り上がって、まるでこれでは別人――
「私に、姉なんていませんッ!!」
 彼女は、泣いていた。
 僕の前に仁王立ちして、大声を上げる彼女はその声の強さに反して酷く弱く頼りなげに見えた。ぽろぽろと大粒の涙が次から次へと溢れ出しては、アスファルトに吸い込まれていく。
「姉なんて、姉なんて……」
 彼女の言葉はもう言葉としての体裁をなしてはいなかった。何を言わんとしているのか、もう僕にそれを汲み取るのは不可能なほどに。
 ――助けて、ください。
 彼女はそう全身から叫んでいるように、僕には見えたのだ。
 無意識のうちに、僕は彼女に手を伸ばしていた。
「――ッ!」
 瞬時に伸ばした手は彼女の平手によって迎撃され、その勢いで彼女は走り去っていた。後に残されたのは彼女のスケッチブックと、彼女が常時携帯していた画材道具だけ。僕は呆然と彼女が走り去っていく姿を見送ることしか出来なかった。
 ふと目の前をちらつく白い影に気付き空を見上げると、そこは灰色のペンキを流してそのまま固めたようなどす黒い雲で覆われていた。そこから降り注ぐ雪の結晶はこの場所に場違いなほどに美しく映えた。

『私に、姉なんていませんッ!!』

 彼女の悲痛な叫び声だけが、辺りに反響するように僕の頭の中で響き続けた。





 彼女の画材を脇に抱えながら僕は、あてどなく雪の降る街を歩き続けていた。
 彼女にこの話を切り出す事に決めた瞬間から、こうなることだって折込済みのはずだった。だけどこうして現実になってしまえば、覚悟は出来ていると嘯いていた自分が阿呆のように思えてくる。腹いせのように脇に抱えた彼女の持ち物をぎゅっと握り締めてみるが、それが僕に対して何らかの答えを提示してくれるはずもない。
 商店街にさしかかると、中からは場違いなほどに明るいクリスマスソングが流れてくる。僕の足はそれを無意識に敬遠しようとしたが、いや、と思い直し、意を決してその中に足を踏み入れた。この痛みがほんの少しでもシオリへの贖罪になればいいとでも思ったのだろうか。欺瞞にすぎない自分の思考にはほとほと愛想が尽きる。
 やがて駅前の広場へと至り、僕は少しの間そこに設置してあるベンチで腰を落ち着けることにした。
 この駅前広場は待ち合わせ場所としては持って来いの場所で、今も誰かを待っているらしき人影を幾人も確認することが出来る。
「ごっめーん、お待たせー」
 自分に声をかけられたのかと、はっと顔を上げるが、走り寄ってくるその姿は当然のように僕をスルーして隣に座っていた男のもとへ。僕はなんだか居たたまれない気持ちになり、そっとその場を後にした。
『ごめん、待った?』
 去年の今頃はまだ彼女と付き合っていた頃だ。当然のように僕らもこの広場で待ち合わせをして、クリスマスで浮かれる街へと繰り出したものだ。こうして思い出そうとしてもその思い出は僅か一年の期間でくすんでしまっていて、灰色の景色の中に見る間に埋もれていった。なんだかんだ言いながら、たった一年で過去のことに出来てしまっている自分に愛想が尽きる。
 人の流れを遮るように、ふと立ち止まる。
 それでも人の流れは止められず、僕を避けるようにして新しい流れが即座に形成されていく。川の中に放り込まれた置石のように、僕は孤独だった。
 思えば、過去っていうものは、川の中の石のようなものだ。存在しても大勢に影響することは出来ず、消せない傷跡のようにその場に在り続ける。流れに押し流されてきた石やその他の様々な事象とぶつかりぶつかりしている内に、その石は削られ、丸くなり、やがて外からその石を判別するのは不可能になる。
 シオリの場合、川に流すものが、あるいは水の量が少なすぎたのかもしれない。何も流さなければ、石の形は変わらない。流れを遮るように、ただそこに在るだけ。やがてその石は肥大し、川の流れをせきとめてしまう。流れを塞き止めてしまえば、もはやそれまで。何か強烈な流れがそれを襲わない限り、川の流れはその息を止めてしまうだろう。
 溜め息を灰色の空に吐いた。彼女の流れを塞き止めた何かを、少しでも前へ押し流せるように。
 不意に、誰かと肩が当たった。
「すいませ――」
 瞬間、僕は呼吸を忘れた。
 それは、あの髪の長い女――おそらくは彼女の姉、美坂香里。
 彼女もまた流れを塞き止めている一人なのか、その表情は暗く冴えない。商店街にある花屋で買ったであろう比較的目立たない花ですら彼女と比べれば輝いているように見える。
 僕は、彼女に気付かれないように、彼女の後をつけた。

 彼女は慣れた様子で商店街をずんずん歩いていく。後をつける僕は一苦労で、彼女が器用に避ける人ごみに肩を幾度もぶつけながら、懸命に彼女の後を追った。
 思えば彼女が手にしているのはこんな華やかな季節に似合わないような地味な花である。僕の予感を実証するかのように、彼女はどんどんと街の外れへ向かって歩を進める。
 この先にあるのは、墓地だ。それも、地元の人間でないと知らないようなこじんまりとした墓地。その土地に住む寺社の住職が管理しており、小さいながらも彼岸の季節になれば地元の人間が集まり結構な賑わいを見せる。僕の直感が正しければ、彼女が目指しているのはそこだ。
 しかし、彼女の足は速い。僕も歩くのがそんなに遅いほうではないのだが、それでもぐんぐん引き離される。行き先に見当がついてなければとっくに撒かれているだろう。遠目からでも目立つ彼女のストレートを目印に、僕は小走りで追いかける。
 道が段々と細く入り組んでいく。ここからは気付かれないようについていくのは難しい。万一気付かれて痴漢扱いされて警察のご厄介になるなんて、面白くない話だ。僕は先ほどよりもかなり距離をとって彼女を追う。
 やがて、彼女は迷うことなくその場所に足を踏み入れる。僕は中に足を踏み入れることをせず、門の所で息を殺して中を伺った。彼女が足を止めたのが門からそう離れていない墓の前だったのは畢竟と言えよう。当然のように、その墓には大きく「美坂」という文字が刻まれていた。これで彼女が美坂の縁者であることは間違いない――
「――ん?」
 木枯らしに乗せて運ばれてきたのは、彼女の――嗚咽だった。
 用意してきた花を供え、水を替え、線香をあげた彼女は、墓の前で静かに息を殺して泣いていた。途切れ途切れに聞こえてくるその音を、僕は一言も聞き漏らさぬよう聞き耳を立てる。
「――ちゃんっ」
 あまりにも途切れたせいで、何も聞き取れないが彼女が誰かを呼んだのは確かだ。
 彼女は弱々しい声で、こう続けた。

「香里を、もう、許してあげて――」

 おそらく僕は呆然としていたのだと思う。
 僕がふっと我に返った時には、もう既に長い髪の女の姿は無く、後には燃え始めてまだ間も無い線香と、墓の両脇に立派な菊が添えられていた。雪は先ほどまでよりも強くあたりを舞っている。
 僕はまるで誘われているように、ふらふらとその墓へ吸い寄せられていった。
 美坂家之墓。
 墓石には素っ気無い文字でそう記述されていた。僕は何らかの情報を得るべく、その墓を調べる。

 そして、僕は幽霊を見た。



“美坂栞 享年十七歳”



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